YAJカタログ(日本語反訳版)

詩:和歌、連歌

(A e 1) 公家四季和歌懐紙
     2巻、黒漆の箱入り。
     第1巻:36.2㎝ × 348㎝
     第2巻:36.2㎝ × 360㎝

     和歌は日本の詩歌の典型的な形で、三十一語、韻はないが、5-7-5-7-7の5つのまとまりの形に整えられている。長い詩歌やさらに短い詩歌、中国の詩などの他の形もあるが、日本の歌人は和歌の形を好む。個人の歌集はほとんどないが、昔の歌人による傑作は和歌集に収められており、最も価値があるものは奈良時代の紀貫之(708-780年)が編集した『万葉集』である。万葉集の次に最も有名な歌集は平安時代(794-1154年)の勅撰和歌集である古今集である。万葉集の和歌は激しさと自然の力を内包しているような言葉選びの率直さと心情の簡潔さに特徴があるが、古今集は形式の細やかさや言葉選びの面で、不自然ではない、より高い芸術的な言い回しに特徴がある。後に出てくる鎌倉時代の作品である新古今和歌集によって、日本の和歌に実に新しい風が吹き込まれた。

    「新古今和歌集」

     和歌が書かれた紙には三種類ある;短冊、3インチ×1フィートの厚みのある長方形の紙;色紙、8インチの四角形で場合によっては装飾が施された厚みのある紙で、時に豪華な色であり、銀や金の時もある;懐紙、色紙よりも多少サイズが大きい。ここにある二冊は懐紙を含んだ歌集である。これらは伏見宮邦輔親王を含む多くの皇族が詠んだ和歌が含まれている。以下に歌人の名前と扱ったテーマについて示す。

    第1巻、春

     1.一首、春の歌
      「春日詠鴬是万春友和歌」式部卿邦輔親王筆。
      伏見宮第七代親王で、後奈良天皇の養子。1563年に死去。

     2.三首、沙門どうえい筆。
      (a)氷の融解。(b)雪に似た梅。(c)長寿の祝い。

     3.二首、権大納言飛鳥井雅綱筆。
      (a)柳の生長。(b)神聖な祭り。
      1538年から1542年の間に詠まれた。

     4.同じ主題の三首。左近衛権中将中山侯筆。
      (a)花の色が月明かりを反射している。(b)春の花の悲しみ。(c)

     5.一首。「水に浮かぶ春の雰囲気」権中納言四辻季遠筆。1544年から1550年頃に詠まれた。

     6.一首。「亀は長寿の象徴」中御門宣秀筆。
      1504年から1518年に詠まれた。

    第二巻、夏、秋、冬

     1.「夏の日」の三首。陸奥と出羽の統治者、三条西公条筆。
      (a)夏草の露。(b)夕方の風。(c)神社の柳。
      1535年から1540年頃に詠まれた。

     2.「秋の日」の三首。内大臣三条実香筆。
      (a)水辺に訪れた秋。(b)霧に覆われた野の花。(c)夜明けの愛。
      1507年から1515年頃に詠まれた。

     3.同じ主題の三首。蔵人頭甘露寺伊長筆。
      1511年から1518年頃に詠まれた。

     4.秋の日の三首。権中納言冷泉為満筆。
      (a)宮城野。(b)常緑樹。(c)大阪の陣。
      1614年から1618年に詠まれた。

     5.冬の日の三首。権中納言中院通為筆。
      (a)霧雨、晴れ、曇り。
      (b)川岸にて、寒さの震え。
      (c)読書の間の春の訪れ。

     6.冬の日の三首。蔵頭山梨ことつな筆。
      (a)雪景色を見る。
      (b)どの家族にも年末がやってくる。
      (c)谷間の常緑樹。
      1500年から1518年頃に詠まれた。
(A e 2) 和歌短冊色紙帖
     1帖。
     幅39㎝

     この帖には、数多くの色紙と短冊が見られ、そこには後柏原天皇(1464-1526年)や後陽成天皇(1571-1617年)から明治時代(1868-1912年)の皇族や貴族、政治家、偉大な学者、歌人、武士などの著名人らによって詠まれた和歌が含まれている。以下は、詠人の名前と歌のテーマ、もしくはそれぞれの和歌の初めの数文字である。

    「朝まだき」後柏原天皇宸筆古歌(第103代天皇)
    後柏原天皇は1521年に生まれ、1526年に死去。〔※ママ、正しくは1464年生まれ。訳者注〕

    「渡霧」後陽成天皇御製(第106代天皇)
    天皇は1586年に即位、1617年に死去。

    「花ざかり」桂宮智忠親王御和歌。
    親王は後水尾天皇(第107代天皇)の皇子。

    「雪のような桜」桂宮家仁親王御和歌。
    親王は東山天皇の皇子。

    「冬の夜の月」閑院宮春仁親王御和歌。
    親王は桃園天皇(第115代天皇)の皇子。

    「夏の思い出」有栖川宮幟仁親王御和歌。
    親王は光格天皇の皇子。

    「郭公を待つ」飛鳥井雅俊和歌。
    雅俊は後奈良天皇の和歌と蹴鞠の侍講として仕えた。大永3年(1523年)に死去。

    「私の家の花…」飛鳥井雅親(栄雅)和歌。
    雅親は1465年に優れた和歌の編纂物を出版、書の専門家であった彼は自分の名前を冠した新しい流派を作った。

    「たなばた…」姉小路基綱和歌。
    基綱は永正5年(1504年)に死去。

    「冷たい葦…」中院通村和歌。
    通村は1647年に内大臣に任命され、1653年に死去。世尊寺派の書に熟達していた。

    「桜」野宮定基和歌。
    中院通茂の息子定基は『本朝故実』などの著者。1711年に死去。

    「はるかぜの」鷲尾たかすみ和歌。
    1857年に死去。

    「遊山の中止」岡本宣就和歌。
    宣就(有名な兵法家)は兵学の指導者として井伊直孝に仕え、また茶道と華道の師範でもあった。1657年に死去。

    「新年」萩原宗固(貞辰)和歌。
    宗固は歌集『志野乃葉草』を含む数冊の本の著者。1784年に死去。

    「子日松」本居宣長和歌。
    日本古典の著名な学者である宣長は、1730年に生まれ、最初賀茂真淵のもとで学び、日本古典や歴史学のみならず、神道においても偉大な学者となった。1801年に死去。

    「更衣」本居春庭和歌。
    本居宣長の息子春庭は、偉大な父親の後を継ぎ、日本古典の優れた学者となった。和歌もよくした。1828年に死去。

    「雪中子日」本居大平和歌
    本居宣長の弟子である大平は1828年、宣長の実子の死後、彼の息子として養子になった。天保4年(1833年)に死去。

    「ひとふしに…」本居内遠和歌。
    内遠は本居大平の弟子で、彼の養子になった。曲亭馬琴(偉大な戯作者)と懇意であった。1855年に死去。

    「春の訪れ」香川景樹和歌。
    景樹はただ日本古典の優れた学者というだけでなく、徳川時代後期における最も優れた歌人の一人であり、景樹派として知られている。1843年に死去。

    「漁網にかかる月の光」香川景樹和歌。

    「打ち寄せる波の側、梅の木の下で旅人を見る」村田春海和歌。
    賀茂真淵の弟子の春海は日本と中国古典の学者であり、和歌の優れた歌人でもあった。1811年に死去。

    「お祓い」橘(加藤)千蔭和歌。
    千蔭は、賀茂真淵の弟子で、日本古典の著名な学者であり、また万葉集や他の書物の論評を文学的主題で書いた。1808年に死去。

    「松柏之寿」清水浜臣和歌。
    浜臣は江戸の医者で、優れた日本の学者である。村田春海のもとで古典を学び、多くの本を書いた。1824年に死去。

    「くもりなき…」尾崎雅嘉和歌。
    大阪出身の雅嘉は日本と中国の古典に精通し、『群書一覧』やその他の文学の本を執筆した。1827年に死去。

    「卯月の郭公」成島司直和歌。
    司直は日本語学と中国語学に精通し、特に日本古典に詳しかった。徳川の歴史を編纂するに価値ある助けと成るものを著し(『徳川実記』)、他にも数冊の本を執筆した。1869年に死去。

    「菊花」伴信友和歌。
    著名な日本の学者である伴は400巻からなる120冊以上の書物を執筆し、国学の勃興に大きな貢献をした。1840年に死去。

    「葵をかざす…」賀茂季鷹和歌。
    季鷹は賀茂神社の神官で、後に江戸にやってきて、橘千蔭の弟子となる。1842年に死去。

    「きしのこけ」小山田与清和歌。
    与清は1803年、江戸の裕福な商人である高田庄次郎の養子となり、日本と中国古典に熟達していた。彼は当時、最も大きな書庫を有していたと言われ、重要な文献目録やその他の書を執筆した。村田春海や橘千蔭の時代の後、当時随一の学者となった。平田篤胤や伴信友とともに三巨頭を成した。1847年に死去。

    「影」釈義門和歌。
    義門は一向宗の有名な僧侶で、本居大平の弟子。1843年に死去。

    「春の宵の馬」斎藤彦麿和歌。

    「薬草の歌」 同上

    「清め」同上
    彦麿は伊勢貞丈のもとで多様な知識を得、本居宣長のもとで古典を学んだ。1859年に死去。

    「夏雨」鈴木朖和歌。
    朖は尾張領の著名な日本の学者であり、本居宣長の弟子。1837年に死去。

    「街道」六人部是香和歌。
    是香は向井神社の神官で、平田篤胤の弟子。多くの著作を書いた。

    「初春の歌」富士谷御杖和歌。
    御杖は日本の学者で、熟練した琴の奏者。『百科部類書』や他の書籍を執筆。1823年に死去。

    「春の薬草の芽吹き」水野忠邦和歌。
    忠邦は有名な徳川政府の老中であり(1834年に任命)、奢侈禁止令で恐れられた。

    「暗闇の菊香」阿部正弘和歌。
    正弘は、1853年に徳川政府の老中に任命され、ペリー提督来航時に外交の最高責任者であった。高い能力のある政治家で、国際問題が避けられない傾向にあるのを知り、外交の条約締結に努めた。官僚としての優れた仕事の後、39歳で死去。

    「禁裏に咲く花」川路聖謨和歌。

    「楽」同上。
    聖謨は、進歩的な考えを持つ政治家であり、1853年に徳川幕府の勘定奉行に任じられ、ペリー提督来航以降、外交政治に特に尽力した。1868年、高官を退職した後、政府の方針に反発、抗議の自殺をした。

    「里砧」塙忠宝和歌。
    忠宝は、有名な盲目の学者塙保己一の息子であり、日本古典の有名な学者である。幕府の幕臣の館からの帰路、浪人に暗殺された。

    「蚕の養育」足代弘訓和歌。
    弘訓は、伊勢神宮の祠官で、日本古典の有名な学者。多くの著作を書いた。1871年に死去。

    「紅葉の葉」大国(野之口)隆正和歌。
    隆正は、石州津和野藩の侍。優れた日本の学者で、平田篤胤のもとで学び、多くの著書を書いた。1871年に死去。

    「神々」鈴木重胤和歌。
    大国隆正の弟子、後に平田篤胤のもとで学び、多大な業績である『日本書紀伝』の執筆により高い評判を得た。1863年、暗殺者の刃の犠牲になった。

    「夏の雨」伊達千広和歌。
    千広は、紀伊藩の勘定奉行であったが、徹底的で率直な気性が理由で解雇され、相国寺で禅の修行を積んだ。本居大平のもとで和歌を学び、歌人としてかなり有名になった。1877年に死去。

    和歌。黒川春村和歌。
    春村は狂歌の愛好者で、「浅草庵三世」を継いだ。後年、狂歌をやめて狩谷棭斎の弟子になり、日本古典と和歌を学び、和歌の詠手として高い栄誉を得た。1866年に死去。

    「真夜中の月」黒川真頼和歌。
    真頼は日本古典の著名な権威者であり、国学の勃興に価値ある貢献をした人物である。東京帝国大学の名誉教授となった。1906年に死去。

    「初春の霧」谷森種松(善臣)和歌。
    種松は伴信友の弟子。多くの陵墓が荒廃した状態を避難し、『諸陵徴』や他の書を執筆した。1911年に死去。

    「葵」伊達宗彰和歌。
    伊予国宇和島藩主の宗彰は明治維新の際に重要な役割を果たした。後に、明治政府に仕え、特に外交業務を主とし、栄誉な思い出から自身を引き離した。1892年に死去。

    「『草野集』を送る」伊達宗彰和歌。

    「曇夜の柳」松平確堂(斎民)和歌。
    将軍徳川家斉の息子、確堂は津山藩主松平斎孝の養子となる。

    「浅瀬からの鶴」松平容保和歌。
    容保は会津藩主、徳川幕府に忠実な支持者の一人、1863年に京都守護職に就任。将軍が退位すると、新政府軍と最後の勇敢な戦いに臨んだ。1893年に死去。

    「郭公を待つ」福田行誡和歌。
    行誡は浄土宗の有名な僧侶、1881年に死去。

    「夏の雨」福羽美静和歌。
    美静は石州津和野藩の侍。大国隆正のもとで日本と中国古典を学び、維新の際に大きな役割を果たした。彼は明治政府に重要な国策を嘆願した。

    「桃」岩倉具視和歌。
    具視は維新以前の京都の公家たちの中で強大な人物であった。彼は1868年の偉大なる政治的事件に際して積極的な役割を果たし、新しい日本の建設者の一人として、当然の名誉を得た。明治天皇から絶対の信頼を得、1873年、西洋文明を調査するために、日本初の大使として、アメリカとヨーロッパを訪問した。

    「郭公」徳大寺実則和歌。
    実則は天皇の側近として、明治天皇の侍従長、および宮内卿を務めた。1919年に死去。

    「山と谷」山県有朋和歌。
    際だった軍人政治家、元老の一人である有朋は日本国軍の祖と正当に称され、元帥と公爵を含む、最も名誉ある爵位と軍の階級を得た。和歌と書に精通していた。1922年に死去。

    「鏡に訴える愛」栗原信充(柳庵)和歌。
    信充は徳川家の低い身分の家臣であり、屋代弘賢の弟子。古典学に精通しており、「令義解」などを執筆した。1870年に死去。

    「富士山」堀秀成和歌。
    秀成は韻と文法についての著名な学者であり、その主題で多くの書物を執筆した。1888年に死去。

    「萩の花が風に揺らぐ」権田直助和歌。
    直助は代々続く専門的な医者。早くに平田篤胤の弟子となり、神々や古代の天皇について学び、その結果、帝国主義者になり、天皇への忠誠のために大変な努力をした。1887年に死去。

    「芭蕉」福住正兄和歌。
    箱根の温泉地、湯本の有名な旅館の主人であり、二宮尊徳の弟子。和歌に優れ、名誉となるいくつかの文学作品を残した。1892年に死去。

    「回想」千家尊孫和歌。
    非常に古い家柄である出雲国造の子孫である尊孫は出雲大社の神官を務めた。優れた日本学の学者であり、和歌にも精通していた。1872年に死去。

    「感情」鈴木眞年和歌。
    眞年は栗原柳庵に師事し、『姓氏俗解』を執筆した。1894年に死去。

色紙

(A e 3) 和歌色紙帖
     近衛信尹筆。
     25.8㎝ × 303.8㎝

     信尹は、京都の五摂家の内の一家の跡継ぎであり、書の達人で、本阿弥光悦、松花堂とともに、当時の三筆に数えられた。1614年に死去。
(A e 4) 三部抄
     鎌倉時代の有名な歌人である藤原定家の『詠歌大概』、『未来記』、『雨中吟』の三冊の著名な書物からの抜粋を集めたもの。最初に三室戸誠光が、二番目に今出川伊季、三番目に飛鳥井雅豊が言及している。書家は元禄か宝永期(18世紀初期)の時代の公家。和歌と同様に書道に高い価値が置かれていた当時の慣習を知ることができる。また、美しい書体で書かれた和歌の傑作を含んだ芸術性の高い装丁となっている。
(A e 5) 『月清集』並びに『拾玉集』
     1巻。
     『月清集』は藤原良経による和歌集。藤原良経は、建永元年(1206年)、38歳で死去。『拾玉集』は僧の慈鎮による和歌集。慈鎮は嘉禄元年に71歳で死去。

     『月清集拾玉集』
     1巻。
     29.8㎝ × 405㎝
     和歌集。
(A e 6) 正親町実岑詠草
     霊元天皇による評がある。一枚。
(A e 7) 橘千蔭大人和歌
     「わがかどの…」一巻。
     95㎝ × 28㎝。台紙:160㎝ × 35.8㎝
(A e 8) 狂歌堂真顔狂歌扇面
     狂歌は和歌(三十一文字の詩)の一種で、和歌から発展した。和歌と異なる主な特徴は、諧謔や滑稽さにあり、また、和歌が主とする規則や伝統から自由である点である。三十一文字の戯れ歌として特徴付けられるであろう。和歌を詠むための難しい規則に制限されない狂歌は、表現に驚くべき自由さがあり、人間の明るさや滑稽さを扱い、また、風刺も含んでいる。狂歌は鎌倉から足利時代(1186-1573年)に成立したことが知られているが、徳川時代(1603-1867年)に最盛期を迎え、特に庶民の間で広まった。江戸の商人である真顔は狂歌の達人であった。彼は1839年、70歳で死去。
(A e 9) 連歌百韻
     1巻。
     18.5㎝ × 841.5㎝。

     連歌は、三十一文字の和歌の形式で、最初の半分をある人が詠み、残りを別の人が詠む、著名な歌人によって行われるある種の和歌の試合である。この詩の競技の一般的な形式は、最初の半分に詠み手が残りの半分を付け加えて和歌を完成させるものである。
     この巻物は、1616年9月12日と10月5日に行われた二つの連歌の歌会の結果が含まれており、狂歌の達人昌琢による、それぞれの連歌の優れた点を示した善し悪しの評が見える。彼は『類字名所和歌集』を著した。
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