中国本 写経
(D a 1) 大方広仏華厳経
第21巻。1帖。
38.5㎝ × 528㎝。
この写経はその始めの底部に、大和寧国が所有していることを示す、「大和寧国蔵」の5文字が記されている。和寧国で写経された多くの仏典の一つ。明朝の韃靼の伝記によれば、和寧国は永楽帝の時代にアルタイ王によって設立され、オエラトのトウゲン王により1434年に攻撃され、破壊された。言及されている永楽帝の時代とは、永楽帝10年、つまり、1412年のことと考えられている。
中国本 古文書
(D a 2) 康煕帝告身
康煕14年(1673年)12月14日付。1部。
31.7㎝ × 359㎝。
公的な役職に新しく任命し、その任命を確かなものとする文書で、1673年に康煕帝によって発行された。満州語と中国語で書かれている。
中国本 刊行された書物
(D a 3) 宗鏡録
第96巻。1帖。
永明寺の僧侶延寿による選集。
北宋版。
28.2㎝ × 753㎝。
北宋の僧侶延寿によって編纂された100巻の書物の内の一部。300人以上の人々による、大蔵経60巻についての注解が含まれ、宗教的かつ教育的な説明がなされている。これは、東福寺を建立した聖一国師(弁円)により、彼が中国から帰国する際、日本に持ち帰られた。彼の教えに多く用いられ、それによって彼の信者の間に広く普及した。
(D a 4) 大般若波羅蜜多経
第182巻。
1帖。南宋版。
30.5㎝ × 946㎝。
(D a 5) 続集宗門統要
第1、2、3、4、6、9巻。
12冊。
24.5㎝ × 15.6㎝。
この書物の原本は、宋の元符年間(1098-1100年)に僧侶の宗永によって編纂された。元代の僧侶清茂がかなり増補を加え、本は1324年に準備ができ、翌年刊行された。仏教の開祖である釈迦牟尼の生活や行いの描写や、後の時代の主な仏教信徒のことが、後の著者による注解付きで記されている。
(D a 6) 阿毗曇毗婆沙論
第62巻。
1帖。
29.3㎝ × 763㎝
元版。
この条項の著者は迦旃延(インド)で、Budhavarman(インド)と道泰(中国)の二人の僧侶の努力によって中国語に翻訳された。元代の版。
(D a 7) 阿毘達磨論
第24巻。1帖。
30.3㎝ × 605㎝。
元版。
原本はインドのSainghaderaによって書かれ、前秦の時代(350-394年)に、Sainghadera(インド人)と中国の竺仏念とが協力して中国語に翻訳した。
(D a 8) 続高僧伝
第2巻。
1帖。
唐代の道宣による。
宋版。
30.2 × 1166㎝。
30巻の内の1冊で、「唐高僧伝」としても知られている。唐の高宗の時代(650-683年)に僧の道宣によって編纂された。331人の有名な僧侶が取り上げられ、また後に160人の著名人が仏教的階級の順に追加された。519年から645年までを扱っている。
(D a 9) 通鑑外紀
第1巻から第4巻。
1帖。
宋の劉恕編。
元版。
25.5㎝ × 16㎝。
有名な司馬光の『資治通鑑』のように、歴史事実の年代記を試みた書物。著者の劉恕は、当初は自ら執筆したが、後には病気のため息子に口述筆記をさせた。『資治通鑑』の例のように、彼の作品は歴史事実を物語風に、編年体で表し、黄帝の時代から周代の考王の時代までを時系列になっている。劉恕は司馬光の『資治通鑑』の編纂の際の主な助手の一人であった。1708年に死去。
(D a 10) 詩学大成
第1巻から第30巻。
8冊。
元の林楨編。
1426年刊行。
24.6㎝ × 15.2㎝。
天文学、地理学、年中行事、植物、動物、昆虫、景観、草花、祝賀、弔辞、音楽、娯楽などの数多くの章題に分類された、有名な歴史的事実や古典からの典型的な引用など、詩人や作家が使用すると思われる語を集めた辞書の一種である。至正9年、すなわち1349年の日付が入った朱文霆による序文がある。
(D a 11) 対類大全
第1巻から第20巻。
4冊。
明代、1512年刊行。
26㎝ × 15㎝。
同義語、類義語、反義語、単語や熟語が書かれた文学の参考書であり、天文学、地理学、人の気質、鳥、魚、昆虫、景観などの様々なテーマのもとで分類されている。
(D a 12) 文選
第26巻から第28巻、第45巻から第53巻、第56巻から第57巻。
6冊。
梁の蕭統編。
明代嘉靖版。
文選は、文字通り、詩や書簡、随筆、演説など、散文も韻文も含めた、様々な形の文学作品を集めたものである。もともとは30巻で構成されていたが、唐代の間に李善が豊富な注を著し、それぞれを二つの巻に分けたため、60巻に増えた。取り上げられた作家の数は、周から梁までの時代の127人以上に及ぶ。この書物はまぎれもなく中国の文学的宝庫であり、日本では735年に伝来し、特に平安時代に広く読まれた。
(D a 13) 歴朝捷録
第1巻から第4巻。
2冊。
明の顧充編。
明代、1602年刊行。
24.3㎝ × 14.1㎝。
皇明捷録
1巻。
1冊。
明の屠隆編。
34.4㎝ × 14.1㎝。
この3冊は一つにまとめられる。最初の2冊は、周の威烈王(紀元前425年-紀元前402年)から南宋の終わりまで(1279年)の歴史上の出来事の概観が描かれている。後の1冊は、明朝初代国王の時代(1567-1572年)から穆宗皇帝までの歴史上の出来事の概観が描かれている。
(D a 14) 烈女伝
第1巻から第16巻。
4部構成、16冊。
仇実父画。
清の時代、1779年に刊行。
29.5㎝ × 18.3㎝
原本は漢の劉向によって書かれた『烈女伝』である。ここにある本は明朝の王により再版、増補されたもの。古代から明朝の神宗皇帝(1673-1719年)〔※年代間違い。正しくは1563-1620年。訳者注。〕の時代までの有名な女性の生涯が、聡明さ、慈悲、貞節などの章に分類のもとで描かれている。取り上げた各人物について王が注釈を加えている。言及したかもしれないが、劉向は漢代の宣帝、元帝の時代(紀元前73-前33年)の学者である。
朝鮮本
(D b 1) 仏説弥勒下生経
1帖。
写本。
紺紙銀字。前欠。
32㎝ × 630㎝。
高麗時代(10世紀-13世紀)の作品。
弥勒菩薩(Bodhisattva)は古き新羅の時代から敬意を払われてきた。この経典の写経は、菩薩の慈悲により来世の救済を得たいという宗教的動機によって促進された。
(D b 2) 法華経
第1巻から第6巻。
6冊。
写本。
34.5㎝ × 23㎝。
法華経は妙法蓮華経の省略名で、他の全ての経典よりも上位にあると言われ、仏陀の直接的な教えを含んでいる最も貴重な経典の一つである。これは李朝の作品であり、巻物の最後に見える注には、写経者が彼自身と彼の親族の救済を得たいという熱心な望みに動かされて写経を行ったことが記されている。
(D b 3) 朝鮮李朝taikwa shiroku kyosho
2部。
古文書。
(1)1819年11月付;104.7㎝ × 61㎝。
(2)1788年付;60.5㎝ × 56㎝。
朝鮮国王の土地の特許、官僚試験に受かった志願者への米の歳入。
(D b 4) 朶雲叢林
3巻。
古筆。
(1)(2)40.5㎝ × 31.3㎝。
(3) 39.7㎝ × 31㎝。
これらの巻はまんいちゆう、りげんかい、そのほかによって書かれ、Raikon(※菜梱?訳者注)という名に宛てて出された書簡集を含んでいる。そのなかのいくつかは色紙に書かれている。「朶雲」とは「書簡」の丁寧な言い方で、「叢林」は「選集」、「コレクション」といった意味である。
(D b 5) 撓花老人回卺帖
2巻。
手書きの本。
第1巻、40.5㎝×27.5㎝。
第2巻、41㎝ × 28㎝。
撓花老人の61回目の結婚記念日(回卺)を祝して行われた宴の描写と、幸福な行事を祝って彼らの友人によって書かれた数多くの詩と祝賀の言葉が書かれた、記念本の一種。おそらく18世紀のもの。
(D b 6) 羹牆録
第1巻から第8巻。
4冊。
写本。
31㎝ × 20㎝。
正祖(第22代李朝国王)3年に李福源と他の学者によって、前年書かれたせいちょう羹牆録を編纂したもの。国王の徳をたたえることを目的とした、類似の作品の一つ。内容は「建国」、「忠義」、「忠誠」などの章に分類される。「羹牆」とは、「歴代国王への崇敬」という意味である。
(D b 7) 増修無寃録
第1巻、第2巻。
1冊。
写本。
33.8㎝ × 19㎝。
「洗冤録」や「平冤録」などの明代の本をまとめてあげられた法医学の書物である無寃録の増補拡大版。最初にこの本の編纂を引き受けたのは、1744年に英祖の命を受けて編纂を始めた具宅奎であり、その作業は息子の具允明に引き継がれた。1796年に出版。現存の版は疑いなくこの版の再版である。
(D b 8) 嚴氏孝門清行録
写本。
第1巻から第9巻。9冊。
第1、2、3、4、7、8、9巻:37.3㎝ × 23.3㎝。
第5、6巻:34㎝ × 23㎝。
全体的に朝鮮の文字で書かれた朝鮮の小説。
(D b 9) 千字文
1冊。
手書きの本。
32.8㎝ × 23.3㎝。
千字文は1000字から成る有名な中国古典韻文。書の教科書。それぞれの漢字が朝鮮の言語で説明されている。色紙に書かれ、日付や作者についての分析はない。
(D b 10) 金吾座目
1冊。
手書きの本。
23.5㎝ × 22.3㎝。
関係を深めるために開いた友好的な会合に列席した11人の序列を、名前や生年月日、祖先や歳入などとともに説明した書物。「金吾」とは、都市義禁府の別名で、参加者の中には、その都市の李正容という名の高官と、その友人が含まれている。
(D b 11) 地図帖
1冊、手書き。
29.7㎝ × 17㎝。
日付不詳。
8つの地図を含む。すなわち国全体と、8つの地域:京畿、忠清、全羅、慶尚、江原、咸南、咸北、平安。
(D b 12) 咸興十景
1冊、手書き。
49.3㎝ × 924㎝。
王宮を含む、10の有名な咸興の景色を含んだ書物。咸鏡南道にある咸興は李朝最初の国王(在位1393-1398年)の故郷である。それぞれの絵の上部には散文や韻文などの文学的表現が記されている。この本には、咸鏡南道に隣接する咸鏡北道の有名な景色が描かれた10の絵が附属している。そのため2つの序文と、20の絵、20の作品を含み、巻の最後には鍾山居士による批評の言葉が添えられている。
(D b 13) 十六観経
1冊。
刊本。
31.4㎝ × 20㎝。
正式名称は仏説観無量寿仏経、たびたび省略して観無量寿経と呼ばれる。阿弥陀と極楽浄土の本質に関する16の異なった見解が仏典に記されている。それゆえこの名前である。序文は1425年に書かれた。巻末にある後書きによれば、この仏典は1853年に刊行されたもの。
(D b 14) 摩訶般若波羅蜜多心経
1冊。
刊本。
31.3㎝ × 21㎝。
しばしば省略されて般若心経と呼ばれ、偉大なる般若波羅蜜多経の本質が記されている。
ここにあるものには、僧侶大顚了通による注釈が記されている。
跋文は、蓮舫という名の敬虔な信者が母親のためにこの本を100冊出版したことを読者に教えている。また、李太王20年(1883年)の日付が見える。
(D b 15) 無量寿経
1冊に2巻。
刊本。
30㎝ × 20.5㎝。
出版に貢献した人物による、序文と注釈が付されており、両方とも哲宗12年(1861年)の日付がみえる。
(D b 16) 璿源系譜紀略
8冊。
34㎝ × 23.3㎝。
李氏朝鮮の国王を継承した人々の系図の記録であり、それぞれの王の主な親族に関する情報も含んでいる。第19代国王肅宗の時代に初めて刊行された。それぞれの継承した王の即位にともなって新しい事項が加えられた。これらは1897年に刊行された、後の版であり、「奎章之宝」の黒印がある。
(D b 17) 列聖御製
3冊。
35.5㎝ × 22.7㎝。
文学、特に詩における偉大なコレクションの一部であり、第24代国王憲宗(在位1835-1849年)が制作したものも含む、李氏朝鮮国王の継承者による作品で、二冊の本(96巻から100巻)とNo.7の目録からなる。
表紙裏には朱の「奎章之宝」の印があり、これは内閣や事務局に似た政府の機関であり、また文学的業務を管理する奎章閣の命令によって印刷されたものであるという意味を持っている。
目録の表紙裏の筆跡はこれらの印刷物がきんへいとくに授けられた物であることを示唆している。
(D b 18) 列聖誌状
4冊。
34.3㎝ × 22㎝。
列聖誌状とは、支配者らが携わった文学作品同様に、李氏朝鮮の王族の継承に関する重要な文学作品を含む多くの本の題名である。ここにある一例は次の4巻である:第21代国王英祖とその王妃による「元陵誌状続編」;第22代国王正祖とその王妃による「健陵誌状続編」;第23代国王純祖による「仁陵誌状」;そして第24代国王の父による「綏陵誌状」。それぞれ別の人物によって編集された。
これらの本は銅版で印刷され、奎章閣から出版された。
小さな橙色の綿布が国王の名前を覆っているのが見えるかもしれない。これは、東洋で行われていた、国王の名前(軽々しく口にしてはいけなかった)に対する畏敬の念を表すという、古代の特徴的な慣習を示している。
元陵誌状の表紙裏の銘には「憲宗3年(1837年)8月3日」の日付がある。
本の題名の「陵」から、それぞれの王が、彼らが眠っている墓の名前で呼ばれていたことがわかる。
(D b 19) 景陵誌状
1冊。
34.3㎝ × 22㎝。
李朝第24代国王憲宗(在位1835-1849年)とその王妃の逸話や文学作品などが含まれている。景陵とは、もちろん王陵の名前である。この本は第25代国王哲宗(在位1850-1863年)統治の初期に銅版で印刷された。
(D b 20) 大学衍義
1冊、2、3、4巻を含む。
35.6㎝ × 21.8㎝。
宋代の永楽年間(1403-1422年)に、真徳秀によって書かれたもの。銅版印刷。
(D b 21) 續史略翼箋
6冊。
33.2㎝ × 21.5㎝。
21巻、6冊で構成されている。最初の著者である洪仁謨により、またかなりの部分は彼の息子洪奭周による注釈により、明朝290年の歴史が描かれている。
この作品は1821年に完成し、1857年に刊行された。
(D b 22) 明義録
3冊。
32.4㎝ × 21.5㎝。
洪麟漢やその他の人々がいかに第22代朝鮮国王正祖の怒りを招き、1776年に処刑されたのかを描写した書物。勅命により金致仁によって書かれ、1777年に出版された。印刷された跋文と表紙裏の手書きの銘からも、これらの巻が1777年に活版印刷されたことが明らかである。
(D b 23) 続明義録
1冊。
32.2㎝ × 21.5㎝。
これは宮廷の勅命で書かれた、明義録の続編であり1777年から1778年に起こった劇的な出来事の記録である。表紙の裏の銘を見ると、この書物が1778年に出版された活字本であることがわかる。
(D b 24) 進饌儀軌
4冊。
36.5㎝ × 23.7㎝。
朝鮮宮廷の儀式の祝宴は四種類に分けられ、「進饌」はそのうちの一つであるが、この書物は進饌の祝宴について説明したものである。純祖29年(1892年)から李太王5年(1901年)までの様々な時代に出版された。現在の巻は1887年の日付が付されている。
(D b 25) 奎章閣志
2巻、1冊。
36.5㎝ × 23.8㎝。
奎章閣は内閣同様に重視される政府機関で、文書事業を管理しており、1776年に初めて設立された。この書物は王の勅命を受けて大臣によって書かれた、奎章閣の組織を説明したものである。1884年に執筆、出版されたことが、表紙裏の銘によって明らかである。銅版で印刷された。
(D b 26) 両銓便攷
2冊。
30㎝ × 19.7㎝。
公的な法令集の一種で、宮廷の役人についての詳細が述べられており、文武高官に分かれている。同じ主題を扱った時代遅れかつ複雑な以前の版を、補足を付した現在の形に再編した。1865年に初版が刊行され、1870年に「奎章の宝」という印が付された現在の形になった。
(D b 27) 恩賜斥邪綸音
1冊。
34.3㎝ × 22㎝。
道学の正しい原理の伝播とキリスト教の悪しき原理を排斥するために、初代李王により掲げられた見解と指針を含んだ盟約集。1839年に初めて刊行され、1881年に原文の中国語に対して韓国語で注釈が付された現在の形で再版された。民衆に広く流布することを目的として、活字本で印刷された。朱で「奎章の宝」という印が付されている。
(D b 28) 両賢傳心録
第1巻から第8巻。
4冊。
34.3㎝ × 22.5㎝。
正祖(第22代国王)の勅命のもと、1796年に編纂された、二人の有名な賢者、朱子と尤菴に関する様々な文学作品を集めた書物。ここにあるのは1856年刊行のもの。
(D b 29) 五倫行實
第1巻から第5巻。
4冊。
30.3㎝ × 19.5㎝。
150人以上の賞賛すべき行動を記したもので、孝子、忠臣、烈女、兄弟などに分類されている。文章は韻文と散文で記されている。五倫を説いた、1431年刊行の『三綱行實』と1519年刊行の『二倫行實』から成る。中国語の原文にハングルで注が付されており、これらは1797年に李秉模によって編集された。この版には哲宗10年(1859年)の出版年が記載されている。
(D b 30) 感應篇
5冊。
29.5㎝ × 20.7㎝。
善悪、また、いかに善が報われ、悪が罰せられるかについての倫理原則を絵入りで説明した道徳の本。中国語で説明がなされ、朝鮮語で注釈がなされている。この本は李太王の後援のもとで出版されたことが跋文にみえ、現在の巻数は1880年の再版である。
(D b 31) 敬信録
第1巻から第2巻。
1冊。
32㎝ × 22.6㎝。
いかに善が報われ、悪が罰せられるかについて、多くの例を引用しながら、いくつかの道教の教義の説明が書かれた道徳の本。1880年に李王の勅命により出版。
(D b 32) 敬信録諺釈
1冊。
32㎝ × 22.5㎝。
(D b 31)に記した敬信録を平易な朝鮮語に翻訳したもの。1880年に王の勅命により刊行された。
(D b 33) 無寃録諺解
1巻から3巻。
2冊。
33㎝ × 20.8㎝。
1792年に出版された、印字された本。無寃録とは、「潔白であることの弁明」を意味し、この本は、最初1790年に、王の勅命で、元犯罪判事の徐有隣によって出版され、不当に罰せられた何人かの不幸な人々の潔白を証明した。現在の書籍は「諺解」、すなわち簡単な韓国語で説明されている。
(D b 34) 挹翠軒集
第1巻から第4巻。
2冊。
31.8㎝ × 19.5㎝。
挹翠軒は朴誾の筆名、書籍には著者による散文や韻文といった文学的作品が書かれており、これは李荇によって著者の死後に編纂された。最初、木版で印刷され、版木がすり減り、奎章堂の長官によって書籍が印字されるまで(1795年)、何度も再刷された。
(D b 35) 一广遺稿
1巻から3巻。
2冊。
30.5㎝ × 19㎝。
金相日(一广)の作品、彼の息子粛によって編纂され、1853年に著者の孫の在直によって出版された。詩や雑誌、随筆、序論などが含まれ、一广および彼の息子の粛によって残された。
(D b 36) 仙源淸陰年譜
1冊。
34.7㎝ × 23㎝。
仙源(1561-1637年)、本名は金尚容と、淸陰(1570-1652年)、本名は金尚憲という二人の男性の年譜を含む。この書物は二人の年譜から始まり、次に仙源の77年に渡る生涯と淸陰の83年の生涯を別々に取り上げている。英祖43年(1767年)の日付が付されている。
(D b 37) 五經百篇
第1巻から第5巻。
5冊。
42㎝ × 25.3㎝。
題名が示しているように、『周易、書経、詩経、春秋、礼記』の5冊の古典から選ばれた100個の抜粋からなる、読書のための書物であり、それぞれの漢字が1インチの四角内に同じ大きさで、大きく太字で印刷されている。「奎章の宝」という印と、道光18年(1838)の銘がある。
(D b 38) 経史集説
第1巻;第2巻;第3巻;第13巻;第14巻;第16巻。
4冊。
24㎝ × 16.2㎝。
古典や様々な作品群、たとえば天理や吉凶の印、霊的な現象などから、優れた表現を集めたもの。
(D b 39) 奎章全韻
第1巻から第2巻。
1冊。
33㎝ × 22㎝。
正祖の統治時代の間、奎章閣で公的に編纂された。最も正確に書かれたものの一つで、これまで朝鮮で出版された中国語の発音を扱った本のなかで最も広く研究された。1800年に印刷。
(D b 40) 純祖成孝大王尊號冊寶
1冊。
32.2㎝ × 21㎝。
石版刷りの書籍で、黒地に白字で書かれた。崇敬される純祖大王、すなわち偉大なる王純祖(統治1800―1834年)への賞賛である。
(D b 41) 阮堂集刻本
1冊。
30㎝ × 20㎝。
金正喜(1786-1857年)によって書かれた書籍。筆名は阮堂。
(D b 42) 与載撮要
1冊。
28.5㎝ × 18㎝。
アジアの5カ国、ヨーロッパの19カ国、アフリカの7カ国、北アメリカの9カ国、南アメリカの10カ国とオーストラリアの1カ国についての政治や他の情勢を簡潔に概観した地理学の書物。それに加えて、人口、景観、生産物、名所などの情報とともに朝鮮とその8つの地域の地理学的な説明がなされている。
(D b 43) 東京雑記
第1巻から第3巻。
3冊。
31.3㎝ × 21.5㎝。
慶尚北道に位置する千年前の新羅の首都、慶州または東京の多岐にわたる記録。以前は、「東京誌」として知られていたが、1669年に閔周冕によって編纂、1771年に南至熏によって再版、1845年に現在の名前のもといくらかの増補がなされ、再び刊行された。これらの巻は前述した後の版である。東京(東の町)の語は、西京(西の町)、もしくは平城、中京(中央の町)、または開城と対になっている。東京雑記は新羅研究に必要な地理学の重要な三つのうちの一つ(他の二つは西京誌と中京誌)を形成している。