

本冊には、什書第三十三軸より第五十四軸までの二十一巻分(第四十六軸は、近世成立の什書目録に記載はあるが現存しない)、文書番号では三四三号より五三四号に至る一九二点の文書を収載した。このうち第五十一軸までは、前冊に続く歴代当主ごとにまとめられた部分で、元祥代の永禄年間から元道代の享保年間に至る。次の第五十二軸からは再び中世にもどり、同軸の巻子装題簽には「益田家往古末類証文八通」、第五十三軸には「古書簡二百九十二通十五軸之内」と記されている。なおこの「古書簡」の軸は、次冊収載予定の第六十七軸まで続く。このような構成は、前冊の紹介でも書いたように、益田家文書什書の整理・編纂が何回かに分けて行われたことに関係していよう。
さて、本冊の冒頭三四三・三四四号文書は、永禄十一年益田藤兼・元祥父子が、元祥の元服を報じるために毛利氏の本拠地安芸吉田を訪れた際、毛利氏一族・家臣に贈った夥しい数の礼物や饗応時の献立注文である。この史料からは、日本海の海洋交通上の要地を本拠とする益田氏が、朝鮮半島にも及ぶ交易の富を集中している点が指摘されている(岸田裕之「石見益田氏の海洋領主的性格」『芸備地方史研究』一八五号)。この文書に始まる元祥の代は、石見の中世在地領主であった益田氏が、近世毛利家の重臣へと転換する大きな節目の時であり、この時期の文書は量・質ともに注目される。
まず、第三十四・三十五軸には毛利氏より安堵された領地関係の目録が複数収められており、関ヶ原合戦後毛利氏が防長二国に減封される以前の、益田氏所領の全貌を知ることができる。また第三十六軸は、毛利氏等の援助を得て再び上洛を窺う時期の足利義昭とその近臣の元祥充文書で、父藤兼充のものは、第二十二軸に収められている。なお、同軸所収の三七三号を今回天正五年かと推定したが、これとほぼ同文の二四一号を前冊では天正六年かと推定している。これは諸家文書纂所収河野家文書中の(天正五年)正月二十三日真木島昭光書状等から、改めたものである。次に三九一号は、関ヶ原合戦前、吉川広家・益田元祥ら徳川方に付こうとする毛利氏重臣四名の起請文で、彼らと徳川方との結びつきが、減封後に大きな意味を持ったことは、本冊収載の輝元書状等からも伺われる。このように輝元の厚い信任を得ることとなった元祥の活躍は、四六一号に元祥の奉公書という形でも叙述されている。しかし、近世毛利氏家中が自立的領主を包摂して形成されていくためには紆余曲折もあった。四○八号は毛利秀元の分知に伴う所領替えで、元祥から出された強い希望(毛利家文書一一九六号等)に対応して書かれた輝元書状であり、四一二号以下は、喧嘩によって険悪化した秀元・元祥家中相互の和解を図って、毛利家一族・重臣らが元祥に出した書状である。晩年、元祥は萩藩の重役「当職」につながる役に就くが、四四○・四五八号などその退任時に出された文書は、「蔵入」の内実を示していて注目される。なお、元祥より後の代の文書は、家督相続関係のものが多いが、そのなかで四六六号以下は、寛文五年の幕府による諸大名の人質停止に関係する内容で興味深い。
再び中世文書となる第五十二軸以下では、まず「末類」とされる益田氏惣領家との関係が不明確な文書群が問題となる。この中には五○四・五○五号の尼阿仁譲状・置文のように、惣領家の交替を示す根拠として注目されている文書もある(福田榮次郎「石見益田氏の研究ー中世における領主制の展開とその特質」『歴史学研究』三九○号)。さらに五○六号以下の書状類は、守護奉行人・被官層からのものだが、内容は非常に興味深いにもかかわらず、従来充分に利用されていなかった文書も多い。前冊に収めた年次の有る文書などと関係づけ、できるだけ年代推定を試みたが、今後の研究がさらに必要であろう。
(例言三頁、目次一七頁、本文二七七頁、花押・印章一覧一七葉、同掲載頁一覧三頁、本体価格七一○○円 )
担当者 久留島典子
『東京大学史料編纂所報』第38号p.33