東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第二編之十七

 本冊には、後一条天皇治安元年四月二十三日から、同年十二月三十日に至る約八箇月間の史料と、同年是歳及び年末雑載(自然・社会・経済・宗教・学芸)の史料とを収めてある。
 まず、この間に於ける入道前摂政太政大臣藤原道長の行動について見ると、彼は、是より先、寛仁四年三月二十二日に落慶供養が行われた無量寿院(治安二年七月、法成寺と改む)の拡充に、引続き力を注いでいる。即ち、治安元年六月二十七日の第三条(七九頁以下)に同院講堂造立のことが見え、又、同年七月十五日の条(八四頁以下)に同院金堂上棟及び五大堂立柱のことが見え、更に、道長の室源倫子(法名清浄法)が、同院の西北に西北院を造立供養したことも収めてある(十二月二日の条、三六三頁以下)。又、恒例の道長家法華三十講も、この年から同院で行われており(五月一日の条、六頁)、八月には上東門第から一切経が同院の経蔵に移され(八月一日の第二条、二一五頁以下)、九月には皇太后宮(藤原妍子)の女房達が新写した法華経も、同院で供養され、その経蔵に納められた(九月十日の条、二五七頁以下)。
 前年以来流行の疫病は、治安元年四月以降に於てもおさまらず、ために読経・修法・奉幣などが行われたが、この疫病流行の為もあって寛仁三年以来、幾度も延引されていた後一条天皇の春日社行幸は、十月十四日(第一条、二九三頁以下)に至って実現し、太皇太后(藤原彰子)と同輿にて行幸あり、大和添上郡が同社に寄進された。この行幸の儀については、小右記にやや詳細な記事がある。
 次に、公卿の昇任のうち、最も顕著なものは、七月二十五日(一八七頁以下)のそれで、是日、右大臣藤原公季を太政大臣に、関白内大臣藤原頼通を左大臣に、大納言藤原実資を右大臣に、権大納言藤原教通を内大臣に、権中納言藤原頼宗・同能信をそれぞれ権大納言に任じた。ついで、八月十日(二一九頁以下)には、宣旨を下して、関白左大臣頼通をして、太政大臣公季の下に列せしめた。
 本冊に於て、その事蹟を集録した者の中、主なものとしては、五月二十五日に薨じた左大臣従一位藤原顕光(一二頁以下)と、七月十九日に卒した摂津守正四位下源頼光(八七頁以下)とを挙げることができる。
 前者の顕光は、広幡又は堀川の左大臣と称せられ、関白兼通の長子であったが、能力に乏しく、公事を行うに当って失儀が甚だ多かった、又、その女小一条院女御の延子が、小一条院に去られて悲嘆の中に卒するという不幸もあり、顕光は薨後、怨霊となって悪霊の左大臣と称せられたが、彼の生前の行動については、本条及び本条末尾の連絡案文に、つとめて詳細に掲げてある。
 後者の頼光については、武者としてあまりに名高い反面、彼に関する纒った良質の史料に乏しいが、参考史料なども数種を収載すると共に、頼光の郎等渡辺綱・平貞道・同季武等の事蹟についても、一七四頁以下に合叙してある。
 なお、治安元年十月、前左衛門尉平致経が紺瑠璃唾壺を東大寺に施入した由が東大寺別当次第に見えているが(八月二十三日の条に合叙、二三五頁)、現に正倉院中倉に存する紺瑠璃唾壺が恐らくはそれであろうと推測されているので、挿入図版として、同唾壺の原色版写真を掲載した。
(目次一三頁、本文四二〇頁、挿入原色図版一葉)
担当者 花田雄吉・土田直鎮・渡辺直彦


『東京大学史料編纂所報』第3号p.65