YAJカタログ(日本語反訳版)

図画類

(A a 1) 歴代御宸影
    1.桓武天皇(第50代天皇)
     古代日本における偉大な天皇の一人である桓武天皇は多くの優れた業績を残した。中でも最も重要なのは794年に、710年より都がおかれていた奈良から京都へ遷都したことである。その結果、10世紀以上にわたる平和と繁栄の基盤が築かれた。桓武天皇は806年、70歳で死去。

    2.醍醐天皇(第60代天皇)
     醍醐天皇は延喜の治を成した聖なる天皇として知られている。その称号は、彼が哀れな臣下の夜の寒さと貧困の苦難を共に味わうために、ある寒い夜に暖かい衣服を脱いだという有名な逸話に描かれているように、彼の善意と同情心にふさわしいものである。彼の命令により、たとえば『古今和歌集』、『日本三代実録』、『延喜格式』、『延喜式』など、多くの偉大な文献の出版がなされた。醍醐天皇は980年、46歳で死去。

    3.後鳥羽天皇(第82代天皇)
     後鳥羽天皇は関東の強力な軍の統治者らが原因で朝廷の力が減少することを遺憾に思い、制圧するための軍事行動に出た勇敢な天皇である。しかし、北条義時に敗北し、晩年は日本海に浮かぶ孤島である佐渡に流された。有名な『新古今和歌集』が編纂されたのは彼の命令による。後鳥羽天皇は悲劇的な流刑地での生活により、1239年に60歳で死去。

    4.花園天皇(第95代天皇)
     花園天皇は学問や詩文に熟達し、また仏教の熱烈な支持者でもあった。彼の信仰の深さは花園にある自身の離宮を妙心寺に改築したほどである。妙心寺はいまもなお残存している。和歌集『風雅集』は帝みずからが編集したものである。1343年、52歳で死去。

    5.後醍醐天皇(第96代天皇)
     後醍醐天皇は後鳥羽天皇によって試みられた困難な事業を成し遂げた、もっとも有名な帝の内の一人である。彼は北条家を滅ぼし、政治的力を自身の手に取り戻し、繁栄した朝廷を創設した。しかし、圧倒的な軍事勢力の頭である足利尊氏の抵抗にあう。足利尊氏は反乱を起こし、政治的権力を手に入れ、自身を将軍に仕立てた。後醍醐天皇は一時的に宮廷を建設した大和の吉野に逃れた。1339年に52歳で死ぬまでの3年間、そこで暮らした。

    6.後陽成天皇(第107代天皇)
     後陽成天皇は詩文や風雅な趣味などを高度に極めただけでなく、偉大な仏教学者でもあった。彼は秀吉に請い願われ、秀吉の邸宅(聚楽第)に一度以上行幸している。このような行幸の際には、秀吉は必ず天皇家への忠誠を天皇に示した。1617年、47歳で死去。

    7.後水尾天皇(第108代天皇)
     後水尾天皇は後陽成天皇の第3皇子であり、父親に似て、詩文や華道などの洗練された芸事に精通していた。彼の文学的業績に『Ruidai Kisho類題和歌集?』、『一字御抄』などがある。様々な時代の作法や儀式に特別な関心を持ち、彼の治世における年中行事の本を著した。

    8.後西天皇(第111代天皇)
     後西天皇は後水尾天皇の第6皇子である。彼は詩文に熟練していたことで知られている。1680年、85歳で死去。

    9.霊元天皇(第112代天皇)
     霊元天皇は後水尾天皇の第12皇子であり、優れた書の才能を授かっていた。1732年、79歳で死去。

    10.光格天皇(第119代天皇)
     光格天皇は典仁親王の第6王子で、東山天皇の孫にあたる。彼は古代様式を模した宮廷を再建した。1840年、70歳で死去。

    11.孝明天皇(第121代天皇)
     孝明天皇は1846年に即位し、1866年に36歳で死去した。彼の在位期間は日本の歴史の中でもっとも危機的な時代、すなわち徳川封建体制が崩壊し、明治維新体制に取って代わられた時代と同時期であった。国内の混乱に加えて、海外との複雑な状況は、彼の在位期間を極めて困難で不安なものであったが、しかしながら天皇は見事に振る舞い、皇室の継承のために大きな貢献をしたのであった。

    12.明治天皇(第122代天皇)
     孝明天皇の第2皇子、明治天皇は、1867年に即位し、古い日本から新しい日本へ変遷する一連の歴史的事件を目撃した。明治元年(1868年)に有名な「五箇条の誓文」を発表し、翌年、京都から東京への遷都を成し遂げた。1912年に61歳で万人に惜しまれながら崩御するまでの長く輝かしい在位期間に、画期的で重要な多くの出来事が取り行われた。
(A a 2) 先哲画像
    1.聖徳太子(厩戸皇子) 原本は宮内省が所蔵
     用明天皇の息子で推古天皇の治世には摂政。聖徳太子は日本仏教を創始したとされている。多くの寺院を建立し、有名な憲法十七条を成文化、政治では多くの重要な政策を実行した。高位の政治家であることに加えて、太子は日本が生んだ工芸の権威でもあった。このような優れた業績がありながらも、彼は皇太子の地位に満足していた。621年、49歳で死去。

    2.伝教大師(最澄)
     近江の比叡山に天台宗の総本山である延暦寺を建立した伝教大師は、密教を学びに804年に中国に渡り、多くの教典を持って805年に日本に帰国した。822年、56歳で死去。

    3.弘法大師(空海)
     弘法大師はもっとも偉大な日本仏教の高僧の一人である。本名は空海で、弘法大師は諡号である。804年に中国へ渡り、806年に帰国。彼は仏教の真言宗の開祖であり、紀伊の高野山にある大きな寺や京都の東寺の創建者でもある。彼は疑いなく偉大な学者であり、また非常に腕の立つ書家でもあった。驚くべき数の業績もまた彼によるものである。

    4.金沢実時
     実時は有名な北条家と血縁関係にある。学問と古文を好み、膨大な価値ある書籍を蒐集し、感謝の念から、後世の人々のためにいわゆる「金沢文庫」を創設した。「金沢文庫」の印が押されている古書は横浜近くの金沢に最近建てられた金沢文庫に収められている。835年、62歳で死去。

    5.藤原惺窩
     江戸時代初期の儒学者。本名は藤原粛。はじめ僧となり、仏僧のもとで漢学を学んだ。のちに頭髪を伸ばし、初めての俗人儒学者になった。惺窩は徳川政権下の儒学の先駆者であった。林道春と同様に才能ある学者であり、多くの弟子に囲まれ、日本の文化復興を担う有望な人物の一人であった。1619年、59歳で死去。

    6.林道春
     道春は初代将軍徳川家康の個人的信頼を得て、四代将軍の治世初期まで将軍に仕えた有名な儒学者である。号は羅山、弟子の間ではそちらの方がよく知られている。将軍が発布した多くの法令書や外国との外交文書は彼によって書かれたものである。藤原惺窩の弟子で、徳川幕府の文化的偉業に対して多大な貢献をした。1657年、75歳で死去。

    7.中江藤樹
     近江の農民の息子である藤樹は当初は熱心な朱子学者であったが、のちに陽明学を学び、日本初の陽明学者となった。深い学びと徳とを結びつけ、「近江聖人」として各地で尊敬された。1648年、41歳で死去。

    8.山崎闇斎
     闇斎は仏僧であったが、のちに儒学に転向、剃髪を伸びるままにした。彼は吉川惟足のもとで吉田神道を学び、この二重の忠誠から脱するため、垂加神道を創始した。1682年、65歳で死去。

    9.山鹿素行
     当初は朱子に傾倒し、幕府公認の学者林道春のもとで学んだが、しかし、のちに宋学の誤りや欠点を非難したため、罰として江戸から追放され、囚人として数年過ごしたが、実のところ播磨赤穂領地にとっては光栄な客であった。この幸福な幽閉状態の間、素行は自身の気質についての深い感慨を得、そして赤穂の家臣となった。「罪」が許されると、江戸に戻って私塾を開き、多くの弟子に兵学を教授した。1682年、64歳で死去。

    10.熊沢蕃山
     蕃山は当初朱子学を学んでいたが、のちに中江藤樹の弟子となり、陽明学を学んだ。学問的政治的指導者として、有名な備前岡山藩主池田光政に仕えた。経済や学問に関する重要な政策が彼の忠言のもと行われた。単なる本の虫タイプの学者ではなく、学者政治家であった彼には驚くほど多くの熱心な競争相手の門下たちがいた。晩年、京都を訪れ、公家に教授したが、江戸幕府の怒りにふれ、下総古河に追放された。1697年、追放地にて73歳で死去。最初はただ藩の学者であったが、壮年期には全国的な影響を与えるほどの学者となった。

    11.徳川光圀
     将軍家にもっとも近い親類の一族、いわゆる「御三家」の一つを代表する常陸国水戸藩主光圀は学問の寛大なパトロンであった。彼の後援のもと、1660年に名高い『大日本史』事業が始められた。この偉大な事業を成し遂げるために、彼は自身の歳入の三分の一を用い、学識があり、かつこの事業に適任の人物を求めて国中を探した。彼の存命中にはその一部しか完成しなかった。彼の死後、1715年に『大日本史』が正式の題として選ばれ、第11代将軍家斉の時代の1810年には百巻本が完成、京都の孝明天皇に献上した。1905年、完結本が仕上げられた。光圀の崇高な事例は、国学の再興―宗教の研究、芸術、文学などを通して―を引き起こし、間接的ではあるが、帝への忠誠心を創造し、最終的には徳川政権の失脚に繋がった。この偉大さに加えて、特に文化の面で他にも多くの賞賛に値する業績を残している。1701年、78歳で死去。

    12.契沖阿闍梨
     契沖は仏典の広大な領域を網羅し、また中国と日本の古典、特に国学に通じた多才な僧侶である。彼の『万葉代匠記』は万葉集という難解な選集の権威ある解説書である。彼は18世紀の国学再興の先駆者であった。1701年、70歳で死去。

    13.伊藤仁斎
     偉大な儒学者である仁斎は、他の学者同様に最初は朱子学に傾倒していたが、後に孔子の本来の意味に反する宋学の誤りに気づいた。彼は京都に私塾を開き、そこには全国各地から多くの門人が集まった。彼によって多くの優れた本が書かれた。1705年、79歳で死去。

    14.関孝和
     孝和は徳川幕府に勘定吟味役として仕え、後に御納戸組頭に昇進した。彼は早くから数学の才を発揮し、関流と呼ばれるこれまで知られていなかった数学の新しい分野を開拓した。1755年、67歳で死去。

    15.貝原益軒
     益軒は号、名は篤信。山崎闇斎と木下順庵のもとで学んだ偉大な儒学者で、日本文学にも熟達していた。彼は一時、漢文の講師として筑前の大名黒田氏に仕えた。彼は道徳を題材に多くの著作を執筆した。もっとも有名な著作の一つに、女性の義務や世間での立場について扱った道徳的な本である『女大学』がある。彼は学問の世界からは遠く離れていたが、彼の話や講義は学者よりも大衆の教育にふさわしいものであった。1714年、85歳で死去。

    16.近松門左衛門
     門左衛門は仏僧であり、おそらくは無一文の人々の群れ、すなわち当時多くいた浪人であったが、しかしのちに一条家(名高い公家)に仕えるために僧侶をやめた。古い慣習や大衆的な語法に精通し、それらの語法を用いて喜劇や戯曲を書き、同年代の人々の追随を許さないほどの頭角を現した。80以上のドラマティックな作品を書き、「日本のシェイクスピア」と呼ばれる。1724年、72歳で死去。

    17.新井白石
     深い学識と威厳ある人柄を持つ白石は当代の傑出した知識人であり、家宣と家継の二人の将軍に仕え、単なる指導者や助言者としてだけでなく徳川政権の政策に密に影響を与えた。彼はいくつかの重要な書物を出版し、それによって日本の歴史研究方法の新時代を開いた。多くの助言は政策に具現化された。多くの偉大な功績の中でも、『采覧異言』と『西洋紀聞』(どちらもヨーロッパの事情について扱っている)は彼が西洋事情を学んだもっとも早い日本の知識人の一人である証拠と考えられるであろう。1725年、69歳で死去。

    18.荻生徂徠
     偉大な中国研究者である徂徠は始め朱子学を学んだが、次第に原典に魅力を感じて、古文辞学の提唱者となった。実際に徂徠は孔子の教えを勉強するためには孔子と同年代にまでさかのぼらなければならないという考えや、後世の、特に漢代(紀元前206-紀元前155年)以後の多くの注釈者たちは無価値であるという考えを支持した。原典の学びを主張した彼は当然ながら後の世の儒者たちによる注釈を重視せず、そのため彼は大陸の儒教の盲目的な崇拝者であり、自国を軽蔑していると誤解された。1728年、62歳で死去。

    19.室鳩巣
     中国古典の有名な学者、教育者で、宋学の熱心な支持者である。第八代将軍徳川吉宗に仕え、「異学」に断固として敵対した。赤穂四十七士の武士道精神を激賞し、『義人録』を出版したことがよく知られている。1734年、77歳で死去。

    20.賀茂真淵
     真淵は一時期荷田春満の弟子であり、中国古典や中国哲学に対抗して和歌と日本文学の研究をし、のちに大流行することになる「国学」の偉大な権威である。その後、日本文学と神道の領域における、国学の四大人の一人と称された。彼には多くの優れた弟子がおり、本居宣長もその一人である。

    21.青木昆陽
     昆陽は伊藤仁斎の息子の東涯に学び、徳川幕府の書物奉行に任じられた。また、オランダ語も学び、蘭学の始祖といわれている。Luchooルソン?から輸入したさつまいもの耕作に勤しみ、甘藷先生というあだ名で呼ばれた。1769年、72歳で死去。

    22.本居宣長
     国学界におけるもっとも優れた有名人。宣長は特に古事記や万葉集に代表される古代文学の研究において、師である賀茂真淵から着想を得た。1764年、彼の記念碑的作品『古事記伝』の執筆を始め、1796年に完了した。古事記と万葉集の第一人者というだけでなく、宣長は日本古典、和歌、言語、神道を「国学」のもとに体系化した。彼は文学において熱烈なナショナリストであり、外国、特に中国による影響を断固として敵視した。国学における最も重要な学者であるにも関わらず、日本文化研究史においてはもっともまじめな日本史研究者として敬われているのであろう。1801年、72歳で死去。

    23. 慈雲尊者
     仏教真言宗の正典の開祖。正統の退廃を嘆き、それを再興することを自身の聖なる義務とした。彼の深い学識は、宗教上の模範的行為同様に、多くの弟子に慕われた。彼は神道の研究にも没頭し、またサンスクリット語の著名な学者であり、1000巻からなる『梵学津梁』を著した。1804年、87歳で死去。

    24.柴野栗山
     「寛政の三博士」の一人。朱子学の熱烈な支持者。1788年、江戸にある昌平坂学問所の教師に任じられ、学問制度の大きな改革の責任を負った。当時行われた有名な「寛政異学の禁」は彼の提案によるものである。1807年、74歳で死去。

    25.杉田玄白
     玄白は医者を生業としながら、早くからオランダ語の勉強に専念し、解剖学やその他の医療テーマについて本を執筆し、日本で初めてのオランダ語翻訳者といわれた。彼は外国の医学書を参考にしながら日本で初めて人体解剖を行った。他にも多くの有用な本を執筆した。1817年、85歳で死去。

    26.塙保己一
     日本が生んだもっとも博学な盲人、保己一は驚くべき記憶力と文学への尽きることのない好奇心の持ち主であり、素晴らしい文学作品を残した。日本文学を教える私塾を開く許可を幕府から得ると、彼は多くの弟子を得た。同時に絶えず古書の編纂に努めた。『群書類従』、『続群書類従』は彼の重要な成果である。これらの著作は3373種類の本を含み、1530巻に及び、日本文学と日本史の研究にとって非常に貴重な貢献である。1821 年、72歳で死去。

    27.松平定信
     陸奥白河藩主である定信は彼の領地において驚くべき政治手腕を見せた。徳川政権の一員である老中になった後は、注目すべき一連の改革を成し遂げ、将軍家斉の行政を、その後も高く評価されるものにした。政治と行政の能力に加えて、定信は文学的才能も持ち、『花月草紙』や『集古十種』、他にも名高い書籍を執筆した。白河楽翁という号でよく知られる。1829年、67歳で死去。

    28.頼山陽
     当時の知識人の中でも最も顕著な尊皇派である山陽は、有名な著作『日本外史』や『日本政記』を通して、1868年の明治維新を起こした人々の理念を形成することに貢献した。彼は一時は漢詩人、旅人、歴史家であったが、とりわけ、徳川の軍事政権が敷かれていた時代に、天皇への忠誠を主張することに熱心であった。自作の詩を含む一点の掛け軸が7万円で売られたことが知られている。1832年、53歳で死去。

    29.狩谷棭斎
     棭斎は有名な学者で中国古典考証学に精通し、制度と古書知識の研究に専念した。多くの有用な著書の内には『本朝度量権衡攷』、『箋注倭名類聚抄』などがある。1835年、61歳で死去。

    30.平田篤胤
     本居宣長の優れた弟子のひとり。篤胤は熱烈な神道信者であり、『the ways of the gods as they are霊の真柱?』の研究をし、彼の著作の中には古代史についての解説書である『古史徴』や『古史伝』などの卓越した作品がある。1843年、68歳で死去。

    31.滝沢馬琴
     馬琴は江戸時代における偉大な戯作者の一人。作品を生み出す無限の能力やアイディアの豊富さは驚くべきものがある。多彩な作品の中でも最も有名なものは計106巻の『八犬伝』である。彼の作品の中には他にも壮大な物語があり、その数は250以上にのぼる。1848年、82歳で死去。

    32.佐藤一斎
     徳川幕府に仕えた有名な儒学者。一斎は政治の基本原理を扱いながらもたびたび人の運命を占う書として用いられた中国古典の『易経』に深く精通していた。この肖像画は前世紀の有名な国粋画家である渡辺崋山によって描かれたもの。一斎は1859年、88歳で死去。

    33.新島襄
     彼は若い頃にオランダ語を学び、のちに英語を学んだ。1864年、アメリカ合衆国に渡り、アマースト大学に入学、アンドーヴァー神学校で学士号を取得し、日本に帰国した。1875年、京都に現在の同志社大学のもととなる同志社英学校を設立、日本の若者の教育とキリスト教の布教に専念した。1889年、アマースト大学から名誉法学博士を授与された。新島は近代日本が生んだ最も偉大なキリスト教徒の教育者と認識されている。1890年、47歳で死去。

    34.福沢諭吉
     明治時代の偉大な教育者のひとりで、近代化の推進者。明治維新以前に生まれた諭吉は国家がとるべき西洋文明への先見の明を持ち、自らヨーロッパをモデルとした後の日本の近代化の進歩の先陣を切った。彼の活動は教育から社会事業までのあらゆる分野におよび、現在の慶應義塾大学と時事新報、そして他のさまざまな社会組織や教育組織の創設者となった。また自国の人々を啓発するために多くの書籍や記事を執筆し、同世代の人々に幅広い影響を与えた。生涯にわたって平民出身の教育者であることに誇りを持った偉大な庶民的な教育者は、1901年、68歳で死去した。
(A a 3) 天満宮〔天満宮神影〕
     絹本著色。
     1巻。本紙、84㎝ × 38.4㎝。総丈、169㎝ × 50.5㎝。

     天満天神は10世紀に朝廷の有名な右大臣であった菅原道真が死後に神として祀られた際の名であり、学問と詩の神として崇められた。彼は天皇への忠誠心を示したことで、日本人に慕われている。この絵はおそらく15世紀後半に描かれたもの。
(A a 4) 柿本人麻呂影像
     和歌の守護聖人として描かれている。絹本著色。1巻。
     本紙、84㎝ × 55㎝。総丈、165㎝ × 65㎝

     2通の書簡付き。崇拝を目的として描かれており、最も偉大な万葉集の歌人である人麻呂が神格化されている。この絵はSonyo山陽?によるものであり、Minamoto Tadasane源忠実?による賛が書かれている。この作品は明らかに徳川時代初期(17世紀初期)のもの。
(A a 5) 柿本人麻呂彫像
     1体
     高さ37.8㎝
     台座の大きさは30.3㎝ × 20.5㎝

     「古今伝授」の際に崇拝の対象物として使用されたものと思われる。
(A a 6) 近江八景

     1巻。

     以下に記した8人の優れた名士による詩は、1691年から1693年の間に書かれ、絵は京都の山本素軒によって描かれた。以下に歌人の名前と絵の主題を挙げる。

    1.粟津晴嵐
     近衛基熙(関白)

    2.瀬田夕照
     入道尊證親王

    3.比良暮雪
     九条輔實(左大臣)

    4.三井晩鐘
     清水谷實業(権大納言)

    5.堅田落雁
     近衛家熙(内大臣)

    6.矢橋帰帆
     二条綱平(大納言)

    7.唐崎夜雨
     一条冬注(右大臣)

    8.石山秋月
     鷹司兼熙(左大臣)
(A a 7) 「雪月花」徒然草絵巻
     紙本著色。1巻。26㎝ × 452㎝

     有名な卜部兼好の『徒然草』の文章が記したような、雪、月、花の景色の絵が描かれた絵巻。絵巻の書の部分は北村季吟が76歳の時に描いたもの。季吟は日本古典の有名な学者で徳川幕府の歌学方を務めた。また、絵は住吉派の代表的人物である住吉具慶によるもの。
(A a 8) 日光東照宮〔日光東照宮祭礼絵巻〕
     紙本著色、1巻。27.5㎝ × 1185㎝

     この絵巻には東照宮で行われた大きな祭りの行列が描かれている。おそらく徳川時代後期(19世紀中頃)に描かれたもの。
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