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大日本古記録 薩戒記 四

本冊には応永三十四年正月から永享二年四月までを収めた。この時期は長期にわたる記事がまとまって残る部分はなく、さまざまな来歴を持つ断片のとりあわせとなる。底本に採用したなかで、原本は宮内庁書陵部所藏「古記録断簡集成」に含まれる六紙のみである。「古記録断簡集成」は「薩戒記」「兼宣公記」「建内記」「中山親綱記」ほかの断簡をまとめて一巻としたもので、田中教忠氏の旧蔵にかかる。「薩戒記」は正長元年十月二〜四日、永享二年正月二十八・二十九日、同年四月二十四〜二十九日の三つの部分だが、田中氏の手に渡る前に、貼り継ぎ等に混乱が生じていたようである。すなわち永享二年正月二十八・二十九日条は、現在四紙で構成されるが、本文の内容からすれば、もとは第一紙と第二紙のあいだに勧修寺経成から送られた書状が挿入されていたはずである。また、第二紙から第三紙にかけては内裏の差図が描かれているのだが、第三紙は本来第四紙と一体だったと思われる。後代になって図が終る部分で切断され、別々にされてしまったらしい。田中教忠氏は、第一〜三紙を「建内記」の一部と判断して、「万里小路時房公自筆記断簡」という付箋をつけている。一方で第四紙は、正長元年十月二〜四日条および永享二年四月二十四〜二十九日条とともに伝来したらしく、田中氏は「薩戒記(中山定親卿自筆、)断紙、年月日可考」という付箋をつけたうえ、「三枚、田中教忠所持」と記している。

これらの断簡と接続するものとして、尊経閣文庫・国立国会図書館所藏の影写本がある。正長元年十月記は、「古記録断簡集成」所収の一紙のあとに、後者第一巻が接続する。永享二年正月記も、前者のあとに断簡一紙が接続する。二巻の影写本は、いずれも油小路家に所藏されていた原本を用いて、元禄四(一六九一)年に前田家で作成されたものである。断簡の部分は、早い段階で全体から離れ、中山家に残されていたと考えられる。

次に中世の写本二点について述べる。正長元年七月記は、尊経閣文庫所藏の古写本。紙背は延徳四(一四九三)年正月〜十月・明応四(一四九五)年正月〜十月の具中暦と、明応三年六月〜十月の仮名暦で、奥書等はないが、書体から三条西実隆の書写にかかるかと思われる。この巻子の函には、応永三十五年四月二十六日条(二紙)・正長元年七月二十日条の一部(一紙)・永享五年十一月一日条(一紙)の古写断簡三点が、ともに収められている。応永三十五年四月二十六日条については、他に写本等が存在しないため、これを底本として採用した。

また、宮内庁書陵部に所蔵される永享元年十月・十二月記は、奥書によれば、永正八(一五一一)年に三条西実隆が、定親の自筆記を孫の康親から借用して抄出したものである。反故を翻して料紙に用い、袋綴じの冊子としている。実隆の関心は主に後花園天皇の即位関係記事にあったらしく、それ以外のものは適宜省略している。なかでも十月二十三日の政始、同二十七日の官庁立柱上棟については、自筆記には詳細に記されていたようだが、実隆は「此記巨細也、別必可写之」「件次第追可写之」などと、合点を付して書き込むのみで済ませている。管見の限りではこれらは伝来していないので、実隆が別に写本を作成したか否かは不明というしかない。また十二月二十七日に行なわれた即位に関しては、定親自身が「委細事在別記」としているが、残念ながらこの別記は失われてしまったようである(ほかに、永享元年三月二十四日の県召除目・永享二年正月六日の敍位についても、定親は別記を作成したむね記しているが、現在では見あたらない)。なお、この実隆抄出本の写本二点が、本所に架蔵される。寛政八(一七九六)年に柳原紀光のもとで書写されたもの(「柳原家記録」九十六)と、文化十四(一八一七)年の三条公修の一見奥書を持つもの(「中山記」)である。

そのほかの底本についても記しておこう。上述の実隆抄出本の写本である「柳原家記録」九十六の背表紙見返しには、応永三十五年三月二十五日条を書写した一葉が貼りつけられている。寛政八年に、ある家の古文書中にあったものをみつけて書写したむねの紀光の識語がある。日野資国の薨去と、その准大臣宣下に関する内容なので、贈官位の先例として伝来したものだろう。同じく贈官位関係では、岩瀬文庫所藏の「贈官宣下部類」所収の応永三十五年正月二十二日条がある。故足利義持への贈太政大臣を伝える記事で、天正十(一五八二)年に織田信長に太政大臣・従一位が贈られるにあたって、上卿をつとめた甘露寺経元が中山親綱から借用して書写し、それを安永十(一七八一)年に柳原紀光が書写したものである。尊経閣文庫にも同日条を含む「贈官宣下抄」が所蔵されるが、こちらは勧修寺家から借用して書写したとされる。

醍醐寺には「薩戒記抜書法中方之事」という冊子が伝わる(醍醐寺文書五三六函六八号)。定親から数えて七代目の子孫である水本大僧正寛済が、寛永十一(一六三四)年に「薩戒記」から寺院関係の記事を抄出したもので、正長元年九月十二日条を収録した。応永三十三年記の定親自筆本が、孫の宣親によって醍醐寺に預けられたことからもわかるとおり、中山家は醍醐寺と関係が深く、本書もその産物といえよう。

また正長元年改元記は、近世の写本しか残っていないが、本奥書によれば、その親本は大永元(一五二一)年の東坊城和長による写本である。本文中には「和長今案」「今案」として、本文に対する異議等を記した書き込みがみられる。また「和長卿記」明応九年九月二十八日条には「当家近代受中山家説」と記されている。「薩戒記」を参照・研究していた人物として、和長の周辺を検討する必要があろう。

次に内容についてみていこう。本冊におさめた範囲には、応永三十五年正月十八日の足利義持の薨去・正長元年七月二十日の称光天皇崩御という大きな事件がある。どちらにも嗣子がなかったために、武家・公家双方において後継者の選出をめぐる混乱が生じたのは、すでに「建内記」「満済准后日記」「看聞御記」などに詳しいところである。「薩戒記」においては、定親がまだ政治の中枢に参画できる立場ではなく、本文が断片的にしか残っていないこともあって、幕府の事情に関する情報はあまり多くない。

一方、称光天皇の崩御前後については、多くの記事がみられる。称光天皇には男子がなく、弟の小川宮も応永三十二年に亡くなっているため、その後継者については以前から取沙汰されているところであった。正長元年七月七日、南朝の皇子小倉宮が夜陰にまぎれて京都を出奔した。鎌倉府と内通して皇位簒奪を企図し、同意者の伊勢国司北畠満雅のもとに脱出したというので、都は騒然となった。十三日には、幕府から迎えを出して、伏見宮家の十歳の宮を若王寺に移し、次世代の皇統の身柄を確保した。さらに十七日に、この宮をひそかに仙洞に参入させて、後小松上皇と対面、養子に擬すこととなった。二十日の称光崩御以後は緊迫した状況のなかで、亡主葬礼と新帝践祚が並行してすすめられ、後花園天皇の誕生にいたる。本記には、この間の朝廷の動向や、さまざまな手続き、貴族たちの礼式(とくに巻纓の作法が詳しく述べられている)等が詳述される。同時に、その背後で新将軍足利義宣が政治の主導権を握っていく様子をうかがうことができる。

公武関係という観点からは、永享二年四月に、義教(永享元年三月九日に義宣から改名)が主導して、禁裏小番を編成しなおし、厳密な参勤を命じた件が注目される。番帳・参勤の心得を記した折紙とともに、三宝院満済・摂政二条持基・各番の番頭よりの書状が番衆に送られ、請文を求めるという手続きがとられている。また、猿楽や諸大名による風流等の記事も多く、これらの芸能を通じて公武親和がはかられている様子もみえる(永享元年正月十一日条など)。

応永三十五年は四月に正長と改元されるが、前後における公家・武家両政権の主宰者の死と、変則的な継承という大きな転換を受けて、社会全体が動揺した時期であった。本記にも、断片的ではあるが、鎌倉府の不穏な動きや(正長元年十月一・七日条)、徳政による騒動(同月四日条)、播磨国における土民蜂起(正長二年正月二十九日条)などが記される。

本冊のなかで、定親は徐々に公武双方における政治的存在感を増していくようだが、彼の関心の多くは未だ故実の世界に向けられていた。正長元年十月四日には、勧修寺経成邸に招かれ、同家の記録の整理を手伝った。当時勧修寺家が所蔵していた記録類が列挙されており、日記の所在や伝来について考える上での貴重な史料となっている。「山槐記」永万元年六月記には「以勧修寺本、正長元年十月十日即日馳筆、追可校合之、参議左中将」の奥書があり、このとき借用して書写したと思われる。

故実に通じた人物として、他の貴族らの定親に対する信頼は厚く、儀礼や書札礼について、さまざまな相談が寄せられた。正長元年七月二十二日条では、甘露寺忠長から、践祚について指示を与える文書の料紙について尋ねられている。上皇が政務をとっている場合、院中の案件には白紙を用い、天皇に関わる公事は、院宣であっても宿紙を用いるのが一般的だが、称光が崩御し、新帝が践祚していない状況ではどうだろうかというのである。定親は、院の仰せとして白紙を使用するのがよろしかろうと答えている。この料紙の使い分けの問題は、同二年六月三十日条でも持ち出され、院中のことは白紙、世務院宣は宿紙という原則がくりかえされている。危篤状態の称光天皇のための奉幣に関する指示が、綸旨の形式で出されているなど、あきらかに実態と齟齬している例もみられ(正長元年七月十八日条)、治天の立場にいる院・天皇あるいは摂政の発する命令が、どのような様式をとるかについては、さらなる検討の必要がある。

定親はまた、目にとまった文書の形式や文言について、しばしば厳しく難じている。応永三十五年四月二十六日条では、洞院実煕から油小路隆夏にあてて、拝賀着陣の際の申次などを依頼した書状が批判の対象になっている。日程の示し方、宛名の書き方、言葉遣いなどいちいち先例にかなわず、感心しないとあげつらっているのだが、なかでも、實煕が書き留めを「仍執達如件」としたのに対して、「執達礼非奉書外不相應」と述べているのは、今日の私たちから見ても、奉書と直状の区別がついていなくて不調法と感じられるところである。逆にいえば、貴族社会で日常的にやりとりされる文書が、最低限の書札礼すら踏まえていない場合があったということになる。比較的単純な連絡を目的とするこのような文書は、一般には伝来しにくいと思われるが、それらの実例を多く伝えてくれるという意味でも、本記は貴重といえよう。

「薩戒記」中の故実関係記事は、定親が好んで書きとめたというだけでなく、後人が汎用性のある情報とみなして意識的に書写・抄出したために、多くが伝わったという事情がある(目録とくらべてみると、政治的な内容は逆に省略される傾向がある)。日記の内容が後代に伝わる過程での取捨選択の優先順位など、日記を受容する側の意識・価値観などについても、考察する素材となろう。

(例言三頁、目次二頁、本文二六五頁、口絵一葉、定価八、六〇〇円、岩波書店発行)

担当者 本郷恵子

『東京大学史料編纂所報』第44号 p.34-37