東京大学史料編纂所

HOME > 編纂・研究・公開 > 所報 > 『東京大学史料編纂所報』第2号(1967年)

所報―刊行物紹介

大日本古記録 言経卿記五

 言経卿記は、権中納言山科言経(ときつね)(天文十二年 一五四三 〜慶長十六年 一六一一)の日記である。「陽波」「逝波」「浮意記」等の原題を備えているが、一般には「言経卿記」の統名で呼ばれる。天正四年(一五七六)より慶長十三年(一六〇八)までの約三十年間にわたる言経自筆の原本三十五冊が本所に架蔵されているが、中間にかなりの欠年月がある。しかし、これらの欠年月を補うべき伝本は全く見られない。その現存の原本の年紀を表示すれば、次のとおりである。(欠年月の部分が本来書かれなかったものか、後に散佚したものか、詳かでない)

1 天正四年(四季) 2 天正七年(春夏)
3 天正十年(春夏秋十) 4 天正十一年(八九十十一)
5 天正十二年(冬) 6 天正十三年(春)
7 天正十三年(六七八閏八九十) 8 天正十四年(四季)
9 天正十五年(四季) 10 天正十六年(四季)
11 天正十七年(四季) 12 天正十八年(四季)
13 天正十九年(四季) 14 文禄元年(四季)
15 文禄二年(四季) 16 文禄三年(四季)
17 文禄四年(四季) 18 慶長元年(四季)
19 慶長二年(四季) 20 慶長三年(四季)
21 慶長四年(四季) 22 慶長五年(四季)
23 慶長六年(正二) 24 慶長六年(二三)
25 慶長六年(夏七八) 26 慶長六年(九冬)
27 慶長七年(四季) 28 慶長八年(春夏)
29 慶長八年(秋冬) 30 慶長九年(春夏)
31 慶長九年(秋冬) 32 慶長十年(四季)
33 慶長十一年(四季) 34 慶長十二年(春夏秋十)
35 慶長十三年(五六八)  

 原本は、すべて文書の反古に書かれ、おおむね一年一冊の大部な袋綴の冊子に仕立てられている。(但し、天正十三年・慶長八年・同九年はそれぞれ二冊に、慶長六年は四冊に分冊されている。)これを大日本古記録に収載するに当っては、全十三巻を予定しており,その第五巻にあたる本巻には、文禄元年と同二年との二か年分を収録した。言経、時に五十・五十一歳で、従二位前権中納言であった。
 これより先、言経は天正十三年夏、勅勘を蒙って京都を出奔し、室の縁を頼って(言経の室冷泉氏は、興正寺佐超室の妹である)摂津中島に下り、本願寺及びその別院たる興正寺の庇護のもとに、文筆・衣紋等のほか主として医業を以て渡世を営んだ。天正十九年七月、本願寺の京都移転に伴って帰洛の念願を果し、六条本願寺地内に住むようになり、文禄二年八月からは、堀川の新宅に移居した。しかしなお、勅勘は聴されなかった。
 こうして言経は、本願寺ことに興正寺の庇護を受けつつ市井に在って医業を営むかたわら、天正十九年三月から徳川家康の扶持を受けるようになり、また翌二十年(文禄元年)十月からはさらに豊臣秀次の扶持をも受けるようになった。従ってこの日記には、本願寺および秀次・家康等の動静に関する記載が多く見られ、また町衆との交友、その他、医薬・文芸及び風俗等に関する記事に富んでいる。本巻中よりその一、二を例示すれば、秀吉が秀次を伏見に召致して戒飭した際、日本を五分しその四分を秀次に与えようとしたことが見え(文禄二年九月四日条)、また、秀吉が本願寺光寿の失行を責めて、門主職をその弟の光昭に譲らしめた際の顚末が見え(同年閏九月十四日・十八日条等)、その他、秀次の命を承けてその蔵書を検知したこと(同年四月九日・十三日条等)なども見えている
(目次一頁、本文四五三頁、岩波書店発行)
担当者 斎木一馬・百瀬今朝雄・益田宗


『東京大学史料編纂所報』第2号p.42