東京大学史料編纂所

HOME > 編纂・研究・公開 > 所報 > 東京大学史料編纂所報第55号(2019年)

刊行物紹介

大日本古記録 實躬卿記 九

本冊から最終冊にかけては、第一冊より第三冊までの本文のうち、出版開 始後に所在が明らかになった、武田科学振興財団杏雨書屋所蔵自筆本・早稲 田大学所蔵自筆本および東京大学史料編纂所所蔵自筆本断簡に、底本を差し 替えるべき部分の紙背文書を収める。本冊には「補遺一」として、武田本第 一巻より第一〇巻および、早稲田本弘安六年自正月至四月別記の紙背文書を 収めた。ただし、武田本第九巻紙背には文書が残されていない。なお、定本 を差し替えるべき部分の本文の異同については、附載として最終冊に収め る。
『実躬卿記』の現存するもっとも早い時期の自筆本は、武田本第一巻(弘 安六年[一二八三]正月~七月記)である。この部分の記事は、すでに写本 (三条本)によって第一冊に収められている。この年実躬は二〇歳、右少将 の官にあり、位は従四位上から同年正四位下に昇進する。後宇多天皇の在位 中、亀山院政下にあって、父公貫とともに大覚寺統近臣である実躬の昇進は おおむね順調であった。実躬がいつから日記を書き始めたのか定かではない が、成年に達して官位も上昇するに従って、じょじょに本格的に日記を残す ようになったと思われる。これ以後、徳治二年(一三〇七)ごろまでの間、 『実躬卿記』の日次記は、おおむね連続して書き継がれていったことが確認 できる。ところが既刊本を見ても分かるように、武田本第一巻にあたる部分 の記事は、しばしば日付が前後して記されている。このような特徴は本巻に のみ見えるもので、当初は写本作成時の「錯乱」かと判断されたため、底本 とした写本の体裁を詳しく註したうえで日付順に配列し、翻刻された。とこ ろが、その後自筆本の所在が明らかになると、写本の体裁は自筆本にもとづ くものであることが分かった。日付が前後して記されている理由をいまここ で審らかにすることはできないが、おおきな手がかりの一つは、本冊に収め た紙背文書である。
武田本第一巻紙背は嘉元四年(徳治元年)仮名暦である。言うまでもな く、この仮名暦は改年の後に廃棄されて紙背が日記の料紙に再利用されたも のであり、実際に武田本第一巻が記されたのは、早くとも徳治二年以後であ るということになる。つまり、早い時期に記されたが現在は伝来していない 「原実躬卿記」が当時は実躬の手元に存在し、本文の日付から二四年あまり も経た後にそれを参照しながら、あらためて武田本第一巻が作成されたこと になる。この時期すなわち徳治二年ごろすでに亀山院は崩御し、治世は後宇 多院に移っていた。院との関係が良好ではない実躬は、しばらく前権中納言 に留まっていた。いっぽう、嫡男公秀は後宇多に取り立てられ、後二条天皇 の蔵人頭からこの年参議に昇進する。『実躬卿記』本文には、実躬が公秀を 後見して種々の指南を与えるさまが記されている。その資の一つとして公秀 に参照させるため、自身の日記を整理するうちに若年のころの記録を見出 し、編集・書写した可能性があろう。ただし、当時の公秀の身分から考えれ ばすでにこの時期の日記は必ずしも必要ではなく、また日付を前後させて編 集するのも先述のように、現存自筆本のなかでは本巻だけである。さらに、 必ずしも記事の内容にもとづき部類したとも言い切れず、編集方針もはっき りしない。今後さらに検討が必要である。
続いて収めたのは、早稲田本弘安六年自正月至四月別記紙背文書である。 すでに第四冊の出版物紹介でも述べたように、早稲田本は荻野三七彦旧蔵資 東京大学史料編纂所報 第55 号 2020年 11 月 ( 005080) 料のうちに含まれる(『東京大学史料編纂所報』三六、二〇〇一年)。早稲田 本『実躬卿記』はほぼ断簡であるが、そのうちで本巻は一巻が完存してい る。紙背は弘安四年具注暦の、六月より八月までの断簡である。この場合、 弘安五年になって廃棄した具注暦を、翌年年頭からの事件を記した別記の料 紙に用いたわけであり、廃棄から再利用までの一年あまりの時間はそれほど 長いとは言えない。ところが、続く武田本第二巻は弘安八年二月別記である のに対して、その紙背は同元年五月より一二月までの具注暦断簡であり、暦 として廃棄された後、より長い年月保管のうえ日記の料紙に再利用されたこ とになる。同時期の自筆本として、前田育徳会尊経閣文庫所蔵自筆本第一巻 (弘安一〇年二月~六月記)紙背は文永一一年(一二七四)具注暦である。 再利用までに一〇年以上が経過しているうえに、具注暦の年には実躬は一一 歳であった。たんに日の吉凶を知るばかりではなく、朝廷の儀式行事への参 加の上で必須の道具であった暦を、正五位下右兵衛佐といまだ官位も低く若 年の実躬が手元に置いて使いこなしていたとはやや考えにくい。むしろその 本来の所持者としては、彼の後見たる父公貫を考えるべきであろう。武田本 第五巻(弘安一〇年七月~一二月記)に残された建治四年(弘安元年[一二 七八])具注暦断簡(暦頭から三月まで)も、同様に再利用まで一〇年ほど 保管されていたことになる。同巻紙背には同じく文永一一年具注暦も残され ているが、これは前述の前田本第一巻紙背文書と接続する。こちらにはまず 歌合紙背を料紙に用い、さらに具注暦を料紙に継いで弘安一〇年春夏記を書 き留め、いったん切断して一巻とした。つづけて同じ具注暦の残りを料紙と し、別の具注暦も加えて同年秋冬記を作成したのである。なお、実躬が十代 半ば以後の年紀にかかる暦であれば、その手元で活用・廃棄されたと考えて も不自然ではない。しかし、初期の自筆本紙背に残され暦で、表の記事と相 当程度年紀が離れているものは、のちに成人した実躬がみずから日記を記す 際の料紙として、公貫から古い暦をまとめて提供された可能性の方がより高 いように思われる。
いっぽう、武田本第三巻は弘安八年一〇月別記の料紙として、①同五年具 注暦断簡(暦頭から一一月まで)および②弘安九年具注暦断簡(二月から十 月まで)を用いている。①についてはこの場合も、廃棄から再利用までの間 は二年余りと必ずしも大きくは空いていない。しかし②に注目すると、じつ はこの巻が記されたのは弘安一〇年以降であることが明らかである。他の自 筆本諸巻の本文日付と同じ巻に残された紙背文書を比べてみると、日付の 後、おおむね三カ月以内には実際に本文を記していることが分かるので、② のように一年以上間を置いて記されたことが分かる例は貴重である。もっと も、これは武田本第三巻が「亀山上皇四天王寺御幸記」すなわち別記であっ たことが影響しているだろう。つまり、弘安一〇年ごろかやや下る時期にな って、具体的には特定できないものの類似の行事などの執行のために先例を 勘案する必要が生じ、やはり「原実躬卿記」をもとにこの出来事を別記に編 集したものと考えられる。
なお、①の末尾が別記の第一張にあたるが、紙背の暦は末尾一カ月分ほど が欠失している。暦はもとより成巻されているために、好んでその紙背が日 記の料紙に再利用された。すると、『実躬卿記』を記す以前に暦の巻末一紙 あまりだけに、別のテキストを書写して切り取ったと考えるのは、やや不自 然ではないか。おそらく、別記を途中まで編集したがなにかの不都合があ り、最初の部分を削除したものかと思われ、中世古記録編集の実際を推測す るうえで興味深い事例である。このような編集の実例は、武田本第五巻にも はっきり残されている。同巻第一一張裏は、先述の建治四年具注暦の二月分 であるが、その末尾近く、二八・二九日を欠いたまま第一〇張裏に張り継が れている。そこで該当する原本表の本文を見ると、弘安一〇年一〇月九日条 にかかる。自筆本では、もとの文字の上に重ねて別の文字を書き直した部分 が数ケ所あり、また文の途中で不自然に改行した箇所もある。こうした編集 の過程で、おそらく最終的に二行分ほどの本文を削除していると思われる。 記事の内容は、関東から佐々木宗綱が使として派遣され、申次西園寺実兼に 鎌倉幕府将軍源惟康が右近衛大将辞官・立親王申請の旨を伝えたこと、源通 基が右大将に還任したことである。同じ閑院流の西園寺家と親密な関係にあ る実躬は、しばしばこうした関東からの詳報を得て日記に書き留めている が、自筆本の加除訂正過程から実躬が情報を得た順やその内容の当否を確認 した過程、ひいては記録がはばかられるような情報を最終的に削除した可能 性など、当該期の重要な政治過程に連動する手がかりを得ることができるか もしれない。
本冊の後半に収めた、武田本第六巻(弘安一〇年一二月記)紙背には、弘 安一〇年仮名暦断簡(八月より一二月まで)が残され、続く同第七巻(正応 元年正月二月記)紙背にもその続きが残されている。翌弘安一一年(正応元 年)になって廃棄した暦を、こちらの場合はまもなく前年末からの記録に再 利用したことが分かる事例である。しかし、第六巻は暦の一二月一六日紙背 から記し始めて八月二七日のところでいったん切断し、残りの分は武田本第 七巻の料紙に回したうえで、第六巻の末尾四紙は別に反古文書紙背を再利用 している。その理由は表の本文を見れば明らかで、そこには「雖執柄一族職 事献直書状事」等と題し、先例勘案のために『長兼卿記』が引用されてい る。つまり紙背から、別に書写したものを関連する記事のあるこの巻の末尾 に挿入したことが明瞭に分かる。いっぽう、第七巻のほうはそのまま記事を 書き続け、暦の紙背が尽きたため別に用意した文書をさらに料紙として貼り 継ぎ、一巻を書き上げたものであろう。この場合、暦から文書に料紙が移行 する前後で、表の記事にとくに差違はない。
このように、日記料紙として再利用される前に、すでに成巻されていた史 料体には、暦のほかに歌集その他の典籍が知られている。本冊所収の武田本 第四巻(弘安九年八月~閏一二月記)の紙背にも、歌合が残されている。前 田本第一巻(弘安一〇年二月~六月記)紙背にも同様の歌合が残され、すで に第一冊に収められている。同内容の「五番歌合」(一題につき左右三首ず つが番えられ、五題・十五番・三〇首)二本が完全な形で残っているが、す でに同冊出版物報告に記されている通り、「同一の歌合に二人の判者が独立 に判を加えたもので、二者の間に判定の根拠や結果に顕著な齟齬が見られ、 特異な資料価値を持つ」と言える(『東京大学史料編纂所報』二七、一九九 二年)。武田本第四巻と本文も連続した時期であり、紙背も相互に関連する ものであろう。武田本第四巻紙背に残された歌合は「当座四十番歌合」(一 題につき左右四首ずつが番えられ、一〇題・四〇番・八〇首)で、やはり同 内容が二本である。一本は前欠で一三番以後しか残されていないが、もう一 本は完存であり、全容が推測される。ただし前田本第一巻紙背同様、判詞の 内容は異なる。また、前欠本は歌と判詞のすべてが同筆のようであり、末尾 のみ別筆で「又同前、愚点両首」と記されて、第二三番左歌および第二八番 左歌(いずれも勝方)に合点が付されている。完存本のほうは判詞が別筆で あり、合点等は付されていない。全体の成立時期・出詠者・判者等は未詳で あるが、前欠本第二五番の判詞から左歌出詠者は藤原隆博であると分かり、 手がかりとなろう。すべて『国歌大観』未収であり、今後の研究の進展が期 待される。
最後に、その他の紙背文書ついて触れておく。武田本第六巻には四通、同 第一〇巻には一三通の文書が残されている。道具の貸借や朝廷への奉仕など 公私にわたる内容で、実躬の手元に集積されたものが大半を占めるが、一通 は父公貫充の年欠五月二〇日「大宮院(藤原姞子)令旨」(第一〇巻三ウ) である。その差出人は洞院実泰であるが、同巻にはほかに実泰勘返実躬書状 が二通残されている。差出人に即して保管したものを一括廃棄して、本巻料 紙に用いたものであろう。実躬の急病についての見舞いと処方等について述 べた、年欠九月一六日「和気篤成勘返実躬書状」(第一〇巻八ウ)が残され ているが、内容的に重なる「某勘返実躬書状」(後欠、同巻五ウ)もまた医 師としての篤成の勘返にふさわしく、同様の事情を推察できよう。
このほか注目できるのは、阿曽山悪党関係文書である。これは、文永四年 八月一七日に起こった、伊勢国度会郡阿曽山を拠点とする悪党遠弘とその一 族らの濫行につき、落合定生なる在地の荘官が起こした訴訟に関する一連の 関連文書を、一筆で書写したものである。残念ながら前欠であるが、武田本 第八巻巻頭紙背から第七巻紙背にかけて一七通が残されている。遠弘やその 一族が伊賀・熊野(紀伊)など一円に広がる大規模な悪党であったことを示 す文永四年八月一七日「悪党交名注文」(第八巻一ウと第七巻二四ウが接 続)に始まり、突傷によって飛び出したはらわたを馬の尾で縫ったなどの手 負の様子や、建物の被害等を述べた「守護使注進状」、この訴訟が幕府法廷 に提起されたことを示す「関東御教書」、六波羅探題から神宮祭主大中臣隆 蔭への問状など一連の手続関連文書が揃っている。以上の文書はすべて『鎌 倉遺文』に未収であり、当該分野の今後の研究の進展が期待される。
(例言二頁、目次二頁、本文三五九頁、口絵図版四頁、定価一四、〇〇〇 円、岩波書店発行)
担当者 菊地大樹


『東京大学史料編纂所報』第54号p.52-54