HOME > 編纂・研究・公開 > 共同研究 > 2015年度に実施された共同研究の研究課題 > 研究概要(成果)
研究経費 | 50万円 | ||||||
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研究組織 |
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研究の概要 |
(1)課題の概要 近世の寺院史料は、中世以前に比べ大量に残されているが、整理され活用されることが少ない。その理由は、寺院内部の実態や特殊性をふまえる必要があり扱うのが困難であることに加え、「近世仏教堕落論」の影響により先行研究が少なかったことにある。 だが、そのことは逆に、視点を変えて近世寺院研究を充実させることにより、新たな成果が期待できることを示している。近年、近世社会の文化状況に対する関心が高まっており、書肆や出版物を手がかりとする研究も進展しているが、地方寺院の社会的実態については未解明な部分も多く、実態解明による波及効果が期待できる分野である。 本研究の対象とする成菩提院(滋賀県米原市)の史料は、地方の拠点寺院という、従来の近世史研究で空白に近い分野を開拓する手がかりとなることが見込まれることから、悉皆調査と研究資源化を試みる。 (2)研究の成果 【現地調査】 共同研究の経費による現地調査(9月・12月に実施)により、江戸中後期から明治初頭の史料約250件について目録を作成した(木箱7箱分の調査は完了)。今回調査した史料は、幕藩権力との行政上の関係の史料(京都町奉行の触書、彦根藩の裁判関係、願書等)、寺院存立構造や周辺社会の史料(田畑・寺領代官関係、堂舎普請、宗門送り手形など)、本寺の延暦寺・輪王寺および近江・西美濃・北伊勢に散在する諸末寺の史料など極めて多様であった。 また、これまでの調査で明らかになっていた中世後期・近世初期に関わる史料で、未撮影のものを含む部分をデジタルカメラで撮影した(39件)。 【研究会の開催】 成菩提院の中世文書調査に携わった中世史研究者や、聖教調査を継続している国文学の研究者を交えた研究交流の場をもった。研究会によって以下の点で特に理解の進展が見られた。①中世成菩提院の教学・法流や寺院法、関東談義所との交流の分析により、学問寺院としての特色が明らかとなった。②近接した天台宗寺院金剛輪寺(滋賀県愛知郡愛荘町)との関係について、最新の寺史(『金剛輪寺の歴史』、2013年)や、史料編纂所架蔵写真帳「金剛輪寺文書」による調査成果を踏まえ、人とモノ(聖教など)の交流状況を明らかにした。③近世成菩提院領が形成される過程を検討し、石高の変遷を跡付けた。④歴代住持のひとりに数えられる天海が実際に成菩提院に関わったことがわかる新史料を見いだし、その位置づけを検討した。⑤近世歴代住持の経歴・事績を整理し、基本的な事実関係理解の到達点を共有した。特に近世の天台宗内部における成菩提院の位置づけについて、主に兼帯のあり方をめぐって議論した。近世成菩提院において「安楽騒動」が一つの画期となったことや、同時期の住持六如の詩作以外の活動が解明された。⑥史料編纂所の2000年前後の調査で撮影された中世史料箱内の近世史料をリスト化し、共有した。 以上のように一つの寺院のもつさまざまな側面を明らかにすることができた。特に、今まで別々に調査を行ってきた中世文書・近世文書・聖教史料の研究者間で交流する機会を持ったことで、各分野の最新の成果を共有することができ、成菩提院史料を総体的に把握する足がかりを得ることができた。 |
研究経費 | 50万円 | ||||||
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研究組織 |
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研究の概要 |
(1)課題の概要 平安末から鎌倉初めにかけて活躍した公卿藤原忠親(1131~95)の日記である『山槐記』について、本文テキストの基礎的研究を行う。 『山槐記』は、平氏政権から鎌倉幕府へと大きく世情が変転する12世紀後半の根本史料のひとつとして、歴史学のみならず国文学や美術史など幅広い分野において研究に利用されてきた。しかしその一方で、まとまった古写本が少なく、また部類記・儀式書などに引用された逸文も多いことから、「どの時期の記事がどこにあり」、「どの部分はどの本に拠るべきか」というテキストを考える上での最も基礎的な理解が、平安・鎌倉時代の古記録のなかで最も共有されていないものでもある。 このような状況を打開するため、共同研究メンバーそれぞれがこれまで蓄積してきた古記録学研究の成果に基づき、その知見を共有しつつ、各地の文庫等に蔵される諸本の書誌的分析と内容の比較、逸文の蒐集と検討により、良質な本文テキストの復原を目指す。 (2)研究の成果 『山槐記』の古写本について、日次記として伝来したもの7点、別記あるいは抜書3点、『山槐記』のみから作成された部類記4点の所在を確認、そのうち、京都大学文学部所蔵の永万元年六月記については、メンバー全員が原本調査を終え、現在、その成果を公開すべく準備中である。応保元年十二月記については、まだ全員が原本調査を終えられずにいるため、今年度も継続して調査していきたい。その他、国立公文書館所蔵の久寿元年・同二年記について写真をもとにして翻刻し、さらに宮内庁書陵部所蔵の伏見宮本保元三年秋記の原本調査を行い、一応の翻刻を終えた。 また、種々の部類記のうち、『山槐記』逸文を含む古写本をリストアップし、その写真などにより翻刻を進めている。現時点で、400字詰め原稿用紙換算で432枚分の『山槐記』逸文が集まってきている。 こうした古写本の調査と併行して、『山槐記』にどのような記事があり、どの部分はどの写本によるべきか、という最も基礎となる情報を、新写本の調査結果も含めて、一覧表のかたちにまとめつつある。 なお、『山槐記』をもとに中山定親が編んだ故実書として『達幸故実抄』が知られているが、実はこれと同様の性格のものが他にも数種存することが確認できたため、その調査も進めつつある。 |
研究経費 | 25万円 | ||||
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研究組織 |
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研究の概要 |
(1)課題の概要 宝暦事件の研究は数多いが、中心人物の一人徳大寺公城については、従来1904年作成の謄写本「徳大寺公城手記」(調査の結果、日記群全体の一冊分と判明)が利用されるに留まっている。 東京大学史料編纂所が1954年に購入し、1990年代に整理・公開した特殊蒐書「徳大寺家史料」のなかには、長期間にわたる自筆日記「公城卿記」28冊(寛保3年~天明2年)があるものの、虫損等のため現在まで閲覧に供されてこなかった。 宝暦事件の研究を深化させるには、徳大寺公城とその周辺の学問、および竹内式部らとの関係などを具体的に明らかにすることが求められている。2014年度から引き続き採択された本研究では、基本史料である同日記を詳細に調査し、可能なものから撮影・読解することにより、宝暦事件との関係を究明し、目録調書や撮影画像等を研究資源として公開する。 公城が作成した諸写本や書状案(「徳大寺家史料」など史料編纂所の所蔵分)、国文学研究資料館、関西の諸機関に分散・伝存する同家旧蔵史料や菩提寺の金石文等をも調査・研究する。 (2)研究の成果 徳大寺公城自筆日記「公城卿記」全28冊の修補が終わり、事件の首謀者として処罰された公城側から宝暦事件を再検討することが可能になった。ⅰ党を結び謀叛の風聞があったこと、ⅱ桃園天皇を取り込んで朝廷の実権を握ろうとしたこと、ⅲ関白以下の摂関家、および武家伝奏・議奏への失礼な言動があったこと、などが処罰の理由としてあげられ、それに青綺門院(天皇嫡母、女院)らが垂加神道の仏教排斥を問題視したことを念頭におき、日記の記事から、①公城の教養(武術を含む)・思想形成と竹内式部(垂加神道)への傾倒の過程、②公家のなかでの党派(垂加党)形成、③仏教排斥、④関白ら摂関家と朝廷執行部への批判、⑤幕府への批判、⑥桃園天皇への進講、などを検討した。以下、上記の諸点にそい、解明し得た事実を列挙する。 ① 公城は、儒学・和歌・音楽の師を屋敷に招き、月数回づつ講義や指導をうけ、竹内式部からは儒学と日本書紀神代巻・垂加神道関係書の講義を、月3回程定期的に受けた。上級公家としての教養を身につけるとともに、垂加神道を学んで次第に傾倒し、宝暦2年8月に「神籬磐境極秘伝」の伝授を受けるに至る過程が明確になった。また、「徳大寺家史料」に含まれる公城筆写の「中臣祓風水草」など垂加神道関係書物が、公城の傾倒過程を日記とともによく伝えている。なお、儒学の講義が基本的な教養形成の柱だが、そのテキストについて国文学研究資料館、住友史料館、大阪府立中之島図書館所蔵の徳大寺家関係史料を調査したが、直接に公城が使用したと思われる書物は見い出せなかった。武術に関しては、公家も文武を学ぶ必要があることを主張し、剣術・体術などを修行している事実を見い出せた。 ② 公城は、宝暦2年に「神籬磐境極秘伝」の伝授を受ける頃から、活発な党派(垂加党)形成に動いている。まず道を挟んで屋敷が相対する久我敏通と強い結びつきを作り、それを核にして周囲へ拡大していった。日記に具体的な内容を記さないが、しばしば公家の屋敷を訪れているのは、おそらくその一環だったと思われる。宝暦4年になると、公城と久我敏通の屋敷などで、数人の公家たちが集まってはしばしば読書会を開くようになっている。書目は儒学書とおそらくは垂加神道関係の書籍であったろう。そのなかで公城は「我党」「吾党」と表現するようになり、垂加党ともいうべき党派の形成を明確に意識していた。 ③ 仏教に対する姿勢は、日記では葬儀や年忌の際の忌避行動しかわからない。二人の妹が寛延2年と宝暦元年に亡くなったさいの菩提寺十念寺における葬儀が、仏教ではなく神儒の法で行われるべきだが、世の習俗として仏教で執行されたことを残念に思うとともに、葬儀には参加しないという行動をとっている。仏事にまったく参加しないわけではないが、家司に代参させることが多く、本人が行った場合でも「即刻帰家」であった。また、寛延3年には、我が国では上宮太子(聖徳太子)以来仏法が行われ、祭祀が失われていることを嘆く。 ④ 関白や摂家、武家伝奏・議奏など朝議執行機関への批判は、寛延3年の大宮院号定、女御治定、官位定、諸大夫の官位定、内大臣宣下などに強く表れる。「不学之故也」「逐末之人物而已」「今にはしめぬ博陸之失籍」「無学無智」と罵り、「摂家之人々為自己取利之所為」「摂家の人々私意を以」と摂家の利益を優先する朝廷運営を過激な表現で批判している。 ⑤ 幕府に対しては、圧倒的な武威の強さと朝廷・公家の衰微を嘆く記事が多く溢れている。そのなかで、平清盛・足利尊氏・豊臣秀吉と対比させた徳川家康への批判は興味深い。それでも、徳川吉宗について「当世英雄」と記し、その死を悼んではいる。 ⑥ 桃園天皇については、大嘗会での振る舞い、9 歳の時の和歌会始めでの和歌やその筆跡に、幼少のうちになみなみならぬものと見て、強い期待感を抱いている。天皇への進講は従来から知られている以上の記事はないものの、宝暦7年に日本書紀の進講を停められたあと、同年11月に天皇の意向で日本書紀神書巻の伝書を新たに写し献上しているが、「徳大寺家史料」にある「日本書記進講筆記」との関連を窺うことができる。 いままで虫損などで閲覧できなかった日記を、この共同研究で修補することができ、公開できるところまで辿りついたことが一番の成果であり、「徳大寺家史料」のなかの公城筆写本の意味・意義がこれにより明らかになったのも大きな成果であろう。 |
研究経費 | 49.5万円 | ||||||
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研究組織 |
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研究の概要 |
(1)課題の概要 本研究は、史料編纂所所蔵の前近代東アジア各国の古文書類について、所蔵状況の確認から始めて、書誌情報・文書様式・内容を確認し、さらに紙種・紙質・厚みなどの形態的・物理的な観点からの計測・観察も行った上でデータとして整備し、東アジア古文書の基礎的な情報を集成しようとするものである。東アジアの国々には概して伝世古文書が少ないことから、これまで古文書現物を集成するような基礎的研究があまり行われてこなかった。他方、日本史や日本古文書学の立場からは、外交文書として日本に伝わるアジア各国発給文書の研究が盛んであるが、これらの研究についてアジア史側からの検証は十分に行われていない。申請者は、こういった東アジア古文書学研究に残された課題を解決する一助として、国内に存する東アジア古文書のデータ集成が必要だと考えており、その端緒として東京大学史料編纂所内の調査を行おうとするものである。 (2)研究の成果 本研究は、東京大学史料編纂所が所蔵する東アジア関係の古文書資料について、形態・材質・様式などに関わる基礎的な情報の整備を進めるものである。研究過程で戦前の台紙付写真に着目したのは、これらが現在となっては所在不明となってしまった史料や消滅してしまった貴重な情報を含んでおり、情報量的にもわが国所在の東アジア古文書を網羅する基盤データとなり得ると判断されたからである。このため、台紙付写真の調査を進めて、研究メンバー全体で東アジアの古文書に関する知識を蓄積・共有し、疑問点・問題点を整理した上で、史料編纂所が所蔵する東アジア関係の原文書について調査を行い、さらに、これを他機関所蔵の原文書と比較することで、日本外交史や東アジア古文書学の発展に有益な情報を引き出せると考えた。 豊臣秀吉への冊封に伴い、配下の武将に交付された明朝兵部からの辞令書(剳付)については、史料編纂所所蔵の前田玄以宛文書と毛利博物館所蔵の毛利輝元宛文書を調査したが、これまで明らかではなかった文書の紙質や印刷方法、折り方、装幀などについて新たな情報が得られた。また、史料編纂所所蔵の『天啓誥命』や台紙付写真の誥命・勅命類(いずれも官僚の辞令書)と、台紙付写真の存在が機縁となり近年に再発見された山口県立博物館の勅命とを比較調査したことで、絹織物に書写された明代辞令書の形態と発給手続についても多くの知見が得られた。辞令書は明の国内文書であるとともに周辺諸国への冊封に必須の外交文書でもあり、得られた知見は、今後の精査を経て日本外交史研究にも寄与できよう。さらに徳川美術館では、日本宛の明の国書の一部である永楽帝の勅諭を熟覧して、文書料紙表面の折りや孔などの痕跡を丁寧に観察し、外交文書の生成過程に関わる貴重な情報を得ることができた。 このように史料編纂所所蔵の東アジア関係文書について、過去の写真記録や他機関所蔵文書との比較を含めて、日本史と外国史の研究者が共同して基礎的な分析を行うことは、日本外交史の研究にとって有益なばかりか、各国史研究にとって不可欠な作業の一端を担う点、さらには、史料編纂所が所蔵史料の学術的意義を明確にし得る点でも有効であると考えられる。 |
研究経費 | 27万円 | ||||
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研究組織 |
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研究の概要 |
(1)課題の概要 地震学の分野では,過去の地震に関する検討は重要な研究課題である.その研究の材料として,同じ場所で長期間にわたって書き継がれている日記史料は有用である.特に,近世の公家日記は,近世を通じて京都で連綿と書き継がれている.そのような公家日記には,朝廷や公家社会における日々の出来事だけではなく,日記の筆者が感じるような地震があった場合には,地震発生の時刻やおおよその大きさも記されている.このような有感地震の記録を調査・収集することで,近世京都における大地震の揺れ方や,長期間の有感地震の時系列変化を検討できると考える. 史料という文字情報に基づいて地点ごとの推定震度を導き出す研究は,以前から地震学において行われている.しかし,地震学における歴史地震研究の関心は,大地震や巨大地震の被害状況の検討に集中しており,同一地域における有感地震の揺れ方や発生頻度の検討は進展していない.そこで本研究では,京都で記された近世の公家日記から,有感地震の記録を調査・収集し,その大きさや時系列変化の検討から,近世京都における長期間の地震活動を解明したいと考える.具体的には,近衛基煕の『基煕公記』及び,本研究で新たに調査する近衛家関係の日記史料を対象として,地震記録の収集・検討を実施していく. (2)研究の成果 近衛基煕の『基煕公記』にある元禄関東地震(1703年)と宝永地震(1707年)の地震記事について検討した. 元禄十六年(1703年)十一月二十三日に発生した元禄関東地震は,地震と津波によって南関東に甚大な被害を及ぼした相模トラフ沿いの海溝型地震である.この地震について『基煕公記』には次のような内容が記されている.去る暁の寅刻に地震があり,激しくはないがやや長い地震で,後に聞くところ,地震は人が道を二町あまり歩く間続いたようである.このことから,震源域から遠く離れた京都盆地北部においても明確に地震を感じており,大きな揺れではなかったものの揺れが長く持続した状況がわかる. 宝永四年(1707)十月四日に発生した宝永地震は,地震と津波によって東海道から四国・九州の太平洋沿岸地域に甚大な被害を及ぼした南海トラフ沿いの海溝型地震である.この地震について『基煕公記』には次のように記されている.未上刻に大地震があり,庭の水船(水桶)の水が十分の五ほどこぼれた.人々は騒ぎ,地震は人が道を七・八町ほど歩く間続いた.かつて三十六年(四十六年の間違いか)以前の五月一日に大地震があり,その地震の五分の一の揺れであった.十月中は昼夜にわたり数回小さな地震が止まず,十二月初めになってようやく止んだが,時々小さな地震はあった.このことから,震源域から離れた京都盆地北部においても最初の本震(大地震)と,その後に相次いで発生した余震(小震)について,明確に区別されていた様子がわかる.また,寛文二年(1662)五月一日に発生して京都盆地にも大きな被害を及ぼした近江・若狭地震との比較が行われており,揺れの大きさについて相対的な表現がなされている. これらのことから京都盆地においては,相模トラフ沿いでの地震と南海トラフ沿いでの地震について,揺れの大きさや揺れの継続時間が明確に異なっていた状況がわかる.今後は,大地震後の余震だけではなく,有感地震の記事についても検討を加えていきたい. |
研究経費 | 48.5万円 | ||||||
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研究組織 |
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研究の概要 |
(1)課題の概要 松下幸之助旧蔵、逸品中の逸品として知られる古筆手鑑『隠心帖』について、所収の古筆切・古文書類の学術的価値を明らかにし、歴史・文学・美術など、様々な学問分野において活用できる環境を整え、かつ実際に学術利用していくことが目的である。 この『隠心帖』は、長年行方不明となっており、史料編纂所蔵の写真帖によってしか内容を知ることができなかった。ところが2013年度に現蔵先が判明し、ご所蔵者の格別のご厚意により、史料編纂所において、現物の実地調査と、デジタル撮影とが行われた。申請者はその際、協力者として参加し、実地に調査する機会を与えられた。結果、『隠心帖』所収の古筆切・古文書類の学術的価値の類い稀なる高さと、徹底的な調査研究の必要性とを再認識した次第である。精細なデジタル画像に基づき、かつ最新の研究データを踏まえながら、『隠心帖』を精査していくことによって、多分野にわたっての、厳密精緻な研究成果がもたらされると確信している。 (2)研究の成果 ・『隠心帖』所収断簡に関しては、継続的な調査により、古今集や百人一首、散佚歌集、また七社切や中世装飾料紙、さらに聖教や古記録類等に関する、古典文学・書学・歴史学それぞれの、あるいは横断的な研究成果が複数得られた。すでにいくつかは論文にもなされている。 ・また林原美術館蔵『日本古筆手鑑』から『明月記』原本の新出断簡1葉を見出したこと等が契機となり、同館による2015年3月22日の記者会見に参加し、ほか2点の古筆切と合わせ、その学術的意義と価値についての発表と質疑応答とを行った。NHK・共同通信、また全国紙・地方紙の記者多数が取材に訪れ、同日以降、テレビや新聞での報道が相次ぎ、また各種SNSでも情報が全国的に拡散された。さらにその延長で、2016年4月23日には、同館で開催中の企画展「すみいろ」で、久保木が講演することともなった。研究成果の社会還元の在り方として、これらは、理想形のひとつに近いと言い得るもの、ではなかろうか。 ・総じて、2年間を通じ、(これまでは多く文学・書学の研究者が携わるばかりであった)古筆切研究に、歴史学の研究者が本格的に関与することの、予想を遙かに超えた有効性を痛感することしきりであった。歴史学関連の古筆切は、従来放置される傾向が強かったために、一層、歴史学・文学・書学等の連携によって、今後の古筆切研究の新たな可能性が、それも相当具体的な形で見えてきたと実感している。このような方向性は、ぜひ今後もさらに、学界横断的に認識され共有され、かつ活発に実践されていくべきだろうと考えている。 |
研究経費 | 50万円 | ||||||
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研究組織 |
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研究の概要 |
(1)課題の概要 本研究は、史料編纂所と新潟県内外の中世史研究者が連携し、史料の原本調査と撮影をとおして『新潟県史』資料編(中世)の再検討を行うものである。また、史料所蔵者の了解を得つつ、調査成果を広く公開することも課題とする。 『新潟県史』資料編の中世は、3巻から構成されている。第1巻は上杉家文書が収録され、第2巻は越後文書宝翰集を主に収録している。著名な資料群を収録するこの2巻は、多くの研究者によって利用され、数多くの研究を生み出す母体となっている。一方、第3巻には新潟県内外に散在する史料が収録されているが、1・2巻に比べると、いまだ研究の余地が多く残されている。本研究では、第3巻に収録された史料のうち、特に近年研究の進展がみられる佐渡市所在の史料に注目し、原本調査と撮影を中核とした基礎的研究を行うとともに、調査成果の共有と公開を図る。 (2)研究の成果 佐渡市および山形県・福島県において、以下の文書群の調査撮影を行った。 ・長安寺文書(佐渡市) 13点 ・椎泊本間文書(佐渡市) 12点 ・慶宮寺文書(佐渡市) 52点 ・本田寺文書(佐渡市) 7点 ・菅原文書(山形県西置賜郡白鷹町) 2点 ・常安寺文書(山形県西置賜郡白鷹町) 8点 ・御殿守文書(南陽市) 2点 ・上杉博物館文書(米沢市) 25点 ・福島県立歴史資料館文書(福島市) 8点 ・鶴ヶ城天守閣(会津若松市) 2点 ・福島県立博物館文書(会津若松市) 49点 佐渡市における調査では、『新潟県史』資料編(中世三)に掲載されている文書の撮影を調査の基本としたが、近世以降の文書についても適宜撮影し、文書群全体の状況把握に努めた。慶宮寺文書の大般若経奥書の調査撮影が最大の難所であったが、共同研究のメンバー6名による流れ作業により効率的に調査を進めることができた。複数の眼による文書の原本調査と意見交換の成果は、研究代表者の論文等(『甲信越の名城を歩く―新潟編―』〈吉川弘文館〉所収、『日本海交易と都市』〈山川出版社〉所収)に盛り込まれた。 佐渡市における中世文書の本格的な原本調査および撮影は、昭和50年代の新潟県史編纂室によるものであるが、当時はモノクロ撮影であり、今回の調査によってデジタルカラー撮影が実現したことの意義は大きい。また、一部ではあるものの佐渡市における中世文書の現状が確認できたことも成果の一つであり、さらに、佐渡市教育委員会、及び新潟県史編纂室の業務を継承した新潟県立文書館と情報共有を図れたことも重要な成果であった。 山形県・福島県における調査の最大の成果は、『新潟県史』資料編(中世三)、その後の『上越市史』においても原本把握に至らなかった菅原文書(山形県西置賜郡白鷹町)の調査が実現したことである(菅原左衛門尉宛て上杉謙信書状、本庄繁長宛て大宝寺義氏書状)。この調査では、このほかにも御殿守(南陽市の温泉旅館)及び米沢市上杉博物館の新収蔵文書の撮影も実現しており、『新潟県史』及びその後の資料集を補う着実な成果を上げることができた。 |
研究経費 | 50万円 | ||||||
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研究組織 |
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研究の概要 |
(1)課題の概要 近年、中世文書料紙研究は著しい進展をみたが、この成果を近世文書料紙研究へと及ぼすには、移行期である織豊期の文書料紙の有り様についての精確な理解が必須である。このため、本研究では当該期文書料紙について、物理的な計測および繊維の顕微鏡観察による紙種・紙質の究明を行い、室町期の足利将軍家の文書料紙の継承の有無などの中世文書料紙から近世文書料紙への系譜を実証的に解明することを目指す。 具体的には、「富田家文書」「多賀家文書」(史料編纂所蔵)や「津田家文書」(金沢市立玉川図書館近世史料館蔵)などの前田家関係文書群を研究対象とし、織田信長や豊臣秀吉、前田利家・利長、芳春院、堀秀政などの発給文書の料紙を調査・検討する。第一義的な目標は文書料紙の系譜の解明にあるが、そこにとどまらず、加賀藩研究、ひいては近世史研究や地方史研究における史料学的アプローチとしての文書料紙研究の有効性を示すという意義もある。 (2)研究の成果 本研究では、織豊期の文書料紙について、物理的な計測および繊維の顕微鏡観察によって、紙種や紙質の究明を目指す。申請者は現在、科研費基盤研究(B)「近世文書料紙の形態・紙質に関する系譜論的研究」に取り組んでいるが、中世から近世へ至る文書料紙の系譜の検証は緒についたばかりである。この究明には調査データの蓄積が不可欠であるが、両者の過渡期に位置する織豊期の文書料紙に関する基礎的な調査研究はほとんど存在しない。 このため、本研究ではまず、織豊期の文書料紙データの蓄積に努めた。2015年度中の文書料紙調査では、富田文書(史料編纂所所蔵)56点、長家文書(穴水町歴史民俗資料館寄託)39点、伊藤宗十郎家文書・日野烏丸家文書(ともに中京大学古文書室所蔵)計94点、中川家旧蔵津田文書(金沢市立玉川図書館近世史料館所蔵)23点(ただし、この分は予備的調査段階)の文書料紙データ及び繊維画像データを集積することができ、比較・検討の基準となるデータの提示に向けた準備が整いつつある。 このような作業を推し進めることは、文書料紙の変遷過程やその転換点の把握につながり、無年号文書の年代比定に資することなども期待できる。例えば、豊臣秀吉発給文書の料紙の紙質・法量の変遷を仔細に追うことで、大高檀紙によって表象される秀吉権力の確立に至る過程を可視化することが可能となる。本研究は中世文書料紙から近世文書料紙への系譜を実証的に解明することを目指しているが、文書料紙研究の日本史研究における有効性を提示するという意義も併せ持っているといえるだろう。2016年度には長家文書の調査未了分や多賀文書(史料編纂所寄託)、津田遠江守家文書(富山市郷土博物館寄託)などの文書料紙調査を実施し、さらなるデータの蓄積を図る予定である。 |
研究経費 | 50万円 | ||||||
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研究組織 |
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研究の概要 |
(1)課題の概要 泉涌寺は応仁の乱で全焼して以来、近世にも幾度かの火災に遭って、集積されていたであろう、多くの文書・聖教を失った。そのため、泉涌寺はそこに伝持された教学においても、また現在に至るまでの歴史においても実態がつかめず、中世における中国仏教の窓口として一定の評価を受けつつも、仏教史全体の流れの中では軽視されることが多かった。 しかし泉涌寺に関係する文書聖教類は、実際には泉涌寺以外の寺院にも伝来しており、それらから泉涌寺の実態を知りうることが可能である。本共同研究では、そうした泉涌寺外の資料の収集を通じて、ブラックボックスと化している泉涌寺の実態を明らかにしようとするものである。具体的には、長年にわたって調査整理が進められてきた醍醐寺文書聖教に含まれる「泉涌寺」に関する奥書を有するものを手がかりとして、諸所に散在する泉涌寺関係資料の所在や内容を調査し、今後の基礎情報とすることを目的とする。 (2)研究の成果 本研究は醍醐寺所蔵文書聖教内の泉涌寺関係史料を通じて、これまで史料不足から明らかにされてこなかった泉涌寺史を明らかにすることを目的としてきた。醍醐寺を継続調査してきた東京大学史料編纂所と日本女子大学には、醍醐寺文書聖教の写真データを含む調査蓄積があり、一方醍醐寺・泉涌寺にはいまだ詳細な調査を経ない史料が保存されている。本研究はこれらの機関に所蔵されている史料群を通覧して推進され、共同研究でなければ成し得ない成果を挙げることができた。 調査全体を通じて分かってきたことは、泉涌寺は創建まもなくから近世にいたるまで醍醐寺と関係を結び続けていたということである。これまでの歴史研究において、中近世における醍醐寺/泉涌寺はそれぞれに真言/律に特化した寺院であって、両者間に親しい交流はないと考えられてきた。本研究を通じて、両者を渡り歩き、兼修する僧侶の存在が明らかとなった。 さらに醍醐寺所蔵文書聖教の調査を通じて、泉涌寺には現存しない、開山俊芿作の「舎利講式」とする奥書を持つ史料(「舎利講式」(308函7))が検出され、「長典」書写の戒律関係聖教(「自誓受戒〈大乗〉」(534函5))の存在も明らかとなった。これら史料の発見により、これまで史料不足から解明できなかった、泉涌寺が伝えた教学について新しい知見を得ることが可能である。 |
研究経費 | 50万円 | ||||||
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研究組織 |
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研究の概要 |
(1)課題の概要 兵庫県下に存在する豊臣秀吉文書は、明治期の史料編纂所の全県調査を嚆矢とし、昭和40年代からの、『兵庫県史』刊行にともなう史料調査や、各市町村史刊行のための調査により、数多くが発見され、利用・研究されている。その数は、『兵庫県史』収載分だけでも400点以上にのぼる。これは秀吉が信長の武将として、播磨や摂津支配を任されていたことが大きな理由であり(天正4~10年頃まで)、したがって、天下人となる以前の秀吉の事跡は、多くが兵庫県との関わりにおいて明らかにされてきたのである。一方で、各自治体史刊行後も、次々と新発見が報告されているものの全県レベルでの把握にはいたっておらず、また文書の真偽についても確定できないままである。以上のような状況を踏まえ、県内で新たに発見された秀吉文書を把握・調査し、研究・展示に活用する。 (2)研究の成果 本研究の成果は以下の通りである。 兵庫県調査(5月) ・光触寺文書/瓜生原文書/網干郷文書/大覚寺文書 兵庫県調査(7月) ・個人所蔵手鑑 長野県調査(10月) ・河合文書/海禅寺文書/関口氏所蔵文書 兵庫県調査(10月) ・出石神社文書/総持寺文書/福成寺文書/光行寺文書 愛知県調査(1月) ・個人所蔵文書 兵庫県調査(1月) ・斑鳩寺文書/個人所蔵文書 京都府在住個人所蔵「羽柴秀吉判物」を発見し、調査・撮影の上報道発表を行った。 『龍野神社旧蔵文書』45通を修復・解読し、調査・撮影の上報道発表を行った。いずれも 多くのマスコミ媒体に放映・掲載され、大きな反響を呼んだ。 たつの市龍野歴史文化資料館にて開催の「秀吉からのたより」展に全面協力をし、図録「秀吉からのたより」「脇坂家文書集成」の刊行を行った。 |
研究経費 | 50万円 | ||||||
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研究組織 |
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研究の概要 |
(1)課題の概要 和歌山県における中世史料は、1970年代に刊行された『和歌山県古文書目録』や『和歌山県史』(以下『県史』)により、その全貌がほぼ明らかになっている。本研究で対象とする高野山および山麓地域についても、『県史』のみならず、その後刊行された『橋本市史』『かつらぎ町史』等の市町村史により多くの史料群が把握されている。しかしながら、種々の事情により十全なものではなく、原本調査に至らず、史料編纂所架蔵影写本に拠らざるを得なかったものも多数ある。また『県史』刊行以降に発見された史料も少なくなく、さらには『県史』刊行後に売却されたり、行方不明になったりしたものもあり、それらの再把握も課題となっている。 以上の様な状況の中で、本課題で対象とする高野山および山麓地域は、少なからぬ新出文書が確認されるなど、早急に再調査を行う必要のある地域である。そこで、明治・大正期に作成された影写本や、昭和以降に撮影された写真帳等、豊富な複本類を持つ史料編纂所と共同することで、調査を無駄なく、効率的に進めることが可能となろう。 (2)研究の成果 本研究の調査成果は以下の通りである。 ・和歌山県和歌山市・海南市調査 「丹生文書」 「北文書」 「高橋文書」 以上の史料は、和歌山県立文書館の所蔵・寄託で、史料編纂所においてもマイクロ撮影が行われていたにもかかわらず、閲覧室において公開されていなかった。今回改めてデジタルカメラによる撮影を行い、これにより閲覧室における一般公開を行うことが可能になっ。 「禅林寺文書」 ・京都府京都市調査 「頂妙寺文書」 ・和歌山県和歌山市・高野町調査 「森文書」 「川中島合戦図屏風裏貼文書」 以上の史料は、和歌山県立博物館所蔵。この他に館購入予定の「小山家文書」の調査を行った。 「木本八幡宮文書」 「蓮花院文書」「蓮華定院文書」「櫻池院文書」 以上の内、「蓮花院文書」については、本所架蔵影写本に1点があるのみで、所蔵状況は全く不明であったが、今回の調査で、大量の過去帳があること、またその他に時代は不明であるものの、文書・聖教の存在も確認できた。さらに、「蓮華定院文書」「櫻池院文」については、今後における調査の約束をいただけた。 ただ、本研究で予定していた高野山霊宝館調査は、同館の管理・運営体制の変更があり、外部の人間が行うことが極めて困難になり実現しなかった。さらには今後においても同館寄託史料の調査については悲観的な見通しを持っている。 |
研究経費 | 50万円 | ||||||
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研究組織 |
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研究の概要 |
(1)課題の概要 石見国在庁御神本氏の流れである福屋・三隅氏に関する史料を、史料編纂所収集の石見地域関係史料から集成し、目録・解題を作成する。また、新たに未活字史料の翻刻・内容検討を行い目録を作成する。これらを通じて、島根県立図書館等に遺されている「三宮岡本文書」などの関係史料謄写本の内容検討をより詳細に行い利用可能性を一層明確にする。 (2)研究の成果 ①島根県立図書館所蔵の「三宮岡本文書」謄写本をもとに、100点余りの無年号文書の年代比定ならびに年代の絞り込みを行った。この作業のために史料編纂所石見関係史料から作成した福屋氏・三隅氏関係史料490点余りの仮目録を補助員の協力を得て作成し、比較検討した。 ②史料編纂所と島根県・益田市職員共同で現地教育委員会の協力も得ながら10月27日に浜田市三隅町の岡見八幡宮所有の未活字文書群の調査を実施し3点の中世文書を確認した。今後、当該文書の内容検討を進める必要が生じた。これと関連して、関係する未活字文書「肥塚文書」の内容検討と目録化が必要となってきた。 ③佐伯徳哉・目次謙一・中司健一・西田友広「島根県浜田市歴史民俗資料館寄託『三隅二宮神社文書』中世分の翻刻と紹介」(『東京大学史料編纂所紀要』26 2016年3月) |
研究経費 | 50万円 | ||||||
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研究組織 |
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研究の概要 |
(1)課題の概要 16世紀後半に活躍した連歌師・里村紹巴は、京都を拠点にあらゆる同時代人と交流し、連歌界の第一人者として豊臣秀吉にまで重用されたことで知られる人物である。しかし、従来の紹巴に関する研究は文学史・連歌史の視点からのアプローチが主で、関係する歴史史料を網羅した基礎的研究はいまだ不十分と言わざるを得ない状況である。 よって本研究は、里村紹巴関係のあらゆる一次史料について、史料編纂所所蔵の研究資源・データベースなどを使用して情報を把握し、原本確認可能なものについては実見調査を実施。そして、画像データを含めた史料情報を集積し、分析を加えて編年目録を作成し、公開することを目的とする。 (2)研究の成果 本研究では、2014年度に引き続き、多角的な視点から里村紹巴関係史料の情報把握と分析を試みるべく、歴史史料を専門とする研究者と中世連歌作品を専門とする国文学研究者が共同で調査・研究に取り組んだ。2015年度はさらに中世連歌研究の第一人者である鶴﨑裕雄氏を調査員に加え、さらなる情報把握と調査・整理・分析を行った結果、2015年度中に新たに70点の史料情報を把握することができた。これらのほとんどは従来の研究で全く利用されていない新出史料であり、その内容は里村紹巴のみに関係するものではなく、同時代の公家・寺社・武家・連歌師との交流を示し、その地理的範囲も北は松前(蠣崎)氏、南は島津氏までと広範囲に及ぶ。これらの調査・分析・活字化を進めることは、文学史のみならず政治史・地域史・文化史・宗教史などあらゆる分野の研究進展に貢献するものと思われる。 今後は、2014年・15年度で把握できた史料の整理・分析を進め、紹巴の人物像の復元に向けて、引き続き研究を続けていきたい。 |
研究経費 | 50万円 | ||||||
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研究組織 |
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研究の概要 |
(1)課題の概要 大分県下には、緊急に調査・保全を要する各種の貴重な絵図群が伝存する。なかでも喫緊の課題となっているのが、城郭絵図などの大型絵図である。こうした絵図を研究資源化するには、調査・撮影・保存に関する高度な知見と経験が必須ながら、県下においては蓄積が十全とは言えない。そこで本研究は、画像史料解析センターを中心に、多くの研究を展開する史料編纂所と連携することを通じて、基礎的な調査・デジタル撮影・史料保全の方法論を確立するとともに、その成果を地域社会および学界に還元してゆくことを目指したい。大分県下の絵図に関しては、基礎データを集成すると同時に、史料編纂所ならびに大分県立先哲史料館などを通じて、史料情報を発信することを目指している。 (2)研究の成果 史料編纂所が主として画像史料解析センタープロジェクト等を通じて蓄積をすすめてきた、大型絵図史料の調査・撮影・情報化スキームを共有しつつ、大分県下における大規模史料群の調査・撮影に着手することができた。具体的には、有力譜代大名本多家の家老であった中根家が所蔵する100点以上の城郭絵図を対象に、史料編纂所・先哲史料館・市歴史資料館による共同調査を行った。目録の確認・整備にあたっては、先哲史料館・歴史資料館がこれを担当し、デジタル撮影・情報化にあたっては主として史料編纂所が行った。7月の調査では、比較的小型の史料を中心に47点の撮影を行い、2月の調査では大型史料を先哲史料館に借用して11点の撮影を実施した。撮影データについては、既に史料編纂所所蔵史料目録データベース・Hi-CAT Plusに登録し、閲覧室における画像公開に至っている。また2月24日には、調査成果を踏まえ、先哲史料館において、同館と史料編纂所の共催による史料デジタル撮影に関する講習会を実施した。基本的な史料デジタル撮影の方法論から大型史料の調査手法に至るまで、県内17機関の文化財担当者を中心とする約30名の参加者と情報共有を行った。 |
研究経費 | 50万円 | ||||||
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研究組織 |
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研究の概要 |
(1)課題の概要 東京大学史料編纂所に所蔵される島津家文書には、多数の琉球王府発給文書が伝来している。とくに15~17世紀の文書原本としては、沖縄県内を含めても群を抜いた伝来数を誇り、世界的に見て大変貴重な歴史遺産となっている。本研究では2014年度一般共同研究に引き続き、琉球王府発給文書の実態解明を進めるべく、文書原本の調査・解析を行う。 その際、琉球王府が使用していた印章と国王・王府高官の花押に軸足を置き、調査を進める。王府発給の外交・内政文書には印章が常態的に使われていたが、島津氏の侵攻を機に国王・王府役人による花押の使用が進み、文書発給の様相が大きく変質する。原本の観察と印章・花押の使用状況の検証により、琉球の文書発給の在り方とその変質過程を考察していく。 あわせて、二年間の研究成果を公開発表する場として、沖縄県内でシンポジウムを開催し、広く社会への発信と地域貢献を図るものとする。 (2)研究の成果 本共同研究は、琉球史の研究者と中世日本史の研究者が共同して、古琉球期文書の解析を進めることに大きな意義があり、双方に蓄積されてきた古文書学・史料学の成果を持ち寄って、琉球王府文書の発給の様相について調査検討を進めた。 共同研究の2年目となる本年度は、前年度に調査が及ばなかった国王尚豊の発給文書と、王府関係者発給文書の花押分析に軸足を置き、原本史料の熟覧を行った。その結果、国王尚寧・尚豊の花押変遷について、一応の見通しを立てることが可能となり、文書の年次比定を修正するうえでの大きな知見を得た。また、琉球王府と密接な関係にあった円覚寺住持の発給文書についても、慶応義塾大学図書館所蔵の相良家文書所収文書と比較・検討することで、時期的な変化を推測することが可能となった。 これらの成果と、前年度の主な研究成果の一つである琉球国王印および王府高官である三司官の印章の変遷とを重ね合わせることで、15~17世紀における琉球王府発給文書の時期的な特徴を鮮明にすることができた。琉球王府の国家体制の変質に伴い、花押・起請文・書札礼など日本側の文書文化が浸透していく過程を、発給文書の原本調査から跡付けられたことは、2カ年の共同研究による大きな成果であるといえる。 |