イェール大学の所蔵する日本関連コレクションは、「シーボルトが紹介したかった日本」という本シンポジウムのテーマに直接関わるものではないが、シーボルトによる日本関連コレクションがシーボルトの個性を反映したものであるように、イェール大学の所蔵する日本関連コレクションも、その収集に関係した人々の個性を反映している。そしてイェール大学の日本関連コレクションの形成に関係した人々は多くいるけれども、その中で朝河貫一(1873-1948)の果たした役割はきわめて大きい。
1895年に渡米し、1948年に彼の地で客死した朝河は、1906-07年と1917-19年の2度帰国している。その2度目の帰国時に朝河はイェール大学の卒業生の会合Yale Association of Japan(日本語では「エール大学会」「エール会同人」「日本イェール協会」等と表記されているが、以下では「日本イェール協会」を用いる)に招かれ、イェール大学が「東洋博物館」建設の構想を有していることを語り、東洋各国がそれぞれ自国の文化の由来を語るべき重要資料を提供することになるが、日本においては日本イェール協会がこれにあたることを提案した。朝河の提案は会員一同の賛同を得、49人の有志から22,300余円が寄せられ、この基金によりイェール大学に寄贈する史料を選定することが、東京帝国大学の国史学の教授であり史料編纂官を兼務していた黒板勝美(1874-1946)に委ねられた。
黒板による史料の選定は10年余を要し、1934年にようやくイェール大学に送られた。その間に「東洋博物館」の構想は頓挫していたが、そのかわりに1930年に竣工したスターリング記念図書館の3階に日本イェール協会寄贈史料のための部屋が用意され、この特別なコレクションを讃えるために、日本の武士や貴族の姿を描いたステンドグラスで部屋が飾られた。
この「日本イェール協会寄贈資料」はいわば「朝河・黒板が紹介したかった日本」を語るものということになり、「シーボルトが紹介したかった日本」と比較する対象となる。この2つのコレクションは収集された時期も異なれば、収集にあたった主体の性格も異なり、対照的ともいえる。きわめて大ざっぱなとらえ方になるが、シーボルトが、まだ西欧人にとって未知の部分がきわめて多かった日本に、西欧人として乗り込んだ人物であり、その目で日本を西欧に紹介しようとしたのに対して、朝河・黒板は日本に生まれ育った人物であり、その目で日本を欧米に紹介しようとした。特に朝河は日本生まれながらアメリカに定着し、その地で日本研究を発展させようとしていたから、必ずしも文化財としての価値の高いものにのみ関心を持つのではなく、研究のための基礎史料として必要なものを収集することを心がけた。そのような努力の姿勢はむしろ第1回帰国時の図書・史料収集にみてとれる。
そこで本稿では、まず「日本イェール協会寄贈資料」の構成から「朝河・黒板が紹介したかった日本」を読み取り、次に朝河が欧米で日本研究を進めるために図書・史料を収集した方法について考えることにしたい。
2.日本イェール協会寄贈資料の構成
日本イェール協会は収集した資料をイェール大学に寄贈するにあたり4巻からなるカタログを作成している。会長大久保利武の序文には、解説の作成について黒板勝美・三成重敬(1874-1962)に対して、英文の作成について秋元俊吉(1884-?)に対して謝辞が述べられている。三成は史料編纂所にあって黒板の職務を補佐していたことで知られる人物であり、秋元は英字新聞The Japan Times(1897年創刊)の記者や雑誌『英語之日本』(1908-17)の編集主幹を務めた人物である。黒板・三成が和文で執筆したものを秋元が英文に翻訳したものと思われるが、和文の原稿はおそらく現存せず、英文カタログも日本で所蔵する機関は少なく、東京大学・史料編纂所も所蔵していない。
カタログは表紙に“CATALOGUE OF Books, Manuscripts and Other Articles of Literary, Artistic and Historical Interest, Illustrative of the Culture and Civilization of Old Japan. Presented to Yale University, U. S. A. By Yale Association of Japan, TOKYO” と題されており、全4冊。このカタログでは寄贈資料が次のように分類されている。
A. Manuscripts and pictures
Aa. Portraits
Ab. Buddhist manuscripts
Ac. Documents
Ad. Calligraphy
Ae. Poetry
Af. Hand-copied books
B. “Printed books, scrolls etc”
Ba. Buddhist texts
Bb. Texts in Chinese
Bc. Texts in Japanese: primers, moral instructions, etiquette, games, etc.
Bd. Texts in Japanese: belles letters, occupations, amusements, etc.
Be. Texts in Japanese: treatises on art, sciences, & useful arts
Bf. Geography, atlases
C. “Reproduced books”
D. “Chinese and Korean books”
Da. Chinese
Db. Korean
上記のこの分類が、いわば「黒板が紹介したかった日本」ということになる。しかしこれらの資料を受贈した側の朝河は、この分類のままでは展示のためにも保管のためにも不便と考え、分類をし直している。朝河の分類は以下の通りである。
1. Portraits: autographs
2. Historical documents
3. Historical miscellany
4. Geographical
5. Arts
5a. Art, general
5b. Calligraphy
5c. Painting
6. Literature
6a. Poetry
6b. Fictions
7. Religion
7a. Buddhist manuscripts
7b. Buddhist printing
7c. Buddhist miscellany
7d. Shinto, Confucian, etc
8. Education
8a. Education of women
8b. More modern text-books
9. Customs, amusements
9a. Customs & manners
9b. Amusements
10. Sciences, arts, occupations
10a. Sciences
10b. Useful arts
10c, Occupations
11. Printing (exclusive of Buddhist texts, for which see 7)
11a. Texts in Chinese
11b. Texts in Japanese
11c. Facsimiles of old prints
12. Furniture, utensils
C. Books from China
K. Books from Korea
上記の分類がいわば「朝河の紹介したかった日本」ということになる。イェール大学では現在この分類に基づいて保管されている。保管場所として当初はスターリング記念図書館の3階が用意されていたが、1963年にバイネキ稀覯本・手稿図書館が開館した後は、同図書館に移管された。
次に、朝河第1回帰国時における図書・史料収集について見たい。朝河は第1回帰国の際に、イェール大学と米国議会図書館より日本関係図書資料収集の依頼を受け、イェール大学に8,120種21,520冊(洋風に製本し直して1,351巻)、議会図書館に3,160種45,000冊(洋風に製本し直して9,072巻)をもたらした。朝河の史料収集の基本方針は、他に替わるもののない原本史料を日本から持ち出すことは避け、日本史研究のために必要な史料は謄写して持ち帰るということであった。
朝河収集の日本関係史料のうちに古代・中世の古記録の謄写本が相当数ある。そのうちD2「親長卿記」、D8「勘仲記」、D9「中右記」、D10「兵範記」、D11「薩戒記」、D12「山槐記」、D24「花園院御記」等は哲学書院が謄写に関係していることが、料紙も「哲学書院」「高頭」等の印が捺されていることなどから推定される。
哲学書院は、1887年に井上円了が哲学館を創立したのに伴い、純正哲学・心理学・倫理学・審美学・論理学・社会学・政理学・法理学・宗教学・教育学・史学・文学に関する書籍刊行を目的として同年に設立され、高頭忠造が発行人となった。1898年からは『史料大観』を発行し、第1巻上に「記録部 台記」(1898年)、第1巻下に「記録部 台記別記・宇槐記抄・台記抄」(1898年)、第2巻に「編纂部 扶桑名画伝」(1899年)、第3巻に「記録部 槐記」(1900年)を収める。また1908年には『玉葉』を刊行した。同書は『史料大観』の既刊4冊とは判型を異にし、また既刊4冊のように表紙を「史料大観」とはしていないが、巻末の広告においては「史料大観」の一部として扱われている。
『史料大観』発刊時の広告(『讀賣新聞』1897年4月8日)によると、「日記記録類全部凡一千巻」を対象とし、底本は「内閣記録課並其他社寺貴族諸家の御蔵本にのみよる」としている。内閣記録課所蔵の日記記録類とは、1888年に内閣臨時修史局が廃されて帝国大学に臨時編年史編纂掛が置かれた際に、帝国大学に移管されずに内閣文庫に残された図書のうち、修史館時代より修史の材料として謄写されてきたものである。
朝河収集の謄写本のうち、D9「中右記」には1883-84年に九条家本および近衛家本より謄写した旨の修史館職員の奥書の複写が、D10「兵範記」には1887年に近衛家本より謄写した旨の内閣臨時修史局職員の奥書の複写が見える。そして現内閣文庫本のうちにD9「中右記」・D10「兵範記」の元になった謄写本が現存する。
つまり修史館・内閣臨時修史局により作成され内閣記録課の管理下にあった古記録謄写本を哲学書院が転写したのは、『史料大観』の刊行を準備するためであったとも想像されるが、実際には『史料大観』として刊行されることはなく、転写本は朝河に収集され、イェール大学の所蔵するところとなったと思われる。
朝河収集の謄写本のうちには、上記とは範疇をまったく異にするものがある。朝河と同時代人の著作ないし編纂物の謄写本である。
たとえばJ10「徳川幕府県治要略」は安藤博の著作であるが、出版されたのは1915年であり、朝河の第1回帰国時には未刊であったが、朝河は著者所持原本から謄写した。イェール大学架蔵の謄写本には朝河が和文・英文両方で入手の経緯を鉛筆書きで記している。「此書ノ著者ニハ余面識ナシ。知友遠藤芳樹氏ヲ介シテ原本ヨリ之ヲ寫セシム。是レ日本最初ノ複本也。ヤガテハ東京帝國大学ノ為ニモ一部寫サシムベシトゾ。/明治四十年七月」“This work, which shows the actual working of the land law of the Tokugawa period so well as no other work does, was written by Ando Hiroshi, an old surviving member of his family, which had for generations been Daikwan. I was not acquainted with him, but succeeded in having this valuable work copied through my friend, Mr. Endo Yoshiki’s kindness, who wrote the preface. The original copy was the only extant copy of this work in Japan, and the present copy this first duplicate made of it. There will sometime be another copy made for the Imperial University of Tokyo from the same original. /K. Asakawa / July, 1907.”
またJ7「室町職官考」は栗田寛(1835-1899)の著作であるが、出版されていない。イェール大学架蔵本に貼付された朝河のメモには、“This copy was specially transcribed for Yale, through the kindness of Mr.Wada Mankichi, Librarian of the Imperial University of Tokyo, from the copy kept at this Library. 1907 K.A.”と記され、東京帝国大学附属図書館長和田万吉(1865-1934)の好意により同図書館架蔵本から謄写したことが知られる。
朝河の第1回帰国の頃、活版印刷による図書の刊行はもちろん行われており、史料の刊行も始まってはいたが、図書や史料を収集するのになお謄写という方法が相当の意味を持っていたことがわかる。
5.その他の史料
イェール大学は、朝河の収集による以外にも多くの日本関連資料を有するが、その中でも特に紹介しておきたいのは、Manuscripts and Archivesの部門が管理しているSamuel Wells Williams Family Papersである。これは、ペリー艦隊に通訳として同行したサミュエル・ウェルズ・ウィリアムズ(1812-1884)が後年イェール大学教授となったことにより、同大学に寄贈された文書であるが、その中にペリー艦隊に乗船して密航することを希望した吉田松陰が艦隊に提出した文書2通がある(夜久1977)。