古文書
(A c 1) 東大寺文書
(A c 2) 寧楽古文書題籤
(A c 3) 古文書張交二枚屏風
(A c 4) 興福寺文書
8点。
現在もその地にある奈良の興福寺は藤原氏の氏寺として710年に建立された。その権力のもと、春日大社を建立し、長きに渡る繁栄を誇った。
以下が興福寺の史料目録である。
1.興福寺会所目代細々引付。1380年8月。
2.権僧正実性請文写。1622年11月18日。
3.権僧正実性請文。1624年5月。
4.興福寺覚書。1706年8月18日。
5.法師庸性書状。11月22日。
6.英性書状。2月28日。
7.出世後見英性書状。2月晦日。
8.尊光院懐賢問答書。
(A c 5) 天龍寺塔頭南芳院文書
(A c 6) 河内国下縄野村並刑部郷散用帳
1巻。
前者、1408年4月22日。
後者、1411年8月25日。
(A c 7) 山城西加茂御検地帳
1.前田玄以西加茂御検地帳、1586年11月。
総丈:27㎝ × 255㎝。
2.西賀茂内下野守分御検地帳、1589年12月。
総丈:27㎝ × 300.3㎝。
前田玄以は豊臣秀吉の五奉行の一人で、主に寺社の業務を司った。問題の文書は秀吉の命令で彼が用意したもの。
(A c 8) 前田玄以書状、3月10日東寺宛
1巻。
手紙本体:15㎝ × 47.7㎝。総丈:98㎝ × 50㎝
(A c 9) 僧天海書状、2月18日伊丹播磨守宛。
1巻。
手紙本体:30㎝ × 48.8㎝
総丈:116.4㎝ × 80.1㎝
天海は徳川家康の絶大な信頼を得ていた有名な僧侶であり、長きにわたり家康の政治的助言を行った。日光東照宮の建設に大いに責任を負った。1643年に死去。
1巻。
手紙本体:29.6㎝ × 26.1㎝。
総丈:110㎝ × 33.2㎝。
備前岡山藩主。卓越した行政手腕で有名。1682年に死去。
(A c 11) 奈良大仏修復勧進帳
1685年5月。1巻。
30.5㎝ × 329㎝。
東大寺大仏殿は751年に立てられたが、1180年に焼失した。1195年に再建されたが、しかし1367年にまたしても焼失し、東大寺龍松院の公慶によって再建されるまで修復がなされなかった。公慶は兼ねてより再建を熱望し、あらゆる階級の人々から資金を集めた。その結果、1705年に上棟式が行われ、1709年に落慶した。この勧進帳はこの歴史的事業に使われたものである。
(A c 12) 近衛家熙書状、平松前中納言宛9月19日。
手紙本体:16㎝ × 43.6㎝。
総丈:97.7㎝ × 45.3㎝。
五摂家の一つで、家泰は摂政関白を務めた。和様の書の技巧で名が知られている。1736年に死去。
伴信友による。1巻。
本文:21.5㎝ × 24.7㎝。総丈:114.6㎝ × 44.5㎝。
信友は徳川時代後期の有名な学者。1746年に死去。
(A c 15) 近世画家手翰
1巻。
20㎝ × 1044.5㎝、見返しを含む。
この巻物には著名な画家による18の手紙が含まれている。
1.貫名海屋書状
(海屋は京都の漢学の学者。絵と書に精通し、特に書は当代の傑出した人物の一人として高く評価されていた。1863年に死去)
2.松村景文書状。8月23日。
(景文は兄呉春のもとで学び、熟練の画家となり、特に花鳥画に優れていた。1904年に死去)
3.松村呉春書状。14日。
(呉春は有名な画家・歌人で、最初は与謝蕪村に学び、後に円山応挙の画風を模し、いわゆる四条派を成した。1811年に死去)
4.西山芳園書状。6月22日。
(景文の弟子。1867年に死去)
5.浦上春琴書状。1月18日。
(浦上玉堂の子、肖像画家。1846年に死去)
6.岡本豊彦書状。1月19日。
(呉春の弟子。1845年に死去)
7.中西耕石書状。3月23日。
(小田海僊の弟子。1884年に死去)
8.八木奇峰書状。9月4日。
(景文の弟子。奇峰は天保期〔1843-1844年〕頃の人物)
9.野呂介石書状
(介石は池大雅に絵を学び、後に中国人画家伊孚九の画風を模した)
10.岡田半江書状。4月21。
(父親である米山人に絵を学び、南宋画に親しんだ。1846年に死去)
11.塩川文麟書状。4月29日。
(岡本豊彦の弟子。天保期に死去)
12.平野五岳書状。10月26日。
(五岳は僧侶。長崎の僧侶Tetsu-oに学び、水墨画に熟練した)
13.西島青浦書状。10月10日。
(南宋画を学び、風景画の名手となった)
14.谷口藹山書状。8月27日。
(高久靄厓、谷文晁のもとで学ぶ。1899年に死去)
15.谷文晁書状。11月4日。
(文晁は多才な人で、風景から花、鳥、魚、昆虫、肖像画まで、あらゆる種類の絵を得意とした。古今の日本人画家の絵を学びながら、宋、元、清初の画風を学んだ。1841年に死去)
16.富岡鉄斎書状。4月3日。
(鉄斎は学者であり、また画家。南宋画派のなかでも極めて優れていた。帝室技芸院および帝国美術院会員に任じられた。1924年に死去)