D1 家忠日記増補
【備考】「家忠日記増補追加」が適当か。
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一 家忠日記増補 一
【構成】序/発題/増補巻之一(自永正八年/至弘治三年)~増補巻之五(自天正元年/至同五年)
【序】一丁オ:
「家忠日記増補追加序
日記二十五巻、家忠家乗而其孫忠冬増補之追加之……聊述其大概弁於其首、
寛文三癸夘仲秋 向陽林子 」
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二 家忠日記増補 二
【構成】追加巻之六(自天正六年/至同九年)~巻之十(自天正十三年/至同十七年)
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三 家忠日記増補 三
【構成】追加巻之十一(自天正十八年正月/至同年六月)~巻之十五(自慶長五年八月朔日/至同月廿九日)
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四 家忠日記増補 四
【構成】追加巻之十六(自慶長五年九月/至同年十一月)~巻之二十(自慶長十五年/至同十六年)
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五 家忠日記増補 五
【構成】追加巻之二十一(自慶長十七年/至同十八年)~巻之二十五(自元和元年七月/至同二年四月)
【末尾】巻二十五:
「 我祖父家忠奉仕
東照大神宮(ママ)、二十才之暇作日記、積年累日有数十巻、在我家久矣……事詳于序及発題、故不贅矣、
寛文戊申(八年)之春
従五位下主殿頭源忠房跋 」
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六 家忠日記増補 六
【内容】巻十八(自慶長六年/至同十年)以降の抜粋か。
【書出】 「 慶長六年辛丑
正月大
一日 大神君旧冬ヨリ御不例ニ依テ、諸士正旦ノ賀儀ヲ祝シ奉ラス、…」
以下、慶長十七年「此年」まで。
D2 親長卿記
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一 「親長卿記 一」
1「文明二年 按察使親長」(文明二年九月以後)
2「文明三年四季」(文明三年愚記 按察使親長)
3「文明四年四季」(文明四年愚記 按察使(花押))(奥書「御本云、右一冊仰蔵人頭右大弁資煕朝臣令書写了」)
4「文明五年四季」(首部「文明五年記 都護判五十歳」)
5「文明六年四季」(奥書「御本云、右一冊蔵人権右少弁昭房・筆写之了/明暦二年十月廿六日」)
6「文明七年四季」(首部「文明七年愚記」、奥書「御本云、此一冊、去八月廿一日仰左大弁宰相煕房卿令書写之、今日終功、同夜於燈下自端至五月一校了/明暦二年十月廿六日 奥連々可加校舎也」)
7「文明八年四季」
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二 「親長卿記 二」
8「文明九年愚記 都護親長」(文明九年四季)
9「文明十年愚記 按察使親長」(文明十年四季)
10「文明十一年愚記 按察使判」(文明十一年四季)
11「文明十二年愚記 按察使判」(文明十二年四季)
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三 「親長卿記 三」
12「文明十三年愚記 按察使親長」(文明十三年四季)
13「愚記 按察使親長 五十九歳」(文明十四年)
14「愚記 文明十五年 按察使親長 六十歳」(文明十五年四季)
15「愚記 文明十六年 按察使親長 六十一歳」(文明十六年四季)
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四 「親長卿記 四」
16「愚記 文明十七年 按察使親長 六十二歳」(文明十七年四季)
17「愚記 文明十八年 按察使親長」(文明十八年四季)
18「愚記 文明十九年七月廿日改元長享元年 按察使親長 有外宮炎上事 有廃朝事」(長享元/文明十九年四季)
19「長享二年愚記 按察使親長 六十五」(長享二年四季)
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五 「親長卿記 五」
20「八月廿一日改元為延徳元年 依疾疫天変/長享三年愚記」(延徳元/長享三年四季)
21「正徳二年愚記 按察使親長 六十七歳」(正徳(ママ)二年愚記)
22「(内題等なし)」(延徳三年四季)
23「延徳四年七月十九日改元明応元年/延徳四年 愚記」(明応元/延徳四年四季)(備考 乱丁あり)
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六 「親長卿記 六」
24「明応二年丑愚記 按察使親長 七十歳」(明応二年四季)
25「明応三年愚記 蓮空七十一歳」(明応三年四季)
26「愚記 明応四年 蓮空七十二歳」(明応四年四季)
27「愚記 明応五年」(明応五年自正月至七月)
28「明応六年丁巳歳 愚記 蓮空」(明応六年自正月至九月)
29「明応七年愚記 蓮空 七十五歳」(明応七年自正月至八月)
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七 「親長卿記 七」
30「伝奏奉書案 文明十三 同十四」(伝奏奉書案 文明十三 同十四)
31「伝奏奉書案 賀茂事在此内」(文明四年伝奏奉書案 文明四年 賀茂事 在此内)
32「文明八年愚記 都護親長」(文明八年十一月以後 同九年十年)
33「御教書案 按察使親長」(御教書案)
34「文明十四年正月」(節会記 元長記)
35「任大臣節会記 年記次第不同」(任大臣節会部類記)
36「兼治宿祢記」(放生会部類)
37「八幡御幸次第」(行幸記 八幡御行 延慶二 永二七)
38・39・40「賀茂御幸記 遷幸部類経俊卿 陪膳次第閑院儀」(寛元四年四月廿九日戊子、天晴、日出以前参院、今日賀茂御幸也、)
D3 中興武家盛衰記
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一 中興武家盛衰記 一
巻之一~六(表紙裏:合巻拾六巻之内第一/臨川亭文房蔵)
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二 中興武家盛衰記 二
巻之七~十八
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三 中興武家盛衰記 三
巻十九~三十
D4 満済准后日記
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一 「満済准后日記 一」
1「一」(応永30年正月~12月)(本文裏「右満済准后日記十五本、謀其年次検閲之便姑従現存本作目録、猶・他日謄写完全、宜再訂之也/地誌課」)
2「二」(応永31年正月~6月)/「三」(応永31年7月~12月)
3「四」(応永32年正月~9月)/「五」(応永32年10月~12月)
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二 「満済准后日記 二」
4「六」(応永33年正月~6月)/「七」(応永33年7月~12月)
5「八」(応永34年正月~3月)/「九」(応永34年4月~8月)/「十」(応永34年9月~12月)
6「十一」(応永35年正月~3月)/「十二」(応永35年4月~6月)/「十三」(応永35年7月~10月)
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三 「満済准后日記 三」
7「十四」(正長2年正月~3月)/「十五」(正長2年4月~9月)/「十六」(永享元年10月~12月)
8「十七」(永享2年正月~3月)/「十八」(永享2年4月~6月)
9「十九」(永享2年7月~12月)/「廿」(永享2年10月~12月)
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四 「満済准后日記 四」
10「廿一」(永享3年正月~3月)/「廿二」(永享3年4月~6月)
11「廿三」(永享3年7月~9月)/「廿四」(永享3年10月~12月)
12「廿五」(永享4年正月~3月)
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五 「満済准后日記 五」
13「廿六」(永享4年4月~9月)/「廿七」(永享4年10月~12月)
14「廿八」(永享5年正月~3月)/「廿九」(永享5年4月~6月)
15(永享5年7月~9月)/「三十一」(永享5年10月~12月)
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六 「満済准后日記 六」
16(永享6年正月~3月)/(永享6年4月~6月)
17(永享6年7月~9月)/(永享6年10月~12月)
18(永享7年正月~4月)(奥書「明治廿八年三月醍醐三宝院蔵本ヲ書写」)
D5 関原記大全
【現況】五冊(①~⑤)ずつ合綴し、三冊(一・二・三)とす。
ただし、一→二→三の順に番号を付してあるのは誤り。
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一 関原記大全
1「関原記大全」巻之二十一・二十二
2「関原記大全」巻之二十三・二十四
3「関原記大全」巻之二十五・二十六
4「関原記大全」巻之二十七・二十八
5「関原記大全」巻之二十九~三十
【末尾】 「 抑此草紙一部ノ内ニ或ハ及ハヌ上ッ方ノ御噂ヲ記シ、或ハ将士ノ行ヒヲ挙テ、其善悪ヲ毫ニ■ス、……正邪ヲ糺ス人有ラハ、此書ノ幸トナラサラメヤモ、
寶暦五乙亥二月
関ヶ原記大全巻之参十終 全部三十巻
于時文政十四辛卯年初夏中旬写之、
岡則令自書(印)」
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二 関原家大全 二
1関原大全序
【序】
「 関原大全序
慶長五年ノ秋、天下■ノ如ク別シテ萬民累卵ノ憂ヲ……日ヲ待テ罪ヲナタメヨト思フ事而已也、
筑後刕三潴隠士
元禄三庚午年主日 歴■宮腰秀奥書」
「関原記大全」巻之一・二
2「関原記大全」巻之三・四
3「関原記大全」巻之五・六
4「関原記大全」巻之七・八
5「関原記大全」巻之九・十
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三 関原家大全 三
6「関原記大全」巻之十一・十二
7「関原記大全」巻之十三・十四
8「関原記大全」巻之十五・十六
9「関原記大全」巻之十七・十八
10「関原記大全」巻之十九・二十
D6 玉海
【現況】和装本六二冊を糸綴じをはずさないまま数冊ずつ合綴。(1-5)(6-10)(11-16)(17-22)(23-28)(29-35)(36-41)(42-47)(48-55)(56-62)の一〇冊に仕立てる。【備考】2を除く各冊に四方郭朱印(印文「造東宋社」)あり。
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一 「玉海 一」
1「嘉応元年」
2「嘉応二年春」
3「嘉応二年夏」
4「承安二年夏」
5「承安弐年冬」
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二 「玉海 二」
6「承安三年春」
7「承安三年秋冬」
【詳細】
「承安三年冬/十月」より料紙を替える。
「承安三年十月廿一日」より料紙を替える。
「十一月」より料紙を替える。
8「承安四年春夏」
【詳細】
正月は一日条のみ。
承安四年二月一日条~承安四年三月廿九日条、年月日完記。
承安四年二月六日条は三条に分かれる。
承安四年二月十二日条は四条に分かれる。
承安四年二月十六日条は四条に分かれる。
承安四年二月十八日条は二条に分かれる。
承安四年二月十九日条は三条に分かれる。
承安四年二月廿一日条は二条に分かれる。
承安四年二月廿三日条は二条に分かれる。
承安四年二月廿四日条は四条に分かれる。
承安四年二月廿五日条は二条に分かれる。
承安四年二月廿六日条は四条に分かれる。
承安四年二月廿七日条は三条に分かれる。
承安四年二月廿八日条は二条に分かれる。
承安四年二月廿九日条は二条に分かれる。
承安四年二月卅日条は二条に分かれる。
承安四年三月七日条は二条に分かれる。
承安四年三月八日条は二条に分かれる。
承安四年三月九日条は二条に分かれる。
承安四年三月十日条は二条に分かれる。
承安四年三月十二日条は三条に分かれる。
承安四年三月十九日条は四条に分かれる。
廿一日条と廿二日条の間に空白あり。
承安四年三月廿六日条は二条に分かれる。
9「承安四年冬」
10「承安五年春」
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三 「玉海 三」
11「承安五年夏」
12「安元二年春」
13「安元二年春下」
【詳細】
安元二年二月一日条 年月日完記。
安元二年三月条 改丁して新しい料紙から始まる。
安元二年三月四日条 年月日完記。
14「安元二年夏」
15「安元弐年秋」
16「安元弐年冬」
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四 「玉海 四」
17「安元三年春」
18「安元三年夏」
19「安元三年秋冬改元治承」
20「治承二年春」
21「治承二年冬上」
22「治承二年冬下」
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五 「玉海 五」
23「治承三年春上」
24「治承三年春下」
25「治承三年夏」
26「治承三年秋」
27「治承三年冬上」
28「治承三年冬下」
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六 「玉海 六」
29「治承四年春上」
30「治承四年春下」
31「治承四年夏上」(冊尾朱印「造東宋社」)
32「治承五年夏秋」
33「養和元年冬」
34「養和二年春改元寿永元年」
35「寿永二年冬」
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七 「玉海 七」
36「寿永三年春夏改元元暦」
37「元暦元年秋」
38「文治元年冬」
39「文治二年夏上」(冊尾朱書(裏表紙裏)「戊辰年正月廿九日了」)
40「文治弐年夏下」
41「文治二年秋」
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八 「玉海 八」
42「文治弐年冬上」
43「文治二年冬下」
44「文治三年春」
45「文治三年秋」
46「文治三年冬上」
47「文治三年冬下」
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九 「玉海 九」
48「文治四年春」
49「文治四年夏秋冬」
50「文治五年春」
51「文治五年冬」
52「文治六年春夏改元建久」
53「建久元年秋」
54「建久二年春」
55「建久二年夏上」
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十 「玉海 十」
56「建久二年夏下」
57「建久二年冬」
58「建久三年」
59「建久四年春」
60「建久五年」
61「建久六年春ヨリ至正治弐年」
62「建久元年同六年同八年正治元年」
D7 猪熊関白記
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一 「猪熊関白記 一」
1「建久八年」
2「建久九年 正 二」
3「建久九年 三 夏」
4「建久十年 春」
5「正治元年 夏」
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二 「猪熊関白記 二」
6「正治元年 秋」
7「正治元年 十 十一」
8「正治元年 十一 十二」
9「正治二年正月~三月」
10「正治二年四月~六月」
11「正治二年七月~九月」
12「正治二年冬」
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三 「猪熊関白記 三」
13「正治三年春」(奥書「一校畢」)
14「建仁元年夏」(奥書「建仁元年夏三ヶ月暦記 一校畢」)
15「建仁元年秋」(奥書「建仁元年始自七月一日至に九月晦日」)
16「建仁元年冬」(奥書「建仁元年」)
17「建仁二年春」(奥書「建仁二年春記」)
18「建仁二年夏」(奥書なし)
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四 「猪熊関白記 四」
19「建仁二年秋」(奥書「一校畢」)
20「建仁二年冬」(奥書「建仁二年冬記 一校畢」)
21「建仁三年春」(表題「廿廿一、奥書:右大臣(花押) 一校畢」)
22「建仁三年夏」(奥書「右大臣(花押) 一校畢」)
23「建仁三年秋」(奥書「右大臣左大将 一校畢」)
24「建永元年夏」(奥書「摂政左大臣正二位 一校畢」)
25「建永元年冬」(奥書「校ー」)
26「承元元年秋」(奥書なし)
D8 勘仲記
【内容】藤原兼仲の日記
【現況】謄写本
【印記】「哲学書院」(朱印)アリ
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一 「勘仲記 自建治元年至弘安三年 一―六」
1「勘仲記 壱」(建治元年十二月一日~)
2「勘仲記 弐」(建治二年十一月十七日~)
3「勘仲記 参」(弘安元年五月一日~)
4「勘仲記 四」(大湯屋御所予催促競馬~)
5「勘仲記 五」(弘安二年三月一日~)
6「勘仲記 六」(弘安三年正月一日~)(本奥書「自建治元年至弘安三年兼仲卿日記、在頭左中弁光祖朝臣家蔵、本記雖在広橋、容易不可出閫外之間、令所望於彼朝臣、懇借受染自筆為両巻、写本十巻也、今度書縮者也、明和九年七月廿三日、参議左大弁藤原(花押)」)
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二 「勘仲記 自弘安四年至同六年 七―十四」
7「勘仲記 七」(弘安四年四月一日~)
8「勘仲記 八」(弘安五年正月一日~)
9「勘仲記 九」(三月一日~)
10「勘仲記 十」(八月一日~)
11「勘仲記 十一」(十二月一日~)(本奥書「弘安五年兼仲卿記、兼胤卿記(衍カ)自筆之本拝借送□間令書写了、安永五季秋、権大納言弘光」)
12「勘仲記 十二」(弘安六年正月一日~)
13「勘仲記 十三」(於蔵人所定申事了盛折敷所覧也~)
14「勘仲記 十四」(五位蔵人春宮権大進定光《廷尉労四年/庁労々三年》四月小、一日~)
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三 「勘仲記 自弘安六年至同七年 十五―二十五」
15「勘仲記 十五」(七月一日~)
16「勘仲記 十六」(都御□《前殿/御息》明年維摩会講師~)
17「勘仲記 十七」(弘安七年二月一日~)
18「勘仲記 十八」(二月三十日~)
19「勘仲記 十九」(四月日~)
20「勘仲記 廿」(次蔵人並采女懸二御台盤~)
21「勘仲記 廿一」(之条衆徒所行無力歖歟~)
22「勘仲記 廿二」(弘安七年七月一日~)
23「勘仲記 廿三」(法橋聖祐〈同〉宗澄〈同〉廿八日~)
24「勘仲記 廿四」(自北白河殿白地有還御~)
25「勘仲記 廿五」(左大弁殿、十月一日~)
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四 「勘仲記 自弘安八年至同九年 二十六―三十三」
26「勘仲記 廿六」(一日乙亥、晴、参院評定~)
27「勘仲記 廿七」(八講奉行無先例、~)
28「勘仲記 廿八」(弘安九年正月、五日壬申、晴~)
29「勘仲記 廿九」(今日被行御休幕雑事定也、~)
30「勘仲記 三十」(蔵人右衛門権佐為方~)(本奥書「兼仲卿記日記今度以或家秘巻、自馳愚筆為両巻者也、明和九年六月七日、参議左大弁藤(花押)」)
31「勘仲記 三十一」(参 内、依番宿侍~)
32「勘仲記 三十二」(弘安八年八月、一日乙未、晴~)
33「勘仲記 三十三」(更退出、十月大、一日甲午、雨~)
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五 「勘仲記 弘安十年 三十四―三十九」
34「勘仲記 三十四・三十五・三十六」(弘安十年二月小、一日壬戌、~)
35「勘仲記 三十七・三十八・三十九」(弘安十年七月、一日庚寅、晴~)
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六 「勘仲記 正応元年 四十―四十五」
36「勘仲記 四十・四十一・四十二」(弘安十一年、為正応元、正月一日丁亥、~)
37「勘仲記 四十三・四十四・四十五」(弘安十一年、為正応元、四月一日乙卯、~)
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七 「勘仲記 自正応元年至同三年 四十六―五十二」
38「勘仲記 四十六・四十七・四十八・四十九」(弘安十一年、為正応元、七月大、一日甲申、~)
39「勘仲記 五十・五十一・五十二」(弘安十一年、為正応元、四月一日乙卯~)
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八 「勘仲記 自正応四年至永仁二年 五十三―五十八」
40「勘仲記 五十三・五十四・五十五」(正応四年正月大、一日庚子、晴、~)
41「勘仲記 五十六・五十七・五十八」(出立有無召使之処、~)
D9 中右記
【内容】藤原宗忠の日記
【現況】謄写本
【構成・年代】
第1冊(1~11):本奥書「延宝二年十二月」、第2、3冊(12~17):本奥書「嘉保二年」
【印記】「哲学書院」「高頭」(朱印)アリ
【備考】蔵書票「1907」
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一 「中右記 自寛治元年至嘉保元年 一―六」
1「中右記 一 寛治元年・同二年・同三年」(表紙に雛田千佳良校、とアリ)(寛治元年丁卯、中右、正月大、元日~)
2「中右記 一続キ 寛治元年・同二年・同三年」(表紙に千住訓点、とアリ)(七月小、六日~)(本奥書「一見了、判/一見了、少々抄了、判/一見了、判/重加一見、少々抄出也、判/借請内大臣《一条/内房公》殿本手写一校了、延宝二年小春晦日、正二位源御判、」)
3「中右記 二 四寛治六年四五六月 五寛治七年自十月至十二月 六嘉保元寛治八年正月二三月」(表紙に千住校、とアリ)(寛治四年、庚午、正月小、一日~)
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二 「中右記 自嘉保元年至同二年 七―十三」
4「中右記 七嘉保元寛治八年三四五六七月 八同年八九十月 九同年十一十二月」(表紙に小池・千住校、とアリ)
5「中右記 第十巻 嘉保二年正月二月三月」(表紙に雛田千佳良訓点、とアリ)(奥書「一校畢、/右嘉保二年春一冊、以九条道孝蔵本謄写、明治十六年九月廿八日、八等学記名倉信敦校、」)
6「中右記 十一嘉保二年四五六月 十二同七八九月 十三同十十一十二月」(表紙に小池清広校、とアリ)(十三の奥書「一校畢、/右嘉保二年冬一冊、以九条道孝蔵本謄写、五頭掌記樹下茂国校、」)
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三 「中右記 自永長元年至承得元年 十四―十九」
7「中右記 十四永長元嘉保三年自正月至三月 十五永長元年夏 十六嘉保三年七八九月」(表紙に小池・広池・中村校、とアリ)(十六の奥書「一校、/右嘉保三年秋一冊、以九条道孝蔵本謄写、五等掌記樹下茂国校、/明治十六年九月廿日、八等掌記名倉信敦再校、」)
8「中右記 嘉保三年十月十一月十二月 十七」(表紙に千住訓点、とアリ)(奥書「一校了/右嘉保三年冬一冊、以九条道孝蔵本謄写、明治十六年九月廿日、八等掌記名倉信敦校、」)
9「中右記 十八承得元年一二三月 十九同年四五六七八九十十一十二月」(表紙に下村・千住校、とアリ)(十八の本奥書「宝治三年正月抄出了(花押影)」、十八の奥書「一校了、右承徳元年春一冊、以九条道孝蔵本謄写、五等掌記樹下茂国校、」、十九の四五月末の本奥書「宝治三年正月卅日夜、於灯下少々抄出了(花押影)」、十九の本奥書「宝治三年正月抄出了(花押影)」、十九の奥書「一校畢/右承徳元年四月五月秋冬一冊、以九条道孝蔵本謄写、明治十六年九月廿六日八等掌記名倉信敦校」)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
四 「中右記 自承徳二年至康和四年 十―二十五」
10「中右記 二十承徳二年自正月至八月 二十一同年冬」(表紙に中村・雛田校、とアリ)(三月の本奥書「承徳二年春、宝治三年二月一日抄出了(花押影)」、三月の奥書「一校畢、」、二十の奥書「右承徳二年春夏七八月一冊、以九条道孝蔵本謄写、明治十六年九月十九日八等掌記名倉信敦校」、二十一の本奥書「宝治三年二月一日抄出了、一校了、」)
11「中右記 廿二康和四年自正月至三月 廿三同年夏」(表紙に雛田・小池校、とアリ)(二十二の本奥書「康和四年春正二三月、一本奥書、建長元年三月廿七日、見了/中右記康和四年春、手自令書写、一校畢、于時元禄第二陽月廿一夜、左親衛亜将藤原定基、廿壱才、」)
12「中右記 廿四 康和四年秋 廿五 同冬」(表紙に小池校)
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五 「中右記 自康和五年至長治元年 二十六―三十一」
13「中右記 廿六康和五年春夏 廿七同冬」(表紙に小池校、とアリ)(春記の本奥書「建長元年四月八日重抄出了□」)
14「中右記 廿八長治元年春 廿九 同夏」(表紙に小池・下村校、とアリ)
15「中右記 三十長治元年七八九月 三十一同十十一十二月」(表紙に小池・千住校、とアリ)(三十の奥書「右長治元年秋一冊、以九条道孝蔵本謄写、御雇小野権之丞校」、三十一の奥書「右長治元年冬一冊、以九条道孝蔵本謄写、五等掌記樹下茂国校」)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
六 「中右記 自長治二年至嘉承元年 三十二―三十九」
16「中右記 三十二長治二年春 三十三同四五六月」(表紙に千住・雛田校、とアリ)(三十三の奥書「明治十六年十二月五日、華族近衛篤麿蔵書ヲ写ス、三級写字生山中政篤/同月六日御雇小野権之丞校」)
17「中右記 三十四長治二年七八九月 三十五同十十一十二月」(表紙に千住・雛田校、とアリ)(三十四の奥書「明治十六年十月廿六日八等掌記名倉信敦校」、三十五の奥書「明治十六年十一月二日八等掌記名倉信敦校」(○に名))
18「中右記 三十六嘉承元年正二三月 三十七同四五六月」(表紙に千住・下村校、とアリ)(三十六の奥書「三級写字生松林織之助写/明治十七年五月九日御雇小野権之丞校」、三十七の奥書「三級写字生山中政篤写/明治十七年五月八日御雇小野権之丞校」)
19「中右記 卅八嘉承元年七八九月 卅九同十十一十二月」(表紙に千住・中村校、とアリ)(三十八の奥書「明治十七年一月廿日、華族近衛篤麿蔵書ヲ写ス、一級写字生高麗環、御雇小野権之丞校」)
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七 「中右記 嘉承二年 四十―四十四」
20「中右記 四十嘉承二年自一月至三月 四十一同自四月至六月」(表紙に、小池・中村校、とアリ)
21「中右記 四十二嘉承二年秋」(表紙に小池校、とアリ)
22「中右記 四十三嘉承二年自七月至十二月 四十四同年十十一十二月」(表紙に千住・雛田校、とアリ)
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八 「中右記 自天仁元年至大(ママ)永二年 四十五―五十」
23「中右記 四十五 天仁元嘉承三年正月二月三月」(表紙に小池校、とアリ)
24「中右記 四十六 天仁元嘉承三年四五六月」(表紙に千住校、とアリ)
25「中右記 四十七 天仁元嘉承三年七八九月」(表紙に千住校、とアリ)
26「中右記 四十八 天仁元嘉承三年十十一十二月」(表紙に雛田校、とアリ)
27「中右記 四十九天仁二年冬 五十天永二年正月二日」(表紙に中村・小池校、とアリ)
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九 「中右記 自天永二年至同三年 五十一―五十六」
28「中右記 五十一 天永二年自三月至六月」(表紙に小池校、とアリ)
29「中右記 五十二天永二年四五六月 五十三同年七八九月」(表紙に中村・小池校、とアリ)(四月記冒頭「中右記廿四、天永二年四月五月六月、此一冊御重本也、与第廿三天永二年三四五六月巻校合、以青墨書加于廿三巻之冊、廿四巻之方不加校合、嘉永四年五月十一日大判事章武」)
30「中右記 五十四天永二年十月 五十五同十一十二月」(表紙に下村・雛田校、とアリ)
31「中右記 五十六 天永三年一二三月」(表紙に小池校、とアリ)
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十 「中右記 自天永三年至永久二年 五十七―六十」
32「中右記 五十七 天永三年四五六月」(表紙に下村校、とアリ)(奥書「明治十六年十月卅日華族近衛篤麿蔵書ヲ写ス、三級写字生松林織之助/明治十六年十一月廿日八等掌記名倉信敦校」)
33「中右記 五十八 天永三年七八九月」(表紙に下村校、とアリ)(奥書「明治十六年十二月七日八等掌記名倉信敦」)
34「中右記 五十九 天永三年十十一十二月」(表紙に下村校、とアリ)
35「中右記 六十 永久二年一二三月」(表紙に小池校、とアリ)
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十一 「中右記 自永久二年至元永元年 六十一―六十四」
36「中右記 六十一 永久二年四五六月」(表紙に雛田校、とアリ)
37「中右記 六十二永久二年七八九月 六十三同年十十一月」(表紙に河野校、とアリ)
38「中右記 六十四 元永元永久六年正月二月」(表紙に小池校、とアリ)
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十二 「中右記 自元永元年至保安元年 六十五―七十二」
39「中右記 六十五元永元永久六年三四五月 六十六同年七八九月壬九月」(表紙に下村校、とアリ)
40「中右記 六十七元永元永久六年十月十一月 六十八元永二年正月二月三月」(表紙に下村・千住校、とアリ)
41「中右記 六十九元永二年四五六月 七十同年七八九月」(表紙に下村・小池校、とアリ)
42「中右記 七十一元永二年十十一十二月 七十二保安元元永三年一二三月」(表紙に中村・下村校とアリ)(七十一の本奥書「安貞二年二月一日書写了」)
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十三 「中右記 自保安元年至大治二年 七十三―七十九」
43「中右記 七十三 七十四保安元元永三年七八九月」(表紙に小池・下村校、とアリ)
44「中右記 七十五保安元元永三年十十一十二月 七十六大治二年一月二月」(表紙に小池・下村校、とアリ)
45「中右記 七十七大治二年三四五六月 七十八同年七八九月」(表紙に小池・中村校、とアリ)
46「中右記 七十九 大治二年冬十月十一月十二月」(表紙に河野校、とアリ)
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十四 「中右記 大治四年 八十―八十五」
47「中右記 八十大治四年正月 八十一同年二月三月」(表紙に千住校、とアリ)
48「中右記 大治四年四月五月六月 八十二」(表紙に小池校、とアリ)
49「中右記 大治四年七月壬七月 八十三」(表紙に下村校、とアリ)
50「中右記 大治四年十一月十二月八十四 大治四年八月九月十月八十五」(表紙に千住・中村校、とアリ)
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十五 「中右記 大治五年 八十六―九十」
51「中右記 大治五年正月二月三月 八十六」(表紙に中村校、とアリ)
52「中右記 八十七大治五年四月 八十八大治五年五月六月七月八月」(表紙に中村・小池校、とアリ)
53「中右記 八十九大治五年九月十月 九十大治五年十一月十二月」(表紙に千住・雛田校、とアリ)
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十六 「中右記 自長承元年至同元年 九十一―九十四」
54「中右記 九十一長承元天承二年正月二月三月 九十二長承元天承二年四月壬四月五月六月」(表紙に雛田・千住校、とアリ)
55「中右記 長承元天承二年八月九月十月十一月十二月 九十三」(表紙に中村校、とアリ)
56「中右記 九十四 長承二年正月二月三月四月五月六月」(表紙に小池校、とアリ)
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十七 「中右記 自長承二年至保延四年 附部類 九十五―百九」
57「中右記 九十五長承二年七月八月九月 九十六長承三年正月二月三月」(表紙に千住・小池校、とアリ)
58「中右記 九十七長承三年四月五月六月 九十八長承三年七月八月九月 九十九長承三年十月十一月十二月」(表紙に雛田・小池、雛田校、とアリ)
59「中右記 百保延元長承四年正月二月三月 百○一保延元長承四年四月五月六月」(表紙に雛田・下村校、とアリ)
60「中右記 百二保延元長承四年七月八月九月 百三保延元長承四年十月十一月十二月 百四保延二年正月二月三月」(表紙に小池・河野・中村校、とアリ)
61「中右記 百五保延二年六秋冬 百六保延三年四季壬九月」(表紙に河野・小池校、とアリ)
62「中右記 百七保延四年正月二月 百八仏事部類 百九永長元年八九郁芳門院凶事記」(表紙に千住・千住・下村校、とアリ)(百七の本奥書「元禄十一年五月十七日権大納言源朝臣(花押影)」、百八の本奥書「此一冊者以伝来古老《吉田亜槐殿/御真筆》書写畢、固不可許他見者也、天明元年七月十一日参議左大弁藤経逸」)
D10 兵範記
【内容】平信範の日記
【現況】謄写本
【印記】「哲学書院」「高頭」(朱印)アリ)
【備考】蔵書票「1907」
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一 「兵範記 自長承元年至仁平二年 一―三」
1「兵範記 一上 長承元年秋冬」(表紙に小池校、とアリ)(奥書「福井安宅写、丹羽翥校、長承元年秋冬一冊、明治二十年、近衛家蔵本ヲ写ス」)
2「兵範記 一中」(表紙に下村校、とアリ)
3「兵範記 一下」(表紙に下村校、とアリ)
4「兵範記 二上下 仁平二年正二月」(表紙に小池校、とアリ)(二上下の奥書「高麗環写、川上広樹校、仁平二年正二一冊、明治二十年近衛家蔵本ヲ写ス」)
5「兵範記 三 仁平二年三夏」(表紙に小池校、とアリ)(三月記の奥書「柳井修三写、丹羽翥校、仁平二年三一冊、明治二十年近衛家蔵本ヲ写ス」、三の奥書「山中政篤写、丹羽翥校、仁平二年夏一冊、明治二十年近衛家蔵本ヲ写ス」)
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二 「兵範記 自仁平二年至同三年 四―五」
6「兵範記 四 仁平二年秋冬」(表紙に小池校、とアリ)(元奥書「元禄十二年仲呂望日書写、一校畢、左近衛権中将藤原定基、卅歳」)
7「兵範記 五上 仁平三年」(表紙に小池校、とアリ)
8「兵範記 巻五下」(表紙に泉文雄写、小池清広校□とアリ)(六月記の奥書「右仁平三年春夏兵部卿入道信範卿記者、元禄十一年八月廿五日書写、一校了、凡所記之、雖無故実口伝、借請之刻、或人甚秘之、聊有子細歟、謾勿許他見矣、左近衛権中将藤原朝臣定基、/一校之次以朱註篇目、及名字等備便覧了」)
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三 「兵範記 自仁平四年至久寿二年 六―八」
9「兵範記 六 仁平四年夏秋冬」(表紙に小池校、とアリ)(夏記の奥書「樫村敬顕写、加藤熊吉校、仁平四年夏一冊、明治廿年近衛家蔵本ヲ写ス」、秋冬記の奥書「多田賢意写、伊藤儀兵衛校、仁平四年秋冬一冊、明治廿年近衛家蔵本ヲ写ス」)
10「兵範記 七上 久寿二年春夏」(表紙に小池清広校、とアリ)
11「兵範記 七下」(奥書「山中政篤写、丹羽翥校、久寿二年春夏一冊、明治廿年近衛家蔵本ヲ写ス」)
12「兵範記 八 久寿二年秋」(表紙に小池校、とアリ)(奥書「久寿二年秋一冊、明治廿年近衛家蔵本ヲ写ス、出野解介写、守永宗模校」)
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四 「兵範記 自久寿二年至保元元年 九―十一」
13「兵範記 九 久寿二年冬」(表紙に小池清広校、とアリ)(奥書「久寿二年冬一冊、明治廿年近衛家蔵本ヲ写ス、矢守平恕写、山下新介校」)
14「兵範記 十上 人車記巻五 久寿三年自正月至三月」(表紙に雛田校、とアリ)
15「兵範記 十下 保元元久寿三年春夏」(表紙に小池校、とアリ)(夏記の奥書「小川長和写、加藤熊吉校、久寿三年夏一冊、明治二(ママ)年近衛家蔵本ヲ写ス」)
16「兵範記 十一 久寿三保元元年秋」(表紙に小池校、とアリ)(秋記の奥書「山中政篤写、伊藤儀兵衛校、保元々年秋一冊、明治二十年近衛家蔵本ヲ写ス」)
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五 「兵範記 保元二年 十二―十四」
17「兵範記 十二 保元二年春夏七」(表紙に小池校、とアリ)(春記の奥書「松原静三郎写、川上広樹校、保元二年春一冊、明治二十年近衛家蔵本ヲ写ス」、七月記の奥書「右以平宰相時方卿本、命家僕謄写之、手自一校畢、元禄第十二林鐘初七左近衛権中将藤原定基」)
18「兵範記 十三 保元二年八」(表紙に小池校、とアリ)(八月記の奥書「樫村敬顕写、丹羽翥校、保元二年八一冊、明治二十年近衛家蔵本ヲ写ス」)
19「兵範記 十四 保元二年九冬」(表紙に小池校、とアリ)(九冬記の奥書「金子秀雄写、佐藤健太郎校、沢渡広孝校、保元二年九冬一冊、明治廿年近衛家蔵本ヲ写ス」)
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六 「兵範記 保元三年 十五―十七」
20「兵範記 十五 保元三年春夏七」(春記の本奥書「信範入道記《保元三年/春三ヶ月》頭右中将公尹朝臣本加写校畢、元禄十三年九月六日松堂隠士藤判」、夏七記の奥書「小川長和謄写、大草達成校、保元三年夏七一冊、明治廿年近衛家蔵本ヲ写ス」)
21「兵範記 十六 保元三年八九」(奥書「金子秀雄写、伊藤儀兵衛校、保元三年八九一冊、明治廿年近衛家蔵本ヲ写ス」)
22「兵範記 十七 保元三年冬」(奥書「福井安宅写、山下新介校、保元三年冬一冊、明治廿年近衛家蔵本ヲ写ス」)
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七 「兵範記 自仁安元年至同二年 十八―二十」
23「兵範記 十八上」
24「兵範記 十八下 永万二仁安元年九十十一月」
25「兵範記 十九」(奥書「伊藤儀兵衛校、仁安二年正一冊、明治廿年近衛家蔵本ヲ写ス」)
26「兵範記 二十 仁安二年三夏」(奥書「一級写字生樫村敬顕写、大草達成校、仁安二年三一冊、明治廿年近衛家蔵本ヲ写ス」)
27「兵範記 仁安二年四月至六月」(本奥書「右以或人本書写之、此巻中以朱書之者皆愚案也、元禄第十二初秋八月左中将藤原定基」
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八 「兵範記 自仁安二年至同三年 二十一―二十四」
28「兵範記 廿一 仁安二年秋」(奥書「松原一平校、仁安二年秋一冊、明治二十年近衛家蔵本ヲ写ス」)
29「兵範記 廿二 仁安二年十十一月」(奥書「矢守平恕写、立花敬勝校、仁安二年十十一一冊、明治二十年近衛家蔵本ヲ写ス」)
30「平範記 廿三一仁安三年十二 廿三二同二年十二(廿三二の奥書「山田辰之輔写、丹羽翥校、仁安二年十二一冊、明治廿年近衛家蔵本ヲ写ス」)
31「兵範記 廿四 仁安三年正二月」(正月記の本奥書「右以平宰相時方卿本謄写之、加一校畢、元禄第十二暦端午節、羽林左衛(ママ)中郎将藤原定基、卅一才」)
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九 「兵範記 仁安三年 二十五―二十七」
32「兵範記 廿五 仁安三年三月」(奥書「守永宗模校、仁安三年三一冊、明治廿年近衛家蔵本ヲ写ス」)
33「兵範記 廿六 仁安三年夏」(奥書「出野解介写、加藤熊吉校、仁安三年夏一冊、明治二十年近衛家蔵本ヲ写ス」)
34「兵範記 廿七中 仁安三年秋八月」
35「兵範記 人車記 廿七上」(表紙に下村校、とアリ)
36「兵範記 一名人車記 二十七下 二十八上」(表紙に長谷川広吉写、雛田・千住良校、とアリ)
37「人車記 仁安三年九月下」
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十 「兵範記 自仁安三年至嘉応元年 二十八―二十九」
38「人車記 仁安三年十月 巻廿八上」
39「兵範記 廿八中」
40「兵範記 廿八下 仁安三年冬」(表紙に下村校、とアリ)(本奥書「兵部卿入道《平信範/卿》記、称人車記、又兵範記、仁安三年七月至十二月、右乞源龍作卿御本、倩人謄写之、加一校、宝永元年六月十日松堂閑士藤《卅六歳/在判》」)
41「兵範記 廿九 嘉応元仁安四年正二」(表紙に松本像吉写、藤村亀次郎校正、とアリ)
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十一 「兵範記 自嘉応元年至同三年 三十二―三十四」
42「兵範記 三十二 仁安四嘉応元年五六八」(表紙に山内校、とアリ)(奥書「嘉応元年八一冊、明治廿年近衛家蔵本ヲ写ス」)
43「兵範記 三十三 仁安四嘉応元年九冬」(表紙に中村校、とアリ)(十一月記の奥書「出野解助写、守永宗模校、保元元年冬一冊、明治廿年近衛家蔵本ヲ写ス」、十二月記の奥書「樫邨敬顕写、大草達成校、嘉応元年十二一冊、明治二十年近衛家蔵本ヲ写ス」)
44「兵範記 三十四止 嘉応二年三夏 同三年承安元年冬」(表紙に下村校、とアリ)(三夏記の奥書「村四郎次写、川上広樹校、嘉応二年三夏一冊、明治二十年近衛家蔵本ヲ写ス」、冬記の奥書「山中政謄写、大草達成校、承安元年冬一冊、明治二十年近衛家蔵本ヲ写ス」)
D11 薩戒記
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一 「薩戒記 一」
1「一の甲」:応永廿五年(応永25年正月、三月、四月、六月)(中山侯爵蔵本奥書「右一冊依両主之恩、以官本書写校合了、 寛延二年十月廿二日 権大納言 華押」)(奥書「右依中山侯爵家原本再校補正 毎時三十一年七月十二日 雛田千佳良」)/「一ノ乙」:応永廿六年自正月至十二月(応永26年正月、28年正月)(奥書「此一冊者、後柏原院宸筆、新院官庫御本申出令写、一校畢、 寛文第六正月上旬 羽林中郎将藤原定淳 右依中山侯爵家原本、再校補正、 明治三十一年七月十三日 雛田千佳良」)/「一ノ乙」:(応永26年7月、8月、12月、応永33年 16日)(雛田奥書あり)
2「二」:応永卅年(応永30年)(中山家本奥書:右以花山院家本ワズカ時令書写可加一校畢。 明和九年八月十日 右近衛権中将藤原忠咽)(雛田奥書)/「三」:応永卅一年九月(明治31年7月13日 雛田奥書)/「四」:応永卅二年正月上(奥書「右一冊以出納職央朝臣本写之、寛文8年秋上旬 内房」)
3「五」:応永卅二年正月下(応永32年正月下)(奥書「長享三年七月八日書写 権中納言藤原宣房 判)」「明応七年八月十四日 蔵人頭権中将藤原守光」「大永二年 参議右大弁藤原秀房」)(雛田奥書)/「六」:応永卅二年三月(応永32年2月・3月)(奥書「延徳二年三月十五日書写之、権中納言藤原 同四月六日校合畢」)(雛田奥書)
4「七」:応永卅二年四月上(応永32年4月)(奥書「延徳二年三月尽書写畢、 黄門判」)(雛田奥書)/「八」:応永卅二年四月下(応永32年4月)(奥書「延徳四年三月十五日書写畢、 黄門」)(雛田奥書)/「九」:(応永32年5月)(奥書「延徳四年三月廿日書写 権中納言」)(雛田奥書)
5「十」:(応永32年6月閏六月)/「十一」:(応永32年7月)(雛田奥書)/「十二」:(応永32年8月)(雛田奥書)
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二 「薩戒記 二」
6「十三」:応永卅二年九月(応永32年9月)(雛田奥書)/「十四」:十四同年冬(応永32年冬)(一本奥書「以紅葉山御文庫本‣並田安府蔵本、一校了、 成島司直」)(雛田奥書)
7「十五ノ上」:応永卅三年正月上(応永33年正月上)(雛田奥書)/「十五ノ下」:同年正月中(応永33年正月中)(奥書「長享二年二月二日書写畢、此一巻別而巨細也、可秘々々、 権中納言藤原華押 同三日一校畢」)(雛田奥書)
8「十六」:応永卅三年正月下(応永33年正月下)(中山家本奥書「長享第二暦二月五日書写畢、校合畢、 権中納言藤原華押 右依中山侯爵家原本並校補正 明治三十二年五月 雛田千佳良」)/「十七」:同年二月小(応永33年2月)/「十八」:同年三月大上(応永33年3月)(中山家本奥書「長享二年十一月六日書写畢、 同十四日校合了、 権中納言藤原」)(雛田奥書)
9「十九」:応永卅三年三月下(応永33年3月下)(雛田奥書)/「二十」:同年四月五月(応永33年4月・5月)(中山家本奥書「長享第三暦仲春中九日書写了、同四月三日校合了、 黄門」)(雛田奥書)
10「二十一」:応永卅三年六月(応永33年6月)(奥書「長享三年二月十九日書写了、権中納言」)(雛田奥書)/「二十二」:同年七月(応永33年7月)/(長享第三暦書写了、同四月三日校之了、権中納言)/(雛田奥書)
11「二十三」:応永卅三年八月九月(応永33年8月・9月)(奥書「以正本書写畢、于時長享第三孟春初六日、 権中納言藤原」)(雛田奥書)
12「二十四」:応永卅三年十月(応永33年10月)(奥書「長享三年三月八日書写了、権中納言藤原」)(雛田奥書)
13「二十五」:応永卅三年十一月(応永33年11月)(奥書「長享三年三月廿四日書写畢、 権中納言藤原花押)(雛田奥書)
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三 「薩戒記 三」
14「二十六」:応永卅三年十二月(応永33年12月)(奥書「応永卅三年中記、以上十三巻也、仍不違巻数十三冊不略一字書写畢、於正本者、所預置上醍醐也、于時長享三年三月廿八日書写畢、権中納言藤原宣親」)(雛田奥書)/「二十七」:同卅五年(応永35年4月)(奥書「大永元年九月尽卅日鈔出之畢、正更臣正二位権大納言菅原和長」)/「二十八」:正長元年凶事(応永35年8月)
15「二十九」:正長二年(正長2年正月・2月・3月)
16「三十」:永享二年二月四月(永享2年2月・4月)
17「三十一」:永享二年十一月十二月(永享2年11月)(奥書「以紅葉山文庫本・田安府本校了、 成島司直記)/「三十二」:同四年(永享2年12月)
/「三十三」:同五年正月(永享5年正月)(奥書「以正本官庫物也、於燈下漸々書写之、可秘、寛永第四仲春初二 従二位行権中納言兼中宮権大夫源通村」)
18「三十四」:永享五年二三月(永享5年2月・3月)(奥書「以紅葉山御文庫並田安府蔵本一校了、成島司直」)
19「三十五」:永享五年(永享5年4月・5月・6月)(五月奥書「官庫本也、以定親卿自筆正本書写之、寛永第四仲春初九冥 従二位行権中納言兼中宮権大夫源通村」)/「三十六」:同年八月(永享5年8月)/「三十七」:同年十一月(永享5年11月)
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四 「薩戒記 四」
20「三十八」永享六年四月(永享6年4月)/「三十九」:(永享6年10・11月・12月)(奥書「以紅葉山御文庫並田安府本校了、」)/「四十」:(永享9年8月)
21「四十一」:永享十年二月十二月(永享10年2月・12月)
22「四十二」:永享十一正月閏正月三月(永享11年正月・閏正月・3月)(三月は八幡参詣記)
23「四十三」:応永廿五年(薩戒部類抄)
24「四十四」:薩戒部類私要抄(薩戒部類私要抄第四)/「四十五」:薩戒部類鈔 叙位部
25「四十六」:春日詣(春日詣記)/「四十七」:宣下消息(薩戒御記抄出之宣下消息部)
26「四十八」:薩戒記抄出(薩戒御記中抄出)
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五 「薩戒記 五」
27「四十九」:薩戒記 直物
28「五十」:進献記録抄纂 直物/「五十一」:薩戒記別記 (薩戒記別記一 薩戒記別記二)
29「五十三」:進献記録抄纂(薩戒記抄出一 薩戒記抄出二)
30「五十二」:薩戒記別記 進献記記録抄纂(薩戒記別記三 薩戒記別記四)
D12 山槐記
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一 「山槐記 一」
1「山槐記 仁平二年四季」:仁平2年
2「山槐記 久寿元年二年四季 于時五位蔵人左衛門深山」:久寿元年
3中弁栄親)
4「山槐記 保元三年秋」:保元3年7月~9月
5「山槐記 保元四年春」:保元4年正月~/(正月奥書「治承四年六月廿五日未刻書写了、侍従従五位上藤原朝臣忠季判/翌日之朝校合了 建久四年十月十五日巳刻書写了、侍従々五位藤原朝臣兼季 応永廿七年九月十一日書写畢 、于時蔵人頭 左近中将藤原朝臣判?」)
6(三月奥書「応永廿七年九月十六日書写之畢、三月八日以後無之、〈件本無也〉相尋所在、本近可書写、 蔵人頭左中将 花押/応永卅三四十一見了、」)
7「山槐記 永暦元年七八九月」:永暦元年7月~9月(奥書「応永廿九年九月廿八日、於燈下書事近可校合而已、」)
8「山槐記 永暦元年十一月」:永暦元年11月
9「山槐記 永暦元年十二月」:永暦元年12月(奥書「応永廿五年八月廿九日 前大外記入道常経筆也、〈俗名師豊〉」)
10「山槐記 応保元 永暦二年四月」:永暦2年4月(奥書「光相朝臣筆也、 本云、応永廿五年六月廿三日写終了、 本云、一見了、但不能改直僻字也、判 永享三年二月九日以定親卿本書写了、止可扶持也、 判」)
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二 「山槐記 二」
11「山槐記 応保元 永暦二年七八九月」:永暦2年7月~9月(奥書「応永廿五年五月十五日筆写了、 在判」)
12「山槐記 応保元年十二月」:応保元年12月
13「山槐御記 永万元 長寛三年六月」:長寛3年6月(奥書「以勧修寺本 正長元年十月十日即日馳筆、追可校合之、 参議左中将」)
14「山槐記 永万元年 長寛三年七月」:長寛3年7月
15「山槐記 仁安二年二月」:仁安2年2月
16「山槐記 仁安二年三月」:仁安2年3月
17「山槐記 仁安二年四五六月」:仁安2年4月~6月
18「山槐記 仁安二年四五六月」:仁安2年4月~6月
19「山槐記 承安五年七八九月 奥有節会次第」(奥書「右一冊以東園羽林基量朝臣本写之、遂校合了、延宝丁巳冬十二月十八日 内大臣(花押影)」)
20「山槐記 治承二年正月」:治承2年正月
21「山槐記 治承二年五六月閏六月」:治承2年5月~閏6月
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三 「山槐記 三」
22「山槐記 治承二年十月」:治承2年10月
23「山槐記 治承二年十一月」:治承2年11月
24「山槐記 治承三年正月」:治承3年正月
25「山槐記 治承三年二月三月」:治承3年2月・3月
26(某月21日、22日庚戌、23日)
27「山槐記 治承三年四五六月」:治承3年4月1日~18日
28「山槐記 治承三年四五六月」:4月24日~7?月15日
29「山槐記 治承三年冬」:治承3年10月~12月
30「山槐記 治承四年二月」:治承4年2月
31「山槐記 治承四年三月」:治承4年3月
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四 「山槐記 四」
32「山槐記 治承四年四月」:治承4年4月
33「山槐記 〈治承四年四月廿一日ノ記〉」:治承4年4月21日
34「山槐記 治承四年五月」:治承4年5月
35「山槐記 治承四年秋」:治承4年7月~9月
36「山槐記 治承四年十月」:治承4年10月
37「山槐記 元暦元年八月」:元暦元年8月
38「山槐記 為元暦元 寿永三年九月」:寿永3年9月
39「山槐記 為文治元 元暦二年七八九月」:元暦2年7月~9月(奥書「以花山本 応永卅二年後六月十四日書終、諌議大夫羽林藤原 花押 一見了 花押」)
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五 「山槐記 五」
40「服暇部類〈山槐 妙槐〉」
41「山槐改元部類」
42「山槐記 叙位」
43「山槐記 元日節会部類記」
44「山槐記〈長寛二年三月廿七日政始/元暦二年正月一日節会〉」
45「山槐御記 蔵人頭拝賀」:久寿3年4月19日
46「山槐記除目部類 甲」
47「山槐記除目部類 乙」
D13 後二条師通記
【備考】書写の筆跡は3、4種類。校訂筆跡は同一。親本?の裏書を本文につづけて書写している。
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一 後二条師通記 一
【現況】写本。奥書なし。朱筆校訂あり。同じく貼り紙あり。親本との校訂。もと和綴じ冊子の9冊を洋製本で一冊にしたもの。元の册ごとに表紙が二つあるので、一つ目が外題、二つ目が内題か?しかしどちらも汚れがなく、元表紙は別にあったか?
【構成】
1「後二条師通記 一」:永保三年正月・二月・三月・四月・七月・九月・十月・十一月・十二月
2「後二条師通記 二」:永保三年七月・八月(記事なし)九月・十月・十一月・十二月
3「後二条師通記 三」:応徳元年正月・二月・三月・四月・六月・七月・八月・九月・十月・十一月・十二月
4「後二条師通記 四」:応徳二年正月・二月・三月・四月・五月・六月・七月(「無御記」とあり)・八月
5「後二条師通記 五」:応徳二年八月・十月・十一月・十二月
6「後二条師通記 六」:応徳三年正月・二月・閏二月・三月・四月・五月
7「後二条師通記 七」(「後二条殿御記/応徳三年」):応徳三年七月・八月・九月・十月・十一月・十二月
【備考】朱筆頭書(項目にあたる、主に日付のあたりに細字で記されるもの、あり)
8「後二条師通記 八」:寛治二年正月・二月・三月・四月・五月
9「後二条師通記 九」:寛治二年七月・八月・九月・十月・閏十月・十一月・十二月
【備考】内々表紙に「金峯詣事有委者時範記〈可尋注之〉/八月七日於大極殿相撲七番御覧/摂政殿初補任太政大臣事/追可清書云々」「十月新年穀奉幣事/弓場始事」 朱筆頭書あり)
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二 後二条師通記 二
【現況】写本。奥書なし。朱筆校訂あり。親本との校訂。もと和綴じ冊子の7冊を洋製本で一冊にしたもの。元の册ごとに表紙が二つあるので、一つ目が外題、二つ目が内題か?しかしどちらも汚れがなく、元表紙は別にあったか?
【構成】
10「後二条師通記 十」:寛治三年正月・二月・三月・四月・五月・六月/(朱筆頭書あり)
11「後二条師通記 十一」:寛治三年〈秋冬〉七月・八月・九月・十月・十一月・十二月
12「後二条師通記 十二」:寛治四年正月・二月・三月・四月・五月・六月
13「後二条師通記 十三」:寛治四年〈庚午〉七月・八月・九月・十月・十一月・十二月
14「後二条師通記 十四」:寛治五年歳次辛未正月・二月・三月/(内々表紙に「青馬会内弁/大炊殿行幸 賭弓 立后事/日吉行幸 臨時祭/関白八幡詣事〈付競馬事〉/被叙三位事〈中将忠—〉/二月九日仁王会事/正月十一日院行〈賀茂〉」)/(朱筆頭書あり)
15「後二条師通記 十五」:寛治五年正月・二月・三月・四月・六月
16「後二条師通記 十六」:寛治五年四月・五月・六月
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三 後二条師通記 三
【現況】写本。奥書なし。朱筆校訂あり。親本との校訂。もと和綴じ冊子の8冊を洋製本で一冊にしたもの。元の册ごとに表紙が二つあるので、一つ目が外題、二つ目が内題か?しかしどちらも汚れがなく、元表紙は別にあったか?
【構成】
17「後二条師通記 十七」:寛治五年七月・八月・九月
18「後二条師通記 十八」:寛治五年十月・十一月・十二月
19「後二条師通記 十九」:寛治六年〈壬申〉正月・二月・三月
20「後二条師通記 二十」:寛治六年四月・五月・六月
21「後二条師通記 廿一」:寛治六年〈壬申〉七月・八月・九月/(内々表紙裏に「伊勢宝殿 例事/坂東洪水事/仍比叡訴申天台山大衆起事〈付流罪事〉/七月渡高陽院給」)
22「後二条師通記 廿二」:寛治六年〈壬申〉十月・十一月・十二月
23「後二条師通記 廿三」:寛治七年正月・二月・三月/(朱書頭書あり)
24「後二条師通記 廿四」:寛治七年四月・五月・六月/(朱書頭書あり)
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四 後二条師通記 四
【現況】写本31と27に奥書あり(親本のもの)。ほかは奥書なし。朱筆校訂あり。親本との校訂。もと和綴じ冊子の8冊を洋製本で一冊にしたもの。元の册ごとに表紙が二つあるので、一つ目が外題、二つ目が内題か?しかしどちらも汚れがなく、元表紙は別にあったか?
【構成】
25「後二条師通記 廿五」:寛治七年七月・八月・九月
26「後二条師通記 廿六」:寛治七年十月・十一月・十二月
27「後二条師通記 廿七」:永長元年〈丙子〉正月・二月・三月/内々表紙に「永長元年〈丙子〉〈後二条関白師通公御記/于時関白内大臣卅五〉」次いで、正月大、二月小、三月小の目次あり/(〈本云〉重校了、〈在乗〉/校了、成隆)/(朱書頭書あり)
28「後二条師通記 廿八」:永長九年〈後二条関白之御記 師通公〉四月・五月・六月/(朱書頭書あり)
29「後二条師通記 廿九」:永長九年〈丙子〉〈後二条関白之御記師通公〉七月・八月・九月
30「後二条師通記 三十」:永長元年〈丙子〉十月・十一月・十二月
31「後二条師通記 三十一」:承徳三年〈己卯〉四月・五月・六月/(本云/至于自十八日卅日無御日記)
32「後二条師通記 三十二止」:康和元年正月・二月・三月/(内々表紙に正月、二月、三月の目次あり)
D14 園太暦
【内容】洞院公賢の日記
【現況】写本
【印記】朱印「□□庫」アリ
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一 園太暦 第一号 第二号
1「園太暦 第一 延慶四年応長元二月三月 于時権中納言兼左衛門督」
【備考】冒頭に洞院系図アリ
2「園太暦 第二 康永三年正月二月後二月三月」
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二 園太暦 第三号 第四号
3「園太暦 第三 康永三年秋冬 七月八月九月十月十一月十二月 十一月廿日賢木遷座金堂」
4「園太暦 康永四年春夏 正月二月三月四月五月六月 進子内親王落飾以後立親王宣下事」
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三 園太暦 第五号 第六号
5「園太暦 第五 康永四自七至十一 十廿一改元貞和」
6「園太暦 第六 貞和二年春正月二月三月四月五月六月〈欠畢〉」
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四 園太暦 第七号 第八号
7「園太暦 巻七 貞和二年秋冬 七月八月九月後九月十月十一月十二月」
8「園太暦 第八 貞和□年春夏 正月二月□□□□五□□□」
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五 園太暦 第九号 第拾号
9「園太暦 貞和三年秋冬 七月八月九月十月十一月十二月 広義門院被修御仏事」
10「園太暦 第十 貞和四年春夏 正月二月〈廿一日已後記無之〉三月欠四月五月六月」
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六 園太暦 第拾壱号 第拾弐号
11「園太暦 第十一 貞和四年秋 七月八月九月」
12「園太暦 第十二 貞和四年冬 十月十一月十二月」
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七 園太暦 第拾参号 第拾四号
13「園太暦 第十三 貞和五年 正月二月三月四月五月六月壬六月《御即位之事/告之》」
14「園太暦 第十四 貞和六年 正月二月《廿七日改元/観応》三月四月五月六月《已上月欠》」
【備考】五月・六月が欠
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八 園太暦 第拾五号 第拾六号
15「園太暦 第十五 観応元年秋冬 七月八月九月十月十一月十二月」
16【備考】第十六は原表紙欠、観応二年正月~六月」
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九 園太暦 第拾七号 第拾八号
17「園太暦 第十七 観応二年秋冬 七月八月九月十月十一月十二月」
18「園太暦 第十八 観応三年春 正月二月壬二月三月」
【奥書】(第十八の末尾)此巻連々有合戦事少々、依無益不写之、
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一〇 園太暦 第拾九号 第弐拾号 第弐拾壱号
19「園太暦 第十九 観応三年九月改元文和元 夏秋 後光厳院践祚」
20「園太暦 文和元観応三年冬 十月十一月任大臣節会事 十二月陽禄門院崩御事」
21「園太暦 第廿一 文和二年春夏」
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一一 園太暦 第弐拾弐号 第弐拾参号 第弐拾四号
22「園太暦 第廿二 文和二年秋」
23「園太暦 第廿三 文和三十一 大嘗会事 人々消息 有朔旦冬至 賀表 主上蹴鞠之時御奴袴事在之在明月記」
24「園太暦 第廿四 文和四年春夏秋冬」
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一二 園太暦 第弐拾五号 第弐拾六号 第弐拾七号 第弐拾八号
25「園太暦 第廿五 文和五年正月」
26「園太暦 第廿六 文和五年二月三月《廿八日改元延文/在別記了》」
27「園太暦 延文文和五年《三月廿八日/改元延文》春夏」
28「園太暦 第廿八 延文元年秋冬」
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一三 園太暦 第弐拾九号 第参拾号 第参拾壱号
29「園太暦 延文二年春夏」
30「園太暦 第三十 延文二年秋冬」
31「園太暦 第卅一 延文三年春夏秋 正月六月〈等持院殿去月薨給事〉七月八月九月 二月三月四月五月虫損云々」
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一四 園太暦 第参拾弐号 第参拾参号
32「園太暦 第卅二 延文四年春夏秋冬」
33「園太暦記代 第卅三 延文五年正月二月三月四月六日薨去」
【奥書】(三十三の末尾)長享二年九月五日……(大日本史料延文五年四月六日条参照)
D15 二水記
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一 二水記上
1「二水記 永正十四 正月至十二月」:永正14年正月~12月/(右二水記、以秘本不他筆書写、加一校了、 元禄四辛未年七月廿六日)
2「二水記 永正十五 正月至七月」:永正15年正月~7月
3「二水記 永正十六 正月至四月」:永正16年正月~4月
4「二水記 永正十六 七月 八月 九月 十月 十一月 十二月」:永正16年7月~9月、大永元年10月~12月
5「二水記 永正十六 十月 十一月 十二月」:永正16年10月~12月
6「二水記 永正十七 正月 二月 三月」:永正17年正月~3月
7「二水記 永正十七 四月至閏六月」:永正17年4月~閏6月
8「二水記 永正十七 七月至九月 十月至十二月」:永正17年7月~12月
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二 二水記下
9「二水記 永正十八 正月至六月〈八月廿三日改元大永)」:永正18年正月~6月/(右二水記、以秘本不交他筆書写一校了、 元禄四辛未年七月廿六日 右衛門允(花押影))
10「二水記 大永二 正月 二月 三月」:大永2年正月~3月
11「二水記 大永五 正月 二月 三月」:大永5年正月~3月
12「二水記 大永六 正月至三月」:大永6年正月~3月
13「二水記 大永六 四月 五月 六月」:大永6年4月~6月
14「二水記 大永六 七月至九月」:大永6年7月~9月
15「二水記 大永六 十月至十二月」:大永6年10月~12月
16「二水記 大永七 正月至六月」:大永7年正月~6月
17「二水記 大永七 七月至十二月」:大永7年7月~12月
18「二水記 大永八 正月至六月」:大永8年正月~6月
19「二水記 大永八〈改元享禄)七月 八月 九月」:大永8年7月~閏9月
20「二水記 享禄元 十月至十二月」:享禄元年10月~12月
D16 御堂関白記
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【現況】写本。近世か。元和綴じ本。一冊。朱筆校訂あり。筆跡複数。奥書なし。一・二、三、四五、六七、八、九、十各冊子(元)が全体で洋製本で一冊になっている。
一 御堂関白記 一
1「一・二」(「御堂関白記 一二」):長徳四年七月、長保元年二月・三月・閏三月・四月(二十八日のみ)・五月・六月・七月・八月・九月・十月・十一月、長保二年正月、二月、三月、四月、五月
2「三」:長保六年正月、二月、三月、四月、五月、六月、七月、八月、九月、閏九月、十月、十一月、十二月
3「四・五」:寛弘二年正月・二月・三月・四月・五月・六月、寛弘四年七月・八月・九月・十月・十一月・十二月
4「六・七」:寛弘五年七月・八月・九月・十月・十一月・十二月、寛弘六年正月・四月・五月・六月・七月・八月・九月・十月・十一月・十二月
5「八」:寛弘七年正月・二月・閏二月・三月・四月・五月・六月・七月・八月・九月・十月・十一月・十二月
6「九」(寛弘八年 〈大殿御筆云々〉)、:寛弘八年正月・二月・三月・四月・五月・六月・七月・八月・九月・十月・十一月・十二月/(内題の裏丁に「大殿御筆」)
7「十」(「御堂関白記十」(つまり外題と同じ):寛弘元年正月・二月・三月・四月・五月・七月・八月・九月・十月・閏十月・十一月・十二月/(閏十月廿九日条・十一月一日条のみ、朱筆による頭書あり)
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二 御堂関白記 二
8「十一」:長和二年正月・二月・三月・四月・五月・六月・七月・八月・九月・十月・十一月・十二月
9「十二」(内題「長和四年〈四季〉」):長和四年正月・二月・三月・四月・五月・六月・閏六月・七月・八月・九月・十月・十一月・十二月
10「十三・十四」:長和五年正月・二月・三月・四月・五月・六月、長和五年七月・八月・九月・十月・十一月・十二月
11「十五」(内題「寛仁元年〈御記〉/従正月至六月大殿御筆」):長和六年正月・二月・三月・四月・五月・六月・七月・八月・九月・十月・十一月・十二月
12「十六」:寛仁二年正月・二月・三月・四月・閏四月・五月・六月・七月・八月・九月・十月・十一月・十二月
13「十七止」(内題「寛仁三年〈春夏秋〉同四年三月同五年(傍書「治安元」)〈九月〉」)/(外題「御堂関白記〈附御堂御記抄〉」):寛仁三年正月・二月・三月・八月、寛仁四年三月、寛仁五年九月(念仏?回数のみ)、長徳元年五月・六月・七月・八月・九月・十二月の抄、寛仁元年三月・八月・十二月の抄、承保二年十一月・十二月の抄、康平二年(年号の下に朱書張り紙あり「康平三年七月五日師実為内大臣、コレ師実ノ日記カ」)七月・八月の抄
「御堂御記抄」:長保六年正月廿一日、長保六年十月癸卯、寛弘二年二月・同十二日・十三日、寛弘二年六月廿七日、寛弘二年七月十日、寛弘二年七月廿九日、寛弘二年八月廿二日、寛弘二年十月十九日、寛弘二年十二月廿一日、寛弘三年二月四日、寛弘三年七月廿七日、寛弘三年八月十九日、寛弘三年九月廿二日、寛弘三年十月五日、寛弘四年二月廿一日、寛弘四年三月十五日、寛弘四年四月廿五日、同廿六日、寛弘四年五月十七日、寛弘四年十二月二日、寛弘五年十月十六日、寛弘五年十二月廿日、寛弘六年二月己未、寛弘六年十月一日、寛弘七年正月二日、寛弘七年三月十八日、寛弘七年七月十七日、寛弘七年七月廿七日、同廿八日、寛弘七年十月十六日、寛弘七年十一月廿八日、同十二月二日、寛弘八年正月八日、寛弘八年四月五日、寛弘九年正月三日、寛弘九年四月廿七日、寛弘九年五月一日、長和元年十一月一日、長和元年十一月十七日、長和元年十二月四日、長和二年二月十一日、長和二年二月十四日、長和二年二月廿三日、同廿四日、長和二年三月廿三日、長和二年四月三日、以下は撮影/貸出票に貸出記録あり
D17 閑友雑記
【現況】洋装茶色マーブル表紙、背表紙金文字装丁。もとの和表紙欠。各冊毎の表紙も欠く。元の和本二〇冊の
表紙を取り除いて洋装五冊本に仕立ててあるか。
【備考】京大本とは異なる/蔵書票「1907」
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一 閑友雑記 一
【内容】
「一、朝鮮征伐之時、大明の冊使李宗誠と云者……」
「一 結城三河守秀康卿ハ……」
「一 駿河大納言忠長卿ハ……」
「一 或老人の覚書を見るに……」
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二 閑友雑記 二
【内容】
「一 安藤右京進重長家士……」
「一 板倉周防守所司之節……」
「一 島原城乗評定の時水野日向守……」
「一 大猷院様御代に武州王子へ……」
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三 閑友雑記 三
【内容】
「一 秋田信濃守輝季の御母堂……」
「一 小幡勘兵衛尉景憲ハ……」
「一 土岐山城守奥坊主の小僧に談儀の真似を能する者あり……」
「一 諏訪因幡守頼治の時……」
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四 閑友雑記 四
【内容】
「一 慶長五年九月十五日関ヶ原大合戦……」
「一 或人福島左衛門大夫正則ニ……」
「一 家光公十六歳之御時、……」
「一 元禄年中於東武御小姓組……」
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五 閑友雑記 五
【内容】
「一 享保二丁酉年、大和郡山城主本多信濃守家来喧嘩之咄……」
「一 安土宗論之事、……」
「一 明暦年中酉ノ年大火事之節……」
「一 或古老の物語ニ我若かりし時……」
【奥書】(第5冊巻末)「右雑記二十冊紙数八百廿五枚、筆二本ニ而写之畢、敢忽嘲哢」
D18 宣胤卿記
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一 宣胤卿記 一
1「貢馬傳 奏事 明応二」「権大納言宣胤」:宣胤履歴記事(1丁裏)、貢馬傳 奏事 明応二(2丁表)、十二月十七日女房 奉書 到来御返書(以下略)
2「秘 六」:明応三年 愚記 正月―十一月廿四日、丁替え 十月十三日・十四日
3「秘 七」「渡方 二条殿/明応六」:明応六年六月十八日早朝 関白宣下 二条殿、明応六年十月十日殿下薨給、渡領所々
4「秘 雑々状」:十二月廿日「毎度無心」、極月廿一日 常盛状「就宣賢参仕之儀~」、十二月廿一日「彼御参向明日必定~」、十二月廿一日 広元状「暦尾既相廻~」・女房消息2通、明応六九月十日 尋□状「彼上人事~」、九月十一日 某書状「誠久不得参拝~」・女房消息3通、明応九八月七日 実隆「一昨日」、八月十八日政顕?
5「宣秀卿記」:享禄四年 正月―六月/雑々状の後にこれが書写、筆跡各異なるか
6「宣胤記 文明十二年 正二三四九十十一十二」
7「三冊残内 愚記 文明十三年/及正月至七月 従二位権中納言藤原朝臣」
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二 宣胤卿記 二
8「秘 権大納言 判「長講堂傳 奏」:文亀元年―永正二年
9「九」:文亀元年辛酉 十月ー十二月
10「十一」:文亀二 四月小―五月
11「愚記 文亀二年壬戌/春」:文亀二年壬戌正月―三月
12「愚記 文亀四甲子 二月三十改元永正元 十二」:文亀四年正月―永正元年十二月
13「雑々状 永正二/永正三」:永正三年正月―十二月
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三 宣胤卿記 三
14「十五」:永正四年丁卯正月―十二月
15「十六」:永正十四年―十二月/(永正十四年分紙背書状か)
16「渡方 一条殿/長享二三延徳元/延徳二三四」「付南曹方 神主職事在之」:長享二年八月廿八日御初任冬良公 長享二 十二月
17「愚記 長享三 八月廿一日改元/為延徳」:長享三年正月―五月、八月、十月
D19 大三川志
【現況】和本五冊ずつを洋製本(背表紙部分のみ)背表紙に白でタイトル(「大三川志 巻一ー五」等)を記す。背表紙下部にラベルをはがした跡あり。各和本末尾表紙裏にイェール大学蔵書票あり
(甲)「YALE COLLEGE LIBRARY」「Presented by prof.O.C.Marsh 1873」
【備考】和装本一冊目のみ表紙を欠く。写本、朱字校正の跡多数。総冊数 一〇八冊、本編一〇〇巻・付録八巻、目録・引用書目の一冊を欠く内閣文庫昌平坂学問所本一〇九本
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D19-1
【詳細】
洋装一冊目
大三川志巻之一~大三川志巻之五
以下洋装本二〇冊目まで各冊五巻ずつ
洋装二一冊目より二二冊目までは付録を四巻ずつ
洋装本中和本各一巻目地の部分に登録番号らしきものあり(同様のものは、当該巻の一丁目冒頭に赤で書き込んだのち擦り消したあとあり)
【登録番号?】一冊目 FVD19 65 1
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D19-2~22
【登録番号?】
二冊目 FVD19 65 6
三冊目 FVD19 65 3
四冊目 FVD19 65 4
五冊目 FVD19 65 5
六冊目 FVD19 65 6
七冊目 FVD19 65 7
八冊目 FVD19 65 8
九冊目 FVD19 65 9
十冊目 FVD19 65 10
十一冊目 FVD19 65 11
十二冊目 FVD19 65 12
一三冊目 FVD19 65 13
十四冊目 FVD19 65 14
十五冊目 FVD19 65 15
十六冊目 FVD19 65 16
十七冊目 FVD19 65 17
十八冊目 FVD19 65 18
十九冊目 FVD19 65 19
二〇冊目 FVD19 65 20
二一冊目 FVD19 65 21
二二冊目 FVD19 65 22
【備考】和本各巻表紙上小貼り紙
①◇に「身」→巻二より巻四〇・巻四二~八〇
②◇に「髪?」
D20 時慶卿記
【現況】謄写本
【備考】蔵書票「1907」。ところどころ朱で文字の訂正等をしている。ただし、内閣文庫本よりも良い写本かと思われる。
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一 時慶卿記 一
1時慶卿記〈天正十九年春四五〉一 天正19年正月~5月
2時慶卿記〈天正十九年六秋〉二 天正19年6月~9月
3時慶卿記〈文禄二年春〉三 文禄2年正月~3月
4時慶卿記〈文禄二年夏〉四 文禄2年4月~6月
5時慶卿記〈文禄二年秋〉五 文禄2年7月~閏9月
6時慶卿記〈文禄二年冬〉六 文禄2年10月~12月
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二 時慶卿記 二
7時慶卿記〈慶長五年春〉七 慶長5年正月~3月
8時慶卿記〈慶長五年夏〉八 慶長5年4月~6月
9時慶卿記〈慶長五年秋〉九 慶長5年7月~9月
10時慶卿記〈慶長五年冬〉十 慶長5年10月~12月
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三 時慶卿記 三
11時慶卿記〈慶長七年春〉十一 慶長7年正月~3月
12時慶卿記〈慶長七年夏〉十二 慶長7年4月~6月
13時慶卿記〈慶長七年秋〉十三 慶長7年7月~9月
14時慶卿記〈慶長七年冬〉十四 慶長7年10月~12月 12月記錯簡あり
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四 時慶卿記 四
15時慶卿記〈慶長八年春〉十五 慶長8年正月~3月
16時慶卿記〈慶長八年夏〉十六 慶長8年4月~6月
17時慶卿記〈慶長八年秋〉十七 慶長8年7月~9月
18時慶卿記〈慶長八年冬〉十八 慶長8年10月~12月
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五 時慶卿記 五
19時慶卿記〈慶長九年春〉十九 慶長9年正月~3月
【奥書】明治二十二年十二月、以京都本願寺所蔵原本校了、村山徳淳
20時慶卿記〈慶長九年夏〉二十 慶長9年4月~6月
21時慶卿記〈慶長九年秋〉廿一 慶長9年7月~9月
22時慶卿記〈慶長九年冬〉廿二 慶長9年10月~12月
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六 時慶卿記 六
23時慶卿記〈慶長十年春〉廿三 慶長10年正月~3月
24時慶卿記〈慶長十年夏〉廿四 慶長10年4月~6月
25時慶卿記〈慶長十年秋〉廿五 慶長10年7月~9月
26時慶卿記〈慶長十年冬〉廿六 慶長10年10月~12月
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七 時慶卿記 七
27時慶卿記〈慶長十四年春〉廿七 慶長14年正月~3月
28時慶卿記〈慶長十四年夏〉廿八 慶長14年4月~6月
29時慶卿記〈慶長十四年秋〉廿九 慶長14年7月~9月
30時慶卿記〈慶長十四年冬〉三十 慶長14年10月~12月
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八 時慶卿記 八
31時慶卿記〈慶長十五年《自三月九日至六月四日》〉三十二 慶長15年3月~6月
32時慶卿記〈慶長十五年《自六月五日至九月廿九日》〉三十三 慶長15年6月~9月
33時慶卿記〈慶長十五年《自九月三十日至十二月》〉三十四 慶長15年9月~12月
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九 時慶卿記 九
34時慶卿記〈慶長十八年春〉三十五 慶長18年正月~3月
35時慶卿記〈慶長十八年夏〉三十六 慶長18年4月~6月
36時慶卿記〈慶長十八年秋〉三十七 慶長18年7月~9月
37時慶卿記〈慶長十八年冬〉三十八 慶長18年10月~12月
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一〇 時慶卿記 十
38時慶卿記〈慶長十九年春〉卅九 慶長19年正月~3月
39時慶卿記〈慶長十九年夏〉四十 慶長19年4月~6月
40時慶卿記〈慶長十九年秋〉四十一 慶長19年7月~9月
41時慶卿記〈慶長十九年冬〉四十二 慶長19年10月~12月
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一一 時慶卿記 十一
42時慶卿記〈元和四年春〉四十三 元和4年正月~閏3月
43時慶卿記〈元和四年夏〉四十四 元和4年4月~6月
44時慶卿記〈元和四年秋〉四十五 元和4年7月~9月
45時慶卿記〈元和四年冬〉四十六 元和4年10月~12月
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一二 時慶卿記 十二
46時慶卿記〈元和七年春〉四十七 元和7年正月~3月
47時慶卿記〈元和七年夏〉四十八 元和7年4月~6月
48時慶卿記〈元和七年秋〉四十九 元和7年7月~9月
49時慶卿記〈元和七年冬〉五十 元和7年10月~12月
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一三 時慶卿記 十三
50時慶卿記〈寛永五年春〉五十一 寛永5年正月~3月
51時慶卿記〈寛永五年夏〉五十二 寛永5年4月~6月
52時慶卿記〈寛永五年秋〉五十三 寛永5年7月~9月
53時慶卿記〈寛永五年冬〉五十四 寛永5年10月~12月
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一四 時慶卿記 十四
54時慶卿記〈寛永六年春〉五十五 寛永6年正月~3月
55時慶卿記〈寛永六年夏〉五十六 寛永6年4月~6月
56時慶卿記〈寛永六年秋〉五十七 寛永6年7月~9月
57時慶卿記〈寛永六年冬〉五十八 寛永6年10月~12月
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一五 時慶卿記 十五
58時慶卿記〈寛永九年春〉五十九 寛永7年正月~3月
59時慶卿記(寛永九年夏)六十 寛永9年4月~6月
【奥書】明治二十三年二月、以京都本願寺所蔵原本校了、村山徳淳
60時慶卿記〈寛永九年秋〉六十一 寛永9年7月~9月
61時慶卿記〈寛永九年冬〉六十二 寛永9年10月~12月
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一六 時慶卿記 十六
62時慶卿記〈寛永十四年春〉六十三 寛永14年正月~閏3月
63時慶卿記〈寛永十四年夏〉六十四 寛永14年4月~6月
64時慶卿記〈寛永十四年秋〉六十五 寛永14年7月~9月
65時慶卿記〈寛永十四年冬〉六十六 寛永14年10月~12月
66時慶卿記〈寛永十五年春〉六十七 寛永15年正月~3月
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一七 時慶卿記 十七
67時慶卿記〈寛永十五年夏〉六十八 寛永15年4月~6月
68時慶卿記〈寛永十五年秋〉六十九 寛永15年7月~9月
69時慶卿記〈寛永十五年冬〉七十 寛永15年10月~12月
70時慶卿記〈寛永十六年春〉七十一 寛永16年正月~3月
71時慶卿記〈寛永十六年夏〉七十二 寛永16年4月~6月
D21 談海
【現況】三〇巻一五冊(各冊二巻ずつ)を洋装本二冊に製本。但し、第七冊(第一三・一四巻)を欠くため、実際は二八巻一四冊。慶長十年~寛文十三年/序文・跋文、書写年代等なし
【備考】第一三・一四巻を欠く一四冊からなる「談海」が、内閣文庫にあり。但し三〇巻とある。
【構成】
洋装本一:第一~八冊(一四巻、第七冊を欠く)
洋装本二:第九~一五冊(一四巻)
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一 談海 慶長十/寛文二 一―八
1 談海 自慶長十年/至元和五年 一
書出「 談海第一 (慶長十年~同十九年)
一慶長十己巳 秀忠公任征夷大将軍 」
末尾「 談海実録巻壱終 」
書出「 談海第二 」(慶長二十年~元和五年)
末尾「 談海録巻之弐終 」
2談海 自元和九年/至寛永七年 二
書出「 談海第三 」(元和九年)
末尾「 談海録巻之三終 」
書出「 談海第四 」(寛永元年~同七年)
末尾「 談海録巻之四終 」
3談海 自寛永九年/至十五年 三
書出「 談海第五 」(寛永九年~同十四年)
末尾「 談海録巻之五終 」
書出「 談海第六 」(寛永十四年~同十五年)
末尾「 談海録巻之六終 」
4談海 自寛永十六年/至慶安四年 四
書出「 談海第七 」(寛永十六年~同二十一年)
末尾「 談海巻之七終 」
書出「 談海第八 」(寛永二十一年~慶安四年)
末尾「 談海録巻之八終 」
5談海 自慶安四年/至明暦二年 五
書出「 談海第九 」(慶安四年)
末尾「 談海録巻之九終 」
書出「 談海第十 」(承応四年~明暦三年)
末尾「 談海録巻之十終 」
6談海 明暦三年 六 七缺
書出「 談海第十一 」(明暦三年正月)
末尾「 談海録巻之十一終 」
書出「 談海第十二 」(明暦三年二月~十一月)
末尾「 談海録巻之十二終 」
※「七」欠
7談海 自寛文元年/至二年 八
書出「 談海第十五 」(万治四年~)
末尾「 談海録巻之十五終 」
書出「 談海第十六 」(寛文元年~同二年)
末尾「 談海録巻之十六終 」
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二 談海 寛文五/同十三 九―一五
8談海 自寛文五年/至六年 九
書出「 談海第十七 」(寛文五年)
末尾「 談海録巻之十七終 」
書出「 談海第十八 」(寛文六年正月~同年六月)
末尾「 談海録巻之十八終 」
9談海 自寛文六年/至同八年 十
書出「 談海第十九 」(寛文元年六月~同七年十二月)
末尾「 談海録巻十九終 」
書出「 談海第二十 」(寛文八年正月~二月)
末尾「 談海録巻之二十終 」
10談海 寛文八年 十一
書出「 談海第二十一 」(寛文八年二月~四月)
末尾「 談海録巻之二十一終」
書出「 談海第二十二 」(寛文八年五月~七月)
末尾「 談海録巻之廿二終 」
11談海 自寛文八年/至十年 十二
書出「 談海第二十三 」(寛文八年八月~同十年五月)
末尾「 談海録巻之二十三終」
書出「 談海第二十四 」(寛文十年六月~十二月)
末尾「 談海録巻之二十四終」
12談海 寛文十一年 十三
書出「 談海第二十五 」(寛文十一年正月~五月)
末尾「 談海録巻之二十五終」
書出「 談海第二十六 」(寛文十一年六月~九月)
末尾「 談海録巻之二十六終」
13談海 自寛文十一年/至十二年 十四
書出「 談海第二十七 」(寛文十一年十一月~同十二年正月)
末尾「 談海録巻之二十七終」
書出「 談海第二十八 」(寛文十二年二月)
末尾「 談海録巻之二十八終」
14談海 自寛文十二年/至十三年 十五 止
書出「 談海第二十九 」(寛文十二年二月~十一月)
末尾「 談海録巻之二十九終」
書出「 談海第三十 」(寛文十三年四月~同年中)
末尾「 談海録巻之三十大尾」
※最後の記事は「百人一種」
D22 續談海
【現況】八四巻三一冊(各冊二乃至三巻ずつ)を洋装本七冊に製本。延宝八年~天明二年/序文・跋文、書写年代等なし
【備考】八四巻三一冊からなる「續談海」が内閣文庫に架蔵されており(『内閣文庫所蔵史籍叢刊44・45 續談海㈠・㈡』汲古書院)、これは昌平坂学問所本であるという(同叢刊の進士慶幹氏の解題による)。各冊に収録されている巻の構成も一致するので、イェール本は昌平坂学問所本系統の写本と思われる。
【構成】
洋装本一:第一~五冊(五冊一五巻)
洋装本二:第六~九冊(四冊一二巻)
洋装本三:第一〇~一三冊(四冊一一巻)
洋装本四:第一四~一八冊(五冊一〇巻)
洋装本五:第一九~二三冊(五冊一二巻)
洋装本六:第二四~二七冊(四冊一二巻)
洋装本七:第二八~三一冊(四冊一二巻)
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一 續談海 一
1續談海 自延宝六年/至宝永四年 一之三
續談海 巻一 (延宝八年~)
續談海 巻二 (元禄四年~)
續談海 巻之三 (宝永二年~)
2續談海 自宝永五年/至正徳五年 四五
續談海 巻之四 (宝永五年~)
續談海 巻五 (宝永八年~)
3續談海 自享保元年/至享保十四年 六之八
續談海 巻六 (享保元年~)
續談海 巻七 (享保九年~)
續談海 巻之八 (享保十年~)
4續談海 自享保〔十〕五年/至元文三年 九之十一
續談海 巻之九 (享保十五年~)
續談海 巻之十 (享保十九年~)
續談海 巻之十一 (享保廿一年~)
5續談海 自元文四年/至寛保三年 十二之五
續談海 巻之拾二 (元文四年~)
續談海 巻之十三 (元文五年~)
續談海 巻之拾四 (寛保元年~)
續談海 巻之拾五 (寛保二年~)
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二 續談海 二
6續談海 自寛保三年/至寛延二年 十六之八
續談海 巻之拾六 (寛保三年~)
續談海 巻之拾七 (延享三年~)
續談海 巻之拾八 (延享五年~)
7續談海 拾九ノ廿一
續談海 巻之拾九 (寛延三年~)
續談海 巻之二拾 (寛延四年~)
續談海 巻之二十一 (宝暦三年~)
8續談海 自宝暦四年/至七年 廿二之四
續談海 二十二ノ四 ※表紙二枚あり(以下同)
續談海 巻之二十二 (宝暦四年~)
續談海 巻之二十三 (宝暦五年~)
續談海 巻之二拾四 (宝暦六年~)
9續談海 自宝暦八年/至九年 廿五之七
續談海 巻之二拾五 (宝暦八年~)
續談海 巻之二拾六 (宝暦九年~)
續談海 巻之二拾七 (~宝暦九年十二月)
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三 續談海 三
10續談海 自宝暦十年/至十一年 廿八之卅
續談海 巻之二十八 (宝暦十年~)
續談海 巻之二拾九 (宝暦十年八月~)
續談海 巻之三拾 (宝暦十一年~)
11續談海 自宝暦十二年/至明和元年 卅一之三
續談海 三拾壹ノ三
續談海 巻之三拾壱 (宝暦十二年~)
續談海 巻之三拾二 (宝暦十三年~)
續談海 巻之三拾三 (明和元年~)
12續談海 自明和二年/至四年 卅四之六
續談海 巻之三拾四 (明和二年~)
續談海 巻之三拾五 (明和三年~)
續談海 巻之三拾六 (明和四年~)
13續談海 自明和二年/至四年 卅七八
續談海 巻之三拾七 (明和五年~)
續談海 巻之三拾八 (明和六年~)
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四 續談海 四
14續談海 自明和七年/至八年 卅九四十
續談海 三拾九四十
續談海 巻之三拾九 (明和七年~)
續談海 巻之四拾 (明和八年~)
15續談海 明和八年 四十一二
續談海 巻之四拾一 (明和八年十一月~)
續談海 巻之四拾二 (~明和八年中)
16續談海 安永元年 四十三
續談海 四拾三
續談海 巻之四拾三 (明和九年)
17續談海 自安永二年/至三年 四十四五
續談海 巻之四拾四 (安永二年)
續談海 巻之四拾五 (安永三年)
18續談海 自安永三年/至四年 四十六之八
續談海 四拾六ノ八
續談海 巻之四拾六 (安永三年八月~)
續談海 巻之四拾七 (安永四年~)
續談海 巻之四拾八 (安永四年六月~)
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五 續談海 五
19續談海 安永五年 四十九五十
續談海 四十九五十
續談海 巻之四拾九 (安永五年~)
續談海 巻之五拾 (安永五年九月~)
20續談海 安永六年 五十一二
續談海 五十一二
續談海 巻之五十一 (安永六年~)
續談海 巻之五拾二 (安永六年七月~)
21續談海 自安永六年/至七年 五十三之五
續談海 五十三ノ五
續談海 巻之五拾三 (安永六年九月~)
續談海 巻之五拾四 (安永七年~)
續談海 巻之五拾五 (安永七年四月~)
22續談海 安永七年 五十六七
續談海 巻之五拾六七
續談海 巻之五拾六 (安永七年閏七月~)
續談海 巻之五十七 (安永七年十一月~)
23續談海 安永八年 五十八之六十
續談海 巻之五拾八 (安永八年~)
續談海 巻之五拾九 (安永八年三月~)
續談海 巻之六拾 (安永八年四月~)
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六 續談海 六
24續談海 安永八年 六十一之三
續談海 巻之六拾一 (安永八年五月~)
續談海 巻之六拾二 (安永八年七月~)
續談海 巻之六拾三 (安永八年十月~)
25續談海 自安永八年/至九年 六十四之六
續談海 巻之六拾四 (安永八年十一月~)
續談海 巻之六拾五 (安永九年~)
續談海 巻之六拾六 (安永九年三月~)
26續談海 安永九年 六十七之九
續談海 六拾七ノ九
續談海 巻之六拾七 (安永九年五月~)
續談海 巻之六拾八 (安永九年七月~)
續談海 巻之六拾九 (安永九年九月~)
27續談海 自安永九年/至天明元年 七十之二
續談海 七拾ノ二
續談海 巻之七拾 (安永九年十月~)
續談海 巻之七拾一 (安永九年十一月~)
續談海 巻之七拾二 (安永十年~)
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七 續談海 七
28續談海 天明元年 七十三之五
續談海 七十三ノ五
〈續談海 巻之七十三 〉(天明元年三月~)※記載なし。本文のみ。
續談海 巻之七拾四 (天明元年五月~)
續談海 巻之七拾五 (天明元年六月~)
29續談海 天明元年 七十六之九
續談海 巻之七十六 (天明元年八月~)
續談海 巻之七拾七 (天明元年九月~)
續談海 巻之七拾八 (天明元年十月~)
〈續談海 巻之七十九 〉(天明元年十一月~)※記載なし。本文のみ。
30續談海 天明二年 八十之一
續談海 巻之八拾 (天明二年~)
〈續談海 巻之八十一 〉(天明二年四月~)※記載なし。本文のみ。
31續談海 天明二年 八十二之四 止
續談海 巻之八拾二 (天明二年六月~)
續談海 巻之八十三 (天明二年八月~)
續談海 巻之八拾四 (~天明二年十二月)
D23 武家続盛衰記
【内容】戦国末~江戸中期?の諸家の盛衰を第一~第廿四に部類して記したもの。「古今続武家盛衰記」「中興続武家盛衰記」と同本カ
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一 武家続盛衰記 上
【構成】総目録および第一~第十五
【書出】第一‐一斎藤氏ノ三将以三ヶ条諫言之事
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二 武家続盛衰記 下
【構成】第十六~廿四
【書出】第十六‐一水谷出羽守殿跡式水谷弥七郎殿依早世断絶事
D24 花園院御記
【内容】花園天皇の日記
【現況】謄写本
【印記】「哲学書院」、「高頭」朱印アリ
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一 花園院御記 自延慶元年至正和三年
1「花園院御記 正慶元年十月廿八日」/(本奥書:右以宸記写〈頗古/巻〉今書写了、尤可秘焉、同日一校了、寛政八年六月十二日正二位)
2「花園院御記 延慶三年自十月一日至十二月晦日」/(右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年八月二日同宮家従浦野直輝)
3「花園院御記 延慶四年自正月至六月十五日」/(右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年八月二日同宮家従浦野直輝)
4「花園院御記 応長二年自正月一日至三月廿九日」/(右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年六月二十六日同宮家従浦野直輝)
5「花園院御記 正和二年自正月一日至六月廿九日」/(右花園院天皇御宸記(ママ)筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年七月二十一日同宮家従浦野直輝)
6「花園院御記 正和二年自七月一日至十二月卅日」/(右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年七月二十三日同宮家従浦野直輝)
7「花園院御記 正和三年自正月一日至六月卅日」/(右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年七月廿日同宮家従浦野直輝)
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二 花園院天皇宸記 自正和六年至元応二年
8「花園院天皇宸記 不連続十五巻」(表紙に石本智林とアリ)/(右花園院天皇御宸筆御記之内不連続者也、伏見宮秘蔵、奉 令旨謹複写之、明治六年七月三十一日同宮家従浦野直輝)
9「花園院天皇宸記 正和六文保元年自正月一日至三月卅日 同年自四月一日至六月廿九日 文保二年正月七日」/(三月記:右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年七月二十五日同宮家従浦野直輝)/(六月記:右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年七月二十七日同宮家従浦野直輝)
10「花園院天皇宸記 文保三年元応元自正月一日至四月廿七日 同年自五月一日至六月晦日 同年自七月一日至八月廿四日中欠 同年自九月一日至十月二日 同年自十月十八日至十二月廿三日尾欠」(表紙に広池校、とアリ)/(四月記:右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年六月二十八日同宮家従浦野直輝)/(六月記:右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年六月二十八日同宮家従浦野直輝)/(八月記:右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年六月二十九日同宮家従浦野直輝)/(九月記:右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年六月二十九日同宮家従浦野直輝)/(十二月記:右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年六月二十九日同宮家従浦野直輝)
11「花園院天皇宸記 元応二年自七月一日至十二月廿九日」(表紙に今井田信吉、田窪千秋校合、とアリ)/(右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年六月三十日同宮家従浦野直輝)
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三 花園院天皇宸記 自元応三年至正中二年
12「花園院天皇宸記 元応三年自一月至十二月 元亨元年」(表紙に布利幡兼吉、田窪千秋校合、とアリ)/(右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年七月五日同宮家従浦野直輝)
13「(表紙無し 元亨二年正月~六月)」/(右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年七月七日同宮家従浦野直輝)
14「(表紙無し 元亨二年七月~十二月)」/(右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年七月十日同宮家従浦野直輝)
15「花園院天皇宸記 元亨二年自十月廿八日首欠至十一月十六日」/(右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年八月六日同宮家従浦野直輝)
16「花園院天皇宸記 元亨三年自三月一日至同月晦日 同年自四月朔日至九月廿五日 同年自九月廿六日至十二月廿九日」/(三月記の奥書:右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年七月二十八日同宮家従浦野直輝)/(四月一日~九月二十五日の奥書:右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年七月十一日同宮家従浦野直輝)/(十二月記の奥書:右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年七月十三日同宮家従浦野直輝)
17「花園院御記 元亨四年自正月一日至三月廿九日」/(右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年七月十四日同宮家従浦野直輝)
18「花園院天皇宸記 正中二年自正月一日至六月三十日 同年自七月一日至十二月三十日」(表紙に今井田信吉、田窪千秋校合、とアリ)/(六月記の奥書:右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年七月十六日同宮家従浦野直輝)/(十二月記の奥書:右花園院天皇御宸筆御記之内、伏見宮秘蔵也、奉 令旨謹複写之、明治六年七月十八日同宮家従浦野直輝)
D25 資勝卿記
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一「慶長十七年・十八年」「元和七年、八年」「元和九年、十年、寛永五年、八年」
①「 慶長十七〈年十二〉
同 十八年〈春十二〉
元和七年〈九冬〉
同 八年〈十十一〉
(約六行分空白)
資勝卿記 一 」
②「 元和七年九月以後
凉源院殿御記 」
③「 元和八年秋
凉源院殿御記 」
④「 元和九年〈九十十一〉
同 十年〈春四〉
(約六行分空白)
資勝卿記 二 」
⑤「元和十年正月日次記
二月廿日改元元和十年為寛永元年」
⑥「 寛永五年〈正二夏七〉
(約八行分空白)
資勝卿記 三 」
「 寛永五年正二月
凉源院殿御記 」
「 正二月
寛永五年 」
⑦「 土用之中ノ巳ノ日犬山椒ノ葉ヲ
取申候て、
寛永五年卯月日次記 」
⑧「 寛永五年〈八九十〉
八年〈夏〉
(約六行分空白)
資勝卿記 四 」
「 御徳日 卯酉
寛永五年八月日次記
九月〃〃〃
十月〃〃〃 」
⑨「未ノ四月」の記には内表紙なし。改丁するのみ。
⑩内表紙なし。冒頭に「寛永八年五月一日藤川ノ宿ニテ」とあり。続いて本文記事「一金子壱分判三切主馬ニ渡〈銭ヲ買申候一分ニ八百分ツヽ〉」が始まる。
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二 「寛永九年」「寛永十年、十一年」
①「 寛永九年〈正二〉
(約八行分空白)
資勝卿記 五 」
「寛永九年正月日次記」
②「 浦くのあまのもしほひあけほのに
うすきけふりそ雲に勝れる 為相
寛永九年二月正月日次記 」
③「 寛永九年三夏
(約八行分空白)
資勝卿記 六 」
④「子午
丑未
寛永九年六月日次記
木下ノヌシヤニ フルイ二ツアツラヘ申候、 ツ、」
⑤「 寛永十年九十十一
(約八行分空白)
資勝卿記 七 」
「 完
寛永十年九月日次記 印
十月十一月 」
⑥「 寛永十一年正二
(約八行分空白)
資勝卿記 八 」
「寛永十一年正月日次記
同二月 」
⑦「 寛永十一年六七
(約八行分空白)
資勝卿記 九 」
「寛永十一年六月日次記
尊勝院慈性転任正寛永六二四
七月 日 〃 〃」
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三 「寛永十一年」「十四年」「「寛永十五年、附」
①「 寛永十一年九冬
(約八行分空白)
資勝卿記 十 」
「寛永十一年九月朔日之次記」
「(能の曲名と役者の書き上げあり。入力は省略。)」
②「寛永十一年十月日次記」
③「寛永十一年十一月日次記
十二月〃〃〃」
「(五行に関する書き付けあり。入力は省略。)」
④「 寛永十四年春四五
(約八行分空白)
資勝卿記 十一 」
「寛永十四年正月日次記
二月日次記」
⑤「寛永十四年三月日次記 ○屋」
「(椿畠の図あり。入力は省略。)」
本文書き出し「三月小 一日辛丑晴」の下方に印が五つ捺される。小型の方印二つ、楕円印二つ、大型の方印一つ。
⑥「寛永十四年卯月日次之記
五月同 印 印 ○印文未詳、別に手書きの写しメモあり。 」
「内儀の庭の前の椿の名前を書き上げる。入力は省略。」
卯月朔日の条の日付下方に、右の大きな印と同じ印文の印印 あり。ただし、印文の篆刻が少し違う
⑦「 寛永十四年六秋十
(約八行分空白)
資勝卿記 十二 」
「寛永十四年六月日次之記
陸脩静 」
(内表紙、丁裏)
「悎帙」
⑧「寛永十四年八月朔日之次記」
「請取番康胤卿」
⑨「寛永十四年九月朔日之次記
同十月一日ー」
⑩「 寛永十五年三四
神宮記
元和五年春
慶長二年九月至四年二月
文留
寛永十四年六秋十
(約五行分空白)
資勝卿記 十三止 」
「寛永十五年三月大九日於江戸日次記
同卯月小
三月二十六日立夏
卯月八日晝 六ツ〆
夜魚ヨリ
三ツ〆
チヤキンノ寸法
ハヾ五寸八分
ヲリハヾ九寸三分」
「花房右馬〈弥一郎 又七 御いわ 御ふく 御きさ 右兵衛〉」
⑪「神宮記〈元和九年正月九日〉」
⑫「慶長二年九月廿四日
伊勢神宮奉行之案
同三年二月 日
同四年二月 日
蔵人左中弁藤原資勝」
⑬「寛永十四年六月廿四日文留 印 」
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【詳細】
・1冊目巻末に、寛永八年五月一日から六月十四日までの関東下向記あり。分量は4丁半。
・3冊目、寛永十四年四月記の冒頭に次のような記事等あり。
寛永十四年 卯月日次之記
五月同 印 印 ※印文未詳、別に手書きの写しメモあり。
卯月朔日の条の日付下方に、右の大きな印と同じ印文の印印 あり。ただし、印文の篆刻が少し違う
・3冊目に、元和五年正月九日より元和六年二月十一日までの別記「神宮記」がある。
・3冊目に、慶長二年九月~十月、慶長三年二月、慶長四年二月の神宮祭主宛宣旨・補任状などの留がある。
・3冊目に「寛永十四年六月廿四日文留 印 」あり。印は右の印 と同じもの。
・元和九年十一月二十二日~三十日の記事。
※後半の22日~30日の記事は、田中勘兵衛本の12月22日~30日の記事か? 帰国後、確認するべし。
廿二日、戊、耻晴、
午刻ヨリ 女御様ヘ伺公、昵近之外内々・外様之衆も大方伺公ニ候也、今日も御振舞有、上タンノ右座東北ヘ、次ニナラヒ申、西南南上第一転法輪大納言・予・烏丸・広橋左上タンノ簾ヲタレ、後ニ蔚東上北面ツメ奉公ノ御児取次西三条・中院等也、則
御酒ニ成候て、シフヤウタイ申候、奈良ノ中坊舞申候也、大沢殿・板倉防州・弓気多
(写本ノ校訂注)
等也、条沈酔候て退出申候也、
廿三日、乙卯、晴、
午刻ヨリ 女御様ヘ伺公申候也、今日 五摂家衆・八条殿・伏見殿・西園寺前左府・花山院前右府等也、右座関白殿・左大臣殿・八条殿・伏見殿・西園寺・花山院、左鷹司太閤・前関白・二条内大臣・右大将・九条大納言殿等也、御相伴中御門大納言・予・烏丸・広橋・中御門中納言・阿野中納言□□□伝奏等也、
御振舞ヲシツヽケ、大御酒ニ成申候也、板倉防州、シフヤ居申候間ウタハセ可申由候て、北面ノ戸ヲハツシ、エンニ屏風ヲタテ、御ハヤシ三番有、先一番、ハクノ御フクヲリスシ一重 女御様ヨリ拝領申候、高砂ヲ大夫振舞申候、大夫ノソウリヤウ、クレハヲマイ申候也、大御酒候て還御也、晩ニ、明日ハ 女御様ヘ伺公申間敷由、伝奏ヨリ触有、又明日御月次御延引之由御触候也、
廿四日、庚辰、晴、少雪降、
女院御所御腹いつのミや、二条内大臣御祝儀ニテ、女院御所ヘ今日御伺候候也、
(一行分空白)
廿二日、丁未、雪降、夜明ヨリ積三寸計、
加藤左馬助殿より歳暮之祝儀小袖壱重、藤向ヘ白壱重、宝慈院ヘ若上ヨリ繡タン一ツ来、コチヤ使ニ美濃紙二束・段帯一、〈中★、〉兵庫白魚・ワケ物一上申候、中納言ヨリ公教系図尋来申候、閑院公季ノ流三条家実行ノ一男也、入道内大臣家忠公ノ流かと申来候、是ハ松木ノ流之一男也、両人ナカラ補蔵人頭、
廿三日、戊申、晴、
大福庵歳暮ニ来臨、…
廿四日、己酉、晴、
板倉伊州ヘ昨日之礼ニ書状ヲ遣申候、…
廿五日、庚戌、晴、
道有せとかたつきのふたをひかせ候て来申候、…
廿六日、辛亥、晴、
餅ツキ如例、御長来臨、
廿七日、壬子、晴、夜ニ入雪下、一寸計、
東山サイニ坊歳暮来臨、枝柿一折持参候、…
廿八日、癸丑、晴、夜ニ入雪降、
風呂ヲタキ申候、中納言・侍従モ来臨候て被入候也、…
廿九日、甲耻、晴、
二条殿より歳暮ニ諸白大樽ニ串・蚫五連拝領候也、…
卅日、乙卯、晴、
元日ヨリ御番組結改之御触有之、相番衆業光卿・康胤朝臣・時興朝臣・光長・通式・重種・公久等也、…
・寛永五年四月~六月の重複分。「未ノ四月」と書かれている表の●の記事。
廿日、甲子、
廿一日、乙丑、明日午刻 仙洞ヘ可被伺公ヨシ、中御門大納言ヨリ使候也、
廿二日、丙耻、午刻院参申候、内府モ伺公候也、…
廿三日、丁卯、晴、
坊州午刻時分拙子所ヘ先被参て、色々物語候て後、青侍之義被申候、…
廿四日、戊辰、晴、
三条殿より、伝馬切手之義、坊州ヘ御申可有旨、主水を可申付候間、青侍之義、内府ヘ御申て可有返事良シニ、今少御待候て可給由、山形ニ申候ヘハ、…
廿五日、己巳、晴、
明日御番之義御理申候也、
廿六日、庚午、晴、
伝馬ノ切手、山形右衛門大夫・木村越前・中島主水取遣申候、…
廿七日、辛未、晴、但曇候也、
日出以前ニ坊州ヘ暇乞ニ参候、…
廿八日、壬申、雨天、日出時分宿を出申、終日雨、不晴、
晝休息土山宿ヘ木綿たひ三足遣申候、宿開北方宿未下刻打申候、関ノ宿ヘ五百遣申候也、
廿九日、癸酉、晴、朝ノ間雲、西風ハケシ、終日吹也、
日出時分宿を出申候、…
五月朔日、甲戌、晴、〈終日雲候也、日没時分ヨリ雨降、〉
寅刻塩満て舟ニノリ申候、…
二日、乙亥、雨天、午刻以後属晴、
藤川ノ宿、金子壱分一ツ遣申候、…
三日、丙子、晴、
浜松ノ宿ヘ一分一遣申候、…
四日、丁丑、晴、
カナヤノ宿ヘ五百遣申候、…
五日、戊寅、晴、
江尻宿ヨリ今日為祝義チマキ廿・トヒクチ一双・キスコ五ツ上申候、…
六日、己卯、晴、
三嶋之宿金子壱分一ツ遣申候、…
七日、庚辰、晴、晩ニ雷鳴、雨少ソヽク、
大磯ノ宿ヘ金子壱分一遣申候、…
八日、辛巳、朝ハ雲、午刻過ヨリ雨風、
品川ニ逗留申候、…
九日、壬午、雨天、風吹、品川ニ逗留、
阿野殿爰元ヘ御着之由候て、人を給候、…
十日、癸未、晴、
品川ノ宿ヘ金子壱分一・ユカタ帷子〈一〉、遣申候、…
十一日、甲申、晴、
両御所様為御使者、土井大炊頭殿・吉良左兵衛殿・酒井雅楽頭殿・大沢中将殿御出候、…
十二日、乙酉、晴、
宗出雲守・古川左馬助・平田将監・多田源右衛門・杉村朝礼ニ参候也、…
十三日、丙戌、晴、
吉良左兵衛殿・大沢右京殿御出候て、先日之御礼ノ次第書立候事談合候、…
(中略。江戸下向ト江戸滞在ノ記事)
六日、己酉、朝晴、八ツ時分雨降、大津ヨリ雨降申候也、
水口ノ宿ヘ金子一分一切遣申候、…
七日、庚戌、晴、
大福庵来臨候間、対面申候、…
八日、辛亥、晴、
三条殿ヘ今日 国母様御伺公被成候かと相尋申候処、まくたひれ悪候本も無之旨御返事也、…
九日、壬子、晴、八専入、
大福庵来臨候て、後園ノ石墻出来候間参候て見可申由也、…
十日、癸丑、晴、
十一日、甲寅、晴、
御番御理、腹中気故也、
十二日、乙卯、晴、
梅小路御さかりニ午刻以後東ヘ御入候也、堺御姫も来臨也、
十三日、丙辰、晴、
十四日、丁巳、晴陰不定、
祇園舎渡物山伏出立ホロカケナト 禁中ヘ参候ヲ見物申候也、
十五日、戊午、晴、
午刻以後板倉坊州来臨也、…
十六日、己未、晴陰不定、
請取ニ伺公、…
(記事は以上)
D26 日野家本資勝卿記
【備考】2011年度帰国後の国内調査で、この本は日本にある内閣文庫本と同系統の本であることがわかった/蔵書票「1907」
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一 「元和五年・七年」「八年」「九年」:
(内表紙題字、以下同じ)
①「資勝卿記元和五年春 同 七年春夏七八」
本文頭に「凉源院殿御記 末孫正二位資矩謹抄出之」とあり。
末尾に「 明治十二年八月以日野資貴蔵本謄写
『明治二十二年一月以資勝卿手抄本校了』 」とあり。
②「資勝卿記元和八年春五六秋 」
本文頭に「凉源院殿御記」
③「資勝卿記元和九年春夏七八 」
内々表紙「凉源院殿御記
元和九年 十一月欠四季 」
本文頭に「凉源院殿御記」とあり。
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二 「寛永元年」「五年」「六年」「七年」:
①「資勝卿記寛永元年四六秋十十一 」
本文頭に「寛永元年四月」と朱書きあり。
②「資勝卿記寛永五年十一十二 」
③「資勝卿記寛永六年春夏八九冬 」
冒頭に繰り出しが五丁あり。その頭に「凉源院殿御記寛 永 六 年」とあり。
続いて本文。頭に「凉源院殿御記」とあり。
④「資勝卿記寛永七年春夏秋冬 」
冒頭に繰り出しが四丁あり。その頭に「凉源院殿御記寛永七年 」とあり。
続いて本文。本文頭に「凉源院殿御記」とあり。
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三 「寛永八年」「九年」「十三年」:
①「資勝卿記寛永八年春四九十一十二 」
内々表紙「 凉源院殿御記」。
続いて繰り出しが一丁あり。その頭に「凉源院殿御記 寛永八年 」とあり。
続いて本文。本文頭に「凉源院殿御記」とあり。
②「資勝卿記寛永九年九十 」
内々表紙「寛永九年 十」。
本文頭には九月という月付はなし。十月の記事に接続していることから九月となるらん。
③「資勝卿記寛永十三年春夏秋冬 」
本文頭に「凉源院殿御記寛永十三年」とあり。
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【詳細】
・1冊目の冒頭 ※アンダーラインは小書きの箇所。
「凉源院殿御記 末孫正二位資矩謹抄出之、
元和五年
正月
一日丙戌晴鶏鳴ニ参御先内侍所へ参神楽如例年、
御酒三盃四方拝寅ノ一天ニ有之奉行頭弁兼賢
朝臣御劔飛鳥井中将雅胤朝臣御裾頭左中弁業
光朝臣
内々ノ番所ニテ御祝儀有三条西中御門大納言
予広橋大納言正親町三条中納言菊亭中納言中
御門中納言平相公御酒五通」(1オ)
「 元日節会晴戌ノ下刻ニ陣之儀ハシマリ了内弁
花山院大納言定熈卿三条大納言公広卿 予烏丸大
「○西園寺中納言公益卿」
納言光広卿菊亭中納言宣季卿平宰相時慶卿清
閑寺宰相共房卿奉行頭左中弁
内弁先着畳座定熈卿元日節会初度次奉行之弁
来奥座仰内弁次内弁移端座ニ諸卿着杖座三条
大納言烏丸大納言西園寺中納言平相公等也予
菊亭中納言清閑寺宰相等着殿上次召官人仰拭
沓次以官人召外記々々参進問諸司国栖外任奏
次外任奏モテ参レト仰次外記持参外任奏入筥」(1ウ)
※日野資矩は、宝暦6年8月22日(1756年)~ 文政13年7月9日(1830年)
・元和五年三月十三日と十四日の条の欄外に「早速長門守・広橋殿・長門守為使被参候是モ右之通申候也、御酒申候て帰申候」と朱字で記事あり。
・元和七年記の末尾に次のような奥書あり。
明治十二年八月以日野資貴蔵本謄写
『明治二十二年一月以資勝卿手抄本校了』
・元和八年記の表紙に「凉亜御記〈元和八年、四季〉」とあり。
・元和八年記の冒頭に繰出(目次)あり。
・元和九年表紙
凉源院殿御記
元和九年 十一月〓四季
・2冊目、寛永二年記の末尾に「此後御記不見也」とあり。
・2冊目、寛永六年記には繰り出し(目次)あり。
・2冊目、寛永七年記には繰り出しあり。
・3冊目、寛永八年記には繰り出しあり。
・二従類の記事がある、寛永六年十二月十日・十一日・十三日・十六日・二十三日の条。
十日
尊勝院今日多賀下向候也、
十一日
後藤縫殿允、主水ヲヨヒ候て、春日局ヨリ御児事申上候間、…
十三日
宝厳院児、坊州ヘ遣申候…
十六日
辰刻 中宮様御すゝ払伺公ー…
(中略)
二十三日
スゝハキ十九日ニハキソメ宜、今日スゝハキ仕候也、
※入力ガ途中。正月ト二月ノ記事ノ間ノ記事ハ時間切レデ未入力。
D27 正閏史料
【内容】萩藩出身の郷土史家近藤清石が山口県下の史料を編集した史料集。南北朝期の文書を編年順とし、南北朝以前のものは外編とする。
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一 正閏史料 一―四
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二 正閏史料 外編一二三
D28 百弌録および続百一録
【現況】洋装六冊/各所に朱字による校正あり/全てに蔵書票「1907」
【内容】京都における公家あるいは地下日記等をもとに編集したもの、あるいはそのものを含むか
【参考】村井敬義(古巌)←日本古典籍総合目録
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一
①百弌録 一
但し、表紙は「自寛文十年九月至延宝五年閏十二月 百弌録一二」とあり
中身は、 寛文十年九月より延宝四年一月十九日まで
末尾識語「右百一記以林崎神庫本書写了于時文久三年五月十五日源忠韶記」
②百一日記 二
表紙二枚目に林崎文庫本の表紙と蔵書印あり
以下詳細略 内閣文庫本と要比較(続百一録巻一部分欠、塙忠韶筆写 「塙氏温古堂文庫」等)
③「百弌録 三」
④「百弌録 四」
⑤⑥「百弌録 五六」
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二
和本七冊目~十一冊目
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三
和本十二冊目~十三冊目
享保九年七月十七日まで
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四
①「自元文元年正月至三年八月 続百弌録 一欠 二之上」
②「自元文三年九月至寛保二年十二月 続百弌録 二之下」
③「自寛保三年至延享三年六月二日 続百弌録 三之上」
④「自延享三年六月九日至同四年四月 続百弌録 三之下」
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五
①「自延享三年八月廿五日至同四年六月廿五日 続百弌録 四之上」
②「自延享四年六月廿六日至同五年十二月 改元寛延 続百弌六 四之中」
③「自寛延二年正月至宝暦元年十二月 続百弌録 四之下」
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六
①「続百弌録 五」
②「続百弌録 六」
③「続百弌録 七止」
二丁目に「大江利房 寛保三年十二月廿七日 叙従六位下 四十六才
延享元年五月廿五日 任内蔵大属 四十七才」
D29 久夢日記
【印記】「佐久間図書印」(朱印)アリ
【備考】八・九・十は近藤重蔵「辺要分界図考」からの写しカ
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一 久夢日記 第一之巻 自明暦元年正月至寛文元年十二月
「久夢日記 一」:明暦元年正月十四日~明暦二年十二月二十三日
「久夢日記 二」:明暦三年正月元日~正月二十四日
「久夢日記 三」:明暦三年正月二十五日~十二月十一日
「久夢日記 四」:万治元年正月十四日~寛文元年十月二十八日
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二 久夢日記 第二之巻 自寛文二年正月至寛文十三年九月
「久夢日記 五」:寛文二年正月下旬~寛文三年四月二十七日
「久夢日記 六」:寛文四年正月二十四日~寛文七年五月二日
「久夢日記 七」:寛文八年正月末~寛文十三年九月二十一日
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三 久夢日記 第三之巻 蝦夷 唐太
「久夢日記 八」:文化四年四月二十三日~六月十二日/ロシア人の択捉襲撃事件に関する記事、ロシアに関する彩色挿絵アリ、楊貞忠宛ての満州文字文書写しアリ
「久夢日記 九」:樺太アイヌやロシアなどに関する事項を列記、挿絵アリ
「久夢日記 十」:蝦夷地・ロシアなどに関する事項を列記、彩色挿絵アリ
D30 愚管抄
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一 愚管抄 一
【構成】巻一~四
【印記】「蔦廼家文庫」
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二 愚管抄 二
【構成】巻五~七
【印記】「蔦廼家文庫」
D31 東武実録
【現況】三冊とも、洋装/蔵書票「1907」/和本合綴/最終丁表左下に蔵書印A・B
A 「家荘
山
馬臺」
B 「学郷
山印」 ?
【参考】鍋島文庫本:寛永八年・九年分が同様にない系統
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一 東武実録一
【年代】
1東武実録第一元和二:元和二年一月~七月/一丁目表右下蔵書印 C/一丁目表上辺横書き matsudaira Tadafuyu
2東武実録第二元和二:元和二年八月~十二月
3東武実録第三元和三:元和三年正月~十二月
4東武実録第四元和四:元和四年正月~十二月
5東武実録第五:元和五年正月~七月
6東武実録第六:元和五年八月~十二月
7東武実録第七:元和六年~同七年十二月
8東武実録第八:元和八年正月~十二月
9東武実録第九:元和九年正月~五月
10東武実録第十:元和九年六月~十二月
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二 東武実録二
【年代】
11東武実録第十一:寛永元 正月~十二月/一丁目表右下蔵書印 C/一丁目表上辺横書き matsudaira Tadafuyu
12東武実録第十二:寛永二 正月~十二月
13東武実録第十三:寛永三 正月~九月六日
14東武実録巻第十四:寛永三年 寛永三年九月六日・九月七日
15東武実録巻第十五:寛永三年 九月(九月八日~十日)
16東武実録巻第十六:寛永三 九月 行幸ノ日
17東武実録巻第十七:寛永三年 九月~十二月
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三 東武実録三
【年代】
18東武実録巻第:寛永六 正月~十二月
19東武実録巻第:寛永七 正月~十二月
20東武実録巻第:寛永四 正月~十二月
21東武実録巻第:寛永五 正月~十二月
D32 春記
【年代】長暦二年〈十月 十一月 十二月〉
【印】「篠家蔵書」
【奥書】建久元年庚戌十一月六日張□□ 又令筆述了、(花押影)/承元三年四月十一日、以他本更又令加校之間、所令書入之、
D33 室町殿日記
【現況】第一~第七、合綴
【内容】
巻第壱 (冒頭)室町殿日記巻第壱 松村長教撰
巻第二 若州武田殿より御使者の事ほか
巻第三 三好実休討死の事ほか
巻第四 豫州より御使者の事ほか
巻第五 佐々木貞頼へ御使者を被遣事ほか
巻第六 義輝公の御追善の事ほか
巻第七 秀吉公御上洛の事ほか
D34 殿中日記
【現況】5冊すべて、蔵書票「1907」/洋装/和本合綴/状態良/朱字校正のあとあり
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一 殿中日記 寛文元年~同二年(中身は万治三年~寛文二年)
1殿中日記 寛文元年 一:一丁目表上辺 横書 Denchu Nikki
2殿中日記 寛文二年 二
3殿中日記 万治三年:表紙には寛文三年とあるが、中身は万治三年
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二 殿中日記 三 四(寛文三年~同四年)
4殿中日記 寛文三年 三上:一丁目表上辺 横書 Denchu Nikki
5殿中日記 寛文三年 三下
6殿中日記 寛文四年 四
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三 殿中日記 自寛文五年至六年・七年
7殿中日記 寛文五年 五上:一丁目表上辺 横書 Denchu Nikki
8殿中日記 寛文六年 六
9殿中日記 寛文七年 七上:一月~十二月あり
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四 殿中日記 自寛文八年至九年・十年 八 十
10殿中日記 寛文八年 八:一丁目表上辺 横書 Denchu Nikki
11殿中日記 寛文九年 九
12殿中日記 寛文十年 十
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五 殿中日記 自寛文十一年至十二年 十一 十二
13殿中日記 寛文十一年 十一:一丁目表上辺 横書 Denchu Nikki
14殿中日記 寛文十二年 十二
→要参照:内閣本
D35 忠興公年譜
【現況】2冊とも、洋装、和本合綴
【備考】蔵書票「1907」
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一 忠興公年譜 上
忠興公御年譜一 →この冊のみ九冊本のうち→要参照 永青文庫九冊本
九冊本構成
一 自永禄六癸亥年至天正十六年
二 自天正十七己丑年至慶長四年二月
三 自慶長四年三月至同五年八月
今年八月岐阜城攻
四 自慶長五年九月至同年十二月
関ヶ原合戦 豊前国御拝領御入国
五 自慶長五年 至同六年
松井有吉豊後国木付籠城石垣原合戦
六 自慶長七年 至同十九年
七 自元和元年 至同六年
大坂合戦
八 自元和七年 至寛永十年
九 自寛永十一年 至正保二年
※一丁目表上辺 横書 Tadaoki ko onnenpu
忠興公御年譜一 ※「青木」→以下青木本は五冊本のうち
五冊本構成
一 自永禄六年至文禄元年
二 自文禄二年至慶長五年八月廿四日
三 自慶長五年八月廿五日至季冬
四
五 元和二年春御暇被下二月廿日~正保四年
忠岡公御年譜二 ※「青木」
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二 忠興公年譜 下
忠興公御年譜三 ※「青木」
※ 一丁目表上辺 横書 Tadaoki ko onnenpu
忠興公御年譜五 ※「青木」
「一、元和八年春、中津ニて御庭之花見被成候時、物名 かに はさくら
世を捨て花も一家の住家にはさくらんとたにとふ人もなし
一、同年三月江戸中屋敷之御作事始り、九月末ニ出来仕候、上奉行ハ吉住半四郎・浅井茂大夫、下奉行ハ横山次左衛門・矢野九大夫也
一、同年霜月ニ三齋公中津御発足被成、極月十五日江戸御下着、先上屋敷ニ二三日被成御座、中屋敷御移被成候、円通院様も御下被成候、御登城之節、台徳院様御意被成候ハ、今度ハ寒気之時分大儀候、其上てんか母も御つれこし御満足被遊候由也、三齋公御■ニお乳同前之者ニ御座候、達上聞難有奉存候と被 仰候、
一、同九年五月ニ御暇出、六月廿四日御上京、其節御状云
以上
去廿一日午之刻之書状、昨日亥ノ刻土山ニて披見候、来廿五日御参内之由ニ候条、明日ハ聖護院江参、廿五日御参内過候てからまん所江可参候、烏丸通之事も吉田聖護院之明家、様子ニより可申候、恐々謹言
朝日ノ出
六月廿三日 石部より
越中殿 御返事
一、同七月廿七日家光公将軍宣任ニ付、御上洛被成候、於吉田御待請候而中津へハ閏八月か九月ニ御下向十月中津へ台徳院様より御鷹之鶴御拝領被成候、」
D36 増山河内守年譜
【内容】伊勢長嶋城主(二万石)増山(ましやま)河内守正賢(まさかた)の出生から死没までの記録。その日の箇条に関係する原文書をしばしば引用。
【現況】各冊に表紙・裏表紙なし。
【奥書】四冊目(D36-4)の最後に、次のようにあり。
「文政九丙戌年四月晦日、奉
命
間片新左衛門藤原鵬
謹寫 」
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一 増山河内守年譜 自宝暦四年 至天明四年:宝暦四年十二月十四日(増山正賢の出生)から天明四年十一月二十七日まで。
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二 増山河内守年譜 自天明五年 至寛政元年:天明五年正月十五日から寛政元年十二月二十六日まで。
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三 増山河内守年譜 自寛政二年 至享和元年:寛政二年十月二十六日から享和元年十二月二十二日まで。冒頭に「一、正月ゟ九月迄日記無之」とあり。
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四 増山河内守年譜 自享和二年 至文政二年:享和二年正月朔日から文政二年二月四日(増山正賢の出棺)まで。正月二十九日没、春秋六十六。法号「慈雲院殿従五位下前河州大守霊齋道智大居士」
D37 吉續記 自文永五年 至同十年
【詳細】
1永五年五月・六月
終尾「文永五年
文明十三七廿、取目録了、親期」
「右吉續記 経長卿/記 十三冊、申出官本密々令書写加校合畢、
延寶六戊午五月十一日
右大臣 」
2永五年八月・九月
終尾「文永五年秋
文明十三七廿一、取目録了、」
「右吉續記 経長卿/記云々 十三冊、申出官本密々令書写加校合畢、
延寶六戊午年五月十一日 」
3永七年八月・九月・閏九月
終尾「文永七年
文明十三十一廿一、取目録了、親長」
「右吉續記 経長卿/記云々 十三冊、申出官本密々令書写加校合畢、
延寶六戊午年五月十一日
右大臣(花押) 」
4永八年正月
冒頭に「文永八年辛未 吉田大納言(文)経(永)長卿記 于時弁官」とあり。
5永八年七月・八月・九月
終尾「文永八年
文明十三年七月廿一日、取目録了、□」
「右吉續記 経長卿/記云々 十三冊、申出官本密々令書写加校合畢、
延寶六年戊午年五月十一日
右大臣(花押) 」
6永八年十月・十一月・十二月
一丁オ冒頭に「吉續御記目録 文永八年冬」とあり。
二丁オ冒頭に「文永八年 吉續御記 于時弁官」とあり。
終尾「文永八年冬 吉續御記抜書」
7永九年十月
冒頭に「文永九年□闇中
十月 于時権右中弁」とあり。
終尾「文永九年
文明十三七廿一取目録」
「右吉續記 経長卿/記云々 十三冊、申出官本密々令書写加校合畢、
延寶六年戊午年五月十二日
右大臣(花押) 」
8文永十年四月・五月
終尾「文永十年四五月 吉續御記」
文明十三七廿一 取目録畢、
親長(花押)」
「右吉續記 経長卿/記云々 十三冊、申出官本密々令書写加校合畢、
延寶第六戊午年五月十一日
右大臣(花押) 」
9文永十年閏五月・六月
終尾「文永十年
吉續御記
文永四年七月廿九日、一覧之、
文明十三年七月廿一日、取目録了、
親長(花押) 」
「右吉續記 経長卿/記云々 十三冊、申出官本密々令書写加校合畢、
延寶六戊午年五月十一日
右大臣(花押) 」
10文永十年七月・八月・九月
終尾「吉續御記 文永九年/七八月八日((ママ))
文明十三七廿一、取目六了、
親長(花押)
文明四年七月廿九日
一覧了、 」
「右吉續記 経長卿/記云々 十三冊、申出官本密々令書写加校合畢、
延寶六戊午年五月十一日
右大臣(花押) 」
【備考】1~10のすべての一丁オ右下に「小諸文庫」の蔵書印(角印)あり。
D38 重朗日記
【内容】前橋城主主酒井氏の家臣関重朗の日記の抜粋。ただし、巻第一と巻第二の前半は父重治の「覚書」の抜粋・増補という。酒井家のみならず、幕閣や諸大名の動向をも記録。序文は、正徳六年五月十九日付で著わされている。巻第一・巻第二が重複している。ただし、後段の序文及び巻第一の冒頭が略されている。「シゲアキニッキ」とするが、「關友之助重朗(シケアキラ)」とあることから「シゲアキラニッキ」が適当か。
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一「重朗日記 上」
序文
「 重朗日記抜萃序
吾父重治者奉仕
前橋羽林源公近侍多年而日勤労無懈怠遂補老職予自幼見其事業聞其言語既及十有餘歳欲記録當家之雑事而未得為全備至十有三歳日記公之事務臣従之變易于時延寶丙辰((四))年也自是以来逐月逾年不息戊((同六)午(年))仲冬蒙 命初奉仕乃看得 君上之儀粧而誌猶委細也辛酉((同八年))季春屬于 後羽林公仕官漸轉進而元禄乙亥((八))孟春附于
前大樂君居群僚之上勤事寶永丁((四)亥())
君承續家督未幾辭世故歴仕後大樂君戊子((同五年))姑洗望日列老臣預聞於諸事至此有餘力日記世事不惰抜萃之及復刪繁提要編此書以明
君主四代之事跡亦前篇因嘗傳聞或考舊史或問古老闕疑取寔以輯
公祖先數世之履歴不顧余無學愚昧自作文辭自筆以成書號曰日記抜萃後人改補文章之誤貽後世幸甚云爾正徳丙((六)申())孟夏十有九日關氏重朗序」
重朗日記抜萃 巻第一
重朗日記抜萃 巻第二
「右ハ、父重治カ累年ノ覚書ヲ撰出シ、増補シテ書セリ、年月モ連続セスト雖、吾家二書傳タル而已ヲ纂誌ス、予十三ヨリノ日記ヲ抜萃スルコト左ノ如シ、」
延寶四丙辰年/延寶五丁巳年/丙辰年延寶六戊午年/延寶七己未年
※一丁白紙のあと、次のようにある。
「是ハ、重朗日記トテ關友之助重朗(シケアキラ)ノ日記ナリ、當時御家ニテ古キ事御吟味有之時、是ヨリ引出ス、訳ケアツテ七ノ八迠抜出置也、
此末少々有之、元録年中ゟハ今之日記ニテモ分ル歟、
序、此以前アリ、三河記之様ナルユヘ略ス、 」
(重朗日記抜萃 巻第一)
重朗日記抜萃 巻第二
「右ハ、父重治カ累年ノ覚書ヲ撰出シ、増補シテ書セリ、年月モ連続セスト雖、吾家二書傳タル而已ヲ纂誌ス、予十三歳ヨリノ日記ヲ抜萃スルコト左ノ如シ、」
延寶四丙辰年/延寶五丁巳年/丙辰年延寶六戊午年/延寶七己未年
※ここまで重複部分。
重朗日記抜萃 巻第三
延寶八庚申年/延寶九辛酉年
重朗日記抜萃 巻第四
天和二壬戌年/天和三癸亥年/天和四甲子年/貞享二乙丑年
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二 「重朗日記 中」
重朗日記抜萃 巻第五
貞享三丙寅年/貞享四丁卯年/貞享五戊辰年/元禄二己巳年
重朗日記抜萃 巻第六
元禄三庚午年/元禄四辛未年/元禄五壬申年/元禄六癸酉年/元禄七甲戌年
重朗日記抜萃 巻第七
元禄八乙亥年/元禄九丙子年/元禄十丁丑年/元禄十一戊寅年/元禄十二己卯年
「元禄十三辰年ゟ
同十五午年迠
重 朗 日 記 第八 」
重朗日記抜萃 巻第八
元禄十三庚辰年/元禄十四辛巳年/元禄十五壬午年
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三 「重朗日記 下」
「元禄十六未年ヨリ
寶永元申年迠
重 朗 日 記 第九 」
重朗日記抜萃 巻第九
元禄十九癸未年/元禄十七甲申年
「寶永二酉年ヨリ
同四亥年迠
重 朗 日 記 第十 」
重朗日記抜萃 巻第十
寶永二乙酉年/寶永三丙戌年/寶永四丁亥年
「寶永五子年ゟ
同七寅年迠
重 朗 日 記 第十一 」
重朗日記抜萃 巻第十一
寶永五戊子年/寶永六己丑年/寶永七庚寅年
「寶永八夘年ヨリ
正徳三巳年迠
重 朗 日 記 第十二 」
重朗日記抜萃 巻第十二
寶永八辛夘年/正徳二壬辰年/正徳三癸巳年
「正徳四午年ヨリ
同五未年迠
重 朗 日 記 第十三 」
重朗日記抜萃 巻第十三
正徳四甲午年/正徳五乙未年
D39 泰平年表
【備考】「初編」・「後編」とあるが、「初編」は「泰平年表」、「後編」は「続泰平年表」とするのが適当か。
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一 泰平年表 初編
【現況】表紙・裏表紙ともなし。
【構成】凡例/例言「天保辛丑初春 忍屋隠士」/引用書目/要目索引
【内容】徳川家康誕生の天文十一年から天保八年までを扱う。冒頭に「泰平年表 東武 忍屋隠士謹輯」とあり。
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二 泰平年表 後編
【現況】表紙・裏表紙ともなし。
【構成】例言「嘉永五年しも月 四屏堂のあるし謹申」/要目索引
【内容】寛政五年から安政元年までを扱う。
「武家/必覧 續泰平年表 江都 竹舎主人編輯
四屏堂校合増補」
寛政五年から嘉永四年まで。
「壬子年表 嘉永五年
東都 竹舎主人編集
四屏堂校合増補」
「癸丑年表 嘉永六年 」
「甲寅年表 安政元年/嘉永七年改元 」
D40 泰平風也集
【備考】表紙・裏表紙ともなし。
【内題】一丁オの凡例の前に「泰平風也集」とあり。
【内容】「泰平年表」とほぼ同じ。
凡例/引用書目
「泰平風也集 巻之一 東武 忍屋隠士謹輯」
「泰平風也集 巻之一 畢」
※家康の事績
「泰平風也集 巻之二」
「泰平風也集 巻之二 畢」
※秀忠・家光の事績
「泰平風也集 巻之三」
「泰平風也集 巻之三 畢」
※家綱・綱吉の事績
「泰平風也集 巻之四」
「泰平風也集 巻之二 畢」
※家宣・家継・吉宗の事績
「泰平風也集 巻之五」
「泰平風也集 巻之五 畢」
※家重・家治
「泰平風也集 巻之六」
「泰平風也集 巻之六 畢」
※家斉の事績(文化三年まで)
「泰平風也集 巻之七」
「泰平風也集 巻之七 畢」
※家斉の事績(文化八年まで)
「泰平風也集 巻之八」
「泰平風也集 巻之八 大尾」
※家斉の事績(天保八年の代替まで)
D41 厭蝕太平楽記
【現況】1・2・3ともに、洋装。和本合綴。
【内容】軍書。内閣に昌平坂本三十冊本あり。
【備考】蔵書票「1907」
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一 「厭蝕太平楽記 一」
厭蝕太平楽記 巻之総目録
※一丁目表上辺に鉛筆横書き Enshoku taiheiraku ki
厭蝕太平楽記 巻之一
目録
一 石山城地縄張の事 付寺社所務の事
厭蝕太平楽記 巻之二
目録
一 加藤片桐評議之事 付大野修理執権我儘の事
一 大仏殿三度目建立の事 付真田伊豆守代参の事
厭蝕太平楽記 巻之三
一 真田幸村蟄居 真田紐を打事 付伊豆守信幸、幸村に対面之事
一 後水尾院御即位付上洛之事 付秀頼公二条之城へ御入之事
厭蝕太平楽記 巻之四
一 大坂乃城百万石に成事 付後藤味噌作り之事
一 清韓長老鐘の銘記する事 付南光坊文字を論する事
厭蝕太平楽記 巻之五
一 大仏供養停止ニ付騒動之事 付木村長門守立腹之事
一 片桐木村駿府江下向之事 付渡辺半蔵早打之事
厭蝕太平楽記 巻之六
一 片桐且元銘文申披きの事 付片桐本多と縁組之事
一 片桐京都へ立寄事 付三女大坂へ帰る事
厭蝕太平楽記 巻之七
一 片桐且元秘密をのふる事 付速水今木諫言の事
一 木村長門守片桐か跡を追ふ事 付片桐離別の節忠を残ス事
厭蝕太平楽記 巻之八
一 片桐且元政所迎ひに遣ハす事 付木村重成勇力あらわす事
一 真田左衛門尉幸村大坂へ入城の事 付関東の忍ひを生捕る事
一 真田大助銅連大砲を遣ひ見る事 付真田出丸を築く事
厭蝕太平楽記 巻之九
一 大助渡邉勘兵衛を破る事 付幸村我子をいさむる事
一 幸村か智高虎を破る事 付重成基次武勇の事
一 大助井伊勢を破る事 付元親武備の事
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二 「厭蝕太平楽記 二」
厭蝕太平楽記 巻之十
一 関東方勢そろへの事 付責口手合の事
一 両御所御進発の事 付蜂須賀住吉参詣の事
厭蝕太平楽記 巻之十一
一 船手の四将敗北の事 付薄田隼人勇力の事
一 鴨野今福大合戦の事 付今福表取合の事
厭蝕太平楽記 巻之十二
一 石川主殿頭伯楽か淵を取事 付船頭治大夫手柄之事
一 真田出丸合戦之事 付幸村大敵小敵を破る事
厭蝕太平楽記 巻之十三
一 両御所御営取之事 付関東方真田兄弟之事
一 幸村軍配中図事 付屋代多宮討死之事
厭蝕太平楽記 巻之十四
一 幸村五ヶ所手伏勢を置事 付左平次兜給ハる事
一 伊達陸奥守半左衛門を生捕事 付牧島南条帰り忠之事
厭蝕太平楽記 巻之十五
一 後藤庄三郎城内江来る事 付船手四将不覚の事
一 蜂須賀の陣夜討之事 付岩田七左衛門所替ル事
厭蝕太平楽記 巻之十六
一 川田八助剛力之事 付勅使参向之事
一 木村重成御般見届之事 付奥州勢恐伏之事
厭蝕太平楽記 巻之十七
一 東西和睦ニ付諸勢引払ひ之事 付原隼人真田幸村対面之事
一 青木伊藤駿府江使之事 付及川八内用謀事
厭蝕太平楽記 巻之十八
一 大野主馬助南方征伐之事 付塙岡部勇戦之事
一 船手四将敗軍之事 付後藤又兵衛変名之事
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三 「厭蝕太平楽記 三」
厭蝕太平楽記 巻之十九
一 小宮山兄弟不意を討事 付小笠原勢大騒動之事
一 後藤又兵衛六度合戦之事 付木村長曽我部高名之事
厭蝕太平楽記 巻之二十
一 島田所之助難義之事 付飯島太郎左衛門忠義之事
一 桑名弥次兵衛内通之事 付薄田隼人本陣へ切込事
一 豊浦喜六単物を上る事
厭蝕太平楽記 巻之二十一
一 井伊木村若江合戦之事 付安藤長三郎か事
一 平野大焼討之事 付三好伊三入道働之事
厭蝕太平楽記 巻之二十二
一 本多小笠原大将を助る事 付り 及川八内青木を討事
一 大塚如見麦飯を献する事 付り 貝塚卜半に入たまふ事
厭蝕太平楽記 巻之二十三
一 長曽我部手配り之事 付中根穴山対面之事
一 七人之真田勇戦之事 付御宿勘兵衛忠義之事
厭蝕太平楽記 巻之二十四
一 真田兄弟御褒美之事 付本多小笠原討死約之事
一 後藤又兵衛紀州より帰る事 付関東勢敗北之事
厭蝕太平楽記 巻之二十五
一 本田出雲守忠朝討死之事 付舟場住吉へ御勢廻ハさるる事
一 長曽我部親子共兄弟之事 付真田君を救ふて薩摩へ行事
厭蝕太平楽記 巻之二十六
一 柴田三左衛門大坂へ出府の事 付三好入道兄弟か事
一 根津甚八火龍にて出陣の事 付諸将防戦討死の事
厭蝕太平楽記 巻之廿七
一住吉御社参大騒働之事 付安部田武右衛門反忠の事
一長曽我部父子働きの事 付右衛門三郎不思義の事
厭蝕太平楽記 巻之廿八
一 嶋津兵庫頭井上谷へ殿を建る事 付種ヶ島大膳亮諫言の事
一 真田左右衛門大将を薩州へ伴ふ事 付嶋津の家中大評定の事
厭蝕太平楽記 巻之廿九
一 幸村天気を知て謀を出す事 付義弘秀頼公をすくふ事
一 嶋津玄蕃筧縫殿迄帰さるる事 付伊集院川上謀叛之事
厭蝕太平楽記 巻之三十
一 福島左衛門大夫薩摩へ内意の事 付嶋津勢揃への事
一 嶋津中務太輔帰国の事 付源三郎家督の事
一 真田幸村か事 付和睦太平の事
D42 御年表
【現況】洋装。一丁目表上辺 鉛筆書 横書き Gonempyo。末尾 スタンプ「文淵堂 四十年 二千三百七十九」。明暦元年の丁の部分に、挟み込みの文書(切紙包紙「御法号」本紙切紙「天保十四年九月四日 巍光院殿…」)
【内容】越前松平家関係。天正二年 秀康誕生より、嘉永七年八月廿九日まで。寛永十五年分までには、引用史料名として「御家譜」「家系」「年代記」等記載あり
【参考】
元和九年癸亥 家光公将軍
御家譜 二月廿二日清涼院殿江戸より御国へ被為入
五月二日忠直公豊後国萩原江御廃徙、敦賀津御逗留
浄光院様御儀京都より御下向ニ付御拝、其後豊後江御遷、津守村御蟄居、御薙髪 一伯公と御改名
同 同月廿九日、忠昌公御前様高田ニ而御逝、御法名 黄梅院殿竹芳殊青 東光寺
袖目金 八月九日永見民部君御逝去御法名向源院殿雄山宗英 東光寺
同月廿七日 家光公将軍 宣下
月 日 上使阿部四郎五郎殿正之・石川土佐守殿・北庄江御越、此時御上洛中 ニ付従京都為御迎秋元但馬守殿泰朝・近藤石見守殿、御前様江戸へ御下向、
(嘉永七年)六月十五日 暁七つ時前之比、大地震、夫より引続幾度もゆり、夜明ヶより暮迄ニハ六七度もゆる、夜中も折々ゆる、翌十六日も夜中共六七度計ゆれ、十八日ニハ昼夜ニ三ヶ度計りゆる、十九日も同断、廿日ハ両度程ゆる、廿一日ニハゆり不覚、廿二日明かた一度、廿三日申ノ刻比壱度ゆる
但十七日より末之ゆりハ格別成事無之
八月廿九日 大橋昨年板橋之分焼失之処、今年普請御出来、今日渡り初、但御門も焼失ニ候得共、御取建無之候、石橋之分御手入無之、
【備考】蔵書票「1907」
D43 長尾謙信軍記水鑑
【現況】1・2とも、洋装
【詳細】異名本(「上杉謙信軍記」「謙信軍記」)多数。この名称のものは、仙台伊達家二十三冊本等あり
【備考】蔵書票「1907」
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一 長尾謙信軍記水鏡 一
【現況】一丁目表 印「仙台国分町日新堂」 印「春三」→各和本毎にもあり。一丁目表上辺 鉛筆横書き及び印字 Nagao Kenshin gunki mizukagami
【詳細】
長尾謙信軍記序
凡謙信家水鑑神得抄、全部二十二巻者景持令見聞之処粗記之畢ニ〆宇佐美実政度々於謙信公之御前令軍談如景持家臣等随召而伺末座雖聞彼ノ軍談生得其情愚魯而如聾耳故似馬耳東風、然共自然有留耳底似潜綴此記而以欲令見当家恩顧之輩之末葉調賎勿咎事、文章之拙唯謙信公於所々以知御合戦之大概可為重宝謙信公御一生之御合戦依雖勝計小迫合小城等之軍者悉除之、世上普所令沙汰之軍記之聊不雑贔屓予所不偽任天之照覧者也、景持天正元年依病気剃髪隠遁既裹老之今、随往昔於思出綴此記故、有前後且有再記、後人可改之者也、
甘糟近江守景持記之
天正十年五月 日
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二 長尾謙信軍記水鏡 二
【現況】一丁目表 印「仙台国分町日新堂」→和本第十七冊一丁目にもあり 印「春三」→各和本毎にもあり。一丁目表上辺 鉛筆書gao Kenshin gunki mizukagam 。末尾 「明治十九年仙台在勤之節購求 谷津春三」
D44 立齋旧聞記
【現況】洋装
【奥書】末尾識語「立花家家士所持之書也、元禄貳己巳歳十二月於武府写之 竹森傳右衛門尉次行」
【詳細】
立齋旧聞記巻之上
※一丁目上辺 鉛筆横書き Tachibana Muneshige
立齋旧聞記巻之下
【備考】蔵書票「1907」。続々群書類従本あり。
D45 桜雲記
【現況】一丁目 表上辺鉛筆横書き Oninki a short history of Japan…
【奥書】巻末識語「右櫻雲記以小川氏蔵本書写畢 天保三年春三月」
【備考】蔵書票「1891」。改訂史籍集覧・新釈日本文学叢書等、参照。
D46 応仁記
【印記】和本各冊一丁目に蔵書印「鈴木庄司」あり
【詳細】
応仁記 巻之上
※一丁目表上辺鉛筆横書 Oninki
応仁記 巻之下
【備考】蔵書票「1907」
D47 柳営秘鑑
【現況】1~7すべて、洋装
【備考】蔵書票「1907」。要参照国会本等
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一 寛保柳営秘鑑
【構成】巻一~巻十
【備考】各和本一丁目表右下蔵書印 A「徳造書院」(掛川藩太田家藩校) B
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二 柳営秘鑑後編
【構成】巻一~巻十二
【備考】各和本一丁目表右下蔵書印 A「徳造書院」 B
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三 柳営秘鑑 拾遺
【構成】巻一~巻四
【備考】巻一の一丁目表右下蔵書印 A「徳造書院」 B
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
四 柳営秘鑑残集
【構成】巻一~巻十
【備考】巻一の一丁目表右下蔵書印 A「徳造書院」 B
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
五 柳営秘鑑脱漏
【構成】巻一~巻十二
【備考】現登録冊数は37~42なるも、おそらくは37~48ならむ/巻一の一丁目表右下蔵書印 A「徳造書院」 B
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
六 柳営秘鑑新益
【構成】巻一~巻十
【備考】巻一の一丁目表右下蔵書印 A「徳造書院」 B
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
七 柳営秘鑑温知
【構成】巻一~巻十二
【備考】巻一の一丁目表右下蔵書印 A「徳造書院」 B
D48 柳営秘鑑
【現況】洋装。一丁目表上辺鉛筆横書き Kikuchi,Yamon
【構成】巻一~巻十五
【備考】蔵書票「1907」
【内容】
冒頭「柳営秘鑑原始 叙例」→「粤に 御当家治教のやや備りし濫觴を考へて其旧例の出る所万か一を窺ひて挙記すに……」
巻ノ一
一、御三家御家門の例
巻ノ二
一、御門葉国主ノ列并供廻り道具等の格
一、官爵叙の次第
一、五位布衣役儀の次第
一、上使之次第
一、諸役人の次第
一、御番頭の次第
巻の三
一、遠国御役人常詰交代之場
一、諸領主交代の場
一、禁裏進献之品
一、御鷹野鳥拝領之次第
一、三季御時服若菜御祝御鯖代献上
一、万石以下継目家督
一、西丸出仕之覚
巻の四
一、病気御尋并御悔上使奉書御香奠之次第
一、御譜代の列松平御先祖御連枝之家々那須衆美濃衆信濃衆参河衆
一、年中御社参并供奉御名代
一、諸大名官位昇進年賦
一、御役高家々之例
一、御名代旅役
一、御精進日之事
一、上野増上寺御別当附
一、御女中方御居所之覚
巻の五
一、御城内外御門番所勤の次第
一、上野増上寺 御成先固之覚
一、五節句并公家衆御対顔の節の覚
一、火事之節寄場之覚
巻の六
一、所々御関所之覚
一、諸家系図書
巻の七
一、日光御社参行列并休泊附
一、御鷹野行列
巻の八
一、将軍宣下并家督之節老中招請之次第
一、火事地震之節被 仰出之事
一、嘉祥御祝儀御規式
一、御礼着座之次第
一、年中御規式并衣服之事
巻の九
一、諸大名嫡子座席
一、御当代御式目大概
一、御預ヶ人之節評定所絵図式法
一、陪臣乗物籠願之次第并誓詞等之事
一、日光御名代之次第并人数諸道具役々被献物等之事
巻の十
一、公家衆乗物之次第
一、京都より年頭之為御祝儀被進之品
一、摂家門跡方より年頭之使者拝領物等并御能番組
一、日光准后様御病気御尋之次第
一、日光御門主御住職之次第
一、御三家御連枝方格合
一、諸大名道中関札之事
一、諸大名年中老中廻り之覚
巻の拾壱
一、諸大名其外御役人等御支配之覚
一、殿中座席
一、御引渡并御暇之節拝領物被下物等之事
一、万石以下継目家督分知御礼献上物
一、出仕御免之日
一、諸家過労乗物之覚
巻の拾貳
一、途中ニ而人留有之女中方の覚
一、以毎三日之御礼無之日之事
一、御三家御参府御暇之次第
一、就御代替真御太刀献上之事
一、将軍宣下御規式之事
一、享保貳拾年被 仰出之書付
巻の拾三
一、天正三年より享保年中迄物事之権輿世上之変異之事を悉く昇替記す
巻の十四
一、元文元年被 仰出候西丸月次登 城之覚
一、諸大名御役人年中装束之覚
一、老中若年寄并定火消役屋敷之覚
一、諸事定火消之定
一、大名火消詰場所并勤方
一、毎日登 城有之御役人
一、大手内桜田西丸大手 御番所之絵図并法式
巻之十五
一、御本丸西御丸御座敷之絵并筆者附
D49 柳営秘鑑
【現況】洋装、一丁目表上辺鉛筆横書き Kikuchi,Yamon
【印】各和本第一丁表右下に蔵書印(「図書館蔵書印」?)あり
【内容】
巻一~巻十五
冒頭「柳営秘鑑原始 叙例」→「粤に 御当家治教のやや備りし濫觴を考へて其旧例の出る所万か一を窺ひて挙記すに……」
巻一~巻十 D49とは異なる構成
【備考】蔵書票「1907」
D50 新編柳営秘鑑
【現況】洋装、一丁目表上辺鉛筆横書き Kikuchi,Yamon
【内容】
巻一~巻十三
巻之一
一、御留守居中古来より組続次第
外十七項目
巻之二
一、小普請金出ス次第并割合
外十五項目
巻之三
一、正五九月服御改之節触之次第
外十九項目
巻之四
一、箱根通手形付今切
外七項目
巻之五
一、箱根通手形付今切
外七項目
巻之六
一、西丸江御成行列
外六項目
巻之七
一、御鷹野行列但し御場所行列定り無之
外二項目
巻之八~巻之九
諸大名年中献上物之品 国分を以悉記之
【備考】蔵書票「1907」
D51 青表帋
【現況】表紙・裏表紙ともなし。序・跋もなし。
「日本古典籍総合目録」によれば、前後二編からなり、前編は天保十一年刊、後編は同十二年刊、著者は大野広城
【内容】武家(幕府)の故実・先例書
青表紙(一)
「武家諸法度 附 勤向申合令條」他一六項目
国持以下諸大名の門造方の図あり。
青表紙 二
「武器及行列具的例」他一三項目
青表紙 三
「武家諸法度」他七項目
青表紙 四
「束帯之圖」他八項目
青表帋 五
「御成先諸的例」他一五項目
【備考】一・三に所載の武家諸法度は天保九年のもの。
D52 續青標紙
【現況】表紙・裏表紙ともなし。序・跋もなし。
【内題】(扉)
「 萬延元庚申改補
武家
續 青 標 紙
必擥
陸沈菴蔵 」
【内容】武家(幕府)儀礼等の解説・手引書。「續青標紙 前編」は年中行事等。「續青標紙 後編」には「武家官位昇進之事」「諸家拝領物次第之事」。諸家の屋敷表門造方(図入り)あり。
D53 玉露叢
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一 玉露叢 一 (一~八)
【現況】表紙・裏表紙ともなし。一丁オ右下に「游戯三昧院」の蔵書印あり。巻第四・七・九・十二・十五・十八・二十二・二十五・二十八・三十一・三十四・三十六・三十九・四十一にも。
【序文】「玉露叢之首ニ題スル詞/……延宝二年神無月時雨スル比書ス」
【内容】
「玉露叢 巻第一」
「玉露叢 巻第二 慶長四年ヨリ同十五年迄」
「玉露叢 巻第三 慶長十六年ゟ同十九年九月迄」
「玉露叢 巻第四 慶長十九年十月ヨリ同年十二月マテ」
「玉露叢 巻第五 慶長廿年ヨリ元和元年マテ」
「玉露叢 巻第六 元和二年ヨリ寛永三年迄」
「玉露叢 巻第七 将軍家御上洛記」(寛永三年)
「玉露叢 巻第八 御即位記」(寛永七年)
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二 玉露叢 二 (九~二一)
【現況】表紙・裏表紙ともなし。
【内容】
「玉露叢 巻第九 家光公御上洛記 寛永十一甲戌年六月廿日」
「玉露叢 巻第十」(寛永十二年)
「玉露叢 巻第十一」(寛永十三年 朝鮮人来朝記)
「玉露叢 巻第十二」(寛永十四年 島原の乱)
「玉露叢 巻第十三 寛永十六年ヨリ正保二年マテ」
「玉露叢 巻第十四 正保五年ヨリ明暦四年マテ」
「玉露叢 巻第十五 万治元年ヨリ寛文四((三))年マテ」
「玉露叢 巻第十六 寛文三年」(日光社参)
「玉露叢 巻第十七 寛文三年ヨリ同四年マテ」
「玉露叢 巻第十八 寛文五年ヨリ同七年マテ」
「玉露叢 巻第十九 寛文八年ヨリ同九年三月マテ」
「玉露叢 巻第廿己酉 寛文九年四月ヨリ同年十二月マテ」
「玉露叢 巻第二十一 寛文十年庚戌」
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三 玉露叢 三 (二二~三三)
【現況】表紙・裏表紙ともなし。
【内容】
「玉露叢 巻第二十二 寛文十一年」
「玉露叢 巻第廿三 寛文十二年」
「玉露叢 巻第二十四 寛文十三年/延宝五((元))年」
「玉露叢 巻第二十五」(延宝二年)
「玉露叢 巻第二十六」(延宝三年)
「玉露叢 巻第二十七」(延宝四年)
「玉露叢 巻第二十八 延宝五年」
「玉露叢 巻第二十九 延宝六年」
「玉露叢 巻第三十 延宝七年(十月迄)」
「玉露叢 巻第三十一 延宝八年庚申」○最後は延宝九年二月の記事
「玉露叢 巻第三十二 延宝八年正月ヨリ五月中マテ」
「玉露叢 巻第三十三」(延宝八年)
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四 玉露叢 四 (三四~四二)
【現況】表紙・裏表紙ともなし。
【内容】
「玉露叢 巻第三十四」(諸国諸寺院書上)
「玉露叢 巻第三十五」(諸国諸神社書上)
「玉露叢 巻第三拾六 御軍役ノ次第」
「玉露叢 巻第三十七 延宝二甲刁年分ノ参勤御暇之扣上」
「玉露叢 巻第三十八 延宝二年分ノ参勤御暇之扣下」
「玉露叢 巻第三十九 延宝三年参勤御暇ノ扣上」
「玉露叢 巻第四十 延宝三年参勤御暇ノ扣下」
「玉露叢 巻第四十一 年中御當家式時之服」
「玉露叢 巻第四十二 年中式時ノ次第 寛文十・十一両年ヲ以記ス」
D54 玉露叢
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一 玉露叢 壹
【現況】表紙・裏表紙ともなし。
【序文】「玉露叢之首(ハシメ)ニ題スル詞……延寶二年神無月時雨スル比書ス」
【内容】
「一太閤秀吉公御治世之節五大老五奉行官録之事」
「玉露叢 巻第一 慶長三年ヨリ」
「玉露叢 巻第二 慶長四年ヨリ同十八年迄」
「玉露叢 第三 慶長十九年」
「玉露叢 巻第四 慶長廿年 改元元和」
※巻第五を欠く。ただし、巻第四に元和元年まであり。
「玉露叢 第六 元和二年ヨリ寛永三年マテ」
二 (貳)にも「巻第六」あり。
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二 玉露叢 貳
【現況】表紙・裏表紙ともなし。
【内容】
「玉露叢 巻第 寛文五年より同七年迄」
「玉露叢 巻第 家光公御上洛記 寛永十一甲戌年六月廿日」
「玉露叢 巻第 (正保五年~明暦四年)」
「玉露叢 巻第六 御即位記 寛永七年ヨリ同十年マテ」
※「…同十年マテ」とあるが、寛永七年の即位記のみ。
※D54-1(壹)にも「第六」あり。
「玉露叢 (寛永七年~同十八年)」
「玉露叢 巻第八 (寛永十四年 島原の乱)」
「(玉露叢) (寛永十三年 朝鮮人来朝記)」
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三 玉露叢 参
【現況】表紙・裏表紙ともなし。
【内容】
「玉露叢 巻第十 寛永二十一年改元 明暦四年迄」
「玉露叢 巻第十一 萬治元年ヨリ寛文三年迄」
(「玉露叢 巻第十二」ヵ)(寛文十一年~延宝二年)
※一丁白紙あり
(「玉露叢 巻第十三」ヵ)(延宝三年~同五年)
「玉露叢 巻第十四 延宝六年ヨリ同八年マテ」
D55 玉露叢
【現況】表紙・裏表紙ともなし。
【序文】
「邦君代々乃行状明語其頃つかへし人々の物かたり繁多なりしかと年若く強て心のとゝめさりしか老の寝覚に思ひめくらせはとり〳〵ありかたき御心さしも世の末にならハしる人もなからむ且色々子弟の末まても邦君の美質恩恵をうかゝひ奉り此数條を甘味せハ寸忠の志を励す一助ともならむかとかつ〳〵耳底に止りし事をかきつゝりて玉露叢と題すされとをの〳〵口つたへなれハ恐らくハ尊意に背きたる事もミならむかし我むなしき後にあやまりたるハあらためもらしたるをは尋求めて補ひ継へし、
于時享保庚子の暮春筆をおこす 」
【内容】小浜藩主酒井家(忠利―忠勝―忠直―忠隆―忠囿)の事績。
【書出】「玉露叢/一慶長庚子の動乱の時忠利君御父子ハ 将軍秀忠公にしたかひ中山道を供奉ありしか真田か上田の城に御遅滞故関ヶ原御合戦乃間に遭せ給ハさる事御心に叶さるにや……」
【跋文】
「玉露叢跋
乃者嶺信之大人袖一冊來示僕曰此書所記自跋
邦君高祖
源忠利公至孫
忠囿公諸君之行状也易世既五世歴歳幾百年其際治国御衆之多事豈啻止之哉今此数件當時陪侍之近臣遺老語説也然就之謹考其言行則皆忠敬慈仁之道而一點無貪忍刻薄之機可以考千歳之美譚也唯恨委之口碑無竹帛之傳信馬後來子孫莫由考證故卒筆之名玉露叢自古賢輔名相顕功名千世者必有行状記傳以流芳于後代是朱文公言行録之所作也庶幾兒孫熟讀此集仰思
公徳之高府為守已議刑吏大人命僕題巻尾僕以不知字固辭之然命之不措且有感大人覃思教誨之志故書之以備一哂士享保庚子夏日武野隠叟述 」
【備考】D53・54とは別の「玉露叢」。「日本古典籍総合目録」にて「酒井家玉露叢」(酒井家言行録)とあるものと同じものか。
D56 落穂集
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一 落穂集 一―四
【現況】表紙・裏表紙ともなし。
【内容】
「落穂集 巻之一」(天文十一年~永禄十二年)
「落穂集 巻之二」(元亀元年~天正九年)
「落穂集 巻之三」(天正十年~同十三年)
「落穂集 巻之四」(天正十四年~同十八年六月)
「落穂集 巻之五」(天正十八年六月~同十九年閏正月)
「落穂集 巻之六」(天正十九年三月~慶長三年)
「落穂集 巻之七」(慶長四年正月~同年閏三月)
「落穂集 巻之八」(慶長四年四月~同年十二月)
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二 落穂集 五―八
【現況】表紙・裏表紙ともなし。
【内容】
「落穂集 巻之九」(慶長五年)
「落穂集 巻之十」(慶長五年)
「落穂集 巻之十一」(慶長五年)
「落穂集 巻之十二」(慶長五年九月~同十四年)
「落穂集 巻之十三」(慶長十五年~同十九年)
「落穂集 巻之十四」(慶長十九年~同二十年四月)
「落穂集 巻之十五」(慶長二十年五月~同二十一年六月):元和改元まで
【奥書】「子や孫のためとはかりにしるしを(く?)/しむらましりの落穂なれとも/享保十二丁未歳冬至日 大道寺知足軒友山/八十九歳認之 」
D57 落穂集
【現況】表紙・裏表紙ともなし。
【印】右端下に「忍廬□」「内藤蔵書」(ともに朱印)の蔵書印および上部余白に「本宗」の墨印あり。各巻の冒頭に同様にあり。
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一 落穂集 一
【序文】
「猶又、落穂集・同追加・霊厳夜話等の書面に於て 権現様御在世の節の御噂に付て我等の承り傳へたる事共をハ乍恐あらハし書記し差出候、……東照宮様御疎遠申上ルといふハ御恩不知の不届とゟ外ハ可申様無之、
霊厳夜話大意弁 」
【構成】
総目録 巻之一~巻之十五
凡例
「阿部志摩守正府延享将軍家/御側衆也、家来浪人上碕作之丞といふ男ハ譲川弥右衛門入道銕岳ゟ鑓術の高弟彼流の達人延享三年やゝ九十歳に及へり此に予に語て曰大道寺友山存生の日自作の落穂集とてわれらに見せ候その書の改(本ノマゝ)にハ友山自録 孫や子の為となれハひろひおく志(本ノ)花(マゝ)ましりの落穂集なれとも と有し也今世間通本八十巻の終に 立居にも杖を力の老か身ハ猶豊にも世を祈る哉 于時享保十二孟春知足軒友山八十九歳誌之とありいかゞ事蹟合考
霊厳夜話序曰予狐陋の聞にふれたる事共を廿五冊に書綴り所謂
落穂集 今披十六巻/の物則是也、同追加 今披十巻世の所傳落穂集八方正面御櫓と書物也たる者則是也、霊厳夜話四巻 権現様上意被遊候金ハ火を以/試と云と書出したる是也、
【内容】
「落穂集 巻之一」(天文十一年~永禄十二年)
「落穂集 巻之弐」(元亀元年~天正九年)
「落穂集 巻之三」(天正十年~同十三年)
「落穂集 巻之四」(天正十四年~同十八年六月)
「落穂集 巻之五」(天正十八年六月~同十九年閏正月)
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二 落穂集 二
【内容】
「落穂集 巻之六」(天正十九年三月~慶長三年)
「落穂集 巻之七」(慶長四年正月~同年閏三月)
「落穂集 巻之八」(慶長四年四月~同年十二月)
「落穂集 巻之九」(慶長五年)
「落穂集 巻之十」(慶長五年)
「落穂集 巻之十一」(慶長五年)
「落穂集 巻之十二」(慶長五年九月~同十四年)
「落穂集 巻之十三」(慶長十五年~同十九年)
「落穂集 巻之十四」(慶長十九年~同二十年四月)
「落穂集 巻之十五」(慶長二十年五月~同二十一年六月)元和改元まで
【奥書】「子や孫の為とはかりにしるしおく/稗(?)ましりの落穂なれとも/享保十二丁未年冬至日/大道寺知足軒友山/八十九歳誌之」
D58 落穂集 三
【現況】表紙・裏表紙ともなし。
【内容】
(地方落穂集 十)
「地方落穂集 巻之拾 畢」
(中表紙)
「地方落穂集 十一/十二」
「地方落穂集 巻之十一」 「原田蔵」の蔵書印あり。
「地方落穂集 巻之十二」
(中表紙)
「地方落穂集 十三 幷 籾拾録」
「地方落穂集 巻之十三」
「地方落穂集 巻之十三 大尾」
「落穂集籾拾録」
「…安永七戌三月書載て落穂集籾拾録と銘し合冊之する而已」とあり。
【備考】D56・57・60・61の「落穂集」とは別のもので、「地方落穂集」が正確な名称の地方書であり、洋装。背の「落穂集」は不適切。「三」は、D-56・57の続きの意味か。
D59 異本落穂集
【現況】表紙・裏表紙ともなし。各巻の冒頭一丁オに右下の蔵書印(角朱印)があるが、塗り潰されていて印文不明。
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一 異本落穂集 一
【内容】
(第一を欠く)
「落穂集 第二」(元亀元年~天正九年)
「落穂集 第三」(天正十年~同十三年)
「落穂集 第四」(天正十四年~同十八年六月)
「落穂集 第五」(天正十八年六月~同十九年閏正月)
「落穂集 巻之六」(天正十九年三月~慶長三年)
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二 異本落穂集(二)
【内容】
「落穂集 第七」(慶長四年正月~同年閏三月)
「落穂集 第八」(慶長四年四月~同年十二月)
「落穂集 第九」(慶長五年)
「落穂集 第十」(慶長五年)
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三 異本落穂集 三
【内容】
(第十二を欠く)
「落穂集 第十一」(慶長五年)
「落穂集 第十三」(慶長十五年~同十九年)
「落穂集 第十四」(慶長十九年~同二十年四月)
「落穂集 第十五」(慶長二十年五月~同二十一年六月)元和改元まで
【奥書】
「此落穂集十五局(篇?)或云、越前大道寺友山俗名孫九郎/先祖北条家仕、其後浅野家且松平肥後守方居、後越前家得合力、今松平兵部大輔家一子孫九郎三十人扶持賜仕居候者也、編作也、尤、為正説実記或人秘探筥及懇望数度上恩借写之、猥可慎外見伝言有之、但、写本誤違字多如本写、于後可改者也、
元文四己未年十一月廿八日 」
D60 異本落穂集
【現況】表紙・裏表紙ともなし。
【構成】「落穂集惣目録」巻之一~巻之十一
【内容】
「落穂集 巻之一」
江戸御城始之事
御城内八方正面御櫓の事
御城内鎮守之事
西の御丸之事
「落穂集 巻之二」
御城内古来家作之事
増上寺浅草寺之事
神田明神之事
江戸町方普請之事
鳶沢町之事
博変((奕))御制禁之事
石町時乃鐘之事
弁慶堀之事
吹上御門外御石垣之事
「落穂集 巻之三」
御鷹野先江女中方御供之事
天下御一統以後将軍宣下御延引之事
伏見之城ニ而討死の衆跡式被 仰付候事
秋先ニ至り収納之事
皆川老甫斎之事
江戸武家方町家寺社等普請之事
(落穂集 巻之四)
※「巻之四」の区別なし。ただし、惣目録の項目と本文の項目を照合すると、「御使役之事」以下が巻之四に当たる)
御使役之事
小十人衆之事
八王寺((子))千本鎗衆之事
三池傳太郎御腰物之事
「落穂集 巻之五」
「落穂集 巻之六」
「落穂集 巻之七」
「落穂集 巻之八」
「落穂集 巻之九」
「落穂集 巻之十」
【奥書】「たち居にも杖をちからの老か身はなおゆたかにも世をいのるなり、/于時享保十二孟春/知足軒友山八十九歳誌之〈判」
「落穂集之拾一 追加」
「霊厳夜話大意之辨」
【奥書】「八十とせ世にふる事も東方/てらす御神の御影ならすや/享保十三大呂/大道寺友山綴之 」
D61 落穂集
【現況】一丁目表 上辺鉛筆横書き Daidoji,Shigesuke/右同 青色切紙片の張紙 横書き「落穂集 Ochi-bo shu Miscellaneous notes By Daidozhi Yuzan[d.1730]. 11bks.in.lv Ms」/右同丁 蔵書印「土屋利信」
【奥書】
末尾識語
「享保十三 大呂 友山綴友山」
「天保三年歳次壬申冬後十一月下幹臨写畢 濱雲亭香屏梅客」
「明治四年辛未年春二月借写之 土屋利信」
【構成】初巻~巻之拾、および付録
【備考】蔵書票「1907」
D62 追補落穂集
【現況】一丁目表 上辺鉛筆横書き Daidoji,Shigesuke/右同丁 蔵書印 A B /最終丁端裏 「廿三ノ十三合 小林裕 三冊 三■」
【奥書】末尾識語 「嘉永三庚戌年 九月写之 江都之隠士藤田常山 行年七十六歳ニ而記之 (蔵書印C)」 「藤田氏」
【構成】巻之一~巻之三
巻之一:「一 元亀元年正月遠州浜松の御城御普請出来ニ付御引移被遊、岡崎の御城をハ信康公へ御譲り被遊、同年春織田信長越前の守護朝倉義景を責討んと……」
巻之二:「一 天正十三年三月 家康公御背の中に癰の御腫物御出来被成、既に危ふき御容体に被為在、世間に於てハ御他界ニ候哉と風説致し候程の御事也」
巻之三:「一 信濃の国上田の城主真田安房守義 内府公の御籏下として会津表へ可相働と有之……」
【備考】蔵書票「1907」。写本について、要確認(総目録には該当タイトルのものなし)。
D63 元文寛保延享世説
【現況】1~4すべて、洋装。一丁目表上辺 鉛筆横書 Genbun sesetsu zatsuroku。和本(虫食い多し)
【備考】蔵書票「1907」。
【翻刻】『近世風俗見聞集』参照。
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一 元文寛保延享世説 元文上
元文世説雑録巻之一:「享保二十一辰年 元文元年ト改元、辰五月七日被仰出之間元文元年也
正月十一日於御城御会」 以下柳営連歌、前年京都即位関係の史料等あり
元文世説雑録巻之二:即位関係等
元文世説雑録巻之三:正月十日~五月二十九日
元文世説雑録巻之四:五月二十八日~ 落首等あり
元文世説雑録巻之五:六月~
元文世説雑録巻之六:九月十五日 服忌令等
元文世説雑録巻之七:元文二年正月~
元文世説雑録巻之八:元文二年五月~
元文世説雑録巻之九:元文二年七月~
元文世説雑録巻之十:九月二十七日竹千代宮参り
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二 元文寛保延享世説 元文中
元文世説雑録巻之十二:元文元年十二月九日~ 竹千代君降誕一件より
元文世説雑録巻之十三:五月二十八日~
元文世説雑録巻之十四:御産衣献上之臺図・若君様江御七夜ニ付諸大名より献上之次第上
元文世説雑録巻之十五:公方様 大納言様江若君様御七夜ニ付諸大名より献上物之次第
元文世説雑録巻之十六:六月六日 惣出仕之次第~
元文世説雑録巻之十七:十一月~
元文世説雑録巻之十八:元文三年正月~
元文世説雑録巻之十九:五月八日~
元文世説雑録巻之廿:七月~
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三 元文寛保延享世説 元文下
元文世説雑録巻之廿一:元文三年十月~ 、以下、虫食い甚大のため開かず
元文世説雑録巻之廿二
元文世説雑録巻之廿三
元文世説雑録巻之廿四
元文世説雑録巻之廿五
元文世説雑録巻之廿六
元文世説雑録巻之廿七
元文世説雑録巻之廿八
元文世説雑録巻之廿九
元文世説雑録巻之三十
元文世説雑録巻之三十一:元文四年十一五日~
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四 元文寛保延享世説 元文後編
後編元文世説雑録巻之一:元文五年正月八日
後編元文世説雑録巻之二:矢内武平治山下右内由緒之事并両人か母杉山嘉右衛門へ再嫁之事、三月六日~
後編元文世説雑録巻之三:右同続き 九月中旬~
後編元文世説雑録巻之四:右同続き
後編元文世説雑録巻之五:右同続き
後編元文世説雑録巻之六:元文五年三月十一日~
後編元文世説雑録巻之七:五月~
後編元文世説雑録巻之八:大坂町人辰巳屋久右衛門木津屋治兵衛等由緒并公事出入之事
後編元文世説雑録巻之九:青山大膳亮江小出相模守御預り之事
後編元文世説雑録巻之十:小出相模守大膳亮江永御預之事并大膳亮在所遣事
後編元文世説雑録巻之十一:松平伊豆守殿屋敷へかさり者来ル事
後編元文世説雑録巻之十二:五月五日~
後編元文世説雑録巻之十三:七月~
後編元文世説雑録巻之十四:大坂御金蔵御金紛失之事并御詮議一件
後編元文世説雑録巻之十五:被仰渡御触等之事 元文五庚申年三月より九月迄之記
D64 寛保世説
【現況】1・2とも、洋装。一丁目表上辺 鉛筆横書 Kampo sesetsu zatsuroku
【備考】蔵書票「1907」。内閣本写本等要比較。
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一 元文寛保延享世説 寛保上
寛保世説巻之一:寛保元年 一位様御逝去~
寛保世説巻之二:三月八日~
寛保世説巻之三:右同続き
寛保世説巻之四:天英院御法事日限之事
寛保世説巻之五:御転任御兼任御元服等一件
寛保世説巻之六:八月七日~
寛保世説巻之七:八月十二日~
寛保世説巻之八:右同日~
寛保世説巻之九:八月十三日~
寛保世説巻之十:九月廿二日~
寛保世説巻之十一:麻布賀善坊谷化物之沙汰
寛保世説巻之十二:榊原式部太輔殿世上風説一件
寛保世説巻之十三:右同
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二 元文寛保延享世説 寛保下
寛保世説巻之十四:寿光院殿御方御逝去并御由緒之事 寛保元年十月十日~
寛保世説巻之十五:芝居狂言之者市川海老蔵上坂世上風説等
寛保世説巻之十六:寛保二年吉兆等
寛保世説巻之十七:星之説
寛保世説巻之十八:六道銭停止之事
寛保世説巻之十九:品川宿繁盛之事
寛保世説巻之二十:品川遊女
寛保世説巻之二十一:葺屋町市村宇左衛門芝居ニ而陸尺共出入一件
寛保世説巻之二十二:右同
寛保世説巻之二十三~二十五:(大水一件関係)
【備考】和本三冊毎の貼外題札あり
D65 寛保世説
【書名】元文寛保延享世説 寛保別集
【現況】洋装。一丁目表上辺 鉛筆横書 Kampo sesetsu zatsuroku
【内容】
寛保世説 巻之一(「寛延世説」の表紙あり):寛保三年正月 大水発句
寛保世説 巻之二(「寛延世説」の表紙あり):閏四月~
寛保世説 巻之三(「寛延世説」の表紙あり):七月~
寛保世説 巻之四(「寛延世説」の表紙あり):正月~
【備考】蔵書票「1907」。内閣本等要比較。
D66 延享世説
【書名】元文寛保延享世説 延享
【現況】洋装。一丁目表上辺 鉛筆横書 Enkyo sesetsu
【内容】
延享世説巻之:延享二年正月~五月
延享世説巻:延享元年十月~十二月
延享世説巻之:延享元年五月~十月
【詳細】「寛延世説五」と記された表紙あり。最終丁端裏に「文淵堂■■三千五百六十一」のスタンプあり、また「■■三十一冊シヤキ■■■」の打ち付け書きあり
【備考】蔵書票「1907」
D67 享保世説抜書
【書名】享保世説抜書 寛保別集
【現況】洋装。一丁目表上辺 鉛筆横書 Kyoho sesetsu nukigaki
【冒頭】
「一、浅草辺居住小笠原幽庵と申浪人先祖、難風に逢、無人島へ漂着、彼地良木金砂有之候を見届候書付伝来に付、前々より奉願候得共、不得時節之処、此度大岡越前守殿江被召呼、御尋有之候由候」
【備考】蔵書票「1907」。要比較国会本「享保世説抄録」
D68 慶元全集
【現況】洋装。一丁目表上辺 鉛筆横書 Zoho Keigen zensho。和本合綴
【構成】
増補慶元全書 序 「……予私慶長元和冬夏之軍旅ヲ偏集メ而名慶元全書而巳 于時貞享三丙寅年四月 日」
「凡例
一 世ニ大坂冬夏ノ防戦ヲ詳カニ記シタル書ナシ、近代板行ノ書数多アリトイヘトモ麁略ニシテ実ナシ
一 難波記ト号シ此外数巻ノ書アリトイヘトモ細書ニアラスシテ文繁囲数ヲ積タルノミニテ実ナク苟略セリ
……」
巻第一
一秀吉出世由来事
一大坂城怪異之事
一家康公憐憫秀頼之事
一家康公秀頼御対顔之事
一同御対顔之節進物之事
巻第二
一駿府与大坂不和之事、付大仏供養騒動之事
一片桐市正駿府江下向付鐘之銘之事
一片桐市正退去大坂之事
一織田常真出奔大坂之事
一中嶋一揆之事并多羅尾勇死之事
巻第三
一大坂籠城勢揃之事
一七手組頭之事
巻第四
一東武御留守居并処々番衆之事
一家康公駿府御出馬之事
一将軍家御出馬供奉之人々事
一諸国軍勢進発之事
一従城中遣藤堂伊達池田江謀書事
一今福志貴野合戦之事
巻第五
一野田福嶋御巡見之事
一博労淵砦破却之事
一諸将天満川渉事附城和泉守は配流
一家康公槨外御巡見并真田丸合戦事
一家康公茶磨山江御移付扱之事
一両公蜂須賀至鎮同家従等御感状被下事
巻第六
一大坂関東再鉾楯之事
一家康公及秀忠公大坂江御進発之事附大野修理亮不意被突事
一大坂勢和州江出張之事
一両公浅野御感諜賜事
一諸軍陳取之事付古田織部正自害之事
一道明寺合戦事
巻第七
一矢尾并若江村合戦之事
一大坂諸軍勢備立同籏馬印之事
一両公御備押行列付諸将馬印之事
巻第八
一大坂落城秀頼御自害之事
巻第九
一城兵落人之事
一城兵討死之歴々之事
一討取惣頭数之事
一城中脱出之面々之事
巻第十
一五月七日之働付御褒美之事
一御見方討死之事
一改易衆召帰之衆之事
一井伊藤堂江感書之事
増補慶元全書目録終 全部十一冊
【備考】蔵書票「1907」。総目録等、該当なし
D69 武家秘抄録
【現況】洋装。一丁目表上辺 鉛筆横書 Buke hirokusho。和本二冊。二冊目第一丁目に蔵書印あり
【内容】
一冊目:一神君小牧軍勝利の事、外128項目
二冊目:一家康公御病気、外46項目
及び同冊中に
一家康公より井伊万千代直政へ御附人之事、外25項目
最終丁端裏・ 打ち付け書き「二冊 ■■■■」
【奥書】
末尾識語「右此本書ハ京都尼寺大惣?寺塔頭多門院之什物ニ有之候を写取候事 天保五年十月廿九日 松本氏より借写候」
【備考】蔵書票「1907」
D70 要筺弁志
【現況】洋装。一丁目表上辺 鉛筆横書 Yokyo benshi nenju gyoji。彩色。丁寧な写本。
【詳細】第一丁に切り紙罫紙の張紙あり
「夫■風穏にして姑射の松條ならさす舞雨長閑……玆安永天明寛政享和文化の年間龍門の聯珠を集、君襄の明は即官の位雲漢の蒼々如重爾云
文化壬申九月
〔右序文本ノママ、本トハLibrary of Congress蔵本〕」
→国会図書館本ということか
幕府年中行事は、国会・内閣・各大名家等写本多数。
【備考】蔵書票「1907」
D71 文久二年留書
【現況】洋装。一丁目表上辺 鉛筆横書 Bunkyu ninen tomegaki。和本部分の表紙なし。原本、83丁
【内容】
(冒頭)
「 山口信濃守
上卿坊城大納言
文久二年九月廿八日 宣
源直亮
叙従五位下
任信濃守
十一月廿二日 定功
俊克
蔵人右少弁殿 」
「 一橋中納言
上卿坊城大納言
文久二年十一月朔日 宣
参議慶喜卿
任中納言
十二月十五日 定
俊
頭右大弁殿 」
「 井上河内守
上卿坊城大納言
文久二年十月廿四日 宣
従五位下源正直
叙従四位下
十二月十八日 定
俊
蔵人右少弁殿 」
「 小笠原図書頭
上卿 正親町三条大納言
文久二年十二月三日 宣
従五位下源長行
叙従四位下
十二月十八日 定
俊
蔵人右少弁殿 」
「 男谷下総殿
上卿坊城大納言
文久二年十一月十六日 宣
源信友
叙従五位下
任下総守
十二月廿三日 定
俊
頭右中将弁殿 」
「禁裏様 十帖壱分
白銀貳枚
御女中三人 金百疋つつ
御執次 白銀貳両
小執次 青銅三拾疋
親王様 十帖壱分
白銀壱枚
御女中弐人 金百疋つつ
小執次 青銅三十疋
准后様 十帖壱分
白銀壱枚
御女中三人 金百疋
小執次 青銅三十疋
関白様 十帖壱分
上卿御方 金弐百疋
十帖壱分
職事御方 白銀弐枚
雑掌 金百疋
添使 青銅五十疋
両傳御方 金百疋つつ
雑掌一人 青銅五十疋つつ
添使 〃 五十疋
宣旨弁御方 金弐百疋
官務 同百疋
副使 銀十匁
以上 」
「一橋中納言源慶喜卿中納言成御官物之事
一橋中納言
中納言成官
禁裏
御太刀 一腰
白銀 百枚
上﨟局 銀子五枚
長橋局 右同断
大御乳人 右同断
執次 銀子壱枚
親王
御太刀 一腰
白銀 五拾枚
高松局 銀子五枚
御乳人 右同断
執次 銀子 五両
准后
白銀 五拾枚
於八百方 銀子五枚
於五百方 右同断
執次 銀子五両
内侍所
御太刀 一腰
白銀 弐枚
上卿 銀子六拾目
職事 右 同断
宣旨 銀子五枚
両伝奏 銀子十枚宛
宣旨副使 銀子弐拾目
雑掌四人 銀子壱枚宛
右之通請取差上、銘々相渡申候、以上
野宮宰相中将殿家
文久二戌年十二月 西池ーーー印
木下ーーー印
坊城大納言殿家
山科ーーー印
浅野ーーー印
御所使也
長谷川猪之助殿 」
「 覚
一銀十枚包 弐十弐
一同五枚包 八
一同弐枚包 壱
一同壱枚包 五
一同五両包 弐
一同六拾目包 弐
一同弐拾目包 壱
右書面銀慥ニ令落首候畢
野宮宰相中将殿家
文久二戌年十二月廿八日 木下右兵衛少尉印
小堀数馬殿 」
「一橋中納言源慶喜卿
中納言成
禁裏 御太刀折紙白銀百枚
女中御三方銀五枚包三つ
執次銀子 壱枚
右之通請取差上可申候
十二月廿八日 虫鹿織部正(印)」
「親王 御太刀折紙白銀五拾枚
女中御二方銀五枚包弐つ
執次 銀子五両
右之通請取差上申候
十二月廿八日 岡本河内介(印)」
「准后 白銀五拾枚
女中御二方 銀五枚包弐つ
執次 銀子五両
右之通請取差上申候
十二月廿八日 岡本河内介(印)」
「内侍所 御太刀折紙白銀弐枚
右之通請取差上申候
十二月廿八日 老為(印)」
「 上卿
中納言成
一銀子六拾目
右致落手候畢
坊城大納言殿使
十二月」
「 職事
一銀子六拾目
右致落手候畢
十二月 葉室頭弁殿使
山田求馬(印)」
「 大外記代
一銀子五枚包 奥田掃部大属(印)」
右致落手候畢
十二月」
「 宣旨副使
一銀子弐拾目包
右致落手候畢
十二月 青木兵部少丞(印)」
中奉書巻継
覚
年頭御祝儀
禁裏様より
公方様江
御太刀 一腰
御馬 代黄金三枚 一疋
親王様より
公方様江
御太刀 一腰
御馬 代黄金一枚 一疋
准后様より
公方様江
黄金壱枚
以上」
「中奉書巻継
覚
御婚礼済御祝儀
禁裏様より
公方様江
御太刀 一腰
御馬 代黄金三枚一疋
三種 二荷
和宮様江
色綸子 十五端
二種 一荷
天璋院様江
色綸子 十五端
二種 一荷
以上」
「中奉書巻継
覚
年頭御祝儀
坊城大納言
公方様江
御太刀 一腰
紗綾 五巻
御馬 代白銀壱枚 一疋
和宮様江
ねり貫 三たん
天璋院様江
ねり貫 三たん
野宮宰相中将
公方様江
御太刀 一腰
紗綾 五巻
御馬代 白銀壱反 一疋
和宮様江
ねり貫 三たん
天璋院様江
ねり貫 三たん
匂当内侍
公方様江
中高 十帖
繻珍 一端
以上」
「中芳書一枚
覚
御鷹大緒 三掛 浅野主膳
御鷹大緒 三掛 山科筑前守
御鷹大緒 三掛 木下右兵衛少尉
御鷹大緒 三掛 西池水主
以上」
「中奉書巻継
覚
御婚礼被為済候御祝儀
坊城大納言
公方様江
御太刀 一腰
御馬 代銀一枚 一疋
和宮様江
縮緬 二まき
天璋院様江
縮緬 二まき
野宮宰相中将
公方様江
御太刀 一腰
御馬 代銀一枚 一疋
和宮様江
縮緬 二まき
天璋院様江
縮緬 二まき
匂当内侍
公方様江
紗綾 三まき
和宮様江
紗綾 二まき
以上」
「中奉書一枚
覚
御扇子 一箱 浅野主膳
御扇子 一箱 山科筑前守
御扇子 一箱 木下右兵衛少尉
御扇子 一箱 西池水主
以上」
「中奉書
覚
伝 奏御役御礼 野宮宰相中将
公方様江
御太刀 一腰
御馬 代銀一枚 一疋
以上」
「年頭
大樹公
大鷹水のし一枚
御太刀 一腰 葵彫物
紗綾 五巻
御馬 一匹
以上
押札
野宮宰相中将」
(以下中略)
「新嘗会御下行帳」墨付四十二丁
【備考】蔵書票「1907」
D72 文久三年日次
【現況】1・2とも、洋装。第一丁目表上辺鉛筆書き Bunkyu sannen hinami
【備考】蔵書票「1907」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一 文久三年日次 上
【現況】和本の表紙はない。378丁
【内容】(文久三年)二月一日~三〇日
〔冒頭〕
朔日
執次 岡田大炊
一飛鳥井中納言様 御使市岡式部御用送り之品々例之通、其余別帳ヲ以御引渡之由
御返答御落手也
一 檜垣与市
挽茶
甘茶 一袋つつ
香煎
一 小法師
志遍箒 一臺
右為八朔御祝儀例之通奉指上候処則鳥目弐百銅つつ被下之候也
一南都方楽人小折紙 弐包 六通
写 弐通
右被入御内見候由
御返答、被致一覧、何之御存寄も無之、御返却、尤写者御落手也
一有栖川宮 御使 前川太宰大典
一今度
禁裏御所御築地艮隅ニ而御広ヶ可相成御模様ニ付而者御上ヶ地之上御替地 恭礼門院様御旧地を可相進候間、右御旧地坪数御狭少ニ付、御増地之義、昨七月四日後書附被差出候処、未何等之御沙汰も無之、急速御承知被成度旨御書付 一通
右御差出之処
御参 内中之旨申之
主水出会
一 押小路大外記
代芳倉左京
一催方陣官人富島左近将曹仮服届 一通
一 壬生官務
代上野左膳
一左官掌小野兵部少丞并右官掌座田薩摩介等仮服届 二通
右差出候処
御参 内中之旨申之
一 牧野備中守殿江
御使 中脇主殿
取次 渡邉孫右衛門
一高倉様より被差出候御知行之内城州紀伊郡竹田村年貢米之儀、旧冬被申立候処、此節相納候間、此節御届、且又其節被申立候百姓半六悴豊之助義村方立退之義、尚又被申立書 一通
右御達之処
返答落手仕候也
一 小栗長門守殿江
御使 安田主税
取次 長瀬源五郎
一小森典薬頭差出候門人小川節齋大坂表旅宿届 一通
一出納差出候主水司橋本主水佑南都春日祭参向二付絵符届 一通
右御達之処
返答落手仕候由也
一 牧野備前守殿
使者 稲垣庄三郎
封付
状箱 壱
委細封中ニ申上由
御返答御落手也
一水無瀬前中納言様 御使 川瀬内蔵
一御家来柏原右衛門宿所御届書 一通
一是迄御家来柏原右衛門宅被致借用候処、右右衛門斉藤宅替ニ成、尚又同人宅被致借用、京屋敷代ニ被用候旨、御届 一通
右被差出候処
御参 内中之旨申之
一 小栗長門守家来
高野勝蔵
依召参上
右兵衛尉出会
一 小栗長門守殿江
御使 安田主税
取次 寺山八郎
御封付
御状箱
委細御封中ニ被仰遣候、尤御返翰之内返答落手仕候由也
一大乗院御門跡 御使 佐野将監
一大乗院門跡坊官法橋定泰申
法眼小折紙以下 三通
壱包
右被入御内見届
御参 内中之旨申之
右兵衛少尉出会
一 小栗長門守殿
使 同心
封付
状箱 壱
委細封中ニ申上留
御返答従是可仰遣者也
一中山大納言様 御使 田村式部
御壱封
委細御封中之由
御参 内中ニ付預り置候也
一正親町三条大納言様 同上田式部
同上
右同断
朝之内
一阿野宰相中将様江 御使 安田主税
取次 下村伊織
御封付
御文箱 壱
委細御封中ニ被仰進候処
御返答御封中也
朝之内
一勘解由小路中務少輔様江御使 古市采女
取次 堀内新五郎
御書 壱通
委細御封中へ被仰進候処
御返答御封中候也
一御退出申半刻 青蓮院宮江
御出御帰館 戌刻過
一 小栗長門守殿
使 同心
封付
状箱 壱
委細封中ニ申上候由
御返答従是可被仰遣者也
一千種侍従様 御使 北村主計
依御招被差出
千種家来賀川肇変死一件検使之上、同人妻阿以下男巳之助下女たけ、肇甥同家家来福井右馬大允并右家家来加納蔵之進罷出、夫々口上書差出、阿以・右馬大允儀、死體引渡之儀申立候ニ付、願之通引渡候旨、且又肇妻阿以并下男巳之助下女たけ等者別段咎不申付段、町奉行より申附候紙面之写ヲ以、御達御承知書可被差出旨申達候
則
一中山大納言様 御使 中根弾正
依御招被差出
和宮様御世話且 勅別当ニ付、年頭暑寒関東江献上物之義、以来献上ニ不及候旨御達、仍而被差出候書付御返却、尤御承知御落手書可被差出旨、申達候、 右兵衛少尉出会
一青蓮院宮 御使 池田左仲
御世話之儀先刻於非蔵人口御達ニ付、猶万端宜御頼被仰入候由也
二日
執次 山本掃部
以下中略
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二 文久三年日次 下
【現況】和本の表紙はない。375丁
【内容】(文久三年)八月一日(前欠か)~九月二十九日
D73 文久三年留書
【現況】1・2とも、洋装。第一丁目表上辺鉛筆書き Bunkyu sannen tomegaki
【備考】蔵書票「1907」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一 文久三年留書 雑
【現況】和本の表紙なし。226丁
【内容】文久三年正月六日口上覚~六月まで。坊城・野宮連名の宛名のもの。来状の控えか。普請入用高役もあり。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二 文久三年留書 会符
【現況】和本の表紙なし。約400丁
【内容】絵符申請。文久三年正月~十二月
D74 元治元年留書 上卿官物・会符・小折紙・雑
【現況】1~4すべて、洋装。第一丁目表上辺鉛筆留書 Genji gannen tomegaki
【備考】蔵書票「1907」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一 元治元年留書 上卿官物
【現況】和本の表紙なし。約340丁
【内容】
1.口宣案控(武家官位・僧位僧官等) 文久四年一月分~十二月分 1丁目~約80丁目
(冒頭)
「上卿大炊御門右大将 永井信濃守
文久四年正月十一日 宣
大江直壮
叙位五位下
任信濃守
内藤豊前守」
2.官位官物書 文久四年一月分~元治元年三月 約85丁目~約200丁目
「正月二日
酒井河内
従五位下諸大夫成
禁裏御所 黄金壱枚
上﨟御局 銀子壱枚
長橋御局 右同断
大御乳人 右同断
執次 銀子弐拾目
(以下略)」
3.官位官物請取 文久四年一月分~九月 約210丁目~336丁目
「嶋津源久光朝臣従四位下左近衛権少将成」
一禁裏御所 黄金 壱枚
御女中御所三方銀子壱枚宛
執次銀子弐拾目
右之通請取差上可申候
正月十九日 鳥山三河介(印)
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二 元治元年留書 会符
【現況】和本の表紙なし。 約160丁
【内容】
(冒頭)
「七月
三日 口上覚
当家之米
阿部主膳
右之者当家為代参肥後国熊本清正公江来ル六日京地発足ニ而山崎駅附出、摂州路、夫より山陽道筋通行備前下村より乗船、讃州丸亀江着船、夫より伊豫地通行ニ而八幡浜より乗船、豊後国鶴崎江着船、夫より肥後海道通行、熊本清正公迄差下候、依之
両掛 壱荷
鎌壱筋相添
山井殿内阿部主膳と相認候木札弐枚附之
右之通随身ニ被為差下候、彼地滞留之程難計候、猶帰京之節者早々御届被申入候、此段武辺宜御通達之儀頼入被存候、以上
山井三位殿家
元治甲子年 鈴木内膳印
七月三日
坊城ーーーー 丑三月廿六日帰参之由御届書被差出候事
飛鳥井ーーー
野宮ーーー 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
三 元治元年留書 小折紙
【現況】和本の表紙なし。約332丁
【内容】文久四年一月~元治元年五月
(冒頭)
「文久四年正月六日
上包
伏見宮諸大夫
中五年 二十七歳
従五位上平宗元
申
正五位下
勘例
伏見宮諸大夫
藤原為紀
二十一歳
天保十二年八月廿九日叙従五位下
叙日
平宗元
二十一歳
安政五年正月廿一日叙従五位上
至今年中五年 」
「七日 上包 挙状 賀茂一社中
新年之御奏事始当社家中上候、位階者一社之恒例也、因茲選当運之輩令従四位下賀茂真直申従四位上正五位下賀茂延季申従四位下賀茂重民賀茂季日賀茂経成賀茂(中略)等申従五位下仰願因准先例
連蒙
官裁被拝叙者、一社一同可畏入候、仍言上如件
賀茂一社惣代
文久四年正月 関目米彦大夫
福季
鳥居路出羽守
治平
甘露寺権右中弁殿
雑掌中
寄書
申
従四位上 中三年 三十一歳
従四位下賀茂真直
(以下略) 」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
四 元治元年留書 雑
【現況】和本の表紙なし。約213丁
【内容】
1. 禁門変関係届 元治元年七月二十日~ 一丁目~九十二丁目
(冒頭)
「七月二十日
覚
此御方御本殿昨十九日依放火御焼失ニ御座候、依之不取敢?
入道准后殿
前関白殿
大納言殿・林丘寺御室へ御立退被成候、此段御届被仰入候、以上
七月廿日 鷹司殿御内
牧式部少輔殿
坊城ーーー
飛鳥井ーーー
野宮ーーー
ーーーー」
「大納言殿先日より所労ニ付保養被致居候処、方今之形勢軍?亭も何時異変之程難計趣ニ付内々丸太町川端東へ入、非常立退場所へ被引移居候処、猶丸太町も同様風聞ニ付、領分一乗寺村西圓寺之内々引移保養被致度候、此旨宜御沙汰頼入存候、以上
坊城大納言殿家
七月廿一日 浅野主膳印
飛鳥井ーーーー
ーーーー
野宮ーーーーー
ーーーー 」
「 口上覚
微?妙覚院御方
閑院殿御類焼ニ付当時一乗寺
村詩遷堂へ被成御仮住候
此段被 仰入置候、以上
閑院殿御内
七月廿一日 田中内匠頭」
「 覚
閑院殿御建物一昨日十九日大火ニ付表御門不残及焼失候、為此段御届被 仰入候、以上
閑院殿御内
七月廿一日 田中内匠頭
坊城ーーー
飛鳥井ーーー
野宮ーーーー
ーーーー 」
「去十九日類焼ニ付白川家へ当分令同居候、依此段御届申候入候也
七月廿一日 光有
坊城ーーー
飛鳥井ーーー
野宮ーーー 」
2.御内儀拝借関係 元治元年七月~十二月 九十四丁目 ~百四十四丁目
3.大川筋御普請入用高役関係 百四十五丁目~二百十三丁目
D75 慶応元年日次
【現況】1・2とも洋装。第一丁目表上辺鉛筆留書 Keio gannen hinami
【備考】蔵書票「1907」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
一 慶応元年日次 上
【現況】和本の表紙なし。約393丁
【内容】 四月一日~三十日
四月二十六日(抜粋)
「一 尾張殿在京役
青木齋宮
謹而奉言上候、家臣成瀬隼人正 被 召留滞京罷在候処、此度毛利大膳父子初為征伐大樹進発仕候ニ付、玄同事先手惣督之儀関東より申越候、就夫右征伐之當否且玄同惣督之儀とも不容易重大之事件ニ御座候付、専謀議中ニ御座候処、隼人正懸隔罷在候而先万端不都合難尽毫端當節 朝廷御用之御模様ハ奉量兼候得共、自国急務之程、深 御垂鑒被成下、隼人正儀、此節暫時成とも御暇被下置候様仕度、伏而奉懇願候、 臣慶勝誠惶誠恐頓首敬白
四月 前大納言慶勝上 」
→執次名 西池大蔵・中川兵部
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
二 慶応元年日次 下
【現況】和本の表紙なし。約350丁
【内容】五月一日~三十日
山稜関係等 五月末武家官位関係口宣案控あり
→執次名 中川兵部・西池大蔵
D76 慶応二年日次
【現況】洋装。第一丁目表上辺鉛筆留書 Keio ninen hinami。和本の表紙なし。約166丁。
【内容】三月三日~三十日
廿四日(抜粋)
執次中川兵部
一、岩倉侍従様 御出
一、同 大夫様
今般息方領之儀、御月番江願置候間、急御取成之様御頼被申入置候也
大膳少進罷出
(以下略)
→中川兵部・西池大蔵
【備考】蔵書票「1907」
D77 慶応二年留書
【現況】1・2とも洋装。第一丁目表上辺鉛筆留書 Keio ninen tomegaki
【備考】蔵書票「1907」
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一 慶応二年留書 御世話 国産
【現況】和本の表紙なし。約414丁
【内容】
1.(某御世話雑記)正月廿一日~十二月 来状留 16丁分
2.慶応二寅年 桂御所御世話雑記 正月十四日~十二月 27丁分
「正月十四日
一、桂御所 御使 長屋織部年始為御祝詞御参被進、右御挨拶被仰入候旨也
同月十七日
桂御所御内
高橋衛守
誘引
多羅尾勘ヶ由
3.慶応二寅歳 和宮御世話記 正月:正月四日~十二月 14丁分
4.慶応二寅年 圓照寺宮御世話雑記 正月:正月十五日~十二月 9丁
5.慶応二寅年 霊鑑寺宮御世話雑記 正月:正月十五日~十二月 5丁
6.慶応二寅歳 賀陽宮御世話記 正月:正月七日~十二月 11丁
7.山階美也御世話雑記 :一月~十一月 8丁
8.慶応二寅年 聖護院宮御世話記 正月:正月八日~十二月 56丁
9.慶応二年寅正月 知恩院宮御世話記:正月十五日~十二月 42丁
10. 慶応二寅年 随心院御世話記 正月:正月八日~十二月 12丁
11. 慶応二寅年 青蓮院御世話記 正月:正月~十二月 17丁
12.慶応二寅年 随龍寺様御世話雑記 正月:正月十四日~十二月 8丁
13.慶応二寅年 本願寺御世話記 正月:正月七日~十二月 32丁
14.(国産)関係 157丁
冒頭
貢献手続
一、諸侯使者国産持参上着之旨所司代江相届
但両伝奏雑掌迄心得ニ着候旨申入
一、所司代より以雑記何々之使者上京候間献上日記等差図可有之旨御両卿江申来、則御返書ニ来何日何刻月番■候品持参使者可罷出旨被相達、則所司代より使者へ何日何刻可相納分被相達
一月~十二月
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二 慶応二年留書 雑
【現況】和本の表紙なし。約188丁
【内容】
1.(御内儀拝借関係)
七月七日~十二月三十日 58丁
2.(女手形関係)
正月十五日~十一月 30丁
3.(引籠もり・混穢・着服等届)
正月十六日~十二月 60丁
4.(右同)
正月~十二月 40丁
D78 慶応三年日次
【現況】1・2とも洋装。第一丁目表上辺鉛筆留書 Keio ninen hinami
【備考】蔵書票「1907」
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一 慶応三年日次 上
【現況】和本の表紙なし。 約284丁
【内容】
二月一日~十五日
先帝崩御関係中心
→執次名 木下相模介 中川兵部
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二 慶応三年日次 下
【現況】和本の表紙なし 。 約214丁
【内容】
二月十六日~三十日
先帝崩御関係中心
→執次名 木下相模介 中川環
D79 万代江鑑
【内容】毛利氏(本姓大江)の歴史・故実などを編纂したもの。文書その他の引用アリ。
明倫館2代目学頭山県孝孺(号、周南)が藩命によって編纂。孝孺は荻生徂徠の弟子。
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一 「万代江鑑 上」(巻一~八を収録)
巻一 目録
巻二 江家御系図(省略)
巻三 御支族御系図(省略)
巻四 江氏家譜、附弁疑・違事
序 「寛保二年壬戌七月日 明倫館祭酒臣山県孝孺謹序」
巻五 列祖遺績、附功臣録 上
巻六 列祖遺績、附功臣録 下
巻七 江家御合戦之次第
巻八 元就公御文、附御詠草
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二 「万代江鑑 中」(巻九~十四を収録)
巻九 相州毛利之庄之事、芸州在名之事
巻十 指月城御修築、萩其外故実之事
巻十一 御代々袴着ほか
巻十二 正月御規式帳 上
巻十三 正月御規式帳 下
巻十四 東武定礼一覧
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三「万代江鑑 下」(巻十五~二十二を収録)
巻十五 将軍御代始巡使ほか
巻十六 洞春寺御建立ほか
巻十七 諸事取集ほか
巻十八 吉川家覚書
巻十九 益田牛庵御奉公抜書(S益田家文書-0-94無庵様御直筆覚書の写しカ)
巻二十 御武具定ほか
巻二十一 監物様越前御引取一件ほか
巻二十二 天野五郎右衛門一件ほか
D80 五事略
【現況】本来は乾・坤二冊、現状は合冊・
【備考】請求記号1040.1-140『五事略』2巻、 新井白石著、竹中邦香校。
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一 五字略 乾
本朝宝貨通用事略
琉球国事略
外国通信事略
中華并外国土産
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二 五字略 坤
高野山事略
殊号事略 上
殊号事略 下
D81 書紀集説別記
【内容】幕末の国学者小野(平)高潔の日本書紀研究書。一~六を合冊
【奥書】
一の書写奥書「文政六年癸未年十一月廿九日書写畢、越智直澄」
四の書写奥書「文政八乙酉年十月八日、越智直澄」
五の書写奥書「文政九丙戌年十月十六日、越智直澄」
【備考】越智直澄は江戸後期の儒者か。
D82 東鑑末
【内容】『吾妻鏡』以降の鎌倉時代史。林春斎『東鑑末記』と同本
【印】「待賈堂」朱印、「江戸四日市古今珍書儈達磨屋五一」朱印
【奥書】本奥書?:「右一帖、応于若狭少将源忠勝朝臣之命、抄纂、以呈之、慶安四年辛卯正月」
D83 平安朝時代史
【背表紙】記載ナシ
【詳細】Hagino Yoshiyuki とアリ、萩野由之か
D84 南方伝記
【背表紙】「南方伝記」
【統一書名】南方紀伝
【内容】南朝の歴史。全5巻。元弘元年~長禄二年。
【奥書】本奥書:「南方紀伝、今世希也、可謂珍記、適覧一古本、乞求書写畢、旹寛政七龍九月廿五日、白睡子」
【詳細】請求記号; 2040.4-123『南方紀伝』とは別本
D85 河中嶋五ヶ度合戦之次第書
【背表紙】「河中嶋五ヶ度合戦之次第書」
【内容】
(一丁表)「慶長三年三月五日、御尋ニ付、上杉家中より書上ニ相成候、信州河中嶋五ヶ度合戦之次第書、弘文館林春斎先生依 台命、本朝通鑑御精撰之節書上ニ相成候うつし」
「酒井修理大夫家来干賀源右衛門直談」「紀州家中南麻主計直談」を合わせて収録
【奥書】「右の書三通有之ヲ一書ニ致し写し置もの也、/寛政二戌年七月写之、望月重左衛門邦輔(花押影)/嘉永二酉七月八日再写、木村勘左衛門源重政(花押影)」
D86 三方ヶ原合戦記・開国雑記
【背表紙】「三方ヶ原合戦記・開国雑記」
【内容】「遠州三方ヶ原御合戦記」と「開国雑記」を合わせ写す
【詳細】新井白石の著作とする。「開国」は徳川家康による江戸幕府開創のこと。
D87 摘古採要
【背表紙】「摘古採要」
【内容】松下高徐が姫路藩に関する事を記したもの、本来は初編~五編の十冊からなる
【詳細】「続摘古採要序」「適古採要二編巻之上」「摘古採要三編序」「摘古採要三編首巻」を合冊。
【序文】「続摘古採要序」は「文政戊子秋」に「八々老人永根〓」が記す。「摘古採要三編序」は「天保二年辛卯之秋、姫路講官諸葛章謹撰、男興郷書」。
【参考】姫路市立城郭研究室にアリ
D88 雑話筆記
【内容】『徒然草』に倣った文集。
【序文】自序アリ、末に「揮毛於江北草盧、白龍子識、享保十五庚戌孟春中日」、また「神田白龍子編」とアリ
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一 「雑話筆記 上」
【現況】「山本蔵書」朱印アリ。巻一~巻六を合冊
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二 「雑話筆記 下」
【現況】「山本蔵書」朱印アリ。巻七~巻十二を合冊
【詳細】神田白龍子は「1680~1760」とアリ。白龍子は軍学者・刀剣鑑定家とのこと(インターネット)。
D89 南龍君遺事
【背表紙】「南龍君事績」。Takaoko Shinno cho(高岡親王著)とあるのは誤り。
【内容】徳川頼宣(南龍公・南龍君)の事績をしるした書物
【現況】春之巻~冬之巻の四冊を合冊
【奥書】冬之巻奥書:「右一巻者宮崎重賢書写、本書者佐倉城北飯田之邑山田蛍翁所蔵也、続源豊芭蔵」「此書与大君言行録同撰、(朱書)」
D90 大君言行録
【背表紙】「大君言行録」
【内容】徳川頼宣の言行録。著者は元紀州藩士の「江南随無庵之沙弥」「真如隠子」。
【現況】巻之上と巻之下を合冊
【序文】序末尾「壬戌春正月十日、江西腐儒烏有先生拝題」
【奥書】奥書1:「明和戌五月写之」/奥書2:「寛政辛亥冬十二月大阪城南官舎写之、藤原忠寛」/奥書3:「明治二十一年六月望前一日、豊徳識」
D91 忠富王記
【内容】明応5・6・7・10(文亀元)年、文亀2・3年の記事を収録
【備考】背表紙:記載ナシ
D92 智嚢
【背表紙】「智嚢」
【内容】豊臣秀吉以降の人々の言行録
【現況】三冊を合冊
【奥書】「弘化四丁未晩夏写之」
D93 菅利家卿物語
【背表紙】「菅利家卿物語」
【内容】前田利家の言行録。原題は「菅利家卿語話」。
【現況】三冊を合冊
【奥書】一冊目奥書:「右之条々大納言様御物語承申分大形覚書也、三月三日、村井勘十郎」
D94 前田創業記
【背表紙】「前田創業記」
【内容】前田利家・利長・利常の事績を編年にまとめたもの
【現況】巻一~巻五を合冊
【序文】自序アリ「延宝三年乙卯九月廿八日謹序、加隠翁徐行子」
【奥書】奥書1:「寛政九年丁巳八月、幕府近藤十蔵守重カ秘本ヲ以、水藩侍臣荻君幸写之」/奥書2:「享和元年辛酉四月八日、塙検校己一カ蔵書ヲ以校合之」
【詳細】富山県立図書館にもアリ
D95 追遠録
【内容】井伊直政の事績を記したもの
【背表紙】記載ナシ
【序】「寛政十三年辛酉春正月、彦根邨飯田忠哲謹撰」
【奥書】本奥書:「寛政十三年辛酉正月、北村久備謹撰」/書写奥書:「文化元甲子秋七月卒業」
D96 秀頼事記
【背表紙】記載ナシ
【現況】上中下三冊を一冊に合本。字の雰囲気からすると後世(近代か?)の写本。原表紙なし。各冊の巻頭に蔵書印(朱印)あり。
【内容】豊臣秀頼の事績をまとめたもの
【構成】
秀頼事記巻之上目録
秀頼公衰微事
大坂城恠異事
大仏供養評定事
片桐駿河下向并帰大坂始末事
籠城之用意事
板倉伊賀守計略付村上三右衛門働事
諸牢人口説事
家康公秀忠公出馬事
志岐野合戦事
秀頼事記巻之中目録
宗夢問答之事
母北方夢想并浅井家之事
秀頼事記巻之下目録
洛中騒動事
秀頼公軍評定事
両御所御出馬事
大野後藤軍評定事
紀州合戦事
道明寺合戦事
屋尾合戦事付平野セリ合事
於若井井伊掃部頭合戦事
七日合戦之事
秀頼公出馬事
秀頼公生害事
【備考】蔵書票「1907」
D97 寛永三年御上洛・二條御城御行幸略記
【内容】寛永三年に大御所秀忠・将軍家光が上洛し参内、後水尾天皇が二条城に行幸した際の記録。二条城行幸について詳しい。
【現況】裏表紙なし。二三丁
【構成】
表紙ヵ(一丁オ)
「寛永三年八月
御上洛 古将軍秀忠卿
大将軍家光卿
同大明((名))方
九月六日
二條御城へ御行幸略記
将軍様ヨリ御献上物記 」
表紙裏ヵ(一丁ウ)
「八月十八日 御参内
大御所左大臣源秀忠卿
征夷大将軍源家光卿
右大臣
幷大名衆御供 」
二丁以降
「九月六日、二條御城ニ御行幸」
「将軍・諸大名方御迎」
「行幸先達御迎」
「九月七日 楽」
「七日夜歌會の座」の図のあと詠歌一九首を載せる。
「八日 御馬」
「九日 御能」
「禁裏様へ将軍様ヨリ御献上」「大御所様ヨリ」「御䑓様ヨリ」
「中宮様へ 将軍様ヨリ」「女院様へ」「女一宮様へ」「女二宮様へ」「中宮様へ」
「女院様江 大御所様ヨリ」「女一宮様江 大御所様ヨリ」「女二宮様江 大御所様ヨリ」
「禁中様江 若御䑓様ヨリ」「中宮様江 若御䑓様ヨリ」「女院様江 若御䑓様ヨリ」「女一宮様江 若御䑓様ヨリ」「女二宮様江 若御䑓様ヨリ」
八月十九日の諸大名(二一名)の任官
九月七日の公家衆への進物太刀
【備考】蔵書票「1907」
D98 寛永三年御上洛之記行幸之次第
【内容】寛永三年に大御所秀忠と将軍家光が上洛した際に行われた後水尾天皇の二条城行幸の記録。
【現況】表紙・裏表紙なし。二〇丁。一丁オ右下に、朱書で「梨」、その下に「瀬山蔵書」の朱角印あり。
【構成】
一丁オの冒頭に「寛永三丙寅歳 御上洛之記」とあり、続いて以下の記述あり。
「行幸之次第目録
一楽之事
一御歌之会之事
一御馬献上之事
一御能之事
一御進物之事
一御引出物之事
一公家衆へ被遣((ヵ))候太刀之事
一御亭主方承衆之事 (ここまで一丁オ)
一御献達((立))之事 (一丁ウ)
」
以下、次のように続く。
七日 楽
七日夜哥会座配
このあと「竹契遐年 御製 左大臣大御所源秀忠」とあり、「右大臣将軍源家光」をはじめ六〇首(本文中には「六十二首」とあり)の詠歌を載せる。
一御馬 八日
一御能 九日
御進物之覚(禁中・公家衆への進物の詳細)
御行幸之亭主方被 仰付候覚
御献立之次第
【備考】蔵書票「1907」
D99 寛永三年将軍家光公上洛・後水尾帝二條
【内容】寛永三年に大御所秀忠と将軍家光が上洛した際の家光参内および後水尾天皇二条城行幸の記録。参内に関しては行列書のみ、行幸に関しては詳細。
【詳細】
表紙:
「 安見
寛永三丙寅年九月三日
将軍家光公御上洛参 内列書以下
等略記
後水之尾帝二條将軍亭行幸御行粧
但、本紙絵図面略之、
御楽御当座之倭歌同御座配り御能開口同番組
御進献之御金銀其外御品物幷 御所々々
摂家以下堂上方地下役人侍上臈中臈下臈
等江被下物諸侯之衆御推任叙其外等記之 」
後記:
「右之書記者、依家職諸侯方江出入之者、故有之令所持之内、併不許他見之旨八尾主ゟ及傳承、我等再三乞求為写記、乍去筆者之誤欤不分明之事共多、左程可為秘書非真書、雖然其侭令傳写者也、克キ便有之者、無疑真顕記を以校合有之度事也、
宗 矩」
【備考】蔵書票「1907」
D100 西山遺事(一―五)
【内容】水戸藩第二代藩主徳川光圀の事績録
【構成】
(一)「西山遺事序」宮田清貞による序文(「臣宮田清貞頓首百拝」)
「西山遺事」系図および光圀の誕生から逝去まで。
冒頭に、「名古屋書林本市」の丸黒印および「雲林庵蔵書」の丸朱印あり。
(二)「附録」
冒頭に、「雲林庵蔵書」の朱丸印あり。
(三)「附録」の続きか。
(四)「附録」の続きか。
冒頭に、「名古屋書林本市」の丸黒印および「雲林庵蔵書」の丸朱印あり。
(五)「附録」の続きか。
冒頭に、「名古屋書林本市」の丸黒印あり。
(後記)
「右ハ、西山公御一代の事とも豕一((逐ヵ))其證拠を正し記畢ぬ、此書の外種〳〵さま〳〵の説を、世に申ふらすもの共ありといふ共、必信用すへからす、たとへ證拠正しき様成説を申者候共、此書面を以て西山公の御行実を察し奉り、御性情より出不出の趣を考て、猥に不可増補、穴賢、
臣 三木幾右衛門源之幹
元禄十四辛巳十二月日 臣 富田半左衛門源清貞
臣 牧野杢之助清原和高」
(追記)「寶永七年庚寅十二月六日
土佐国鏡郡 太神 重遠 拝書」
五巻に相当する区切りはあるが、「巻一」「巻二」…等の明記なし。
【備考】蔵書票「1907」
D101 西山遺事 一―十
【内容】水戸藩第二代藩主徳川光圀の事績録
【構成】
西山遺事序(内容はD100西山遺事の序文と同一なるも記名なし)
西山遺事巻之弍((弌)) 御系図
西山遺事巻之二 寛文元丑年ゟ之記
西山遺事巻之三(朝鮮通信使関係記事の途中から)
以上、巻之一~三は巻ごとに改丁せず。
西山遺事巻之四 元録三庚午年よりの記。「附録」あり。
西山遺事巻五 「一西山公御他界ニ付御悼之詩哥諸家ゟ来ルといへとも…」
西山遺事巻之六 「一大樹家綱公御不例以之外の時分ご機嫌伺として…」
西山遺事巻之七 一綱條公四十之御賀之節被進候御詩」
西山遺事巻之八 一季姫君の御方一年御疱瘡已後重ク御煩なされ…」
西山遺事巻之九 季姫君京都ゟ御下り被成候砌小石河後楽園の中小池有…」
西山遺事巻之十 西山公御屋形之内にて薬室を御補裡…」
後記:
「右ハ、
西山公御一代の事共豕一((逐ヵ))其證據を正し記し畢ぬ、此書之外種々さま〳〵の説を、申ふらし候者共有之といへとも、必信用すべからす、縦令證拠正しき様成事を申候者有と言共、此書面を以て 西山公の御行実を察し奉り、御性情ゟ出亦は出ざるの趣を考て、猥りに不可増補、穴賢、
臣 三木幾右衛門源之幹
元禄十四辛巳十二月 同 富田半左衛門源清貞
同 牧野杢之助清原和高」
追記:
「宝永七年庚寅十二月六日
土佐国鏡郡大神 重遠拝書」
【備考】蔵書票「1907」/D100と序文・後記・追記は同じ(字句は多少異なる)。内容も概ね同じなるも、巻分けや記事の順序に相違あり。
D102 桃源遺事 一―五
【内容】水戸藩第二代藩主徳川光圀の事績書。西山遺事と同内容。
【現況】表紙・裏表紙ともなし。各巻冒頭右下に「躋壽/齋部」「艸中文庫/圖書印」の角朱印、最後に「躋壽/齋部」の角朱印あり。
【詳細】
巻之一 「抑水戸黄門光圀卿と申奉るは神祖の御孫にて…」で始まり、誕生から元禄三年七月まで。
巻之二 元禄三年十一月から元禄十三年十二月六日の薨去まで。そのあとに「西山遺事拾遺」を載せる。
巻之三 「一西山公、御諱ハ光國…」で始まり、種々の逸事を載せる。
巻之四 「一那珂郡村松村に次兵衛といふ貧しき百姓あり…」で始まり、種々の逸事を載せる。
巻之四 「一西山にて七十の御年賀の御祝儀…」で始まり、種々の逸事を載せる。
「桃源遺事巻之五畢 大尾 「躋壽/齋部」角朱印 」
【備考】蔵書票「1907」
D103 前田綱利年表 下巻
【内容】加賀藩第五代藩主前田綱利(綱紀)の事績および加賀藩政の記録。法令等の原文書の引用散見。
【詳細】
表紙題箋「参議公年表 四 」
元禄十五年三月二十二日~宝永五年五月十八日
表紙題箋「参議公年表 五 」
宝永五年六月十二日~享保四年十一月四日
表紙題箋剥落(「参議公年表 六」ヵ)
享保四年十二月九日~享保九年七月十一日
下巻は四・五・六の三冊からなり、最後は五月九日の綱利の死去から葬礼まで。
【備考】蔵書票「1907」
D104 文廟御傳略
【内容】第六代将軍徳川家宣の幼年期の伝記。寛文二年四月二十五日の誕生から正徳二年十月十四日の薨御までの記録であるが、寛文三年に新見備中守に預けられてから、寛文十年に父綱重に対面し桜田御殿に移り五代将軍綱吉に御目見し徳川綱豊と名乗るまでが詳しく、その後の将軍継承から薨御までは極めて簡単。
【詳細】
表紙には記載なし。
一丁オ冒頭に「文廟御傳略」とあり、「文昭院様、御幼少之節 虎松様与奉称候」で始まる。
後記:
「右一巻、承傳事共書留者也、
享保十四酉年 岡部氏長雅
右之趣、光官女 蓮光院由緒有之事故、當時同役新見豊前守ヨリ借候而、写置者也、
天明六丙午年三月 西丸御先手 篠山吉之助 」
この後に、新見備中守正信の系譜、家宣乳母の長屋氏(景恵―景武)の系譜、乳母恵光院(俗名雪野)の「恵光院尼碑背文」を載せる。
追記:「文廟御傳略借之、於本田氏芳信、新見正信及雪野傳借之、於岡野氏融明/主而、謄写之畢、新見氏即今御書院番、称弥五郎正脩、知行高千百六拾五石、長屋氏者小普請、称虎五郎景郷云、文化七年七月七日、堤期風識、」
【備考】蔵書票「1907」
D105 名君享保録 一―八
【内容】八代将軍吉宗の事績録
【表紙】「名君享保録 全 」
【詳細】
冒頭に「續源豊芭?蔵本」とあり、「續氏/蔵書」の角朱印あり。同人の筆写か。
序文:
「 序
書曰、八方有徳の君と謡ひ、四海無為の化を楽しむとは、聖主・湯王の仁徳を称し奉るの語、爰に比し参らする
東照大神君より御八世 吉宗公の御徳行、誠に聖に劣り給ハんやとて、有徳与 宣命下ル事、湯王の仁徳とならひ立給ふといわん、依之、此君御一世の御有様を八巻に識し畢、
寶暦八戊寅年初秋 武江記録者馬文非居? 」
序文の後、「名君享保録目録」。本文:「名君享保録 巻之壱」~「名君享保録 巻之八」
巻之壱から巻之八まであるが、各巻を別立てとせず、追い込んで写してある。
【備考】蔵書票「1907」
D106 老談一言記
【現況】表紙・裏表紙ともなし。一丁オに「齋藤文庫」の楕円朱印、他二つの角朱印あり。
【内容】一丁オの冒頭に「老談一言記」とあり。
【本文書出】「一信長公、御瓜をとらせられ、森蘭丸にそれ捨よと仰有けるに…」
【備考】蔵書票「1907」
D107 老談一言
【現況】表紙裏に「安見」とあり。一丁オに、「雅俗堂」の角朱印、「やすミむねかた」の角朱印あり。
【内容】
一丁オの冒頭に「老談一言 朝倉日下部景衡閈集」とあり。
本文書出:「一信長公、御瓜を取らせられ、森蘭丸にそれ捨よと仰ありけるに…」
以下、D106「老談一言記」と同内容だが、同一ではない。途中から「太田入道道灌日記」となり、この最後に、
「以上之((マ)の(マ))墨付、太田道灌か日記のよしにて、一巻乃書あるを見て抄出せし所也、…今ハいかなりぬらんを知らす、
丁酉十二月廿八日 君美氏識す 」
と新井白石の識語あり。
このあと「おあん物語」となり、その最後に、
「右一通、事実殊勝の筆取なり、誰人の録せるや不詳、疑しくハ山田氏の覚書なるへし、田中文右衛門直の所持を借しといふ事しかり、
享保十五庚戌年三月廿七日 公恒守書
是を見て、今安楽を思ひしれ、金かなくても、米かなくても 」
次いで「朝鮮陣中在陣乃衆ゟ来書之写」等が続く。
【奥書】
「右一巻は、或人乃所蔵せしを乞得て写し侍るもの也、
文政元寅年菊月廿九日
安見左兵衛権大尉源宗隆(印) 」
(角朱印、印文「也須美/源宗隆」)
【詳細】文政元年に安見宗隆が、「老談一言」「太田入道道灌日記」「おあん物語」等を、併せ書写したものか。
【備考】蔵書票「1907」
D108 銀䑓遺事
【内容】熊本藩主細川重賢の事績録。
【現況】表紙・裏表紙なし。
【構成】
「銀䑓遺事序」 「細川越中守源重賢君ハ、霊雲院殿宣紀君第二ノ御子也、…」
「凡例」
「銀䑓遺事巻一」
「銀䑓遺事巻二」
「銀䑓遺事巻三」
「銀䑓遺事巻四」
【奥書】巻四の最後に、
「弘 化 丁 未 小 春
越 智 正 邦 書
(印1) (印2) 」
【印記】(印1)角朱印、印文「正邦/之印」、(印2)角朱印
【詳細】序および各巻の冒頭上部に、「淀府内/斎図/書之章」の丸朱印あり。
【備考】蔵書票「1907」
D109 翹楚篇
【内容】米沢藩主上杉治憲(鷹山)の事績録
【現況】表紙・裏表紙なし。
【詳細】
三つの序文あり。
①「翹楚篇序」「寛政庚戌孟秋」「太華翁之翹楚篇者餐霞舘之起居注也…」
②「翹楚篇序」(署名・年紀なし)「自古之法言法行凡人君之…」
③「翹楚篇序」「致仕臣源鵬謹序」「臣鵬嘗刈楚 不識公以下世々 先君之嘉言善行名曰翹楚…」
本文
「翹楚篇
致仕臣大華源鵬謹撰
治憲公 始は勝興与称奉り、諱の字を給り治憲と称奉る、…」
【備考】蔵書票「1907」
D110 仁孝天皇崩御下行
【内容】弘化三年正月二十六日に崩御した仁孝天皇の葬儀下行等の記録
【構成】
弘化三年閏五月「遺詔 奏倚廬殿還御陣儀諒闇替物
清祓幷自倚廬殿還御之後五旬清祓
音 奏陣儀万調進物方等御下行帳」
弘化三年四月 御錫貯御束帯・諒闇御服等調料銀帳
弘化三年閏五月 錫貯・諒闇御服等調進料銀請取手形
弘化三年閏五月「閏五月廿一日 仁孝天皇様御葬送以下日時勘文調進御下行之覚」
弘化三年後五月「御葬送調進物御下行之事」
弘化三年後五月「請取申御下行米之事」
弘化三年後五月「御車供奉役人装束料幷調進料帳」
弘化三年閏五月「仁孝天皇様御葬送之力者御下行米注進帳」
弘化三年閏五月「仁孝天皇尊儀〈御葬禮/御中陰/御石塔供養/御百箇日〉御下行幷御布施帳」
弘化三年六月 「御葬送御車木地御下行帳」
弘化三年七月 「於般舟三昧院院家幷諸寺院江被下御布施物帳」
弘化三年七月 「御践祚調進物方御下行」
弘化三年七月 「御践祚参陣役者御下行之事」
弘化四年三月 「諒闇終日時定陣儀幷御稧大祓吉書 御覧陣儀幷御訪調進方等御下行帳」
弘化四年五月 御践祚以来御服調進料請取手形
弘化四年七月 御践祚以来御服之帳
【備考】蔵書票「1907」
D111 宗建卿記
【内容】難波宗建の日記
【年代】自享保十三年/至元文二年
【現況】上・中・下三冊が合綴されて一冊になっている。上中下各冊表紙の外題を次に掲げる。
①宗建卿記〈従享保十三年至十七年〉上
②宗建卿記〈従十八年至十九年〉中
③宗建卿記〈従二十年至元文二年〉下
上・中・下三冊とも一筆。本文中の所々に朱字(異筆)で訂正が加えられており、近代に入ってから筆耕し校正を加えた謄写本と考えられる。
【詳細】
表紙「宗建卿記 従享保十三年/至十七年 上 」
扉「宗建卿記 上 」
享保十三年分冒頭に宗建卿記」と記す。
「宗建卿記
享保十三年
正月七日 今夜左右馬頭…」
享保十三年から同十六年までは追い込み。
同十七年については改丁し、冒頭に「宗建卿記」と記す。
表紙「宗建卿記 従十八年/至十九年 中 」
享保十八年・同十九年とも、冒頭に「宗建卿記」と記す。
同十九年は改丁。
表紙「宗建卿記 従二十年/至元文二年 下 」
享保二十年・同二十一(元文元)年とも、冒頭に「宗建卿記」と記す。
同二十一年は改丁。
元文元年八月十七日まで。
上・中・下各巻の冒頭に、「林屋蔵書」の角朱印あり。
【詳細】「宗建卿記」は原本が失われており、現在は蜂須賀家本と田中勘兵衛本の二系統の写本が知られている。史料編纂所蔵書目録データベースで記載年次を確認したかぎりでは、イェール大学本は蜂須賀家本の写本であると考えられる。
冊割りが明治18年(1885)に修史館が作成した謄写本(現史料編纂所所蔵)と一致(史料編纂所所蔵目録データベースに記載されたデータによる)。
【備考】蔵書票「1907」/虫損が甚だしい。剥落しそうな紙片があるなど、修補が必要。
D112 甲陽軍實録手鑑
【内容】武田晴信(信玄)の合戦録。
【現況】表紙・裏表紙ともなし。
【序文】
文化十年の市村昌信の序文あり。
「 序
予舊家信陽川中島市村犀川之被歒洪水畢田宅為闕所故流下之邉野地名于下島赴為移住一百八十年餘于時文化壬申((九年))孟秋得幸時逮信陽下島之寓舊家而得此視甲陽軍實録手鑑雖然何人之書寫不知代々為傳来而已嗚呼焉疎愚哉綴糸切離蠧糞巢成反古惜廃亡歴然因茲強乞求令帰府而以間隙時々洒浄而合屬裏紙而以二十六冊成五巻與戦備圖五十五枚總于四十章改正而予成家鑑者也、
文化癸((十)酉(年))中夏 市村源昌信序 」
序文によれば、市村昌信が、文化九年に川中島の旧家で発見した反故同然の「甲陽軍實録手鑑」を貰い受け修補したものという。本書は、それを更に書写したものであろう。序文に「戦備圖五十五枚」とあるのは「甲陽軍戦地實圖」(D113)のことと思われ、両者はセットになるものである。
【目録】
甲陽軍實録手鑑 巻之一
韮崎合戦手鑑
小山田古備中信州海尻籠城 幷晴信公後詰合戦手鏡
甲州小荒間夜軍手鑑
甲州信州境瀬澤合戦手鑑
甲州信州境平澤合戦手鑑
甲陽軍實録手鑑 巻之二
信州高嶋諏訪左馬介焼働武田方仕事、同居舘迠取詰焼拂方々武田働事
頼茂居舘湖蝶へ攻寄放火之事、小蝶之戦尾河城攻之事
大門峠合戦手鑑
信州伊奈((那))合戦手鑑
塩尻峠合戦手鑑
信州小縣内戸石合戦手鑑
信州笛吹峠合戦手鑑
信州海野平合戦手鑑
甲陽軍實録手鑑 巻之三
信州上田原合戦手鑑
上州御寺尾合戦手鏡
信州時田地蔵峠合戦手鏡
信州桔梗ヶ原合戦手鏡
信州松本攻夜討二ヶ條手鑑幷図
信州松本城主小笠原長時攻手鑑
冨士大宮御陣所へ北條氏康衆ヨリ夜討之事
甲陽軍實録手鑑 巻之四
信州川中嶋合戦手鑑
武州松山城攻手鑑
上野國安中松枝両城攻手鑑
甲陽軍實録手鑑 巻之五
上野箕輪城攻手鑑
相州三増瀬合戦手鑑
駿河花澤城攻手鑑
遠州味方原合戦手鏡
【備考】蔵書票「1907」
D113 甲陽軍戦地實圖
【内容】武田晴信(信玄)の戦備図。
【現況】現況は三冊箱入。各合戦の戦備図を貼り継ぎ、折本仕立てにしたもの。
【詳細】「甲陽軍實録手鑑」(D112)の合戦記事の記載順と本書の戦備図の掲載順は概ね一致し、「甲陽軍實録手鑑」の序文にみえる「戦備圖五十五枚」に当たるものと思われる。本書各冊の奥書によれば、安政二年に高崎藩士堀江一臧所蔵のものを清水祐忠が写したとあり、「甲陽軍實録手鑑」に書写年代は記されていないが、同時に書写されたのかも知れない。いずれにせよ、両者はセットになるものである。
【備考】蔵書票「1907」
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一 甲陽軍戦地實圖 上 (小口書「戦備圖上」)
【内容】韮崎合戦一~五、海野((ママ))尻籠城 全、海尻後詰一・二、小荒間夜軍一・二、瀬澤合戦一・二、平沢合戦 全、信州大門峠一~四、信州塩尻搦手一~五、信州塩尻一~五、信州戸石一~六
【奥書】「于時安政二年乙卯秋八月寫、上毛高﨑城内、堀江一臧蔵、清水祐忠寫 」
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二 甲陽軍戦地實圖 中 (小口書「戦備圖中」)
【内容】信上境笛吹峠一~七、實檢之節備圖、板垣額岩寺對陣一・二、初海野平越兵備之圖、初海野平甲兵之圖、海野平交戦之圖 乾、海野平交戦之圖 坤、海野平両陣實檢之圖、上田原 上・中・下、三寺尾一~四、猿ヶ馬場對陳 全、法福寺 先・中・後、時田合戦一~五
【奥書】「于時安政二年乙卯秋八月寫、上毛高嵜城内 堀江一臧蔵、清水祐忠寫 」
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三 甲陽軍戦地實圖 下 (小口書「戦備圖下」)
【内容】桔梗ヶ原合戦一~三、松本城攻ノ圖 全、冨士大宮江北條夜討之圖 全、信州川中嶌合戦一~六、武州松山城攻之圖 全、上州安中松井田城邉畧、上州箕輪城邉畧、和田一・二、厩橋城攻 全、氏真没落 前・後、相州三増瀬絶頂一~七、蒲原城攻 上・下、駿州花澤 全、味方ヶ原一~四、薩田峠一~四、小田原押入ノ条 甲武ノ堺鳥取一~四、小田原押入ノ条 惣軍鋪地 全、小田原押入ノ条 相模川渡 全、
【奥書】「于時安政二年乙卯穐八月寫、上毛高﨑城内 堀江一臧蔵、清水祐忠寫 」
D114 公事叅仕備忘
【内容】朝廷諸行事について先例を書き留め、備忘としたもの。三冊を合冊。
【年代】幕末期の成立か。「慶応元年…同三年八月」「慶応元年九月」などの記載あり。
【備考】蔵書票「1907」
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一 公事叅仕備忘 一
【内容】四方拝(タイトルのみ)、小朝拝、元日節会、大床子御膳、白馬節会、踏歌節会、春日祭、
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二 公事叅仕備忘 二
【内容】石清水臨時祭、東照宮奉幣発遣日時定幷使、
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三 公事叅仕備忘 三
【内容】放生会、例幣、新嘗祭、豊明節会、賀茂臨時祭、
D115 天保雑記
【背表紙】「天保雑記」
【内容】藤川貞(整斎)の著作
D116 弘化雑記
【背表紙「弘化雑記」
【内容】藤川貞(整斎)の著作
D117 天弘録
D118 嘉永雑記
【背表紙】「嘉永雑記」
【内容】藤川貞(整斎)の著作
D119 風説雑書
一 「風説雑書 上」
【現況】2冊を合冊。
【内容】「風説雑書〈自天保十四癸卯/至弘化四丁未〉一」/「風説書〈安政年間〉二」
二 「風説雑書 下」
【現況】3冊を合冊
【内容】「風説雑書〈元治甲子・嘉永癸丑・安政戊午・万延庚申・文久壬戌〉三」/「風説雑書〈万延庚申・文久辛酉・元治甲子〉四」/「風説雑書〈朝廷より相渡候御書付写、付庚午・辛未風説雑書〉五」
D120 武野燭談
【内容】徳川歴代および家臣の事績をまとめたもの
【備考】背表紙:「武野燭談」
【現況】巻一~巻十を合冊
D121 略史草案
【内容】間島元暁が「園部日記」と「江戸日記」に基づいて編纂したもの、園部藩の動向に関するもの
【備考】背表紙:「略史草案〈自元禄二年/至寛保二年〉」
【現況】十二冊を合冊
【奥書】「略央全部二十冊、間島元暁抜萃、滝周韶合為五冊、予任重職後、借得而写之、于時文化九年壬申五月、服部康周」
D122 御奉書及大名書状
【背表紙】「御奉書及大名書状」
【原題】「御奉書并諸大名衆書状写」
【現況】横帳。原表紙の左側に「御奉書并諸大名衆書状」という題簽あり。虫損の「」は「覚」か?原表紙中央に「参拾壱番」と書かれた札が貼ってある。「参拾壱番」という文字には朱の棒線が引かれており、右肩に朱字で「五」と書かれている。
【内容】儀式や交際などに際して必要な文案集。文案七十七例を収める。寛文年中の文書アリ。
【備考】蔵書票「1907」
D123 朝鮮信使進見儀註
【背表紙】「朝鮮信使見儀註」
【内容】朝鮮通信使進見儀式の次第書。趙泰徳が正使の際(正徳元年)の儀式に基づく。
D124 嘉永露西亜応接日記
【背表紙】嘉永露西亜応接日記
【内容】「露西亜応接日記」と「中村為弥崎港対話・川路書簡」からなる。
「露西亜応接日記」:
【原表紙】「〈筒井・川路〉魯西亜応接日記/嘉永七甲寅歳仲冬初五写功成/瀬澤子静」
【印】「陽春廬記」(朱印)アリ
【年代】嘉永6年12月14日~24日の記事
「中村為弥崎港対話・川路書簡」:
【内容】「中村為弥崎港対話」は、嘉永6年12月晦日に行われた中村為弥とロシア使節の問答記録。「川路書簡」は、嘉永7年3月10日の川路聖謨から阿部正弘への書状。
【末尾】「渡井氏所蔵」の朱書、「甲寅十月廿八日写功成」の墨書。
D125 琉球使参府記
【内容】宝永7年の琉球使節江戸参府の記録
【背表紙】記載ナシ
【末尾】「正徳元辛卯年十月写□、持主加藤右近」
D126 異国舶渡来上書
【内容】嘉永のアメリカ合衆国国書などの記録。国書の他に、邪馬台詩に倣った「御場台詩」「亜番台詩」「御台場詩」を載せる。
【背表紙】記載ナシ
【原表紙】「異国舶渡来上書」
D127 西藩御取扱実記
【原題】「西蕃御取扱実記」
【内容】天保15年~安政4年の幕末外交に関する記録
【備考】ハーバードロースクール所蔵(雄松堂のマイクロあり)と同じか。
【背表紙】西藩御取扱実紀 上
【構成】巻一~巻六。順序不明
【内容】
「魯西亜国エッセルローテ書并副書」:嘉永6年長崎来航関係
「筒井肥前守川路左衛門尉中村為弥等魯西亜使節対話之筆記」:同上
「和蘭書翰之儀ニ付筒井肥州申上候書付」:天保16年8月
「嘉永五子年蘭人申立之儀ニ付、長崎奉行より御老中江御内慮伺之書」
「合衆国プレジデント之書」:ペリー来航関係
「加州侯上書」「薩州侯上書」「佐賀侯上書」など
「アメリカ船渡来之様子浦賀与力五人直話之筆記」
【背表紙】西藩御取扱実紀 下
【構成】巻七~巻十二。
【内容】
「中村為弥異船江罷越候節対話御徒目付長坂半次郎御普請役御小人目付相越ス」
「寅正月十二日長崎表川路左衛門尉旅宿に於て急使を以而書籍類一同差上候」
「筒井紀州直話之御筆記」
「下田表アメリカ人御取扱寛示遇候ニ付志慮書取」
「蝦夷地義ニ付松前侯差出候書付」
「阿部伊勢守殿江差出候書付」
「御軍制御改正掛」
「英吉利通弁官尾州乙吉差出候書付」
「英吉利条約書」
「亜墨利加条約」
「魯西亜本朝之条約」
「久世大和守御渡之御書付」
「北亜墨利加合衆国測量船より差出候横文字和解」
「老中阿部伊勢守殿御渡シ」(別段風説書)
「於長崎和蘭領事官申上之和解并同人呈書弐通」
「(備中守御直達)」
「アメリカ使節参府途中略記」
「亜墨利人登 城ニ付書御達書并登 城之節御次第書」
「亜墨利加国書翰和解」
「備中守宅ニ於アメリカ使節申立候趣」
「十一月六日於蕃書調所土岐丹波守川路左衛門尉鵜殿民部少輔井上信濃守永井玄蕃頭アメリカ使節対話之趣」
「午三月六日堀田備中守殿従京師旅館アメリカ使節江遣候書翰」
「午六月廿二日久世大和守殿御渡書付 亜墨利加条約之次第」
D128 麓の色
【背表紙】「麓の色」
【内容】全五巻。「麓の色」と「吉原旧記」からなる。「麓の色」は、遊里に関する諸事を解説したもの。「吉原旧記」は吉原に関する記録。
【序】「明和五戊子初夏望日、浮喰者癡隠飯袋子浮蔵主武野臍斎において書」。
D129 故実拾要目録(国文研目録の書名は誤り)
【内容】有職故実の用語辞典
【背表紙】「故実拾要」。巻1~巻15。
D130 播磨古城録
【内容】播磨国内の城及び城跡について郡ごとに、所在地や城主を記したもの
【背表紙】記載ナシ
【奥書】「于時文久三亥歳二月日得古書、宗源館主如鯰正のり記す(花押)」
D131 近代諸城主次第
【背表紙】「近代諸城主次第」
【内容】江戸幕府開創以降の諸国の城主の推移をしるしたもの
【備考】末尾に「姫茂」の記載あり
D132 主図合結
【背表紙】「主図合結」
【内容】城絵図を集成した『主図合結記』に同じ、山県大弐の著。
【末尾】「藤原姓 好古(花押)」
D133 大阪城明細
【背表紙】記載ナシ
【内容】大阪城内の建物などに関する明細
D134 五武器談
【背表紙】「五武器談」
【内容】五種の軍記物語に出てくる武器に関する解説書
【著者】伊勢貞丈
【序】「明和八年辛卯十月十一日、貞丈書」
【上巻】保元物語、平治物語、平家物語
【下巻】盛衰記、太平記
【奥書】「明和九壬辰六月、伊勢平蔵貞丈著」
【末尾】「高階広主蔵書」
D135 難波軍記
【背表紙】「難波軍記」
【内容】豊臣秀吉死後、豊臣氏滅亡までを描いた軍記物語
【備考】二冊本を合冊
D136 小牧御陣
【背表紙】「小牧御陣」
【備考】「小牧御陣之覚」ほかを合わせて収録
*「小牧御陣之覚」
小牧合戦に関する覚書
末尾に「三月十日、渡辺図書改」
「弘化三年酉年六月廿一日、相州浦賀表沖へ異国船渡来之節・・・阿部伊勢守様御勝手迄、御内意相伺候書付写」
末尾「六月廿一日 松平下総守家来和田孫兵衛」
*「成島氏上書」
江戸幕府の儒官成島司直の上申書
末尾「右、天保十二丑年 成島司直」
D137 雄藩雑話
【背表紙】記載ナシ
【内容】丹羽長秀以下の丹羽氏に関する記録
【奥書】1「明和三丙戌年秋八月、星崎入道流斎、俗名上だ蔵人義亮書之」/2「享和二年春二月」/3「弘化四丁未無神月写之」/4「右本、明治十六年未九月、七十三翁市川昌泰写之」
D138 関ヶ原御一戦実録
【原題】「関ヶ原御一戦覚」
【背表紙】「関ヶ原御一戦実録」
【備考】二冊本を合冊
【印記】「永昌広漢」(朱印)あり
【末尾】「弘化二年春三月、桂文郁写之」
D139 寛永三年・同十一年二条御城江行幸之記
【背表紙】「〈近代/公実〉厳秘録」
【印記】「永昌広漢」(朱印)あり
【備考】上下二巻を合冊
D140 近代公実厳秘録
【内容】徳川吉宗の将軍就任から死亡までの記録
【背表紙】「〈近代/公実〉厳秘録」
【印記】「永昌広漢」(朱印)あり
【備考】上下二巻を合冊
D141 氏家記
【内容】江戸時代初期の幕府周辺の動向に関する記録
【背表紙】「氏家記」
【構成】巻一~巻五
D142 幕府水藩聞見雑録
【内容】安政五年七月以降の記録
【背表紙】「〈幕府/水藩〉聞見雑録」
D143 事蹟合考
【著者】柏崎具元
【内容】江戸の地誌
【背表紙】記載ナシ
【構成】巻一~五
D144 柳川落穂
【内容】立花宗茂に関する記録
【背表紙】「柳川落穂集」
【奥書】1「享和元年辛酉年拾月上之三日写之、中江氏書之者也」/2「享保十癸寅年正月下旬写之終、松田氏」
D145 給松風説集
【内容】松平乗邑失脚に関する書物 「給松」は大給松平の略ならん
【背表紙】「給松風説集」
【印記】「文武耕堂」(朱印)アリ、「筒井氏文庫」(朱印)アリ
【構成】上中下三冊からなる
【末尾】「延享四丁卯年正月吉日写之」
【備考】D147と同内容か
D146 撃攘余録(国文研目録誤り)
【内容】人物伝的な書物
【背表紙】「撃壊余録」(誤り。「撃壌余録」が正しい)
【構成】巻一~五
【末尾】「于時明治元戊辰とし菊月下旬写之」
【著者】Ito Enshin の著作とする
D147 延享風説集
【内容】松平乗邑失脚に関する書物
【背表紙】「延享風説集」
【末尾】「延享四卯五月写」
【備考】D145と同内容か
D148 風説萩枝折
【内容】元治元年七月の禁門の変に関する記録
【背表紙】「風説萩枝折」
【構成】巻一~五
【序】「元治元年甲子の秋、洛東真葛原の騒客夢外子」
D149 日光御参詣供奉御役人方御行列之次第
【現況】折本
【内題】「天保十四癸卯年四月日光御参詣供奉御役人方御行列之次第」
【奥書】「右者五郎兵衛町三河屋幸二郎主より借受認候畢、天保十四卯年三月、〓〓〓人」
D150 本朝鎧色考
【内容】日本の鎧の威毛について考察したもの
【年代】安政五年
【著者】布引(源)高敬の著
【凡例】「安五丙申歳春二月下旬布引山人源高敬書」
【備考】源高敬は赤穂の人
D151 日本風土記
【著者】明の総兵官侯継高の著
【現況】第一~第五、合綴
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第一:(巻一冒頭)日本風土記巻一抄
第二:(冒頭)日本風土記巻之二抄
第三:(冒頭)日本風土記巻之三
第四:(冒頭)日本風土記巻之四抄
第五:(冒頭)日本風土記巻之五
D152 明和風土記
【現況】巻一~十、合綴
第一
第二:(巻二内容)高橋文仲右門ニ考頼来事ほか
第三:(巻三内容)宇佐八幡へ夜神事事ほか
第四:(巻四内容)大弐福島伝蔵物語之事ほか
第五:(巻五内容)右門竹内正広ニ初而対面之事ほか
第六:(巻六内容)右門正庵密談之事ほか
第七:(第七内容)岡本東庵京都発足之事ほか
第八:(第八内容)伊予守殿明智之事ほか
第九:(第九内容)右門よし原にて生捕之事ほか
第十:(第十内容)大弐正庵神奈川にて被召捕事ほか
D153 遭厄日本記事
「巻一之上」:蝦夷地航海の発端ほか
「巻一之下」:ヱトロフ出帆并ニラソワ人交易の伝ほか
【序文奥書】文政八年乙酉冬十月 測量所 高橋景保謹識
【印】書肆 大垣俵町正流軒利兵衛 ※以下の巻、すべて印同じ
【編訳者】馬場貞由訳 高橋景保校
「巻之二」:】俘に就て後厳しく戒められ他処に曳るる事ほか
【編訳者】馬場貞由訳 高橋景保校
「巻之三上」:箱館牢内の事ほか
【編訳者】馬場貞由訳 高橋景保校
「巻之三下」:箱館の官府にてリコルトの書翰を看る事ほか
【編訳者】杉田豫・青地盈訳 高橋景保校 ※以下の巻、すべて訳・校同じ
「巻之四上」:松前牢舎の事ほか
「巻之四下」:牢内新に炉を開く事并或人婦人の画を贈る事ほか
「巻之五上」:牢内の様子すへて改れる事ほか
「巻之五下」:奉行より新しき衣服を贈れる事ほか
「巻之六」:居所を移す事ほか
「巻之七上」:山径を経て洞中に隠るる事ほか
「巻之七下」:ヘレブニコフ幽谷に落る事ほか
「巻之八」:松前にて再び入牢する事ほか
「巻之九」:居所を転ずる事并に奉行交代の事ほか
「巻之十上」:新奉行及び貞助学士足立左内和蘭通事馬場佐十郎到着の事并俄羅斯舶え贈る書翰の事ほか
「巻之十下」:モール乱心せし事ほか
「巻之十一」:松前を立て箱館に至る事ほか
「巻之十二」:箱館を出帆してベテルバウルスに到る事ほか
「附録上」:コロウヰン等日本に拘はれて後オホーツカに帰る事ほか
「附録下」:再び日本渡海の事ほか
D154 会津旧事雑考
【内容】会津旧事雑考抜粋
【年代】天喜5年~寛永20年
【印】宮田守祀蔵
【跋奥書】時漢文十二年〈壬子〉歳六月三日 奥津陽城下〈臣〉向井新兵衛吉重謹跋
D155 長州雑記
D156 片聾記
【寸法】縦25.3センチ 横15.8センチ
【内容】結城秀康系松平家関連年譜
【末尾】「右は飯沼氏覚書之由、於東武写之者也/宝暦十四申年十月」
【印記】最終頁に「文淵堂三十七年四千七百四十七 刈羽 卅七五三二■■」とある(「文淵堂三十七年四千七百」はゴム印か)
【備考】
文淵堂:浅倉屋書店か(東京都練馬区小竹町1-47-13)。以下、浅倉屋ウェブサイトより引用。
貞享年間(1684-1688)にもと佐倉藩士の出であった吉田庄左衛門の創業と伝える。かつては江戸浅草広小路に所在。屋号を浅倉屋、堂号を文淵堂と称したが文淵閣と改めた
五代久兵衛の享保3年の刊期をもつ『大黒福徳霊験記』他、近世には種々書籍を上梓し、書林三組惣仲間では中通組から転じて南組に属して活躍。近代に至っては数多くの求版を手がけた。八代久兵衛は前田夏蔭に師事して文積と号し、上木を好まずむしろ古書肆として名を馳せた。以降、和漢古典籍を専らとし著名な文人・墨客等に贔屓にされてきている。十一代久兵衛は震災・戦災により蔵書を焼失するも本郷に移転し鋭意果敢に古典籍専門書肆としての復興につとめ、また公的仕事に献身した。
現在は練馬区小竹町に移転し十二代吉田文夫が斯業を継続。先代から続く古典籍を主とし即売展、目録を中心に営業をしている。
D157 筑後地鑑
【寸法】縦26.8センチ 横17.6センチ
【備考】上・下の両方が含まれる
D158 播磨国風土記
【寸法】縦26.8センチ 横17.8センチ
【印記】所蔵印あり 「吉野隆平蔵書」
【裏表紙見返し】「文淵堂卅八年五十八百 九十五 刈羽」とある(「文淵堂卅八年五十八百」はゴム印か)
【末尾】
「右播磨風土記一冊
安政五年六月中令書写
万延元年六月中自比校畢
井上朝風」
D159 彦根侯藩中書出
【寸法】縦23.2センチ 横16.1センチ
【内容】弘化5年 相模防備となるにあたっての彦根藩主申し渡し。家老・番頭・軍事奉行・者頭・使番・組頭・賄勘定・目付・旗支配・鑓支配・祐筆・大筒方のそれぞれ宛。
【末尾】「嘉永元戊申秋八月廿三日筆を起し、同廿七日浄書、卒業す、同日宇津木六之丞来るを以て呈し畢ぬ 素水老人」
D160 北海随筆
【寸法】縦26.7センチ 横18.5センチ
【著者】新井白石
【年代】天保3年写
D161 但馬考
【現況】第一から第十合綴
「巻之一」:(冒頭)但馬考巻之一 出石城〈臣〉桜良翰輯 制度第一/(序文奥書)宝暦元年冬十月 出石城臣桜良翰再拝稽首謹書
「巻之二」:但馬考巻之二 出石城〈臣〉桜良翰輯 年代
「巻之七」:但馬考巻之五 出石城〈臣〉桜良翰輯 地理第六
「巻之八」:但馬考巻之六 出石城〈臣〉桜良翰輯 地理第七
「巻之九上」:但馬考巻之七 出石城〈臣〉桜良翰輯 地理第八
「巻之十」:但馬考巻之十 出石城〈臣〉桜良翰輯 人物
D162 出雲風土記解
D163 加陽武鑑
【備考】明治34年7月8日於加州金沢購之
【印記】岡氏之蔵
【内容】加賀藩士のイロハ順の索引
D164 元亀四年下京中出入之帳
【内題】元亀四年六月十八日 下京中出入之帳
【内容】五くみのより銀日記、使中銀の日記、遣日記に分かれる
【備考】洋紙に万年筆で書写したもの
D165 山城国風土記
【内容】
「一」:山城国風土記(伊奈利)、伊勢国風土記(桑名郡・員弁郡)、常陸国風土記(新治郡・筑波郡・信太郡・茨城郡・行方郡・香島郡・久慈郡・多珂郡)
「二」:山城国風土記(久世郡)、伊賀国風土記(伊賀郡・阿盃郡)、伊賀国風土記(伊賀郡・阿拝郡・山田郡・名張郡)
【一、二共通の奥書】山城国風土記三郡〈葛野郡・紀伊郡・久世郡〉分者、以権少外記中原朝臣〈師之〉所持之本写之畢、闕文虫喰鼠糞之難無是非者也、 永禄元年十二月三日 熊野山僧良快書判
【奥書】右二冊者、雖多脱葉鼠害写之畢、惜哉、和籍之及荒廃焉、 天正二年三月下旬 権少外記中原忠胤判/右一冊者、以山本忠辰本令書写、 に時元禄丁丑春正月念五 散位正五位下中臣祐字〈在判〉
D166 三河国二葉松
【寸法】縦25.9センチ 横17.7センチ
【内容】三河国の社領・寺領の朱印・黒印除地の書き上げ
【蔵書印】「河部蔵書」
D167 水戸温故録
【寸法】縦27.5センチ 横18.3センチ
【構成】上下2冊
【著者】高倉胤明
【備考】「水府地理温故録」と同じ物
D168 日向国風土記
【寸法】縦26.6センチ 横19.4センチ
【印記】蔵書印あり
【年代】文政四年との朱書
D169 武蔵国風土記
【寸法】縦26.7センチ 横19.3センチ
【備考】「享保九甲辰下反下旬 神主源頼久写之」
D170 日本惣国風土記
【寸法】縦25.9センチ 横18.6センチ
【備考】D169の写か
【印記】蔵書印あり
D171 新潟町触廻文留
【寸法】縦23センチ 横15.4センチ
【内容】
「新潟町触廻文巻之一 目録」
一、町中倹約質素之事
一、諸振舞心得方町触之事
一、穀物冬買御役銀之事
一、売女徘徊停止場所之事
一、公事御尊判拝借金之事
一、博奕厳重御取締之事
一、売女旅人宿通行之事
一、抜薬種抜米御制禁之事
一、騒動後倹約御再触之事
一、無尽頼母子意得方之事
一、売女衣掌鬟錺御示方之事
一、長岡御大手口訴訟箱出之事
一、名子借屋者猥ニ付御再触之事
一、長崎俵物方受負人触之事
「新潟廻文巻之参 目録」
一、天保四巳年十二月御救米追触之事
一、同五午年正月安米触之事
一、同五午年十月追払立退去之事
一、御殿様為遂御寺社町家意得方之事
一、天保七申年十月違作ニ付町家別而御倹約触之事
一、同八酉年五月時疫薬法触之事
一、御宣下御巡見様御順行ニ付意得方之事
一、天保九戌年三月古今吹替触之事
一、同閏四月煙草入紙入金銀金具御停止之事
一、大判古今銀御吹替触之事
一、天保九戌年十月草字弐歩判・文字判御吹替之事
一、同十一月竹虎落叱り追込者町触之事
一、同月追払者之事
一、同十二月御手当米意得方之事
一、天保九戌年十月御吹替金御手当之事
一、同十亥年十一月御手当金御触之事
一、同十一子年六月浪人留置武芸学之事
「新潟町触廻文留巻之四 目録」
一、天保十一庚子年八月古金銀御引上触之事
一、同十二丑年閏正月大御所家斉公薨去之事
一、宝暦十一巳年六月大御所家重公薨御之事
一、同御中陰之内御奉行所触之事
一、天保十三寅年四月御倹約触之事
一、内寺社右同断之事
一、同年七月御倹約再触之事
一、似セ金銀銭拵候者咎触之事
一、三都外芝居御停止触之事
一、出家町人町家借宅御差留之事
「新潟町触廻文巻之五 目録」
一、諸色直段下ケ触之事
一、文字金・弐朱銀・壱朱銀通用留之事
一、船頭共直徳利催売荷物之事
一、古金銀壱朱銀、来ル卯十月迄日延之事
一、壱分利貸方心得触之事
一、御所替ニ付、懇志冥加金之事
一、天保十四卯年六月新潟湊上地之事
一、他方者江戸人別御引払之事
一、廻国修行者・六部巡礼之者役筋届之事
一、出家願候者其筋之役元届之事
一、出稼者願書役元相届之事
一、江戸住居之者出精江相返候者
一、江戸人別入不相成候事
一、悪党者仕置心得方之事
一、朱并朱墨仲買御差留之事
「新潟廻文巻之六」
一、酒造出造出稼御差止之事
一、領主より唐物抜荷御取締之事
一、御公儀唐物抜荷取締方之事
一、家財并立具類御停止願之事
一、従江戸川村清兵衛様御触出之事
一、諸国御料百姓江被仰渡候書附之事
一、川村清兵衛様御着ニ付心得方之事
「新潟町触廻文巻之七」
一、従御奉行所様被遊御申渡候請書之事
一、長岡様・宇都宮様御老中之事
一、諸事質売御改之事
一、古金銀引替日延触之事
一、新潟町人江諸事御触日記之事
D172 わたくしの記
【寸法】縦22.3センチ 横16.2センチ
【内容】
「わたくしの記」:(末尾)安永丙申のとし 日光御参詣扈従 成島和鼎あらハす/「日光山供奉私記」と同じもの
「夢の物語」:モリソン号事件などの国際関係が内容
「クルーセンスルソン日本紀行 十四篇之内」:樺太など北方関連
「当節イキリス国モリソンと申船司日本之漂流人召連江戸近海江乗渡候趣風説御座候ニ付、右船渡来之節取計方愚意存付候趣、奉申之候書付」:松本斗機蔵著/目録に欠落。「英国使節渡来風説に付上書」と同内容か
「天保十年風説書」:オランダ風説書/向山誠斎『蠧余一得』に収録のものと同じ
「小笠原嶋之事」
「蛮学一件の内に身を隠候者之事」:高野長英関連
D173 小田原衆所領役帳
【背表紙】冊子の背表紙には「北条分限記」とタイプされている。
【内題】「小田原衆所領役帳」。
【状態】原表紙なし。
【印記】巻頭に蔵書印が捺されている。
【書き出し】
小田原衆所領役帳
一 松田左馬頭
千弐百七拾七貫七百弐拾文 西郡苅野庄
此内 千貫文 従前々致来知行役辻
(下略)
【巻末】
奉行太田豊後守
永禄二年己未二月十二日 関兵部丞
松田筑前守
【奥書】
此書高野山高宝院為什物有之所、元禄五壬申正月武州豊島郡若王子別当禅夷山金輪寺第五世宥相法印写置、藤泰有懇望、而安永六丁酉年十一月十三日同第九世宥昌法印乞貸求、而写之、闕后源遠清亦借之、天明二壬寅歳八月廿三日丁亥写、
【備考】蔵書票「1907」。『戦国遺文』などに同名の史料が収録されている
D174 豊後国風土記
【備考】蔵書票「1907」
【備考】当然ながら後世の写本。字の感じからすると、写本作製の時期は古くても江戸後期であろう。
D175 吉備古今鑑
【内題】原表紙に「吉備古今鑑上中下合巻」と内題あり。
【備考】上中下三冊分の内容が一冊にまとめて認められているが、各巻の境目には内表紙が入れられていない。各巻の冒頭に「中巻」「下巻」と書かれているだけ。
【目録】巻頭に三冊分の目録がある。左の通り。
吉備古今鑑巻之上
目録
一、岡山城由来并町数・橋数・個数・人数等之事
一、岡山の城并国中古城謂之事
一、備前国中古跡并名所の事
一、高島新田謂并所々之御番所役人附之事
同中之巻
目録
一、古今当国居住之武士の事
一、三宅家の起り并宇喜多家伝の事
一、金吾中納言秀秋卿之事
一、池田家御任国之事
一、御当家御領分村附の事
同中之巻
目録
一、当国神社仏閣之事
一、新熊野林権現謂之事
一、金陵山西大寺謂之事并八塔寺熊山の事
一、銘金山観音寺謂之事
一、当国四十八ケ寺旧記の事并国中寺数
一、当国往古より伝来諸家珍宝之事
一、岡山川口塩時之事
【備考】蔵書票「1907」
D176 桑島若狭大坂物語
【内容】一つ○書きにて大坂の陣に関する経緯・出来事が記されている。秀頼の転封拒否の事に始まり、七日の松平忠直と真田幸村との合戦に及ぶ。末尾には、秀頼からの救援依頼を島津家が断った話しが記されている。
【印記】冒頭に三種類の蔵書印が捺されている。
【備考】蔵書票「1907」。字の雰囲気からすると近世のもの。原本か写本かは不明。
D177 肥前国風土記
【印記】巻頭に蔵書印が捺されているが、一部が切り取られており、誰の蔵書かわからないよう
になっている。
【備考】蔵書票「1907」。当然ながら後世(近代?)の写本。
D178 白河故事考
【巻頭】「広瀬典著」
【印記】巻頭に二種類の蔵書印あり。
【著者】国書総目録によれば、蒙斎広瀬典の著作。
【備考】蔵書票「1907」
D179 江戸沿革略記
【寸法】縦24センチ 横15.8センチ
【内容】江戸市街の由緒・沿革などを記す
D180 かくれさと
【凡例】天保十五年正月の凡例を載せる。
【内容】江戸の色里の解説。
【構成】上巻・下巻・附録の構成
【備考】蔵書票「1907」
D181 土佐一覧記
【背文字】「土佐一覧記」
【序文】「よつのうみやしまのほかまてなみしつかなる世のいとなみやすけなるにこころあるあまのしわさとてかきあつめたるもしほ草のあとをなんひとまきをくりて侍るをみるにかの貫之のむかしおほえて土佐の国の山々浦々…今より□巻の名を土佐一覧記ともさためよかし、ときハ安永ミつのほし甲午にやとれる末の春/実豪書之」
【印記】「野々村」「埜邑蔵書」 (写真)
D182 東濱叢書
【背表紙】「東濱叢書」
【寸法】28 cm.
【備考】蔵書票「1907」
D184 柳営記事
【構成】全5冊
【内容】諸大名・旗本の書上、幕府儀礼、諸大名格式、幕府諸制度など。
【年代】弘化期前後
D185 天明六年大阪町鑑
【内容】大坂の町に関する情報集。いわゆる町鑑。
【備考】蔵書票「1907」。青色の罫紙(半丁行)に筆で書かれている。
D186 休明光記
【年代】1807年刊
【内容】羽太正養(1754-1814)が寛政11年に蝦夷地取締掛を命ぜられてから、函館奉行、松前奉行として、蝦夷地経営の最高官僚であった時代の記録
【背表紙】「休明光記」
【印記】「福田文庫」(朱印)あり
【構成】巻一~九
【末尾】「福田源敬同(朱印)
D187 類聚雑要鈔
【内容】有職故実の書
【背表紙】「類聚雑要鈔」
【末尾】「享和四年甲子正月模写、浣荼井」「文化三年丙寅十月模写、魚津里」
D188 北山抄
【内容】藤原公任が編纂した故実書
【構成】
「北山抄 上」:巻一~五
「北山抄 下」:巻六~十
【末尾】「安永八年七月廿六日、於中山殿一会了、内膳奉膳兼志摩守高橋等庭」
D189 武雑記
【内容】伊勢貞孝の著作に伊勢貞丈が注釈を加えた武家故実の書
【背表紙】記載ナシ
【印記】「岡本家蔵書印」(朱印)アリ
D190 人倫訓蒙図彙
【内容】様々な人々の生業などを絵入りで説明したもの 元禄三年刊本を嘉永元年に模写
【背表紙】「人倫訓蒙図彙」
【構成】一~七
【原奥付】「元禄三庚午載七月吉日、書林平楽寺開板、大阪高麗橋一丁目村上清三郎、江戸日本橋南平松町村上五郎兵衛」
【奥書】「嘉永改元年、三園識」
D191 礼献式
【表紙・裏表紙】なし。横半冊
【内容】
※冒頭
「 享保七寅年三月十五日
被 仰出候御書付之写
一金百枚以上ハ 拾枚
一同五拾枚ハ 五枚
*以下、銀と時服・綿・晒布について同様の記載。
凡諸御禮ニ付献上物
高並之例左記之
*役儀之御礼として老中・所司代・大坂御城代・御側御用人・若年寄・御奏者番・寺社奉行について、金馬代・銀馬代の別を記す。
※その後に、病後・湯治帰御礼・家督御礼・隠居御礼・初而御礼・一万石以上家督ニ而諸太夫官位之御礼・婚姻御礼について、石高に応じた献上品の種類・数量を記す。
※次に、尾州家の家督・隠居・元服・任官・婚姻等々の御礼について、それぞれの献上品および年代を記し、家老についても同様に記す。
「 六十一万千五百石
御居城尾州名古屋 尾州
御太刀一腰 家来十三人
銀 百枚 巻物五/銀馬代 一人
御家督 絹紗廿巻 同 三/銀馬代 四人
綿五十把 同 二/銀馬代 八人
御馬二疋
御刀
享保十六年正月十八日 主計頭
元文四年正月廿八日 御相続 但馬守〈少将候得共/中将之格〉
(中略)
嘉永二年七月四日 御相続 掃部頭 」
※以下、紀州・水戸家について、家老を含め尾州家と同様に記す。
※水戸の後は、井伊家を始めとする各大名家について同様に記す。
※将軍からの下賜品および諸大名からの諸御礼の際の献上品の記録。特に諸大名の献上については、御礼の種別ごとに年次が列挙されている。年次は、享保期から嘉永・安政年間まで。
【備考】蔵書票「1907」
D192 殿居囊
【表紙・裏表紙】なし
【内容】
※序文
殿居囊序
春穐乃佳節に心をミすめるは殿居する人の常にしあるを……大江都の大城の殿に仕かへまつる人のたつきにばものしつかなりけり、
天の下ながく保つ丁の酉のとしの十二月
藤原朝臣
※内容
武家/必覧 殿居囊目録
一武家年中行事
一武家諸役班列
一服忌令公案集成
一武家心得艸
此書は、おほやけのかしこきことらを書記したれハ、摺巻の数を三百部にとゝめ板を絶しぬ、
東都 計書堂蔵梓
殿居囊
武家年中行事/年中行事拾遺
殿居囊 二
御曲輪朱引略図/諸御門番所御法令略記/五奉行御番衆指物略図
殿居囊 三
日光山略図附御傳略記/紅葉山略図附御傳略記/唐叡山略図附御傳略記/三縁山略図附御傳略記
殿居囊
安国殿幷黒本尊御傳略記/東照宮御鎮座箇所略記/山王権現略図附御傳略記/聖堂略図附御傳略記
殿居囊 四
武家諸役班列
殿居囊 五
武家心得艸
殿居囊 六
服忌令公按集成
※序文の「天の下ながく保つ丁の酉のとし」は、天保八年と思われる。
※計書堂より版行されたものの写本。冒頭の目録と実際の構成は異なっている。また、三巻と四巻の間に無番号の一巻が入っているが、内容から三巻の内とも考えられる。
【備考】蔵書票「1907」
D193 尾陽見聞筆記
【表紙・裏表紙】なし
【冒頭】
尾陽見聞事記
一延宝九年辛酉八月、尾州松平摂津守様初而御領知御拝領被遊、信州之内伊奈((那))郡・高井郡・永((水))内郡にて三万石、
【末尾】
一宝永三年、 松平但馬守様御縁組被 仰出候、正親町大納言殿御息女様、
一同年十二月十三日ゟ熱田海辺御新田築初る、
尾陽見聞書記終り
※このあとに「家光公御上洛記」を合載。
家光公御上洛記 寛永十一甲戌六月廿日
天の下を扶佐し給ふ御政をうけつかせ給ひ、御代をたやかに吹風枝をならさぬ寛永の比ほひ、きのへ戌の年、右大臣家光公御参内おわすへしとて……神奈川御殿に着御ありて、
旅とてもいつくも同しワか国の
へたてはあらしてらす日の本
(中略、この間、所々で歌を詠みながら上洛)
御参内記 道春草案
秋のこなたのすゝしくふける風の前にをとするは……
家光公御上洛記終り、
于時天保十亥年五月寫之、
(抹消)■■■■■
■■(花押)
【詳細】
「尾陽見聞筆記」ではなく「尾陽見聞事記」
松平摂津守は、尾張藩第三代藩主徳川綱誠の弟義行。寛文六年に摂津守、天和元年(延宝九年)に信州にて三万石。松平但馬守は、義行の弟友著。元禄七年に但馬守、宝永四年婚姻、室は正親町一位藤原公通卿女。
「尾陽見聞事記」は、延宝九年~宝永三年の尾張藩に関する見聞記。『鼠璞十種』第一(大正五年刊)の「諸家随筆集」のうちに載っている。
寛永十一年の徳川家光上洛・参内の記録を合載。
書名は、「尾陽見聞書記・家光公御上洛記」が適当か。
天保十年の写本であるが、写した人物の名前の部分が抹消されている。
【備考】蔵書票「1907」
D194 澤巽阿弥覚書
【巻頭】
「澤巽阿弥覚書 巽阿弥ハ光源院殿之同朋也、
伊勢守殿御系図 」
【印】「川内文庫」蔵印
【備考】朱筆書き入れあり。国会蔵本三十輻所収本とほぼ同文、ただし、朱筆は別。
D195 公儀年中行事
【表紙貼付外題】公儀年中行事
【寸法】26 cm.
【冒頭】「当用一覧/年中行事/此御作法/家綱公御代書記之者也、但至巻ノ末貞享迄之儀加之」
【備考】蔵書票「1907」
D196 寛政二年御還幸行列
【内容】天明八年の京都大火で焼失し、寛政二年に再建された禁裏への還幸行列と、その際の公卿らの装束等を描いた冊子。
【付属図】御還幸仮皇居庭上之図」「御還幸御道筋之図」「御還幸新内裏庭上之図」
D197 浅川聞書
【首部】
伺候 公程閑暇雑書
一大樹様より宗茂様被召出、御咄可申上由、御意之段々御座候而後、上意に飛騨守方は台徳院殿より此方別而御心安被思召上候、其方又御したしみも可有之候、然者御当地にてはいか様之儀にて大切の御用に御立可被成御心入等候哉、可被仰上との御雑談也、宗茂様被仰上候は、天下静謐之御時代に御座候へは、大切の御奉公と申儀、一円可申上様無御座候、御酒存分に被下、千秋楽を謡ひ申候より外覚悟無御座候、我等之御奉公とは、何方にても御門一所御番相勤可申外覚悟無御座候と、被仰上候時、
【尾部】
一宗茂公には能弓を被遊、一同に百矢不中といふ事なし、有時堀田伊豆守様へ御振舞之節、飛騨守殿には兼々弓の事及承候間、一矢御所望と被仰候、久々不仕候、殊に弓は年罷寄候てはならぬものに御座候、其上致中絶、御免と有たれは、何も達て御所望に付、しからは可仕とて、的矢一手取、弓は何弓にても不苦□□御的場へ御出被遊候、ほうつきのうれたるを皮をわり、伊豆守様御出し被成候、是は迚も中り申間敷候はん、的被仰付候へと御座候へとも、宗茂にはかん的めつらしからす候、是を被遊候へとて、則に竹はさみ、的場へ御立被成候、近頃老弓かてんに不参候とて、一矢被遊候へは、ほうつきのなかに御射落被遊候、御見物之御方目をさまされ、宗茂の御弓及承候よりきめ被成御事、驚入候とて、何も感悦なされ候、
「此書は((朱書))浅川傳右衞門江戸・柳川にて承伝候儀、書留申候覚書を写置者也、
宝永丙戌六月十八日」
【備考】蔵書票「1907」。浅川傳右衞門の聞書。国書総目録有り。
D198 老士語録
【年代】享保16 (1731)年
【編者 】 向坂忠兵衛(咬雪軒)編.
【寸法】27 cm
【備考】蔵書票「1907」
D199 水戸の花
【背表紙】「水戸の花」
【寸法】26 cm.
【備考】蔵書票「1907」
D200 安政五年留書
【現況】洋装。安政五年留書。一丁目表上辺 鉛筆横書 An-sei go nen tome-gaki (Manuscript)。和本部分の表紙なし。原本。192丁。
【内容】 安政五年一月~三月初め分
冒頭
1.(武家官位等口宣案留) 20丁分
「 松平大膳大夫
上卿坊城中納言
安政四年十二月十六日 宣
従四位下大江慶親朝臣
叙従四位上
正月八日 聡ー
光ー」
(以下略) 以下広橋および東坊城の二人の武家伝奏分
2.書翰留 45丁分
「正月六日
一翰致啓上候、私儀去十六日被叙位四位上候、依之位記等之儀、従後老中本多美濃守方被仰達候付、捧愚札候、首尾能相調候様所仰候、委曲相含口上候、慶親、恐惶謹言」
(以下略)
3.官物部類 25丁分(墨付17丁)
「正月
井伊掃部頭
従四位上成
禁裏 黄金壱枚
上臈後局 銀子壱枚
長橋御局 右同断
大御乳人 右同断
取次 銀子弐拾目
准后 白銀三枚
於八百御方 銀壱枚
於五百御方 右同断
取次 銀子拾文目
(以下略) 」
(以下略)
4.諸手形留 32丁
「正月四日
請取申米之事
米合百八拾五石六斗者 但京升也、
右是者飛鳥井侍従三位家領高九百弐拾八石六升七合四勺物成之積り拾ヶ年之内、御蔵米ニ被替下候付、当年分三百七拾壱石弐斗弐升六合八勺被下候内、百八拾五石六斗唯今請取申所、仍如件
飛鳥井侍従三位家
安田宮内印
安政五午年正月 市岡式部印
赤木唯五郎殿
白井達之進殿
間宮源助殿 」
(以下略)
5.御関所女証文 4丁分
6.令旨留 10丁分
「正月十四日
輪王寺宮令旨之趣承訖、抑江戸深川覚樹院光照申大僧都之事、遂披露候處、則去十一日 勅許候御礼等、今日首尾能相済候、尤覚樹院可令上京之処、当時難去寺役有之候ニ付、以代僧申上候段、令沙汰候、此旨宜有洩達候、恐々謹言
正月十四日 聡ー
光ー
信解院御房
住心院御房 」
(以下略)
7.猶子留 5丁分
8.(混穢届) 4丁分
9.仮服産穢 12丁分(墨付9丁分)
10.御内儀・関東拝借留 9丁分
11.(雑留) 24丁分
「正月十日
去ル丑年より当巳年迄五ヶ年之間厳重御倹約被 仰出候処、猶又来午年ゟ戌年迄諸事是迄之通御倹約被 仰出候間、都而先年相達候通、可被心得候、
右之趣可被相触候、
十二月
右之通相触候間可被得其意候、 」
(以下略)
【備考】蔵書票「1907」
→D71~D78の野宮定功分の武家伝奏(定功の任期は文久二年~慶応三年)記録との関係、要比較。こちらは、東坊城聡長と広橋光成の両武家伝奏関係のもの。
D201 有職懐中鈔
【内訳】「有職懐中抄目録」・「有職懐中抄巻之一」・「有職懐中抄巻之二」・「有職懐中抄巻之三」・「有職懐中抄巻之四」・「有職懐中抄巻之五」
【奥書】
弘化三丙午年
沼津
三浦佐太郎保村
庵地氏ヨリ借写、
【備考】蔵書票「1907」。一〜五、合巻。『国書総目録』有り。早稲田本と同じか。
D202 元治元年長州書類
【内容】元治元年七月禁門の変に関する長州関係の史料を集めたもの。主に毛利敬親が幕府に提出した弁明。
1 長州より竹原主計を以て差出候書付
十月廿七日付、長門宰相(毛利定広)
2 奉勅始末
年月日欠、
3 井原主計を以差出候書付
十一月十九日付、長門宰相(毛利定広)
4 国司信濃へ授候軍令条
元治元六月、黒印(毛利敬親カ)、国司信濃江
5 甲午七月十八日、長州より頼越し候書面
七月、松平大膳大輔(毛利敬親)家老益田右衞門介・福原越後・国司信濃、津和野様・小田原様・宮津様・浜田様・膳所様・水口様宛
6 別紙
元治元子七月、 長州浪士浜忠太郎・入江九一
7 謹按
元治元子七月、長州浪士中
8 甲子七月長藩益田・福原・国司三名連名建白
元治元子年七月、益田右衞門介・福原越後・国司信濃
9 甲子八月藝州侯伺書写
八月十日、松平安芸守
10 同御附紙を以御差図面
年月日欠、
11 甲子八月長府歎願書
年月日欠、毛利左京亮内 西北豊後など13名。
12 甲子八月七日、湯口又左衞門申上書面
八月七日、湯口又左衞門
13 甲子八月十八日晩、三条大橋西詰北側御高札前へ張紙にて有之候、大面写、
元治元年八月十八日付、日本義士
【首部】
長州より竹原主計を以差出候書付
八月十八日之儀、毛利讃岐守・吉川監物以下家来共取調候処、当日俄に九門内干戈を以御警衛等有之候事に付、兼而堺町御門御固候、其御中候間、偏に九重之内不尋常御一大事と奉存候、
【尾部】
弥長州朝敵に極り候得者、イツレモ防長に押寄、追討可有之哉、矢張各々方モ朝敵と相見へ候、然者、程無く其国ニ被参り追討可致者也、能々御用意可有之者也、
元治元年八月十六日 日本義士
【備考】蔵書票「1907」
D203 大坂城中御殿明細録幷図
【表題】なし。
【内容】
一大坂御城 御本丸惣坪数壱万四千坪余
但、帯曲輪幷山里大御門升形共
(中略)
一御本丸御殿間数幷御張付絵彫物等明細書
但、御殿全図一枚別副
*以下、大阪城御殿の各部屋の間数と張付絵や彫物等について記す。
【備考】蔵書票「1907」。御殿絵図を添付。
D204 信濃越後国大地震云々
【表紙】
「 弘化四年丁未三月十四日
信濃
國大地震ニ付諸向ゟ御届
越後
附、丹後国変地一件 」
【構成】
真田信濃守御届書 本多豊後守御届書
西村覚内 同 真田信濃守 同
川上金吾助 同 高木清左衛門同
高木清左衛門同 右同人ゟ継立差支御届
右同人拝借金願 飯山家中ゟ手簡写
松平伊賀守御届書 真田信濃守御届書
小笠原信助 同 堀 長門守 同
榊原式部大輔同 本多豊後守藩来書写
高崎平八 松平伊賀守在所ゟ之文通
ゟ 同
西村覚内 丹後国変地風聞書幷絵図
信州矦ゟ来書写 岡崎兼三郎ゟ御届書
【内容】善光寺大地震の際の大名・代官等からの届書等を書き留めたもの。
【現況】このあと、次の文書を合綴。
※表紙
「 北町奉行
井戸対馬守様御掛り
斃牛切荒出入一件
御吟味方
中嶋東五郎様 」
※内容
乍恐以書附奉願上候
松平大和守様御領分
浅草弾左衛門支配
武州入間郡安生老村
一斃牛切荒難渋出入 長吏小頭
訴詔人 卯 兵 衛
同人組下同村
長吏場主惣代
差添人 五 兵 衛
同御領分
同州同郡松郷組頭
相手 惣 兵 衛
同所百姓半七借家
同 和 惣 太
右訴詔人長吏小頭卯兵衛外壱人奉申上候、……
*年代を欠く、差出人省略
御奉行所様
差上申対談書之事
一武州入間郡安生老村長吏小頭卯兵衛外壱人ゟ、同州同郡松郷組頭惣兵衛外壱人江相掛り候斃牛切荒難渋出入申立奉出訴候一件……依之、乍恐以対談書奉申上候、以上、
嘉永二年酉十一月十四日 *差出人省略
御番所様
差出申一札之事
一此度其許方ゟ斃牛切荒難渋出入之旨申立、……依而、右出入一件此度為趣意与金拾五両我等共ゟ差出、詫入申一札仍如件、
嘉永二年酉十月朔日 *差出:相手→受取:訴詔人
差出申一札之事
一貴殿方ゟ我等江相掛候一件、懸合之上対談行届、金子調達申、……御日延中之雑用金我等方ゟ差出可申候、依之、一札差出申處、依而如件、
嘉永二年酉十一月廿四日 *差出:相手→受取:訴詔人
【現況】この後、次の文書を合綴。
※表紙
「
安政二卯年十月二日夜亥上刻御当地
大地震ニ而大火ニ相成変死人怪我人潰家
潰土蔵等町方人別入之者計
書上写
安政書留 」
※内容
此度地震ニ而変死人・怪我人・潰家・潰土蔵御調ニ付、左ニ奉申上候、已上、
○以下、一番組から二十一番組および番外ごとに変死人・怪我人の人数を書上
惣組変死人:合四二九三人(男一七〇〇人、女五五八一人、男女不分:三二人)
同怪我人:合二八一一人(男一五七九人、女一二〇八人)*合わず
○この後、潰家:一万四三四六軒、潰土蔵:一四〇四ヶ所
今般地震幷出火ニ付、変死人・怪我人取調候処……此段申上候、
卯十月十六日 町会所年番
名主共
【備考】蔵書票「1907」。書名としては、「信州善光寺・江戸大地震記録」などが適当か。書名は、弘化四年の善光寺大地震のことのみであるが、安政二年の江戸大地震の被害記録も含まれている。また、両地震の記録の間に嘉永二年の斃牛切荒難渋出入関係文書が綴じ込まれているが、地震には直接関係せず、誤って混入したものか。
D205 安政文久雑書
【表紙】
「 嶋津鏡
文久二戌年嶋田佐兵衛大坂一件
安政七年桜田一件
其外品々抜書 」
【内容】(表紙の「嶋津鏡」に当たる)
松平薩摩宰相殿領分幷知行高
○薩摩藩の領分と家臣の知行高の一覧を記す。
右之通御座候、
文久三亥年正月天覧之由
薩長大明神
福引浪人
第壱番 大丈夫請合薩摩/丈夫壱反
第弐番 長柄長子壱対
第三番 大極上々大原米五俵
(中略)
外 花のし五十
諸国之丸あんとう壱つつゝ
【中表紙】「梟首晒者面々」
【内容】(表紙の「文久二戌年嶋田佐兵衛大坂一件」に当たる)
此嶋田左兵衛権大尉之事、大逆賊長野主膳同腹いたし、不謂奸曲を相巧、天地不可容大奸賊候、依之、加誅戮令梟首もの也、
文久二年壬戌七月廿三日
*以下、宇江玄蕃・目明文吉・渡辺金三郎・大河原十蔵・森孫六らの誅戮について記す。
【中表紙】「安政七年庚申三月三日、水戸殿御家来桜田騒動相済御届ニ罷出候節、差出候書付之写、但、銘々懐中残居候由」
【内容】(表紙の「安政七年桜田一件」に当たる)
桜田門外の変に際し、水戸浪士らが用意した書付。
【中表紙】※(表題なし)
【内容】※(表紙の「其外品々抜書」に当たる)
安政の大獄の処罰記録
【末尾】
「書置の形見となれや筆の跡
我は何国の土になるとも 」
【備考】蔵書票「1907」
D206 武家閑談正説
【寸法】23 cm.
【備考】蔵書票「1907」
【背表紙】「武家閑談正説」
D207 嘉永年間外交記事
【寸法】24 cm.
【背表紙】「嘉永年間外交記事」
【内容】
あなかしこ
太平宇都志茂能
合衆国書翰和解
合衆国伯理璽天徳書翰和解
桑名侯対策
〈松前/西在〉漂流人口書 全
松前城申附江刺箱舘人別調
俄羅斯国上宰相子也利羅徳書翰
【備考】蔵書票「1907」
D207+ 土佐国古文書
D208 白川勲績
【寸法】 27 cm.
【現況】ハードカバー
【背表紙】「白川勲績」
【備考】蔵書票「1907」
D209 徳川家斉薨去
【寸法】27 cm.
【現況】ハードカバー
【背表紙】「徳川家斉薨去」
【備考】蔵書票「1907」
D211 官中秘策
【内容】諸藩の武士が心得ておくべき知識を記した便覧。「官中要録」とも。
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一 「官中秘策一」
【朱印】「永昌広漢」アリ
【構成】序・西山物語・初篇巻一~巻五・第二編巻一~五
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二 「官中秘策二」
【朱印】「永昌広漢」アリ
【構成】第三編巻一~巻五・第四編巻一~巻五
D212 武家厳秘録
【内容】江戸時代の制度・行事などに関する知便覧。
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一 「武家厳秘録一―三」
【朱印】「大島之章」アリ
【構成】
一武家年中行事
二武家諸役〓列
三服忌令公案集成ほか
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二 「武家厳秘録四―六」
【構成】
四御曲輪内朱引之略図并諸御門番所御法令ほか
五日光山略図并御伝略記ほか
六武家諸法度附勤向申合ほか
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三 「武家厳秘録七―十」
【構成】
七諸家官位昇進之次第ほか
八束帯之図ほか
九御成先諸的例ほか
十武家諸法度附諸向掟鑑ほか
D213 武家厳秘録附記 御定書
【構成】上下二冊を合冊、公事方御定書
【朱印】「大島之章」アリ
D214 武家厳政録
【内容】江戸幕府の法令・裁許状集 編年ではなく部類分けされている
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一 「武家厳政録一」
【構成】巻一~十二
【朱印】「山岸蔵書」「佐渡萩野〓之図書印」アリ
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二 「武家厳政録二」
【構成】巻十三~三十
【備考】慶長五年七月日「関ヶ原陣中御条目」が最古、元禄十年六月七日「曹洞宗被仰渡条々」が最新
D215 的例問答
【内容】江戸時代の制度・裁判などについての先例などを記した書物。大野広城の著作とは別物か。
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一 「的例問答上」
【内容】
一大紋之紋所之事ほか
二摂家親王本願寺伝奏御門主江出会心得之事ほか
三病人倒者之事ほか
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二 「的例問答下」
【内容】
四御成之節御用状箱持ほか
五御譜代ニ而無之者、御譜代勤之場所相勤候儀に付而御書付ほか
六目安裏書初判之事ほか
七隠売女御仕置之事ほか
D216 御書付留
【背表紙】「御書付留 自享保七年至文政九年」
【表紙】元の表紙の例
「享保七寅年/同八卯年/同九辰年/同十巳年/御書付留 壱」
【構成】六冊を合冊
御書付留壱 享保七年~十年
二は欠か
御書付留三 享保十六年~二十年
御書付留四 元文元年~五年
御書付留五 元文六年~寛保四年
諸書付留 文政八年
書付留壱 文政九年
【内容】文政八年諸書付留の記事例。諸家からの届けが多い。在所の火事被害届、縁組願書、勘定奉行に提出した伺書およびそれへの附札回答など。
【印記】元表紙に朱印「柳芝柳」アリ
【備考】表紙に挟み込まれた小紙片に、「明治十八年迄、享保七壬寅年、百六十四年ニ成」などの朱書されたものあり。書写時のものか。この朱印・紙片は以下の元表紙にいずれもあり。
以下、「御書付留 二」はなし。「御書付留 三」(享保十六~二〇)、「御書付留」(元文元~五年)、「御書付 五」(寛保元~延享元年)。
【備考】最後の「文政八乙酉年 諸書付留」には、目次はなく、本文内容は文政十年前後迄あり。タイトルも、ほかの合綴物とは異なり、別系統のものか。
壱には防火・火事関係多数。また江戸城内についての記事多い。全国触れの収録もあり。
【備考】三には、享保16年「御城内外召連供廻り事」、享保18年「武士屋敷町屋牡(ただし虫ヘン)蠣殻葺屋根之事」「去春三月廿八日類焼候牛込御門内屋敷之内外とも不残瓦葺之筈之事」。五には正月儀式をはじめとして、殿中関係多い。他に増上寺での法事など。寛保元年「出火之節、控居候町人足之事」。同2年、赤坂門外に瓦葺命じた記事、以前命じた家作瓦葺指令。同三年、老中若年寄がまかり越したとき、門前混雑のこと。一役ひとりづつ八月二十六日登城のこと。
D217 御書留
【表紙】元の表紙なし
【内容】彦根井伊家中の御書留。「直興公御代御書留」という記述から始まる。収録された「覚」の宛名にも「木俣清左衛門殿、庵原主税助殿、脇内記殿、三浦与右衛門殿」とかかれており彦根藩の記録から抄出したものと思われる。
【年代】年代は、寛文十~宝暦・明和期まで。
【構成】三冊を合冊か
御書留其三 直興公御代御書留抜 寛文十年極月廿三日付~
直通公御代御書留抜 元禄十四年三月廿三日付~
御書留其三 御賄方御書留抜 宝永十六年十二月八日~
直澄公御代之御書留 万治二年十月十三日~
末尾に「文政六未年九月日御賄役在勤之節写之」
御書留其三 直幸公御世御書留抜 宝暦五年七月廿七日~
【備考】第一丁目冒頭に朱書きで「御書留 共三」と書かれている。この部分は後筆か。
D218 備藩典録
【構成】元・亨・利・貞の四冊を合冊
【内容】備前国岡山藩士三村永忠が、藩主池田光政に関する事蹟・言行を編修したもの。「有斐録」とも。
【朱印】「芳涼蔵書」アリ
D219 君則・小君則・続小君則
【構成】背表紙は「君則」だが君則・小君則・続小君則三冊を合冊
【内容】
「君則」:岡山藩の儒者近藤篤(西涯)の著書。藩主池田光政の言行・事績を儒教的観点から規範として記したもの。
「小君則」:君則に倣って青山武忠が池田政香の事績を記したもの。嘉永元年の成立。
「続小君則」:小君則の続編。嘉永五年の成立。
D220 諸家御届書
【目録】
一、御多門江雷落候事、
一、町御奉行所小用所ニ而切腹致候事、
一、紛者御届之上町御奉行所江御引渡之事、
一、御徒士軽追放被仰付候例、
一、月番初而登城御礼無之付、月次初而ニ不相出事、
一、御家来御仕置済前後御届有無之事、
一、辻番廻り場喧嘩之事、
一、中間を徒目付討捨候付御届、
一、辻番廻り場之内手負倒者、
一、辻番人首縊、
一、御下屋鋪江捨物、
一、日比谷御門中廻場倒者、
一、駒場御成御見通江倒者、
一、
一、御下屋敷垣之内捨物、
一、辻番廻り場ニ而自滅、
(以下、二〇〇箇条略)
【備考】京都大学に同一書名のものがあるが、同じものかは不明
D221 諸覚書
【表紙】原表紙に「諸覚書 渡辺繁昌」とアリ
【年代】安永・寛保などの年号が見える
D222 御用留之内書抜
【表紙】原表紙に「延享四卯年七月より/御用留之内書抜/大野忠良」とアリ
【首部】冒頭に「御領知郷村引渡之儀ニ付、郡奉行中より引渡御代官・留守居・手代被相渡候書付写」とアリ
D223 御家中法度
【内容】下総古河藩(土井家第二期時代)における諸規定。
【構成】御礼御祝儀・御忌日附御法事・遠慮閉門類・屋敷定・旅行定・武芸学問・諸願・諸祝儀・病物忌血・御医師取扱・小役取扱・組足軽類取扱・雑・出火出水の十四分類からなる。
D224 御分限帳
【表紙】原表紙に「慶応三卯年/御分限帳/六月」とアリ
【内容】松代藩(真田家)の慶応三年の分限帳。
D225 五書合巻
【構成】殿居袋・御定書巻之一・目録巻之一・同僚議定抄・服忌令目録・質疑評論(糸+思)麻集の六書を合冊したもの。
【朱印】「南閘大井市家書印」アリ、
【内容】
「殿居袋」:江戸幕府の制度・行事に関する便覧。旗本大野広城の編纂。
「御定書巻之一」:諸犯罪に対する処罰の先例を集めたもの。安政五年に大井信(南閘)が書写。
「目録巻之一」:書付・制札・触書などを集めたもの。安政五年に大井信(南閘)が書写。
「同僚議定抄」:武士として心得ておくべき事柄に関する便覧。安政五年に大井信(南閘)が書写。
「服忌令目録」:近親者の死亡に際しての服喪の期間などに関する先例を集めたもの。幕府制定の服忌令を書写したものではないカ。安政戊五年に大井信(南閘)が書写。
「質疑評論(糸+思)麻集」:添付メモによる表題。武士として心得ておくべき事柄に関する便覧。安政六年に大井信(南閘)が書写。
D226 衆庶問答聚・辰賜報恩集
【構成】衆庶問答聚・辰賜報恩集を合冊したもの。
【朱印】「南閘大井氏家書印」アリ
【内容】
「衆庶問答聚」:武士として取り扱ってきた様々な案件を集成したもの。「北阜閣」の原稿用紙に記されている。
「辰賜報恩集」:「辱賜報恩集」の誤り。武士として取り扱ってきた様々な案件を集成したもの。安政六年に大井信(南閘)が書写。
D227 港口記
【朱印】「藤井蔵書」アリ
【内容】幕末の異国船来航に関する記録を集めたもの。
【備考】その内「安政四巳年十月亜墨利加国使節登城一件、御料理被下之」には「右、以江川家書留抄録了、宇売廼房之」とアリ
D228 欠番
D229 欠番
D230 松永道斎聞書
【構成】松永道斎聞書上下二冊を合冊。
【朱印】「横山蔵書」アリ
【内容】徳川家康が、秀忠に聞かせるために井上正就に語った教訓を、松永道斎が正就から聞き取って記したとされる書物。
D231 なゐ記
【内容】安政二年大地震の記録類を集めたもの
1 法橋寂樵の著作
(書出)
安政二乙卯年神無月二日朝より時雨、もよほして寒さむけなりけれとも、例の慈眼大師の追悼に瀬川宗匠の連歌に出仕して暮かたに帰りけるに・・・
(書留)
御事々にうこきさためぬ壬申ゆりすゑんとやなゐふるにらん、広風とある短冊にて見侍りし、中坊駿河守云々、
2 「なけきの落柴」 (安政二年)十月三日 法橋寂樵作
(書出)
世の転変は遁かたくや侍らふ、其難の軽重なるは人々の因によるへし、
(書留)
はかなしや心もとなや亡人の数にはもれて世に残る身も
*
(備考)
薄墨色の切紙に書かれ、綴込し有り、
3 「江戸大地震並出火細鑑」
(書出)
安政二卯年十月二日夜、四つ時大地しんの後所々に有之、江戸四里四方の御屋鋪・寺院・町屋土蔵等大破致したる事、算ふるにいとまあらす、依之、遠国の縁者へ告達するに、筆紙に尽し候得共、潰家出火等残る処なく、相記し候間、よくゝゝ御らん被下、洩たる分は追加に出すへし、
○
(書留)
○廿六、小石川牛天神下諏訪町すは明神大破、同所町斗やける、同江戸川筋潰家多し、
(備考)新吉原以下26箇所の出火の模様。
4 「御入国以来大地震と唱へ伝へ候分」
(書出)
寛永四丁卯年正月廿一日、江戸大地震御曲輪内大破、諸処に而人多死す、八月にいたりて関東諸国洪水、其上少々ッヽ時々地震有之候、
(書留)
右は御尋に付、不取敢申上候、当時は□右之書籍遺して十分に探索仕兼候間、筆記の内と聢には相成かたき旨記し上候、世上坊間に御座候、和漢合運図五冊、大成年代記二冊、其外小冊之年代記類は、和漢年契等は誠に以俗書にして採用には相成不申候、記載も疎漏にて誤謬も不少と存候、万一諸書と相違の儀は可有之候は、御刷止には御直し可然と奉存候、且は御入国以来之江戸大地震と伝へ候分、外には見聞無御座候、
乙卯十月三日 耕翁
5 「営中御沙汰書」安政二年」
(書出)
十月三日
漆奉行 〈御勘定吟味方改役並〉鈴木三平
浅草御蔵奉行〈漆奉行〉竹島東太郎
右、被仰付旨於御祐筆部屋縁側老中列座大和守申渡之、
水戸中納言殿
右者、昨夜之地震並火事に付、為伺御機嫌御登城、御白書院縁側謁太田摂津守、
一右同断に付、紀伊殿・尾張殿より使者被差出之、於躑躅之間謁岡部駿河守、
一右同断に付、溜詰高家詰衆御奏者番登城、於同席謁老中、
(書留)
右、於柳之間紀伊守申渡之、
6 老中等書付写
(書出)
久世大和守殿御渡候御書付写
大目付江
昨夜亥下刻、地震に而居屋敷・表長屋座敷、其外大破に付、対客登城前差支候間、修復出来迄は対客等無之候、此段向々可被達置候事、
十月三日
(書留)
一万石以上家来之儀、前文同様人別減少之御趣意を以、追々定府相減候様可被致候、尤余分之都合も可有之事には候得共、可成丈御趣意相立候様可被心得候、
十二月
7 町人等への申渡覚等
(首部)
申渡
南北小口年番
名主共
今般地震に付、市中潰家多被押打相果、又者潰家より及出火、焼死致候者も数多有之趣相聞、天変難渋之折柄に付、此度に限、組合名主立合、死骸見分之上、可訴出候、乱之上子細無之候はゝ、直に死骸片付可申候、尤目上之者に候段、子細有之候はゝ、訴出、検使可請候、
但此申渡以来訴出候分は検使可請候、
右之通、月行事持場所門地共、早々可通候、尤未曾有之天変出格之取計に付、平常之儀と不混様可心得、
南北小口年番
卯十月四日 〈名主惣代〉名主伊十郎
(尾部)
乍恐以書付奉願上候
一御年貢長銭百五拾文 茶船弐艘
右之船、左相成用立不申候に付、右弐艘共御極印三ヶ所宛切抜大切に仕舞置候処、当月二日夜家潰れを辺より出火居宅江火移候に付、去寅年御年貢御役銀御上納御手形之儀者、別状無御座切上候、御極印三ヶ所之儀者、弐艘共持退候、無間合も焼失仕候段、不調法至極、重々奉恐入候、何卒以御慈悲、右手形弐艘共差上申候間、当卯年御年貢・御役銀御上納被仰付、御帳麵御除被遊被下置候様、御聞済、偏に奉願上候、以上、
右者
右之通吟味仕候処、相違無御座候、以上、
安政二卯年 深川永代右衞門前山本町
十一月 新助店
〈舟主〉増次郎
〈家主〉新助
〈名主〉伝左衞門
【備考】蔵書票「1907」年購入
D232 雑書
【表紙】表紙なし。横半冊
【小口】小口に「雑書二」とあり。
【目録】
雑書巻貳目録
一大坂町数
一同大名・簱本蔵屋敷数
一同橋数
一同所ゟ所々江道法
一摂河郡村数
一同御朱印寺社
一大坂高札場
一近藤重蔵身持中国・四国江悪党集御城代参府延引之儀
一御城代道中日記
一寺社奉行箱入附目録
一公方様年中両山其外御参詣御名代定
一右大将様同断
一御三卿方西丸御登城定日
一御三家始諸大名月次西丸出仕定
一三御所様御誕生日
一諸席御太刀目録置畳目定
【構成】本書は、小口書および冒頭の目録によれば「雑書」の第二巻目とあるが、全何巻かは不明。
【年代】年代不詳なるも、文中に宝暦五亥十一月」「天保八丁酉年三月廿四日」とあり。
【備考】蔵書票「1907」
D233 手箒
【内容】
・
・
・
(首部)
宇都宮系図
正二位右大将贈〔太〕大政大臣
道兼 粟田口関白
正位中納言
兼隆
(尾部)
光陰のうつり易きをくわんすれは、あやまり来れるおそれは歎くも猶あまり有り哉、折ふし机に向ひてそこはかとなくおもひ出るにまかせ、聞たる事を筆次第に書ならし他見のためならされは、反故の裏に書きあつめ手箒と名付く、一笑々々、
于時享保十九〈甲寅〉年
憐興斎学客士(花押)
【備考】蔵書票「1907」
『国書総目録』では「宇都宮手箒」。
内容:「宇都宮系図」・「宇都宮家没落後城主之事」・「宇都宮町地子御免之覚書」・「宇都宮御城之事」・「四之曲輪」・「御城中御飾松」・「惣曲輪」・「惣外曲輪」・「御曲輪離候事 御下屋鋪」・「惣町中御祭礼書附」・「奥書」
D234 常陸古文書
D235 万治文政年間書付
【現況】一〜四とあるが、全三冊合綴、二欠。
【内容】幕府法令の抄出。
【詳細】
「御書付 一」:
【表紙】紙背文書のあるやや硬めの紙、表紙を除いて一〇九丁
「 万治 享保
寛文 元文
天和 寛保
貞享 延享
元禄 寛延
宝永 宝暦
正徳
御書付 一」
【首部】
万治
万治元戌年十月廿七日
一風烈之時、公儀御用無之而、他所江相越へく次、若不叶用事有之者、隣家之面々江申断可罷出事、
一屋敷近所之面々常々申合、火事出来之節者、互に出合、火を防へき事、
一自然火を付る輩を見出におゐては、可捕之段、火付に而雖無之、不審有之族をは留置、町奉行か又者御目付之内江其段可申断事、
【尾部】
宝暦十二午年六月廿八日
妾腹等に男子有之候処、虚弱に付、老中并頭支配江可相達、男子無之由に而、養子相願、追而妾腹之男子丈夫届等致候儀者、有之間敷事に候、自今右躰之儀無之様、万石以上共可被相触候、
「御書付 三」:
【表紙】紙背文書のあるやや硬めの紙、表紙を除いて七八丁
「 寛政
享和
文化
御書付 三」
【首部】
寛政
寛政元酉年三月、大膳亮殿御渡、堀田式部被達候、
都而道中往来致候者、宿々江対しかさつ成義、不致荷物、貫目も弥改、所において相改候間、御定之通相守可申候、
【尾部】
文化五辰年四月朔日、駿河守殿、
来巳年朝鮮信使対州迄来聘に候処、被□外国候御大礼に候得共、万石以上高役金并御□□領惣国役可差出旨、被仰出候、当辰年より来ル申年迄五ヶ年に、割合可差出候、御役相勤候万石以上高役金者半役たるへく候、御手伝等廉立候御用相勤候面々并領分其外非常之災害有之候へ者、高役・国役廿年限を以年延可被差延候、委細之儀者、来聘掛り之面々江可被承合候、且納方之義者、懸り御勘定奉行より可相達候、
右之通、可被相触候、
「御書付 四」:
【表紙】紙背文書のあるやや硬めの紙、表紙を除いて九三丁
「
文政
御書付 四」
【首部】
文政
御書付抜萃
文政元寅年十月朔日、摂津守殿御渡、
金銀掛合候分銅、寛文年中改以前之古分銅両替仲ヶ間に而遣候由、相聞候に付、京・大坂・堺・近江之分潰等迄外に而売買、不致潰直談段を以後藤四郎兵衛方江為買請、目軽き古分銅、内々に而売買致間敷旨度々之相触候処、今以西国并長崎筋に而は古分銅多く売買致用候由相聞候、此以後内々に而売買致候儀者勿論、不隠置四郎兵衛方江可相渡候、四郎兵衛方より分銅改之役人相廻り、紛敷分銅者取上候筈に候、其趣急度可相守者也、
右趣、先年より度々相触、後藤四郎兵衛役人相廻改候処、近来紛敷分銅をも用候由相聞候に付、此度四郎兵衛方より分銅改役人相廻り、紛敷分銅者取上候筈に候間、其趣急度可相守者也、
右之趣、御料者御代官、私領者領主地頭より可相触候、
寅九月
【尾部】
文政十三寅年十一月廿二日、林肥後守殿御渡、大沢主馬達、
当寅年諸国違作之国柄多く、米穀払底に付、酒造人共義、銘々に造高之三分一相掛、三分二酒造可致候、若隠造等いたし候におゐては、其者は勿論、其所之役人迄吟味之上、急度可申付候条、心得違無之様、御料者奉行御代官、并御願所私領者領主、右之通可被相触候、
【末尾】最後の丁の裏に「文淵堂三十(異体)九三千六百四十」とゴム印(四のみ筆)
その隣に筆で
「 欠本
三冊 ■■
■■」
→「御書付 二」にあたる部分(明和・安永・天明)は欠本で現在あるのは三冊という意味か。
【備考】蔵書票「1907」
D236 文久二年変革一件
【内容】文久二年幕政改革の際の大目付・目付その他への申し渡し書付。
(表紙)
「御変革一件」
(首部)
五月三日
松平肥後守
以来重立候御用向可申談候間、度々登城相談可致旨被仰出之、
右、於御黒書院溜老中列座、和泉守申渡之、
御座間
同人
右、御目見、上意有之、
五月七日 松平越前守養父隠居
松平春嶽
以来御用向可申談候間、折々登城、相談可致旨、被仰付之、
右、於御黒書院黒鷲之御杉戸際列座、同前、同人申渡之、
(尾部)
十二月廿九日 周防守殿御渡 〈大目付/御目付〉江
弓術之儀は、御軍隊に編入者無之候得共、銘々勝手次第相携候儀は、不苦候間、平日稽古茂随分相嗜可申候、尤芝射堅物等、重々修行いたし実用第一に可心掛候、抜群練熟之者は上覧被遊候儀も可在之候、
右之趣、万石以下之面々江不洩様可被達候、
十二月
文久三亥正月七日 河内守殿御渡 〈大目付/御目付〉江
正月十日 同十七日 同廿四日
右之日限、御参詣は装束着用之事、
右之趣、面々江可被相触候、
【備考】蔵書票「1907」。蔵書印無し。
D237 護国咒願略
【内容】開国に当たり、仏神道の力により攘夷を説く。
(表紙)
「護国咒願略
愚***稿」
(識語首部)
護国咒願略
幕府御草創之後、治平弐百有余年、当今賢明之御代仁地の余沢の及ふところ、四民業に安し、芳土慶御時節ならすや、
(識語尾部)
旦暮に黙祷して、国恩を報せんことを欲すと云爾、
安政弐乙卯年八月 御*海道人謹識
(本文首部)
一神祖御開国三道一貫の法を以て四民を安□する□ならす、朝憲を*奉し神社を尊崇するに、実に百世不改の政断なり、治乱の動静時勢を計り、斟酌するとも容易に変革あらさるを祈る、
(本文尾部)
希くは諸宗の学徒各々宗祖の清規を守り、解行兼修し、以て人天を利済し、民を*害するの責を免れ、素餐国賊の汚名を雪き、上は皇朝の宝祚永久、四海静謐、府聴の本支繁栄四民安楽を祈り、広く正法を弘宣して、洋夷邪宗の毒悪濫入を防き、以て国家の人*を資益することあらんことを祈ると云爾、
【備考】蔵書票「1907」。蔵書印無し。
D238 足利将軍伝記
【内容】室町幕府歴代の将軍の伝記。
【内題】
足利将軍伝記
【首部】
足利将軍伝記
征夷大将軍正二位権大納言源尊氏卿〈初高氏〉、清和天皇拾六代足利讃岐守貞氏二男、母従三位清子上杉修理亮頼重女也、
〈尊氏、初号、錦小路、又号高倉、或号、/又号、坊門兵部大輔也、〉
正慶二年、諸国大キニ乱テ、先帝ノ官軍京都ヲ攻テ、両六波羅ノ北条時益ト同仲時ト合戦アリ、二月北条高時、其一族名越尾張守高家ヲ大将トシ、高氏ヲ副将ト定テ上洛セシメントス、
【尾部】
七月、義昭又信長ニ敵シテ宇治真木島ニ楯籠ル、信長急キ上洛シ、宇治へ発向シテ真木島ヲ攻破ル、義昭死罪ヲ宥ンコトヲ請フ、信長憐テ是ヲ免シ、佐久間信盛・木下秀吉ヲ副テ義昭ヲ河内国若江ノ城へ送遣シ、蟄居セシム、
此間欠文
天正十三年七月、此節羽柴秀吉武威大ニ振テ、正二位内大臣ニ昇進ス、征夷大将軍ニ任セラレン事ヲ欲シテ、室町ノ前将軍義昭ノ宅ヘ赴キ、義昭ノ養子トナランコトヲ請フ、義昭族譜ヲ賦ンテ許容セラレストナン、十六年正月十三日、義昭落飾セラル、号昌山ト、法名道慶ト云、或道休、
慶長二年八月廿八日、薨、六十一歳、号霊陽院殿ト、御賢息二人有、一人者円満院常尊、一人ハ実相院義尊也、
【備考】蔵書票「1907」。蔵書印あり。
D239 大名之書翰
【蔵書票の数字】載なし
【構成】妙心寺大心院宛の武家書状十三通。差出は次の通り。
二月十八日土方主殿守雄興(花押)
閏正月廿四日土方仙之助(印) ○角印、印文「雄嘉」、印ノ右傍ニ「幼年ニ付印形用候」ト小書アリ、
二月十五日土方仙之助雄嘉(花押)
六月二十五日土方大和守義苗(花押)
三月四日九鬼式部少輔隆門(花押)
二月三日九鬼大隅守隆都(花押)
六月廿一日九鬼定五郎(印) ○丸印、印文「隆」、印ノ右傍ニ「幼年ニ付印形相用候」ト小書アリ、
正月廿八日九鬼河内守隆度(花押)
三月十五日遠坂開内玄房(花押)・松野外記直清(花押)・堀丹右衛門勝(花押)
二月廿八日奥平大膳大夫昌(花押)
正月廿八日奥平大膳大夫昌(花押)
十二月奥平大膳大夫昌(花押)
七月廿五日奥平大膳大夫昌高(花押)
【内容】来翰への礼状など。特別なことは書いてない。
【現況】形態は全て折紙。
D240 名君遺書
【表紙】「名君遺書 完」
【内容】
「上杉治憲」:
【首部】鷹山侯御初入の年、両手先勧を争ひ候様によりては、如何様の事に可至も難計ほとの事なりし、其節被仰出之写
両手鉄炮之先*を争被候儀、於武門士之志に候得者、尤左も可有事に候、然る所に馬廻り・五十騎之両組は我等か左右の両手のことくに候、右之手を先にすへきか、左の手を先にすへき歟、思慮定らす候、両手の支配頭中は何と心得候哉、主人の心等成替り是非を相分、存寄可申聞候、
【尾部】右、故上杉弾正大弼〈治憲〉令致仕候て、越前守殿寛政十二年夏、近侍之*へ*書して賜りし一篇なり、老侯の賢明世の知るところ也、
「細川重賢」:
【首部】*台侯御手紙写
去月廿一日之貴*参着、致拝見候、寒冷御座候へ共、将軍家及若君弥御安全、致恐悦御同意候、将又貴家御壮健此度緩々可被成御休意、奉恐賀候、拙夫無異罷在候、当年御入部之処、珍敷御封内御廻狩被成候由、一段存候、
【尾部】国主・領主としては国家の風俗を移す位になけれは、其任にたへす候、来年御参府之節、御**之節可承候、数多申度事御座候へ共、素より短才に候へは、心底難書取、早々及御返書候、恐惶謹言、
十一月五日 細川(重賢)越中守
松平(定信)越中守
「酒井忠進」:
【首部】酒井靫負佐忠進公御家督、初御直書に而家中一統江被仰出候御書之写、
一今度愚意之趣、一々書あらはし何茂被申聞候、不才の身として幕下より本家をつき、今度家督之命を蒙り、其方共之上等立候事、誠に恥入候事に候得共、斯罷成儀全く天授と存候得は、乍不及も天の思召を不奉受しては不叶義、天は則生之生育をめくり、人にしては仁の一字を要領と聞及候へは、何卒仁恕を本として人民撫育之道行ひ度事に候、
【尾部】右之条々某存付候間、所少も無餝申聞候、畢竟は従公義被仰出候武家諸法度并自家前々より定置所之条目に不違様に致度存するよりの事、但不肖の某なれは、専ら是とする了簡毛頭無之候、最初にも申聞候ことく此書付の上にても了簡違と存る義も有之候はゝ、面々無伏蔵可申聞候、
九月廿日
家中一統江 右者文化三丙寅年也、
「村上甲斐守」:
【首部】此度松平越中守殿江被仰渡候心得之趣致沙汰候
只今迄之上意難有儀御座候、毎々享保年中御議定御沙汰等御穿鑿被仰出、其上御役人之勤方下々之難苦之儀迄も御細やかに御沙汰義御座候而、俊明院様思召之達候様と被思召候、
【尾部】今日、右上意有之候より已来者心掛之善悪に付、急度御糺可被仰付候、一時之功を而巳相計、永代之不計、御為儀有之間敷儀勿論候、一日義早ク御安心被遊候様仕候事、無此上忠勤に而候、右忠勤之功を以、立身出世致候者、一己に取候而も、無此上事に而候得者、何れの申合出精可被致候、
村上甲斐守書付請取
「松平定信」:
【首部】松平越中守殿諸士面々江為心得口達被致候書付之写、
一今度愚意之趣、一々左に書顕し、其方達に申聞候、自今已後某も其方共と互に善に進、悪を退、各古之忠臣義士にも不恥、某も名君賢主之跡を慕ひ、後代迄も君臣共に能ためしにも被引候様にと、真実に存入候、
【尾部】右申渡候通、士農工商共に己か職分を不*、義を守、礼を厚く、信を専一と心得候様に相心得可申候、某今度其任にあらされとも、冥加恐鋪補佐之役儀被仰付、不肖の身として国役を糺すこと、ひたすら普賢之道をしたひ、朝三暮四寝食を忘、千辛万苦致候間、某か申趣、九牛か一毛なれは、月に行、日に順て、切磋琢磨可致候、以上、
寛政二戌年八月
「松平定信(楽翁)」:
【識語首部】閑なるあまりにさまゝゝ筆記なとまさくりける、いとも有かたき仰ことのしるせるを見奉ることにいささかここにしるしぬ、
【識語尾部】やんことなき仰こともあれは、□外にいたすへからさることをしめしおきぬるものなりし、
文政丁亥十月八日 楽翁
【本文首部】東照宮上意のよし、日本船と唐船と戦ふは、鷹に鶉をとらする心ならすは、勝利あるましきそ、
【本文尾部】東夷御押への神慮、長崎奉行へ命せられし御沙汰なと、実に天下の天下たる御心より出たる御代々の上意、只々奉恐感といふも恐入たる事なり、あまりの有かたきに何かと猶又いひつらめきは、踰等の罪にもひゝくへきは、いはさるを以て子孫への教戒とするもの也、
文政十年十月廿六日 楽翁識
【備考】蔵書票「1907」。上杉治憲・松平定信等の文書を筆写したもの。蔵書印あり。印文「突谷」
D241 清風慢書 附元寬日記抜萃
【内容】
「清風慢書」:
【首部】韓龍巻之四、三丁ヲ四丁ヲ今有堅申、利兵不足、以*敵膚云々、又曰、礼者治*之極也、是故堅甲利兵不足、以為武高城深地不足、以為固云々、
【尾部】千万句漸**灯冷香獣信悔茫々東海東生晩落在長慶後一吟一哭天欲明復沽前涙未乾袖、
【備考】表紙・外題・内題無し。
「元寬日記抜萃抄」:
【首部】
元和元年四月九日諸家討取首、都合一万二千八百六十四、両将軍家御旗本江討取首二百九十五、都合一万三千百五拾九也、
【尾部】
(寛永十九年)還御之時、渡御井伊掃部頭直孝宅、於是献御酒、供奉人悉有饗応、調山海之珍物結構正*善、又其節御機嫌伺として上使及度々目出度旨申之、所々下馬成市、
【備考】
元和九年有り。
「元寬日記」抄出の後に「塵点録」他の抄出有り。
「塵点録」六・八の抄出:
【首部】
神君御代先之衆
金吾中納言 慶長七死、無跡、 中村伯耆 同十四年五月十一日死、無跡、
【尾部】
右、**にて堅くねり、木弥切にのはし張候事、但、間に合さる時者、**に而芥子粉計ねりてもよろし、下略、【備考】蔵書票「1907」。「附元寬日記抜萃」とあるが、その後に尾張関係の「塵点録」からの抄出も含む。
「塵点録」は尾張藩士朝日重村が尾張関係の古文書転籍を筆写したもの。
D242 加久礼佐登
【内容】幕末維新の政治・経済・社会について、幕府法令から巷説まで雑多の記事を集めたもの。
【識語】
夫倩惟神武以来如斯成不太平伝聞唐土周世八百歳之豊伝不可過之、国恩難有事乍居隔千里聞珍事而茶会之為講談今爰記松影恩双紙者、拙及聞所之珍事雑談也、雨中之退屈為慰写一巻而普示信友、是偏天下安泰之故也、可仰可貴、
越都八千八流之大湊軒連我侭臂張
高橋堂雪桟述(印・筆研精*)
【本文首部】
最初異国舟渡来之節、御老中諸役人并御固大名御役人付
十一万石 御老中阿部伊勢守様
【本文尾部】
夫、地券ノ不定ナル相ヲツラツラ観ズルニ、調ノハカトラサルコトワ当今始中終マホロシノコトクナル、一般ナリサレハイマタ万両ノ身帯ヲ受タリト云コトワナシ、一生スギニクシ、今ニ至テ誰カ百両ノ田畑ヲタモツヘキヤ、我ヤサキ人ヤサキ今日トモシラス、明日トモシラス、後レ先タツ村ワモトノ調ヨリ未ノ調等トシキシト云リ、サレハ朝ニハ高慢アッテ、夕ヘニワ調直シトナル帳面ナリ、既ニ田畑御引上ケノ大息ナカク突ヌレハ、高慢ムナシク変シテ絵図ノ番入マテ失ヒヌルトキワ筆算ノ券属集リテナケキ悲トモ、更ニ其甲斐アルヘカラス、サテシモアルヘキコトナラ子ハトテ、諸帳記ノコラス寺町ヘ送リテ夜半ノ眠リトナリ、果ヌレハ只雑用ト反古ノミゾノコレリ、アハレト云モナカナカヲロカナリ、サレドモ地券ノハリ合ナルコトハ分一税ノサカヒナレハ、誰ノ人モ下調ノ一大事ヲ心ニカケテ慈悲ノ金主ヲ深ク頼ミマイラセテ、速ニ成功ヲ遂ヘキモノナリ、アナカシコ、アナカシコ、
于時明治六年第四月、ランプ灯ノ下ニ拭涙、染筆畢、
【備考】蔵書票「1907」。蔵書印有り、印文「柳はしふじゐ藤吉」。
D243 亜米利駕上書和解
【内容】嘉永六年にペリーが浦賀に来航した時の幕府への書翰・口上書の和訳、及び幕府老中松平伊賀守から諸家への通達。
【表紙】「〈堅禁/売買〉亜米利駕上書〈和解〉全」
【目次】
目録
一亜米利船浦賀湊渡来之事
并栗浜上陸音楽行烈等之事
一諸向質素𢮦約武備専用之事
一外夷呈書諸家江御達之事
一浦賀着岸彼理口上書之事
一伯理璽己徳書翰之事
一同副翰之事
一提督彼理上書之事
一彼理浦賀港退帆口上書之事
【本文首部】
○
一〈将官乗組之〉蒸気ブレカット船壱艘 〈一名〉火輪船共又蒸気船共
但大炮十挺積 長サ三十七八間
【本文尾部】東印度支那及び日本海に現存せる合衆国の全部海軍の総督まつちうせぺるり、合衆国蒸気ブレカット船シユスケハンナの上に在て、千八百五十三年七月十三日江戸海口浦賀港に於て謹白、
【備考】蔵書票「1907」。成立年不詳。『国書総目録』の「亜米利加書翰和解」か?
D244 嘉永安政雑記
【内容】嘉永六年ペリー来航以後安政七年桜田門外の変までの、幕府の諸家への通達と、江戸での政情その他を書き留めたもの。
【表紙】「被仰出風聞書」
【本文首部】
嘉永六癸丑年
今般、亜墨利加国より之呈書於公儀和解被仰付、御渡相成処、右者皇国と和親を繕、致交易度願意之外、別義無之、尤右返翰為請取、来年可被越趣相見候得共、其節者如何之御取計可相成も難計候間、各無油断武備被心懸候様存候、
八月朔日
【本文尾部】
佐野竹之助
黒沢忠三郎
蓮田市五郎
斎藤監物
細川家江御預け 大関利七郎
森五六郎
杉山弥一郎
森山繁之助
広岡子之次郎
山口辰之助
鯉渕要人
当分行衛不相分 橋田市之助
増子金八
関鉄之助
其場に而切腹 海渡崎之助
〈見*奉行〉高橋多一郎
〈薩州家来〉有田治左衞門
【備考】蔵書票「1907」。
D245 著聞集
【内容】雑誌記者・文芸作家の鶯亭金升が雑多の文章を集めたもの。
【目次】
一 楠正成紀念之書
一 木曽愛妻巴女の文聞書
一 木村長門守か書翰
一 大坂冬御陣之覚書
一 秀頼公より市正江之手紙
一 淀殿より市正江之誓詞の文
一 首帳之写
一 東照宮御遺状百ヶ条
一 浅野家之浪人共口上書
一 其角の手紙
一 義士人品記
一 大久保家平井兄弟讎討
一 普家宗門掟書
一 虚無僧修行先挨拶心得之事
附、虚無僧寺ヶ訴附
一 髪結職分由緒書
【本文首部】
楠正成形身之書
此度隼人差下候事、非別儀、我等最後近々と覚候、
【本文尾部】
一長髪乱髪之者は髪相糺候上に而、相刺可申候事、相譲授可為家宝者也、
于時万治元戊戌年正月吉祥日
【奥書】
天児屋根尊末孫北小路左衞門尉藤原春公二十七代後胤一銭半蔵藤原基之、(花押)
【備考】蔵書票なし。書写年代不明。蔵書印有り。鶯亭近升の印有り。
D246 日本名所旧跡
【背表紙】「日本名所舊跡 上」「日本名所舊跡 下」
【備考】蔵書票「1907」
D247 駿河地志考稿本
【寸法】23 cm.
【背表紙】「駿河地志考稿本 上」「駿河地志考稿本 下」
【備考】蔵書票「1907」
D248 駿河国地志考別本
【現況】冒頭「駿河国志考」の部分、料紙も紙質が異なる(やや厚手)
【寸法】26 cm.
【背表紙】「駿河国地志考別本」
【備考】蔵書票「1907」
D249 古城傳承記
【表紙】「古城傳承記」
【内容】
古城傳承記
一條殿土佐下向ノ事
長宗我部之事
兼序自害ノ事、付、千翁丸岡豊帰城ノ事
戸波ノ城軍ノ事
千翁丸元服ノ事
山田之城主居去之事
常通寺之事
岡豊ノ楠之事
大津ノ城居去之事
坂折山合戦ノ事
(以下略)
【備考】蔵書票「1907」。「土佐古城傳承記」(史料編纂所謄写本)と同じ。
D250 江戸武家御門下並町直参門下
【原表紙】「江戸武家御門下并町直参門下 一巻」
【内容】江戸時代の原史料。長敬寺等、八十箇寺(浄土宗or浄土真宗か)の門徒の書き上げ。
【末尾】宗門内で交わされる書状の雛形が記されている。
【奥書】
江州中山村
徳万寺
取持
元禄六癸酉暦仲龝上旬八
武州豊嶌郡江戸在浅草
御堂於輪番所書写之畢、
智鏡(花押)
【備考】蔵書票「1907」
D251 諸文集
D252 幕府創業雑書
【寸法】24 cm.
【内容】松平下総守湊匡御口上―慶長記―東照宮御文―本多平八郎覚書―柳原康政公御直話―南龍院殿御掟書
【訂正】松平下総守清匡御口上―慶長記―東照宮御文―本多平八郎覚書―榊原康政公御直話―南龍院殿御掟書
【備考】蔵書票「1907」
D253 四季手掛之図. 香炉并灰押様図
【寸法】20 x 27 cm.
【備考】蔵書票「1907」
D254 外交雑記