東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 市中取締類集八

 追加市中取締類集のうち、名主取締之部の五冊の第三・四・五冊を収め、「市中取締類集五」以来つづいていた名主取締之部を完結した。
 第一二八件より第一七一件に至る四十四件を収め、二百二十五通の文書、二葉の千駄ケ谷町の絵図よりなる。
 前巻にひきつづき、町名主の任免、支配附、永支配、後見離れ、後見交代、諸掛役の任免等々を内容とするものである。うち、見るべきもの一、二を掲げよう。
 浅草の西福寺(東光山・良雲院)は、寺領のうち、千駄ケ谷方面にある町屋を支配していた名主金兵衛を、年貢納入不行届の廉で退役させ、後任者がみつかるまで、組合名主の勘四郎に事務をとらせたい旨を、町年寄に願って来た(嘉永四年正月)。千駄ケ谷村には、武家地を除いて、吉祥寺・西福寺・霊山寺の寺領が入組んでいる。各寺領のうち、追々と町家作を建てたところは、延享三年に町奉行支配となり、千駄ケ谷町となっていた。しかし、現実には、前記三寺の寺領が入組んでいるので、惣名は千駄ヶ谷町であるが、それぞれの寺領ごとに、寺号を冠せて「何寺領千駄ケ谷町」と唱えていたし、金兵衛は、西福寺領千駄ケ谷町のほか、「霊山寺領千駄ケ谷町」「千駄ケ谷神明門前」「千駄ケ谷瑞円寺門前」「千駄ケ谷聖輪寺門前」の名主を、前記勘四郎(吉祥寺領千駄ケ谷町名主)と共に勤めていた。
 地頭西福寺の処断で金兵衛の同寺領千駄ケ谷町名主役を罷免させることについて、町年寄としてはとかくの異議申立は出来ないようであった。しかし、勘四郎一人に兼帯させたいという西福寺の意向に対しては、それよりも組合名主持ちとした方がよいという判断を下し、町奉行所に上申している。また、金兵衛の西福寺領以外の町々の名主役は、当然のことながら、そのまま継続されるのである。
 地頭としての西福寺の意向尊重もさることながら、町年寄・町名主という支配関係において、一方的に寺側の事後報告を町年寄が受けるだけでは不都合な面もあるので、そういうときには、事前に寺から町年宛に連絡する前例(文政八年・天保九年)を持ち出して、町奉行所に意見具申をしている。
 千駄ケ谷町は町名主の組合分けでいうと、二十番組(牛込・雑司ケ谷・柏木・四谷太宗寺門前・同天竜寺門前など)に属しており、同組には金兵衛のほか十一名の名主がいる。組合持というのは、その十一名で適宜事務処理をおこなうことである。支配違いということで起るこうした問題は、さほど珍しいことではないが、本件には、千駄ヶ谷町の絵図が添付されており、それが前記三寺の寺領を詳細に記し、ことに西福寺の町が特記されていて興味をそそるのである。およそ今日の明治神宮外苑に相当する一帯であるが、そのなかに、「西福寺領千駄ケ谷町」が二十四ケ所も散在し、吉祥寺領千駄ケ谷町(約十ケ所)・霊山寺領千駄ケ谷町(約十三ケ所)と町境を接したり、武家地と隣接したりしている。それぞれの地積を知ることは出来ないが、二十四ケ所にも分散してひとつの町として支配を受けているのは、例のそう多いことではないであろう。こうした意味から、本件の添付図は一見に値しよう。
 次は第一六七件。「本材木町名主石之助外弐人如何之風聞有之儀ニ付調」という表題でまとめられており、

 本材木町名主 石之助 五十五歳
 本所林町二丁目名主 弥右衛門 六十一歳
 赤坂一ツ木町名主 八郎右衛門 三十八歳

ら三人が高利の金貸を内職にしている事実の調査・処分に関する文書よりなる。
 石之助の支配地は、本材木町五〜七丁目と正木町とである(五番組)。名主役料として年に金六十三両一分を受領し、調査当時(嘉永六年)まで、三十九年名主役を勤めており、世話掛・人別掛・米方掛・非常取締掛をも仰付けられていて、名主としては熟練者である。役料も他の名主とくらべて、決して少い方ではない。市中取締掛名主の報告には「生質吝薔」(七四七号文書)、隠密廻の報告には「役儀勤向ハ等閑ニ而高利之金子ロ々貸付、右を渡世同様といたし」(第七四二号文書)などと記されている人物で、下代の本材木町五丁目家主吉兵衛、同町抱書役啓蔵、正木町抱書役新助らに貸金を扱わせていた(第七四八号文書)。
 その高利貸の例を掲げると、金二十五両につき金一分の利子(各月一%)という証文面で、内実は金二十両につき金一分の利子(各月一・二五%)に、さらに金三分の礼金がつき、その利子・礼金を天引きし、勘定も四カ月縛りとして、貸借継続の場合、四ケ月目ごとの切替えに利子を二重につける「おどり」を加える方法で、金百両の貸付をおこない、また、内実の利子は金十五両に金一分とし、それを天引き、四カ月縛り・おどりとして金五両の貸付をおこなうなど、実質は、一ケ月につき金十両に金一分の利子、つまり二割五分という、当時にあっても高利とされる金融をおこなっているのである。
 証文宛先の書替えなどの操作もおこなわれ、石之助自身がおもてに出るのを避けようとした様子も見られるが、石之助が動かしている資金は、妹で、金座役人三宅亀一郎の養母になっている「もと」から提供されているようで、貸付額およそ金四千両のうち、金三千両はもとの所持金と報告されている。新肴場本小田原町あたりの魚屋に貸付の分には、玉川という町医(本材木町五丁目)が中継をしていたようで、当時の町医の生態の一面を示している。
 二人目の弥右衛門は四十年も名主役を勤めているが、幼年の折に商人の間で育ったために、「町役筋心懸無之、利用而已心懸」(第七四七号文書)るといった性分で、父が残した貯金六百両ほどを、本所松井町・八郎兵衛屋敷(里俗「弁天」)・深川御船蔵前町(里俗「御旅」)の茶屋(隠遊所)に高利で貸付け、かけひきも上手で、家質の貸付、担保貸付をもおこなって、身上をもり立てたと報告されている。家質貸付で流れて同人名儀になった町屋敷は十カ所を越えている。
 弥右衛門自身の貸金は、さのみ高利とはいえない利率(年に一割二分程度)であるが、甥の岡本勾当の官金名目での貸付、あるいは弥右衛の弟の徳之助(馬喰町名主)、子の繁蔵(名主見習勤)、下代の重兵衛らは、取立にまわり、町役勤めの心がけはさらさらなく、金貸渡世を本業にしている有様であった。
 三人目の八郎右衛門は、妻子の名儀を使って高利貸をおこない、武家屋敷での千両取りの無尽を世語したりして、それらを資金として、やがて金三千両を動かしているという(第七四六号文書)。
 三者いづれも単純な金銀貨の範疇をこえるものであるが、町奉行所の御糺を受けると、その身の御仕置はいうまでもなく、旧来の町役づとめにも瑕がつくので、自ら退役を願い、貸金の方は法定利子の範囲内で処理するように改めさせたいというのが町方の意向であった(第七四三・七四八号文書)。
 役料によって生活し、余業をもたないのをたてまえとした江戸の町名主の一面を物語ってくれる好材料といえよう。
(目次二一頁、本文四八六頁)
担当者 伊東多三郎・阿部善雄・進士慶幹


『東京大学史料編纂所報』第4号p.82