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大日本史料 第十一編之二十八

『大日本史料』第十一編の編纂は、今回から天正十四年に入った。本冊には同年正月から三月までの事件を収めた。
 「御湯殿上日記」や「雅継卿記」、興福寺・春日社関係の諸記録など、前年(天正十三年)の記事を欠くためにこれまで取り扱うことのなかった史料が、本冊から数多く登場している。また、秀吉の長大な条規が、各所に一斉に与えられる例が増えてきた。さらに、秀吉が和歌・連歌に親しむことも多くなり、本人や列席者の歌が記録されている場合もある。これらを収録したことから、本冊の版面は、従来とは少し趣を異にする部分がある。
 本冊の範囲においては、秀吉は大坂から京都に上り、また京都から大坂に帰ることを繰り返し(正月十二日条・二月六日条など)、近江大津や丹波亀山に足を伸ばすことはあったが(正月二十八日条・三月二十六日条など)、畿内・近国を離れることはなかった。そのなかで、特筆すべき動きとしては、ふたつの大がかりな土木工事がある。京都内野の亭(いわゆる聚楽亭)と大坂城である。前者は二月二十一日、後者は同月二十三日に工事が始まったものと見られ(ともに同日条)、それぞれに数万人の人員が動員された。きわめて大規模な工事が、同時並行で行なわれたことについては、複数の史料に驚きが記録されている。また、どちらの現場にも大量の石材を搬入する必要があったが、秀吉はその運搬を円滑ならしめるための条規を、内野亭については二月十五日に、大坂城については同月二十三日に発している(ともに同日条)。両者の内容には、ほとんど変わりがない。なお、これらに加えて、秀吉は近江坂本城を取り壊し、大津に移築することも行なったようである(二月二十一日条)。
 土木工事からは離れるが、条規の発令という点では、秀吉は正月十九日付けで諸国の給人・百姓に対し、奉公人・年貢・装束などのことを定めた長い箇条書を発している(同日条)。年貢の取り方や、身分に応じた装束などを、きわめて具体的に定めたものである。なお、二月二十一日には、羽柴秀長が和泉一国に向けて、同じ内容の箇条書を発している(同日条)。また、三月二十一日、秀吉は、今度は短めの箇条書を発している(同日条)。これは、正月十九日令の要点を強調し、不足を補うためのものであったようだ。
 なお、この時期の秀吉文書では、子飼いの家来・一柳末安に与えたものがよく残り、編纂の貴重な材料となっている。これまでは写本に拠っていたが、調査の結果、原本を写真に収めることができた。これを底本とすることで、本冊からは、より精度の高い編纂が可能となっている。
 前年七月に関白となり、公家社会の頂点に立った秀吉だが、その立場でも多彩な活動を示した。正月十二日、この年初めて入京した秀吉は、翌日、正親町天皇が差し向けた勅使を受け(正月十二日条)、十四日には秀吉の方から内裏に参上している(同日条)。堀秀政・長谷川秀一など、秀吉麾下の武将にして、いわゆる公家成を果たしてから日の浅い者も、この日に参内している。ほかに、前田玄以の子、施薬院全宗の子が、この前後に昇殿あるいは叙爵を果たしたことも記録されており、この種の記事は秀吉参内の条にまとめて収録した。なお、公家成の者に対して、飛鳥井家が「紫組冠懸」の着用を許したことが、秀一の場合を主にして記録されている(正月二十一日条)。また、三月二十日条には、織田信包・前田利家が堂上に列せしめられたことを収めた。
 公家社会における秀吉の活動に戻る。正月十六日には、いわゆる黄金の茶室を内裏に持ち込み、天皇の臨席を仰いで茶を点てた(同日条)。これへの答礼として、同月十八日、誠仁親王は秀吉を招いて猿楽を催している(同日条)。二月二十八日には、天皇から桜花を詠んだ御製が届けられ、直ちに返歌を詠んで進上するとともに、親王や諸門跡・諸公家にも、桜花の歌を詠むように求めた(同日条)。総計六十七名がこれに応じた。このとき詠まれた歌を、おそらくは秀吉のもとで集成したものが残っており(末尾に秀吉の朱印が捺されている)、その全文を収録した。秀吉がある種の文化事業を行なった証しとして興味深いが、多数の門跡・公家が名を連ねているだけに、この時点での京都における上流階級の名簿としても重宝である。なお、秀吉は、正月二十八日に大津で、二月二十六日には里村紹巴の亭で、それぞれ連歌会を催している(ともに同日条)。両度とも詠歌の全容が伝えられているが、これについては最初の一巡と、末尾に記録された各人の句数を収録するにとどめた。
 このほか、二月十三日と三月十六日には、イエズス会との交歓があった(ともに同日条)。前者は大坂にあった秀吉が予告なしに修道院を訪ねたもの、後者は司祭らが大坂城を訪問し、秀吉が自ら城内を案内したものである。いずれについても、イエズス会に欧文による記録が残り、これを原文・訳文ともに収録した。後者の記録はきわめて長大で、黄金の茶室がここにも姿を見せること、秀吉の九州国分けに関する発言が見えることなど、内容の点でも非常に興味深い。公家社会の頂点には立ったとしても、武家の世界においては、秀吉がまだ従えることのできない大名が数多く存在しており、この年初頭の段階では、東海地方の最大勢力・徳川家康を攻めることが日程に上っていた。秀吉は正月中旬、越後の上杉景勝や信濃の真田昌幸らに、自身の行動や兵糧の手配について伝え、援軍を送ることも示して、連携して家康を討つ体制を作ろうとした(正月八日条)。しかし、織田信雄による家康の説得などもあって(正月二十九日条)、家康は秀吉に恭順の意を表するに至ったらしく、二月八日、秀吉は出動中止を下令している(同日条)。家康が秀吉への敵対を避けたことをもって、秀吉は東国から鎮西までの平定が実現したと称し、それを前提として上記の大規模な土木工事に着手したのである。
 秀吉は、九州の島津義久に対しては、前年十月二日付けで、大友義統との和睦を命じた直書を発していた。これへの対応をめぐって島津家中で談合が行なわれ、秀吉の命に従う意向を示しながらも、防戦のために戦う可能性は否定しない回答を用意することになった(正月二十三日条)。三月十五日付けの秀吉の書状は、この回答への返書とも考えられるもので、これを同日条に収録した。この書状によれば、秀吉は、義久が忠信を尽くすことを約束した、と認識している。
 その一方で、島津家中では、上記の談合とほぼ時を同じくして、義統を討つ計画を具体化する談合も行なっており、春のうちに肥後・日向の両方から攻めることを決めている(正月二十二日条)。しかし、行動開始の前提として望まれた、龍造寺政家らからの人質の取り立てが、容易には実現しないと見込まれたため、義久は行動を秋まで先送りとすることを決意する(二月十九日条)。その後、政家は人質を出したものの、筑紫広門はやはりそれを拒んで義統に奔り、これを知った義久は、今度は広門を討つことを決める(三月二十二日条)――といった具合に、義久をめぐる情勢は、高度の緊張のなかで複雑に推移した。
 この時期、毛利輝元とその一門・小早川隆景は、秀吉と西国の諸大名との間にあって、秀吉の存在とその意思を浸透させる上で、重要な役割を果たしたようだ。まず輝元が、秀吉から西国大名への助言を命じられ、そのことを義久に伝えている(正月二十五日条)。また隆景は、龍造寺政家のもとから来た使者を、そのまま大坂に向かわせるなどして、政家が秀吉に人質を出す手助けをしている(二月二十三日条)。四国の西園寺公広の領内事情について、隆景が頻りに感想を述べているのも(三月四日条)、四国が秀吉の勢力圏に入り、伝統的な領主にも変革が求められることを意識したものであろう。
 大名ごとの個別の動き、各地の地域的な動きとしては、以下のようなものがあった。
 東北では、伊達政宗が二本松城に拠る畠山義継の遺臣を攻めんとし、二本松がこれに耐える構図が続いた。二本松は佐竹義重との連携を図ったが(二月一日条)、城中から政宗への内応者を出す一幕もあった(三月十一日条)。
 中国の毛利輝元は、家臣の所領に関する調査を行なった(二月十二日条)。所領の所在とその石高・貫高などを書き上げさせたもので、国衆と呼ばれた豪族的な家臣が提出したものを中心に相当数の事例が残っている。これをすべて収録した。書き上げを作成するために、各家臣において内部調査を行なった例も見られる。
 九州では、筑前の宗像氏貞が死去した(三月四日条)。島津や大友とは格の違う中規模の領主だが、意外に多くの関連史料が残っており、それらを通覧した上で、その事蹟を連絡按文のかたちで示した。また、事蹟を構成するに至らない史料は、一点ずつ飜刻して本条の付録に収め、署名・花押の図版も添えた。
 順序は前後するが、九州にかかる史料のなかでは、正月儀礼の項(正月三日条)に収めた「伊地知勘解由重元御年男勤日記」が興味深い。島津義久の御殿における正月儀礼の模様が克明に記録されており、御殿の構造や、来訪者とその態様から垣間見える島津領国の身分・階層、贈答品の種類・数量どを、きわめて具体的に知ることができる。
 巻末に、既刊分の補遺を収録した。
 一柳文書について述べたように、近年、秀吉文書の新発見・再発見が相次いでおり、前冊でも巻末に補遺を設けてその一部を収めたが、本冊でも同様の対応を取ることとした。また、今回の補遺は秀吉文書に限るものではなく、たとえば天正十三年十一月十日付けの、毛利輝元の書状を収録した。これによれば、輝元は、九州北部の親毛利勢力を保護するために同方面に兵を出し、おそらくは同じ目的で島津義久との提携も模索している。しかし、天正十四年に入ると、これとは異質の、先ほど指摘したような姿勢を見せるのである。義久のもとでの両様の談合も含めて、秀吉の存在と西国大名の自律的な行動が、微妙に重なり合う時期の産物であるといえようか。
担当者 村井祐樹・畑山周平・鴨川達夫

『東京大学史料編纂所報』第53号 p.43-45