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所報 - 刊行物紹介

大日本古記録 斎藤月岑日記 七

本冊には日記原本第二三冊から第二六冊まで、安政六年(一八五九)から文久二年(一八六二)にわたる四年分を収めた。月岑の五五歳から五八歳(満年齢)に当たるこの時期には、安政五年に各国との修好通商条約が結ばれたことによる影響がさまざまな形で現れている。

町名主としての役向に関わって大きな負担となったのは、外国人の江戸市中通行への対応であった。安政六年六月に神奈川貿易が開始されてから、江戸では高輪東禅寺(イギリス)や麻布善福寺(アメリカ)といった寺に各国の仮公使館が置かれ、芝赤羽には宿所と応接所を兼ねた「異国人旅館」が建設された。従来も外国人の市中通行にあたっては町名主がその都度出役してきたが、安政六年には特にロシア人が王子等へ度々遊覧に出かけており、「異国人礫打」(安政六年七月二六日)等を禁じる触が出される状況のもとで通行時の対応に追われている。横浜ではロシア士官と水兵(同年七月二七日)、オランダ商船長(万延元年二月五日)の殺傷事件が起き、江戸でもイギリス総領事の雇通弁が殺害される(万延元年正月八日)と、万延元年二月末には外国人通行に備えて名主も組合限に決めた場所に昼夜詰めるよう指示があり(『江戸町触集成』一六三八八)、月岑の属する十一番組では名主が交代で「山のゑ」(今川橋にありしばしば寄合に使われた)に詰めるという体制がとられることになった。月岑が初めて当番に出た三月三日は折しも大老井伊直弼が桜田門外で襲撃された日であったが、一二月五日にはアメリカの通弁官ヒウスケンが赤羽の接遇所から善福寺に帰る途中で殺害されたことを受けて、イギリス公使らが一時横浜へ退去するに至った。月岑の身近なところでは、雉子町家持の相摸屋善四郎が横浜での貿易を許可されたが(安政六年四月四日・五日)、翌々年横浜の店で死亡したとの記事(文久元年四月一〇日)、異国人が小川町を通って神田明神に参詣したとの記事(同二月六日)などもある。

このほかにも月岑ら世話掛は、貿易のため小判を買い集めて持ち出さないようにという町奉行所からの指示を受けたり(安政六年七月四・六日)、「異国條約書板本」の受け渡し(同年八月七日)を行ったりしたほか、「異国人祭礼見物」(九月一二日)や「大小作物異国人売渡」(万延元年三月一三日)について町奉行所から呼び出されるなど、対外関係の変化に伴う諸事項の処理にあたった。また、文久元年冒頭の主要記事見出しには「春怪火・押込・盗賊多し」とあって治安の悪化を感じさせ、同年六月からは、名主二人が人足三〇人を従えて町々を見廻ることが始まった。

なお安政六年には、いわゆる安政の大獄に関連した常陸水戸藩主徳川慶篤や前藩主徳川斉昭についての記事や、本丸炎上(一〇月一七日)についての記事もみられる。

文久元年では和宮下向に関する記事が散見され、月岑が役向き以外でもこの件に関心を持っていたことが伺われる。文久二年では六月末から八月にかけての麻疹および暴瀉(コレラ)に関する記事が目立つ。八月と閏八月には町会所からの御救も行われた。七月末の日記の下端には月岑の親類や知人で亡くなった人の一覧が書き込まれているが、その一部を本冊の巻頭口絵に収めた。

青物役所関係では、安政六年早々に出された触に応じ神奈川貿易への参加を希望する水菓子屋・青物屋の惣代が、町奉行所へ願いを出す際に相談するため、青物役所取締役をつとめる月岑を呼んでいる(二月二日)。また前冊までと同様、玉子・長芋・薩摩芋などの不注進や水菓子・からし・蓮根などの納方加入願に対応した記事が散見され、御納屋御用書抜一七冊を納めたことで月岑に褒美が下された(万延元年一一月)ことも記されている。文久元年一〇月には、和宮の下向に差し支え無きよう、賄方役人から指示があった。

家族関係についてみると、息子喜之介が安政六年一二月に元服し、翌年一二月には名主見習として町奉行への御目見を済ませたため、以後は役所からの呼び出し等に月岑とともに、あるいは喜之介が一人で出る機会が増えている。また官之介と松之介にはそれぞれ脇差を買い与えた記事がみられる。娘のうち、安政五年一二月に御蒔絵師の幸阿弥因幡の息子久之丞に嫁いだおつねは翌年六月に離縁したが、万延元年一一月に神宝方御用達の平野与十郎と再婚している。おきさは安政六年六月に水菓子問屋の三河屋健蔵事利介に嫁ぎ、夫利介は万延元年閏三月に三河屋五郎兵衛に代わって水菓子屋行事となった。しかしおきさは、文久二年七月に麻疹で死亡している。

他の町名主の動向としては、普勝(ふかつ)・遠藤・田上等の様子が比較的詳しく分かる。名主役を継いだ養子の不行跡から一旦は名主役を離れていた小網町一丁目の普勝家においては、月岑の亡くなった姉の夫である前当主伊周が万延元年八月に名主への帰役を許されている。これを月岑は「普勝再興」と表現している。翌文久元年二月為吉に名主見習が許可され、普勝伊兵衛の呼び方が復活した。二年二月には同人へ家督が許可され、一方伊周は以後「隠居」の表記に戻っている。月岑のもう一人の姉が嫁いだ東湊町名主の遠藤家では、同年一二月に小網町の八十吉が遠藤七兵衛の家督を継いでいる。田上家では、月岑と親しかった定五郎が文久二年閏八月に病死している。元々は竪大工町伊勢屋忠左衛門の息子定五郎で、弘化四年多町二丁目名主沢田膳三郎の養子となり、家督後沢田膳三郎を名乗った。嘉永三年小網町普勝の娘おはると婚姻、同四年田上定五郎と改名、田上は実家伊勢屋の名字であろう。

文久元年八月ごろから定五郎の異変に関する記事が数か所あり、心身が衰弱していく様子がわかる。文化人に関連して、漢学者日尾荊山の病死(安政六年八月)後、養子敬三郎に喜之介らが入門したことや、絵師柴田是真との交流、浮世絵師歌川国芳の死(文久元年三月)などが記されている。また文久二年一一月には今村兼三が応挙の蛙画幅を持参した記事がある。

(口絵一葉、例言一頁、目次一頁、本文三五五頁、本体価格九、六〇〇円)

担当者 鶴田啓・杉森玲子

『東京大学史料編纂所報』第44号 p.37-38