B1 鹿苑日記
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一 「鹿苑日記 一」
1「長享元年十一」(長享1年7―12月)/「文明十九年秋冬・長享二年正二夏七九十」(長享2年1・2・4・5・7・9・10月)/(長享3年1―6月)
2「明応二年正二」(明応2年1・2月)/「明応七年正二」(明応7年1・2月)/「明応八年三夏」(明応8年3―6月)
3「明応八年秋」(明応8年7―9月)/「明応八年冬・同九年正」(明応8年10ー12月・明応9年1月)
4「文亀三年秋・永正十四年正」(文亀3年7―9月、天文9年、永正13年の文書あり)/「文亀四年二三四」(文亀4年2―4月)/「天文五年二三四五」(天文5年2―5月)
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二 「鹿苑日記 二」
5「天文五年六・秋十・閏十」(天文5年6―12月)/「天文五年十一十二」/「天文六年丁酉 自正月至五月」(天文6年1―12月)/「天文六年五六秋冬」
6「天文七年春夏」(天文7年1月―6月)/「天文七年秋冬」
7「天文八年春四五六」(天文8年1―12月)/「天文八年閏六秋冬」
8「天文九年」(天文9年1―12月)
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三 「鹿苑日記 三」
9「天文十年春夏七八」/天文十一年十二・同十二年春夏七八」
10「天文十三年春四五秋閏十一十二」/「天文十八年・同十九年春夏秋十」
11「天正十九年三夏秋冬・同二十年春四」(天正のまま)/「日次記 天正十九年自十月至十二月・同廿年自正月至四月」(明治二十三年十一月校了 村山徳淳)
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四 「鹿苑日記 四」
12「文禄元年五六秋十二」/「日次記 自文禄二稔正月至閏九月晦日」(右文禄二年正月ヨリ閏九月晦日ニ至ル日記、旧題「文禄中日記」トアリ、明治三十六年四月ノ発見ニカカル、今改メテ鹿苑日録ト題シテココニ収ム)/「文禄二年冬」
13「文禄三年」/「文禄四年正 同五年正八」/「年代未詳六七」(明治二十四年二月校了、村山徳淳)/「慶長四年夏」
14「慶長四年八九冬」
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五 「鹿苑日記 五」
15「慶長五年春夏」
16「慶長六年」
17「慶長七年」
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六 「鹿苑日記 六」
18「慶長八年」
19「慶長九年」
20「慶長十年」
21「慶長十一年」
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七 「鹿苑日記 七」
22「慶長十二年」
23「慶長十二年閏四五六秋十」/「慶長十四年九冬・同十五年正二」/「慶長十五年春四五」/「慶長十六年・十七年」
24「慶長十七年十二・同十八年春夏秋十」/「慶長十九年」
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八 「鹿苑日記 八」
25「元和秋冬」/「元和二年五六秋冬・同三年春夏秋十十一」
26「元和三年十二・同四年春夏七八」/「元和四年九・同五年春夏秋」
27「元和七年・同八年春夏」/「元和八年秋冬・同九年春夏秋十十一」
28「元和九年十一十二・同十年正二・寛永元年三夏秋十」/「寛永元年冬・同二年春夏秋十」/「寛永二年十一十二・同三年春夏七八」
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九 「鹿苑日記 九」
29「寛永三年八九冬・同四年」(多田賢意写 丹羽{者羽}校)/「寛永五年・同六年春夏秋」(明治二十三年十一月校了、村山徳淳)/「寛永六年十一一同七年正三夏秋冬・同八年春夏秋十閏十十一」
30「居ざい集自寛永八年辛未十一月至同九年十二月」/「寛永十年十二・同十一年春夏」
31「寛永十一年十一十二・同十二年春夏秋十十一」/「寛永十二年十一十二・同十三年春夏秋十十一」/「寛永十三年十二・同十四年春夏七八」
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十 「鹿苑日記 十」
32「寛永十四年八九冬・同十五年春夏七」/「寛永十四年八九十十一・同十六年九十十一・同十七年春四」/「寛永十四年八九十」
33「寛永十五年秋冬・同十六年・同十七年春夏秋」
34「寛永十七年冬・同十八年・同十九年春夏秋」/「寛永十九年九冬・同二十年・同二十一年正」
35「正保二年春夏秋十十一」/「慶安元年三」/「慶安四年夏秋」/「年代未詳」/「東雲首坐遷蔭涼記」/「詩章残篇」
B2 多聞院日記略
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一 「多聞院日記略 一」
1「巻一~巻三」(文明10年~永正3年)
2「四・五・六」(永正4年~弘治2年)
3「七・八・九」(永禄8年~永禄11年)
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二 「多聞院日記略 二」
4「十・十一・十二」(永禄12年~元亀3年)
5「十三・十四・十五」(天正2年~天正4年)
6「十六・十七・十八」(天正5年~天正9年)
7「十九・二十・二十一」(天正10年~天正12年)
8「二十二・二十三・二十四」(天正13年~天正15年)
9「二十五・二十六・二十七」(天正16年~天正18年)
10「二十八・二十九・三十」(天正19年~慶長4年)
【末尾】
右日記者南都興福寺多聞院蔵書也、文体鄙俗不事華飾惟為已、記録実事者、而真古物也、悉皆足為後世証拠・、旧本凡四十六巻、大率寺裏瑣砕雑事繁多、而有累に電 焉、頃臣師古」恭奉」
鈞旨抄出其可為考風俗察事跡之一、助者纂為三十巻日、曰多聞院日記略書功既竟詣」進焉」
享保十年夏四月六日」御書物奉行臣下田幸大夫師古謹識
B3 大乗院寺社雑事記抜粋
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一 「大乗院寺社雑事記抜粋 一」
1「自巻一至巻二」(長禄3年1~12月)
2「自巻三至巻八」(寛正元年)
3「自巻九至巻十三」(寛正2年)
4「自第十四至第廿二」(寛正3年・寛正4年)
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二 「大乗院寺社雑事記抜粋 二」
5「自巻廿三至巻三十五」(寛正5年・寛正6年・文正元年)
6「自巻三十六至巻四十一」(応仁元年・応仁2年・文明元年)
7「自第四十二至第四十五」(文明2年)
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三 「大乗院寺社雑事記抜粋 三」
8「第四十六第四十七、第四十八不採」(文明3年)
9「自第四十九至第五十五」(文明4年・文明5年)
10「自第五十六至第六十一、第六十二不採」(文明6年・文明7年)
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四 「大乗院寺社雑事記抜粋 四」
11「自第六十三至第六十六」(文明8年・文明9年・文明10年)
12「六十七・六十八・六十九・七十・七十一」(文明11年)
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五 「大乗院寺社雑事記抜粋 五」
13「七十二・七十三」(文明12年1月~6月)
14「七十四」(文明12年7月~9月)
15(文明13年)
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六 「大乗院寺社雑事記抜粋 六」
16「第百廿二・百廿三・百廿四」(延徳2年6月~9月 延徳3年1月~6月)
17「第百廿五・百廿六・百廿七」(延徳3年7月~延徳3年12月)
18「第百廿八・百廿九(百三十)」(延徳4年1月~延徳4年9月)
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七 「大乗院寺社雑事記抜粋 七」
19「(明応1年10月~明応2年2月)
20「(明応2年3月~12月)
21(明応3年1月~永正3年11月)
B4 兼見卿記
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一 「兼見卿記 一」
1「天正三年春夏秋十一・十二・同四年・同五年正二閏七八九十十一・同六年春夏秋十」
2「天正七年・同八年春四六秋冬」(虫損をかたどる)
3「天正九年春夏秋・同十年春夏」
4「天正十年」
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二 「兼見卿記 二」
5「天正十一年」(虫損をかたどる)
6「天正十二年春夏」
7「天正十二年秋冬」
8「天正十三年春夏七八」
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三 「兼見卿記 三」
9「天正十三年八九冬」
10「天正十四年春夏七」
11「天正十四年八九冬」
12「天正十五年春夏四五」
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B4―4 兼見卿記
13「天正十五六秋冬」
14「天正十八年春夏」
15「天正十八年六秋冬」
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B4―5 兼見卿記
16「天正十九年春夏七」
17「天正十九年八九冬」
18「天正二十年」
B5 義演准后日記
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一 「義演准后日記 一」
1「文禄五年」
2「慶長二年」
3「慶長三年」(上中下三分冊)
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二 「義演准后日記 二」
4「慶長四年」(慶長4年1月~12月、上中下三分冊)
5「慶長五年」(上中下三分冊)
6「慶長六年」(上中下三分冊)
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三 「義演准后日記 三」
7「慶長七年」(上中下三分冊)
8「慶長八年」(上中下三分冊)
9「慶長九年」(上中下三分冊)
10「慶長十年」(12月まで揃)
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四 「義演准后日記 四」
11「慶長十一年」(上中下三分冊)
12「慶長十二年」(上下二分冊)
13「慶長十三年」(上中下三分冊)
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五 「義演准后日記 五」
14「慶長十四年」(上中下三分冊)
15「慶長十五年」(上下二分冊)
16「慶長十六年」(上下二分冊)
17「慶長十七年」(上下二分冊)
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六 「義演准后日記 六」
18「慶長十八年春夏七八・同十九年春夏秋」(二冊)
19「慶長二十年・元和二年」(二冊)
20「元和三年・同四年」(二冊)
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七 「義演准后日記 七」
21「元和五年・同六年」(元和5年・元和6年上下、計三冊)
22「元和七年・同八年」(二冊)
23「元和九年」(上下二分冊)
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八 「義演准后日記 八」
24「元和十年(寛永元)」(上下二分冊)
25「寛永二年・同三年」(寛永3年は6月まで、二冊)
26「有馬湯治記」(慶長19年2月11日~12月28日)
B6 嶋原記
【構成】目録、巻之一、巻之二、巻之三、巻之四、巻之五、跋
【巻頭】
「嶋原記録巻之第一
目録
耶蘇宗門制禁之由来/嶋原吉利支丹一揆…
【跋文】
「 跋
右嶋原天草一揆発興 御退治之事、家々之/伝記十餘部集覚之、且又松倉長刕之猶子藤/堂平右衛門委細之物語承知之、数年僉議之/上撰記之者也、
貞享乙((二)丑(年))秋八月下旬 於江北小陽宅
遠山信春誌 」
【備考】表紙欠
B7 切支丹宗門来朝由来記
【表紙】「切支丹宗門来朝由来記 全 」
※末尾には「切支丹来朝実記 終」とあり。
【書出】「義照公御望と云御家人を遣すへしとて…」→前欠か
【本文】…永録十一年八月廿四日、堺住吉の社震動する事良久し、既に神前の松の木六十六本、根より抜出倒る…」
【終尾】「…寛永十四年ニ又起り、天草陣此切死丹也、夫故厳敷御法度也、西国・九州、長崎御奉行所ニ而も彼絵像を踏ス由なり、
永録十一年戊辰♭宝暦十三年迄、凢弐百弐年ニ成、
嶋原陣寛永十四年♭宝暦十三年迄、百弐拾六年ニ成、
切支丹来朝実記 終 」
【内容】キリスト教の伝来から天草島原一揆の起こる以前までの動向を記す。
B8 江都東叡山造立之儀
【表紙】「江東(都)東叡山造立之儀 全 」 ※本文とは異筆
【書出】「江都東叡山造立之儀、 神君家康公…」
【終尾】「 寛政五癸丑年挑限日
明和八辛夘年 御降誕
安永八己亥年<十二月/廿五日> 御践祚
同 九庚子年<十二月/四日> 御即位
自神武帝百廿代 御諱 兼 仁
今上皇帝 御寶算 二十三
後桃園院皇子
御母盛化院御所 近衛故准三宮内前公御女
實閑院宮一品太宰帥典仁親王御子
弐百石 中山前大納言愛親卿
御年 五十三 」
【内容】東叡山造立時に将軍へ太上天皇の尊号を贈った故事を引いて、光格天皇が父閑院宮典仁親王へ太上天皇の尊号を贈ることを望み、この件の幕府との交渉の経緯について、伝奏として関東へ下った中山愛親が記録したもの。
【備考】書名は、書出の部分をそのまま採ったものであり不適当。
B9 藤堂家記
【表紙】なし
【書出】「藤堂和泉守高虎息大学頭高次エ遣ス文書、又高次息和泉守高久エ遣ス文書之寫」
【内容】寛永二年八月三日 高虎→高次「條々」
寛永十八年三月 高次→高久「高山様御幼年之時より今の御身上御立身之事」
後半は、大坂の陣の記録。
B10 東照宮御遺訓
【表紙】表紙・裏表紙なし。
【書出】「 東照宮御遺訓 上
一家康公駿府御在城之時、江戸ニ而 将軍秀忠公、大田といふ侍に御知行五百石被下候得者、御折紙を御前江なけ捨罷立候故、 秀忠公以之外ハかり被遊、此者を御成敗可被仰付かとの上意なり…」
【奥書】「此書ハ、慶長の末比 家康公駿府御在城之時、将軍秀忠公より井上主計頭殿を御使者として被遣候得ハ、主計頭殿を数日駿府之殿中へ被留置、節々 御前江被 召出、天下之政道御教訓被成候を委被承覚、江戸江帰り 秀忠公得被申上、其後主計頭殿、咸((ママ))人にひそかに委敷語り給ひしに、其人気姓強くして、聞ける所を不残しるし置たりし覚書なり、夫おもんミるに東照宮の御徳量功業の廣大にして古今に勝れ給ふ事ハ、既天下之人あまねく知る所也、……是日本の寶鑑なるべし、然に舊稿の文理甚鄙住にして疎謬多し、君子の観覧にそなへかたくして、永く世に埋れん事を恨むゆへに、予拙陋を忘れ、僭踰をかへり見すして、しは〳〵稿を易て是を改正す、見る人に■して至言を後裔にしめさん事をねかふのミ、」
【追記】「 此書者、宮崎氏之何某因所持被懇望、於東武九月中旬写之者也、
于時寶永四丁亥年 八十嶋氏書之」
【備考】全二十八ヶ条
B11 東照権現御遺訓付録
【表紙】表紙・裏表紙なし。
【内容】
・前半(東照権現御遺訓)
B8・B9・B10と同内容。但し、字句に若干の異動あり。
全二十七ヶ条(B8・B9・B10の第十五条と第十六条が一つになっている)
・後半(東照権現御遺訓付録)
全二十八ヶ条
・前半も後半も冒頭に「東照権現御遺訓付録」とあるが、前半は「御遺訓」で、後半は「付録」である。従って、書名は「東照権現御遺訓・同付録」が適当か。
【備考】奥書・追記等なし。
B12 東照宮御遺訓
【内容】全二十八ヶ条。B10と同内容。
【備考】奥書もB10と同じ。追記はなし。
B13 水戸条令
【表紙】「水戸條令 完 」 右下に「宇」とあり。
【書出】「 水戸黄門光國公示賜群臣條々
今度、愚意乃趣一々左に書顕し、各へ申聞候故…」
【内容】前書+十九条
【奥書】「右水戸條令者、故黄門光圀公所示賜群臣教令也、……北保義書撰之
寛政丁巳((九年))林((六)鐘(月))七日 岸上武實謹寫之 」
【備考】B34と同じ内容。
B14 明訓一斑抄
【序文】「足引の大和たましひあらむものハ、朝となく夕となく、津の国のなにハ思はす世のため國の為よしあしを……いさゝかことのはのてにおはをすへて、子孫に伝へ示すにならん、
源朝臣斉昭(花押) 」
【目録】
「目録
仁心を本とすへき事
奢侈を禁すへき事
諫言をもちゆへき事
刑ハ刑なきに期へき事
治に乱を忘るへからさる事
佛法を信すへからさる事
夷狄を近付へからさる事 」
【詳細】
本文一丁オ「 明訓一斑抄
○仁心を本とすへき事
○東照宮、雅樂頭・大炊頭・伯耆守三人を召寄セられ、汝等三人江
竹千代を頼み可申と
秀忠被申たるか、いまた不被申渡也、 」
各項目の本文の後に「斉昭謹案に…」として、斉昭の意見が記される。
最終丁ウ「此一巻ハ、弘化二年乙巳八月廿日、若老伊勢守阿部正弘にものせしニ、熟読して誠忠之程感伏すとて、序文の趣はあなれと、
大樹公参らせ侍るよし申おせしに与て、そ乃■よしをしる期ぬ、
水戸老公より密借写ス 」
(傍線は朱書)
B15 東照神君御遺状
【構成】全九十九条
【詳細】
一丁オ「 御遺状
一先避己所好専可勤己所嫌事
【備考】本文終了の後に「内廓幕番所二十八ヶ所」「外廓幕番所二十八ヶ所」の記載あり。
B16 筑前国古文書
【内題】「筑前国宗像宮古文書 上下 全」
【詳細】(和暦年月日・文書名・差出・宛所・丁・内容の順)
1 八月二日 ■■天皇綸旨 治部卿平親長
2 元弘三年九月十七日 後醍醐天皇綸旨 左少弁 大宮司館 1丁 宗像社務・当知行地安堵
3 建武二年正月廿一日 後醍醐天皇綸旨 右中将 宗像大宮司館 2丁 長門国凶徒蜂起、社家警固
4 天正五年十月廿四日 ■■天皇綸旨 左中弁 伯中将殿
5 延慶三年八月十五日 伏見院院宣 (在御判) 大宮司館
6 寛喜三年三月日 筑前国司庁宣 大介小槻宿祢
7 弘安十年二月日 筑前国司庁宣 大介藤原朝臣 留守所
8 永万元年六月廿九日 八条院庁下文 別当大納言藤原朝臣ほか 筑前国宗像社 5丁 宗像氏実の大宮司職補任
9 建久五年十一月廿二日 八条院庁下文 別当権中納言源朝臣ほか 筑前国宗像社 6丁 宗像氏国の大宮司職補任
10 寛喜三年四月五日 左弁官下文 少弁藤原朝臣・大史小槻宿祢 太宰府 6丁 像社修理料所曲村宛行
11 建長八年正月日 大宮院庁下文 別当大納言藤原朝臣ほか 筑前国宗像社司等 7丁 宗像長氏子孫の大宮司職相伝
12 元弘三年七月廿六日
13 建武元年三月廿日 雑訴決断所牒 右中弁藤原朝臣・西市正中原朝臣 11丁 宗像氏長の肥前国神埼荘内当知行地安堵
14 建武元年三月廿日 雑訴決断所牒 右中弁藤原朝臣・西市正中原朝臣 筑前国宗像社 12丁 宗像社修理料所曲村への濫妨停止
15 建武元年十月十一日
16 建武元年十月廿一日
17 建武元年十二月廿七日 雑訴決断所牒
18 建武二年四月八日 雑訴決断所牒 中納言兼大蔵卿左京権大夫大判事侍従大判事藤原朝臣ほか 肥前国守護所 15丁 宗像社領晴気保について召文
19 建武二年十月十七日
20 (天正十三年)十一月十七日 前欠文書
21 文和二年十二月廿五日 足利尊氏書下(前欠) (在御判)
22 貞治五年三月一日 足利義教御判御教書 (在御判) 渋川武蔵守殿 18丁 宗像社領等事
23 建久二年八月一日 源頼朝御教書 盛時 藤内民部丞殿
24 四月十日 源頼朝御教書 盛時 伊豆藤内殿 19丁 宇佐宮造営用途免除
25 建永元年七月十四日
26 建保五年七月廿四日
27 建保五年七月廿四日
28 建長二年八月三日 関東御教書 相模守・陸奥守 陸奥左近大夫将監殿 22丁 宗像氏業の宗像大宮司社務について
29 建長五年五月三日 北条長時書下 (在判) 奉行人 23丁 宗像氏業と三原種延の宗像社領筑前国小呂島相論
30 建長五年十二月廿七日 六波羅御教書
31 康元元年十一月廿二日 弾正少弼■書状 弾正少弼 24丁 筑前国赤馬荘所職事
32 正嘉元年七月十日 中原■・筑後守■連署書下
33 文永六年二月日 宗像荘預所下文 預所前中宮権大進橘朝臣 筑前国宗像庄官等 25丁 宗像荘内土穴・稲本・須恵三箇村名主職について裁許
34 文永八年八月日 宗像荘預所下文 筑前国宗像庄官等所
35 文永九年十一月廿九日 筑前守護所牒
36 弘安二年十二月二日 六波羅書下 左近将監平朝臣・陸奥守平朝臣 30丁 宗像社大宮司社務、別符宮方検断公文職について
37 正応三年七月廿二日
38 嘉元二年六月十九日
39 延慶三年十二月十六日 鎮西裁許状 前上総介平朝臣 32丁 肥前国晴気保用永名地頭得分について裁許
40 元応二年十月卅日 左衛門尉他連署奉書 左衛門尉・沙弥・沙弥・平 宗像大宮司殿 33丁 宗像第二宮造営用途について
奥書「文政五壬午孟夏写小方貞通《時歳/六十九》筆」「下巻男美福写」
【内題】「筑前国古文書 下」
【詳細】
1 建永二年二月日 安部清宗解及外題 安部清宗上 1丁 智円法師所帯について宮裁を請う
2 建保五年六月日 大蔵季秀譲状 大蔵季秀 2丁 大蔵親秀への譲状
3 嘉禎二年四月九日 大蔵親秀譲状 大蔵親秀 2丁 大蔵太子への譲状
4 大永四年五月十一日 宗像正氏手負注文 正氏
5 十一月十五日 大内持世書下 修理大夫持世 宗像大宮司殿 3丁 宗像郡野坂荘の安堵
6 文永六年八月廿一日 隆杲譲状 権律師隆杲 藤原氏女《童名千寿、今者/号宗像女房》 5丁 晴気保地頭職の譲状
7 仁治二年九月十日 将軍家政所下文 別当武蔵守平朝臣ほか 肥前国晴気御領住人 5丁 晴気保地頭職の安堵
8 応永十四年九月廿一日
9 文永五年七月六日 大中臣経実寄進状 大中臣経実 7丁 宗像社領山口郷地頭職・地下沙汰人職の寄進状
10 文永七年七月十日 大中臣経実置文 大中臣経実 8丁 宗像社領山口郷地頭職について置文
11 元徳二年二月六日 宗像社領家御教書
12 元徳二年十月廿二日
13 元徳三年七月廿五日 鎮西裁許状 修理亮平朝臣 9丁 晴気保内検注などについて裁許
14 文和二年三月七日 今川了俊下文 沙弥 宗像三郎氏俊
15 延文五年二月十一日 ■施行状 前筑後守 那珂次郎左衛門入道殿 11丁 宗像荘内山口上下村地頭職の施行状
16 応安六年九月廿八日
17 八月八日 少弐経資書状 大宰少弐 宗像入道殿 12丁 関東御教書に基づく所領注進について
18 正和元年十月八日 宗像氏盛譲状 大宮司氏盛
19 正和三年十月四日 宗像氏範書下 大宮司宗像朝臣 13丁 第三宮拝殿長塁事
20 六月七日 康有他連署奉書 康有・政重・政所
21 文永五年七月三日 浄恵請文
22 十一月十日
23 五月十四日
24 建治三年六月十五日
25 承久三年七月廿一日
26 嘉禎三年二月十二日
27 仁治二年六月廿一日
28 建長六年六月日 大江氏女書状 大江うち女 せうしやうのきみの御前 20丁 晴気御領の文書について
29 応安六年十二月廿六日 今川了俊書下
30 永和元年六月二日 今川了俊御教書 沙弥 大宮司殿 21丁 宗像社仮殿造営について
31 永和二年五月十六日
32 永和三年四月十七日
33 永和四年二月廿五日
34 永徳元年十一月卅日
35 至徳元年六月八日 今川了俊書下 沙弥 千手蔵人入道殿 23丁 壱岐国薬師丸の施行状
36 至徳二年五月六日 今川了俊書下 沙弥 志佐壱岐守殿
37 至徳二年十月五日 今川了俊書下 沙弥 宗像大宮司殿
38 至徳三年八月廿三日 今川了俊書下 沙弥 千葉介殿 25丁 晴気荘について
39 至徳四年四月三日 今川了俊書下 沙弥 宗像大宮司殿
40 明徳三年四月七日 今川了俊書下 沙弥 大宮司殿 26丁 宗像社造営について
41 八月七日 今川了俊書状 沙弥了俊 左衛門佐殿 26丁 宗像氏頼の知行地安堵について
42 八月七日 今川了俊書状 沙弥了俊 左衛門佐殿 27丁 宗像氏頼の知行地安堵について
43 八月廿二日 ■書状
44 応永五年四月二日 少弐貞頼施行状 貞頼 守護代 28丁 筑前国稲本村内の田地について
45 応永七年十月廿六日
46 十二月三日
47 貞和二年三月三日 宗像氏範譲状 大宮司宗像氏範 嫡子権大宮司氏正所
48 文和四年三月五日 宗像氏正譲状 大宮司宗像氏正 舎弟大宮司氏俊所 30丁 晴気保地頭職の譲状
49 応安四年七月廿七日
50 永和元年十月日 光尊書下 光尊 宗像殿 30丁
51 明徳二年八月十二日
52 応永十三年四月五日
53 応永十七年七月十日
54 六月十一日
55 六月十一日
56 八月廿日 毛利輝元書状 輝元 宗像大宮司殿
57 九月四日 真木島昭光・一色昭秀連署書状 昭光・昭秀
58 十二月十八日 毛利輝元書状
59 永禄十年三月十三日
60 七月三日 竜造寺隆信・竜造寺鎮賢連署書状 隆信・鎮賢 宗像殿 36丁 太刀・馬の礼状
61 五月十三日
62 七月五日 大内義興書状 義興 宗像四郎殿 37丁 天野要害の落居について
63 八月十六日
○以上、一~三十八の丁付けあり。白紙一丁。
【内題】「筑前国怡土郡深江駅鎮懐石八幡宮再興記/同鎮懐石八幡宮記/筑紫小戸霊蹟考/筑前宇瀰地理考/筑前国志摩郡七郷考/同志摩郡久家村龍王祀小円石記/同志摩郡久家村桜谷若宮社記/同志摩郡岐志浦花懸社縁起 全」
【詳細】
○目次一丁袋綴じ(二枚重ね。内側の料紙右半分に文字あり。古文書第九丁(建長八年正月日大宮院丁下文の部分)と同じ。「補任預所職濫妨社家領非拠之至只在斯事氏業為氏国甥之上即成猶子之間……申充親父氏経死去之後所譲与子息長氏也然則以長氏為件職」。おそらく反古)。
○「筑前国怡土郡深江駅鎮懐石八幡宮再興記」:鎮懐石八幡宮の由緒など
表紙裏識語:「此者久我氏本家ニ伝りしを天保六乙未三月廿五日、堤小七郎吉金主〓(より)久我靭負信俊ニ賜ル、〈此処ハ信俊自筆也、久我靭負信俊ハ鎮懐石八幡宮社ノ祀官也、〉」
○「筑前国怡土郡深江駅鎮懐石八幡宮記」:鎮懐石八幡宮の由緒など。目次にはあるが上記「再興記」との境目は不分明。
末尾:「時は慶応ノ二年長月廿日余り六日、宮崎の元胤謹記」
○「筑紫小戸霊蹟考」:古事記?の小戸橘についての考察
題下:「筑前国宮崎大門謹著」
○「宇瀰地理考」:古事記?の宇美についての考察
題下:「筑前宮崎大門謹述」
末尾:「安政五戊午年十二月十一日清書終」
○「志摩郡七郷考」:志摩郡内の諸郷についての考察
序文:「吾父の天保の初より何くれの考えを記して・・・今年嘉永三年戌年霜月の十日の日に浄書してかく其ノ人等に見せまゐらする事とは成しをへつ、男宮崎大俊(花押影)
題下:「宮崎大門謹著」
○「筑前国志摩郡久家村龍王祀小円石記」:龍王祠の由緒
○「龍王祠小円石記」
奥書:「宝永四歳三月朔旦、貝原常春録」
○「筑前国志摩郡久家村桜谷若宮社記」:桜谷若宮社の由緒
○「桜谷若宮社記」
末尾:「宮崎元胤謹白」
○「筑前国志摩郡岐志浦花懸大明神縁起」:花懸大明神の由緒
本奥書:「宝永丁亥年、司官山本刑部道豊」「神祇管領長上従二位卜部朝臣(印影?)(兼敬カ)
書写奥書:「于時天保九戊戌八月廿三日、於花掛住吉大神宝前謹書写之、宮崎大門(花押)」
【内題】「筑前国原田氏旧記鈔 全/元禄五年写本 原田家臣起 至安政三年百六十五年ニ成」
【詳細】
○「筑前国原田氏旧記鈔」:筑前国大蔵姓原田氏についての諸記録、文書なども引用
○「筑前国原田氏旧記鈔 全」
表紙に:「元禄五年写本、原田家臣起、至安政三年百六十五年ニ成」
「筑前国原田嫡流系図并家起」と「原田家中侍役名」を収める
→「筑前国原田嫡流系図并家起」の中に次の文書を収める
暦応2年11月20日 原田種貞言上状/閏7月2日 源頼朝書状/閏7月26日経房奉綸旨/12月7日大友義鎮書状/3月3日大友宗麟書状/天文24年12月3日原田種門補任状/天正7年8月25日原田了栄書状/天正17年12月13日 信種書状/永正3年12月12日 江上武種書状/永正4年12月23日宗心感状/永正4年2月23日 親述感状/天文2年正月9日 貞種軍忠状/天正8年3月8日 大友宗麟感状/天正8年11月20日 大友義統書状/天正8年6月9日大友義統感状
奥書:御旗下国士外様衆知行目録、所被改各任申旨記之畢、/天正十四年十一月廿日 笠備後守資正入道〈宗閑〉
【内題】「原田家諸旧本抄」
【詳細】
○「原田家諸旧本抄」:筑前国大蔵姓原田氏についての記録
○無題の原田氏由緒書と「原田両所権現社伝」を収める
○末尾に「時ハ安政三年甲辰七月七日記之、此原田氏の社伝ハ筑前志摩郡久家村祠官従五位下伊賀守安曇宮崎大門撰。その後に安政三年八月七日に安曇大門による追悼歌(三百年忌ニ、とあり)あり。
B17 東照宮御祭礼記
【冒頭】
一丁オ:「 東照宮御祭禮記
東照宮
従一位大相国源家康公 徳河氏 」
【構成】
元和三年、日光山遷座
享保十三年、吉宗社参
正保二年、宮号勅賜
尾張藩での勧請・祭礼
御祭礼車警固始行之事(元和六~宝暦元年)
御祭礼車警固之次第
御祭礼車警固幷人歩出町
※この間に表紙のあった痕跡あり。以下別本か。
享保十八癸丑年四月 御祭礼 神幸行烈車警固之次第
御先駈・殿(慶安~文化五年)
東照大権現祝詞
御社参之次第、など
【裏表紙裏】
「寛政七乙卯年夏初之寫之終 飯島輔重 」
【備考】
表紙・裏表紙とも、表紙を覆っていた紙の剥離跡あり。
本来二冊であったものを合冊したものか。
途中(中間あたり)裏表紙を覆っていた紙の剥離跡あり。また、表紙裏と同じ印が押印されている。
B18 東照宮二百五十回忌
【内容】東照宮二百五十回忌日光法会に関わり朝廷で授受された文書の留書。
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一 東照宮二百五十回忌 一
【書出】「東照宮二百五十回忌 着座公卿」
※史料名は、ここから採ったものと思われ、不適当。
【年代】慶応元年正月~二月
【備考】飛鳥井中納言・野宮中納言のもとで作成か/ペン書にて「東照宮二百五十回忌文書 上」とあり
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二 東照宮二百五十回忌 二
【内容】東照宮二百五十回忌日光法会に関わり朝廷で授受された文書の留書。
【年代】慶応元年三月一日~三月二十九日
【備考】ペン書にて「東照宮二百五十回忌文書 中」とあり
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三 東照宮二百五十回忌 三
【内容】東照宮二百五十回忌日光法会に関わり朝廷で授受された文書の留書。
【年代】慶応元年四月一日~十二月二十七日
【備考】ペン書にて「東照宮二百五十回忌文書 下」とあり
B19 豊国社記
【内容】慶長四年四月十六日~二十四日までの日次経過記録
【構成】
遷宮道具幷神寶
豊國大明神之社領 慶長五年三月吉日 吉田二位兼見
豊國大明神社家衆御神供料 慶長五年霜月十日 吉田雑掌喜介
豊國大明神社領配分 慶長六年七月十八日
豊國大明神社領 慶長六年七月廿九日
豊國神社金銀注文 慶長四年四月廿六日 吉田雑掌勝正
豊國御社御初尾太刀注文 慶長四年四月廿六日 吉田雑掌勝正
当社<今月廿六日目/已後より>午刻御初尾 慶長四年卯月晦日 吉田雑掌勝正
【奥書】
「右一巻、豊國大明神之旧記也、
正徳三癸巳年七月九日
鈴鹿内匠中臣正能 」
【追記】
「右不慮一見之間、書写之、尤
御当代禁忌之記、禁他見他借者也、
阿波介■(花押)」
B20 武家心得草
【本文】
「第一、当時武家の風俗年々に柔弱に流れ……猶委敷事は附言に於て申上へきニ而候、
※以下、第五まであり。
右五ヶ条の御■ハ、止事を得すして差当りたる契を扱ふを旨として……隠されさるに慣ひ候にて候、
附言
修身第一
立教第二
品製第三
知本第四 」
【備考】奥書等なし。本文中に「武家心得草」の語なし。
B21 本朝神社考証
【書出し】「天神地祇総三千一百三十二座」この下に黒印が半分押されている、印文不明(最後の字は「蔵」の残画)
【末尾】「一山科諸羽大明神 天諸羽命」
【内容】諸社の祭神・社殿・由緒・祭礼・歴史などを記す、本地仏についても記載
【備考】内題・奥書など無し、鉛筆書きで「Hayashi,Razan」とあり、ただし林羅山の「本朝神社考」とは内容が異なる
B22 羽太氏家訓
【序文】「 寛政七年乙夘三月 羽太氏藤原正養誌 」
【本文】「 家訓巻之上
東照神君、本多忠勝に宣ふハ、家をたもつ者わ……
※以下、家訓巻之中、家訓巻之下
のこし置ひとつの文ハ我家の
ひかりをみがく鏡とも見よ
家訓巻之下終 」
【内容】旗本羽太正養(寛政七年当時田安家用人<四十四歳>、同八年正月西丸目付、同年五月目付)が、子孫のために「萬世我家の法とせよ」と「汝等がこころとすべき戒の片端をしるして一書を残」したもの。
B23 神境雑例
【内容】
「神境雑例一之上」(朱書)その下に朱印、印文不明「□□□庫」 刀祢任符之様ほか
「神境雑例一之下」以下同上 山田三道場
「神境雑例二之上」以下同上 御巫平左衛門願書ほか
「慶安三年」(墨書」その下に朱印、印文不明「□□□庫」、「神境雑例二之下」か。「一奥山喜兵衛と森与大夫相論之・・・」
【備考】伊勢神宮に関する先例など、文書も引用
B24 神宮雑例集
【奥書】
「巻第一」:
右
慶応三年丁卯十一月十二日以
禰宜荒木田守堅卿蔵書写畢 従五位上宇治土公定謐
已上墨附弐十四枚
「巻第二」:奥書なし
B25 智積院年中行事
【首部】智積院年中行事略記」正月」
【奥書】安政六己未年十二月 以 義龍法印御本為心得写伝之」五百仏山祥雲禅寺智積教院」前側席生国仙台」誠明」一乗山根来寺中性院
【内容】京都・智積院の年間の法会を月ごとに列記したもの
B26 註進雑記
【表題】なし
【目次】第一本縁」第二祭礼」第三神宝祭器神服」第四齋院」第五行幸官幣御幸附祈願霊験等」第六造営」第七社家 官位諸司」第八神領」
【奥書】右一冊者依江戸寺社御奉行〈松平山城守・板倉石見守〉御所望神主保可権祢宜維久・季通并月行事六役等連日参会于評議所撰聚也、于時執筆保業与予先考友善、よる後日申請社中之草案手自書写、而所被送に先考之本也云々、別而令秘蔵者也、但至に神領之巻者、猶向後□□□知之状制札之案等少々有追加云々、」右京権大夫賀茂清茂
【内容】京都賀茂社の由緒、祭礼、社殿、所領などに関してかきあげたもの。所領に関しては多数の中世文書を書写している。
B27 社寺明細帳
【表題】社寺明細帳」竹田文庫」
【首部】吉田殿七五三下」杉野瀬組名立小泊村」幣司二宮左近」」一日宮権現・諏訪大明神 祭神 天鏡神・武御名方命」
【内容】嘉永七年 越後国頸城郡 名立地区の村々の神社の書き上げ(大町村 筒石村 徳合村 仙納村 坪山村 赤俣村 大菅村 谷口村 飛山村 瀬戸村 西蒲生田村 東蒲生田村 小田島村 折戸村 平谷村 田野上村 桂谷村 池田村 峠村 折居村 濁沢村)
【表題】杉野瀬組森村」社家巨細書上帳」竹田文庫」
【首部】吉田殿七五三下」杉野瀬組森村」社人二宮甲斐」
【内容】(丸田村 杉野瀬村 田野上村 鉢本村 車路村)
B28 諸家問合答附札
【表紙】「御仕置類 諸家問合答附札」
【書出】「牧野備前守
寛政元酉年正月、松平久太郎家来♭問合」
【最末】「阿部播磨守 享和三亥年十月■日、阿部駿河守家来♭問合」
【内容】寛政元年から享和三年に至る、諸方面からの寺社奉行への問合せに対する寺社奉行の返答(答附札)の記録。
B29 神宝図
【首部】以神前為表此図表也」凡幣帛者以絹作之、今用紙者略式也、
【内容】祭祀のための諸道具の図解
B30 管窺録
【表題】真宗法要蔵外書管窺録
【首部】真宗法要蔵外書管窺録」○帖外和讃」纂彙ニ見仏色身と瓦礫も金と変しける」
【内容】皇太子聖徳奉讃 本尊色紙文 血脈文集 真宗用意 敬白文ほか
【備考】浄土真宗の法要にかかわる書籍の解説書
B31 四神社閣記
B32 永正記
【内容】永正記上:服暇触穢禁忌火物等目録
永正記下:神明遺勅ならびに朝家憲章及両宮規範往昔之例、中古之趣当時之儀、凡百二十箇条
【備考】「川内文庫」の長方形印あり
B33 吽迦陀野双身毘沙門天王浴油供養法私記
【首部】今謂読じゅ経典非修法之正宗、修法已了読じゅ大乗(中略)観於我心月一肘上、令神呪一々、文字分明、字義亦深思之、(中略)吽迦陀耶八牙天王浴油供養、油供養法私記巻三」千光沙門義湛」
【奥書】維時」寛政八年次歳丙辰孟春」肥前州高来郡島原於清(さんずいに椅)亭」授法門人常教房義貫謹書写之者也
B34 水戶黄門光圀卿家臣示教法令書
B35 大谷本願寺通記
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一 大谷本願寺通記 下
【内容】大谷本願寺通記 巻第一~巻之八
【構成】
巻第一 歴世宗主伝第一
巻第二 歴世宗主伝第二・第三
※従如(宝暦十年七月十一日化)まで。
第三 歴世宗主伝 准如
巻四 浄土真宗大谷傳燈旁附傳/同附傳標目
巻五 佛事諸式 ※永仁二年報恩講式~宝暦十一年大谷五百年祖忌
巻六 僧階次序
巻七 諸弟畧傳
巻八 廟堂規則
【備考】背の書名に「下」とあるのは誤り。
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二 大谷本願寺通記 上
【内容】大谷本願寺通記 巻第九~巻之十五
【構成】
法宝品数巻九
巻十 別院縁由
巻十一 諸弟畧傳 近世学侶部 ※下間系図あり。
巻十二 公私文書 寛元元年親鸞判物~安永年間
巻十三 旁門略傳
巻十四 吉水門下支流 浄土宗諸派本山 吉水門下諸弟畧傳
巻十五 扶桑廿一本寺附僧綱弁
【末尾】
「右扶桑廿一本寺畧傳一巻、於錦華殿借、宝暦発((癸))未九月、玉峯周珏所写本而書之、原本多写誤間有疎漏、因修治之、読者須知、
天明四年甲辰十月 釋玄智■耀識 」
【備考】背の書名に「上」とあるのは誤り。
B36 日光御社参記
【構成】次の四冊を合綴
1表紙題箋「享保度 日光御社参記 二冊之内」
2表紙題箋「享保度 日光御社参記 二冊之内」
3表紙題箋「安永度 日光御社参記 全」
4表紙題箋「安永度 日光御社参歩行御供心得書」
【備考】1・2は享保十三年、3・4は安永五年の日光社参の際のもの/四冊とも、「内藤耻叟」「依田文庫」の押印あり
B37 三種神器之辨
【書出】
「 三種神器之辨
人皇第十六代垂仁天皇……」
※このあと「三種祓之辨」が続き、そのあと軍法の話となる。
【備考】書名は、書出の「三種神器之辨」から採ったものと思われるが、「三種神器之辨」は導入部分であり、内容は軍法書である。従って、背にある「軍類故実書」のほうが相応しい書名である。但し、本文中のどこにも「軍類故実書」とは記されておらず、根拠不明。
B38 諸宗御法度書・切支丹御制禁御法度書
【内容】次の法度書を載せる。
元和元年七月 真言宗諸法度/高野山衆徒法度/五山十刹諸山之諸法度/大徳寺諸法度/永平寺諸法度/総持寺諸法度/妙心寺諸法度/浄土宗諸法度/浄土西山派諸法度
寛文五年七月十一日「定」(諸宗寺院法度)
慶長八年五月日「掟」(切支丹・不受不施・非田宗制禁掟書)
貞享四年四月「御條目」(切支丹取締条目)
B39 当御家中御役方心得
【冒頭】
「一江戸表江御礼状差出候分左之通
(中略)
右之通、今度改而被 仰出候間、御家中江可被相達候、以上、
九月十日 松下源左衛門
御目付衆中
座列
家老職 家老格 家老職忰子父之順
(中略)
右之通、向後座列相定畢、
右之通、此度御改被 仰出候間、可被得其意候、以上、
寛政三亥四月 」
【内容】以下、次の「定」等を載せる。
寛政二年九月 直朗・直廣「定」
寛政三年五月 直廣・直朗「定」 松下源左衛門等宛
寛政四年六月廿九日 直朗「定」
寛政五年七月 直朗「御條目追加跡式苗之定」 松下源左衛門等宛
寛政十二年四月「覚」 松下源左衛門等→御目付衆中
寛政四年十二月(諸届等定書) 松下源左衛門等→御目付衆中
(中略)
文化十年十二月「定」
【奥書】
最終丁オ「大橋性」
最終丁ウ「文久三癸年亥四月吉祥 勘兵衛写之、」
→大橋勘兵衛による写本か。
【備考】越後与板藩井伊家(二万石)の家中に対する諸向勤方に関する法令等を集成したもの。成立年代は未詳であるが、寛政年間を中心に文化十年までの法令等を載せる。寛政年間の直朗の時代の藩政改革に関するものか。
B40 外宮神宝之図
【内容】
一丁オに「東家文庫」の押印あり。
一丁オ「外宮神宝之図」
十二丁オ「内宮神宝之図」
→外宮のみではなく、内宮もあり。書名は不適当。「神宮神宝之図」或は「内宮・外宮神宝之図」といったところが適当か。
B41 橘家蟇目秘之巻
【書出】
「橘家蟇目秘之巻
玉木正英謹書
神代正傳蟇目秘記
(中略)
右蟇目之傳、自神代之正傳而、橘家嫡々相傳之極秘也、
橘 以貞判 」
三丁オ「橘家蟇目口傳之巻
玉木正英謹記((ママ))
(中略、「蟇目之図」あり)
橘家蟇目口傳秘巻終 橘朝臣以貞記 」
【備考】前半の「…秘之巻」は口伝の由来、後半の「…口傳之巻」は口伝の内容を記す。「…秘之巻」と「…口傳之巻」が一緒になっているもので、書名は不適当。「橘家蟇目口伝秘巻」が適当か。
B42 室新助封事
【内容】
「 上呈
乍恐申上候、天下泰平久しく候ニ付、御先代より……此分ニ而つのり候ハヽ、 御為よろしからぬ儀も出来可仕哉と奉存候ニ付、推参千万なから申上候、以上、
二月
御先祖様江御事被遊候品々之覚
御先祖様江御進孝被遊候儀……左之通申上、
(以下十二条略)
壬寅十二月廿六日者、
東照宮御誕生之甲子月日ニ付、 御祝可被遊哉御尋ニ付申上候覚書
(中略)
十二月十九日 室 新助
子孫たる者、先祖へ事申候定法之覚書
(中略)
三月 室 新助
諸大名参勤交代之儀ニ付申上候覚書
(中略)
※月日、署名ともなし。
京大坂駿河御城主在番之儀ニ付相考申候覚
(中略)
六月五日 室 新助
封建郡縣之事、幷秦漢以後諸侯封建之事、御尋ニ付相考之趣申上候
(中略)
※月日なし 室 新助
周時世禄幷周以後群臣穀禄之様子御尋ニ付、相考之趣且又料簡之通申上候
(中略)
四月 室 新助 」
【備考】室新助=室鳩巣。壬寅=享保七年か。
B43 大古久恵美主傳集解
【内容】「大古久恵美主傳集解
隠士狭長田神奴翁弘仲輯撰 」
本邦ノ神風流傳ニテ伊勢宗廟ノ……惟時元文二丁巳年閏十一月二十日、神道山隠叟清耕軒禱久齊狭田神奴翁藤原弘仲輯撰
大古久恵美主傳集解大尾
(異筆)
「天保七年二月卅日 小泉♭差付ニ而出府節」→書写年か。
最終丁オ「 中主水
有信 」
【備考】「陳屋」の押印あり/題名よみ「ダイコクエビスデンシュウゲ」
B44 東寺百合文書
【備考】罫紙柱「文科大学史誌編纂掛」「編年史編纂掛」
下巻川合庄の部に朝河の書き込みあり
※要訂正 “The Library of PROFESSOR K. ASAKAWA Presented by him to the University 1942”