N1 法隆寺宝物考証
【現況】洋装本 元は和本 和本文表紙なし 51丁分
【背文字】「法隆寺宝物考證」
【備考】蔵書票「1907」/一丁目表上辺 鉛筆横書貼紙 Ho-ryu-ji homotsu ko-sho by Kurihara Nobumitsu 1794-1870
【内容】
「法隆寺宝物考証
栗原信充編集
七曜御剣
銅剣長一尺六寸広九分弱厚一分(中略)
紺紙金泥梵網経 七種宝物一(中略)
衲袈裟 七種宝物二(中略)
真鈴 七種宝物三(中略)
賢聖瓢 七種宝物四(中略)
御足印 七種宝物五(中略)
梓御弓 七種宝物六(中略)
六日鏑 七種宝物七(中略)
象笏 (中略)
(中略) 」
【参考】諸本あり、東大本もあり
N2 禁裏御所御絵附書
【内容】(おそらく安政度)内裏の絵の書き上げ
【構成】紫宸殿・清涼殿・弘徽殿・小御所・常御殿・御涼所・花御殿・飛香舎・准后常御殿・若宮御殿・姫宮御殿
N3 鳳闕見聞図説
【現況】洋装本 元は和本 和本文の表紙「鳳闕見聞図説」 98丁分
【末尾】「赤スタンプ ■■乙七号三十七号」
【末尾墨】「■■セ メヨ (以下判読困難 カタカナ及び○等の印」
【内容】
「鳳闕見聞図説
御造営記
ここに寛政元年酉の春、如月下旬より大内山乃殿造りあらんとて焦土を除て新土を運し、洛中の老少聚てその地を築しめ、日毎に宝銭を賜ふ、是なん大君の難を救ひ給ふ御仁政とそ見えし、夫より御柱立の祝賀ありて、ももしきやふるき軒はに替らす、南門の内は承明門を再営あり、回廊東西につ■■日華門月華門あり、共に朱の柱、朱の扉かかやき、中央には紫宸殿、内には賢聖障子あり、中華名臣数々を画かせ給ふ、御階のもとにハ左近桜右近の橘を植える、東に内侍所・御車舎宣陽殿大臣宿所陣座、左(中略)其外雲井蒼々として記するにおそれ多く、蕭何曰皇居の壮をみすんはいつくんそ天子の尊をしらんとハ、今我朝の鳳闕なるへし、」
①(指図部分) ~39丁目まで
②(障壁画図・和歌短冊等) ~66丁目まで 冒頭に「游戯三昧院」印あり
③内裏御造営御用掛 ~72丁目まで 冒頭に「游戯三昧院」印あり
④勘申賢聖障子東四間小伝之事 朱字 以下返り点等あり ~77丁目
⑤賢聖障子名臣冠服考証上・下 朱字校正あり ~90丁目
⑥右臣謹按寛年中盡員神泉苑監巨勢金岡所盡賢聖障子名臣図 ~92丁目
寛政三年三月 日儒員臣柴邦彦記上
于時嘉永三庚戌霜月中旬 徳田直寛写之
⑦勘申 頁文之亀木文之事
寛政元年十二月一日正四位下行少納言兼侍従文章博士大内記菅原朝臣為徳
安政三年三月二十八日為寒泉西村氏以墨楮ニ書校之、榕室山錫夫 」
【備考】蔵書票「1907」/蔵書票上に「Ho-ketau ken-bun dzu-setsu」/一丁目上辺に鉛筆書「Minamoto,Munetaka」/一丁目右下蔵書印朱長方形「游戯三昧院」
【参考】
伝本多数 東大史料本もあり 国書総目録によると、⑤を付しているのは、静嘉堂本および早大本とのこと 早稲田本の写真と比較すると、かなり異なる。
増訂故実叢書九と要比較
N4 書院床飾御厨子黒棚之図
【現況】洋装本 もとは和本 墨付26丁分
【表紙】 和本表紙
「(朱)五冊之内 共五
書院床飾
御厨子黒棚之図 」
【備考】蔵書票「1907」/一丁目上辺に鉛筆書「Shoin toko kazari kurodana no zu」/一丁目右下蔵書印「北新■蔵」
【内容】
「書院とこかさり様の次第
水入何も硯のきわに置、然とも後へ向筆かならハ水入と硯との間に置也、硯書院とこの中に置也、(下略)」
以下、彩色図多数
「右一巻者雖為秘事依御執心深懇記進訖、猥不可有他見者也、」
N5 渡辺崋山先生碑銘
【現況】洋装本 小型
【備考】蔵書票「1907」/一丁目上辺に鉛筆書き「Watanabe kazan sensei himei」
【内容】
「渡辺崋山翁の碑ハ数年前より計画せしが、本年ハ翁の五十年忌に相当するを以て是非とも本年中にハ其希望を果したしとて三河の有志者等ハ頻りに奔走せる由なるが岩村愛知県知事にハ勝間田白根等前知事の意を続ぎ来る、十一月中にハ旧田原城趾へ建碑せんとの計画中なる由、其題字ハ三条内府 碑文は文学博士川田甕江氏、揮毫ハ三島中洲氏なりと云ふ、今其碑銘を得たれバ左に掲ぐ、」
「 故田原藩家老渡辺先生碑銘
昔者江戸幕府秉政、海禁森厳、外国通商、独許荷蘭、而邦人読蘭書、徳取天学医術(下略)」
※田原城三の丸の現在の碑文と要比較
N6 崋山先生に関係の記事
【現況】洋装本
【備考】蔵書票「1907」/一丁目上辺に鉛筆書き「Kazan sensei kankei no kiji」
【内容】
「崋山先生関係の記事(和蘭使節船一件風説書并雑記)と題する写本より抜書す
○
天保九戌歳十二月四日御目付鳥居耀蔵〈二千三百石実林大学頭弟〉海防御備場見聞可致旨被仰付、同十亥年正月九日出立三月十六日帰府、
同十亥年正月九日御代官江川太郎左衛門出立、本牧御備場より見分始る、浦賀奉行太田運八郎足速の丈夫なる船廿艘積荷卸させ見分用意として引揚候よし、数術家内田弥太郎・伊賀組御留守居支配にて江川より申上候て跡より浦賀へ参る由正月廿五日増上寺代官奥村喜三郎に逢申候、是ハ測量家なり、名高き人の由又江川より申立候由、近々出立の由申聞候、
天保十亥年五月廿二日
三宅土佐守家来
渡辺 登
四十七歳
交代寄合
福原内匠家来
仁三郎養父 斉藤次郎兵衛
六十七歳
遠山半右衛門組御徒
栄作父 本役 道平
四十七歳
一通尋の上揚屋へ遣す
坪内久五郎■■常州鹿島郡
鳥栖村一向宗
順宣
六十一歳
同人倅
順道
二十九歳
本石町三丁目五人組持店旅人宿
彦兵衛幼年ニ付後見
金次郎
三十九歳
深川佐賀町
金七店蒔絵師
秀三郎
四十歳
御留守居
松平内匠頭組与力
青山隣兵衛地借
町医師
長英
御小人頭
林田勝太郎組
御納戸口番
花井乕一
右於大草安房守御役宅御目付佐々木三蔵立会
一天保十亥年十二月十八日落着、筒井伊賀守様にて被仰渡之、
三宅土佐守家来
渡辺登
右の者儀主人領分三州田原ハ遠州洋中へ出張場所にて此者儀海岸懸相心得罷居候ニ付、海防手当勿論蕃国の事情に通し主人の輔翼に相成度心底にて長英并小関三栄幡崎鼎と厚く交り蘭書を学ひ西洋諸国の風俗并去年参向の甲比丹ニイマン説話等伝聞の儘筆記致し置候書集鴃舌或問同小記を著述致し、其上追々蘭書の理を相分候に随ひ、彼国の教政武備等行届候様存せられ、主人領分海岸手当等の儀深く心配いたし罷在候処、イキリス人モリソンと申者日本漂流の者を自国の船へ乗せ、江戸近海へ運来候旨甲比丹より内々申上候由風聞承及ひ、モリソンハ暫唐留学致し、学力も在之当時官禄重く被用候人物の旨伝聞の説を事実と心得、彼国表に信義を唱へ漂民を送来候処、近来被仰出候通、打払等被仰付候而者■来怨を結ひ不可然旨存迷ひ、慎機論并海外事情尋を請答候趣の書面を綴り、右の内にハ井蛙小鷇?或盲鼓想像等の譬を取り、其外恐多き事共を相認、御政事を批判致候段、畢竟海岸の御手当薄く候てハ不慮の儀有之候節、国家の御為に不相成儀と一途に存過候心底を以て自問自答の心得にて右の通認かけ候得共、はからすも不容易文勢に流れ候ニ付、恐入候儀と相弁、いまた稿を終り不申下書の儘仕舞置、他見為致候儀ハ更に無之由ハ申立候得共、右始末重役相勤候身分別て不届に付、主人家来へ引渡於在所蟄居
(下略)」