東京大学史料編纂所

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大分県下幕末維新期史料の調査

【佐伯藩政文書】
 佐伯市立図書館で、佐伯毛利藩政史料を閲覧した。同史料は現在、ほとんどゼロックスコピーによる複本が作成されており、その閲覧はこの複本を所蔵する同図書館で作成された『佐伯藩政史料目録』によっている。

B—�(藩侯自身に関係するもの)
32 朝覲之儀ニ付伺 老中宛 元治元年
(包紙)「                     毛利伊勢守家来
                                宮本又左衛門」
「今般万石以上之面々参勤之儀、向後者前々御定之割合ニ相心得候様被
仰出候付而者、伊勢守儀、当子年(元治元年)参勤割合ニ御座候、右之[  ](欠損)承知仕候者、早々出府可仕儀与奉存候、左候者兼而被
仰出候
朝覲之儀、出府掛上京奉伺
天気、其節進献物之儀如何相心得可申哉、此段在所表江申□(虫損)度、各様迄
御内慮奉伺候、以上、
 九月四日                     毛利伊勢守家来
                                宮本又左衛門」

 参勤復活、朝覲時の進献物についての老中宛内慮伺書。
(別紙)「書面之趣者所司代江相伺候様可仕候事、」
 老中指令の書付。

33 朝廷江貢献之儀ニ付伺 慶応二年
(包紙)「                            毛利伊勢守」
「今般国産之品
朝廷江貢献之儀被
仰出候処、私儀当寅年(慶応二年)貢献順年御座候、依之半紙弐千枚貢献仕度、就而者
関白殿伝
奏衆・議 奏衆江茂相贈可申哉、此段奉伺候、以上、
 正月九日                         毛利伊勢守   」
(別紙)「伺之通可有貢献候、関白殿其外江贈物有無之儀者追而可相達候、」
 朝廷への国産品貢献時、関白等への贈物の有無についての伺書。別紙は老中指令の書付。
34 朝覲之儀ニ付伺             
(包紙)「                   毛利伊勢守家来
                              今井鉄五郎   」
「今般伊勢守儀、出府[  ](折レ)兼而被
仰出候
朝覲之儀、出府掛上京可奉伺
天気、其節進献物之儀如何相心得可申哉、各様迄
御内慮奉伺候、以上、
                        毛利伊勢守家来
                              今井鉄五郎   」
 朝覲時の進献物についての老中宛内慮伺書。老中指令の別紙書付はなし。

35 朝覲之儀ニ付老中達
「参
内伺
天気日限之儀者京着之上追而相達候、且献上物等之儀者別紙之通可被相心得候、」
 老中指令の書付。

36 朝覲之儀ニ付朝廷献上物覚
「[  ](欠損)
 御太刀折紙    白銀弐拾枚
親王御方
 同        白銀拾五枚
准后御方
 白銀       拾枚
内侍所
 御太刀折紙    白銀壱枚
 御鈴料      同 壱枚
  以上、            」
 献上物書付。

37 朝覲之儀ニ付伺
「今般伊勢守儀出府仕候、兼而被
仰出候
朝覲之儀出府掛上京可奉伺
天気、其節進献物之儀如何相心得可申哉、各様迄
御内慮奉伺候、以上、
                        毛利伊勢守家来
                               今井鉄五郎  」

38 朝覲之儀ニ付老中達
「参
内伺
天気日限之儀者京着之上追而相達候、且献上物等之儀者別紙之通可被相心得候、」
 別紙はB—�—39カ。

39 朝覲之儀ニ付朝廷献上物覚
「  覚
禁裏御所
 御太刀折紙    白銀弐拾枚
親王御方
 同        白銀拾五(カ)枚
准后御方
 白銀       拾枚
内侍所
 御太刀折紙    白銀壱枚
 御鈴料      同 壱枚
  以上、               」

40 (表紙)「御参内一件抜書」 文久三年              横帳一冊
 正月一七日から一九日までの記録(小御所にて「龍顔」を拝し天盃を頂戴した記事など)。毛利氏の官名は修理大夫。文久三年のものか。御礼廻勤先は、近衛関白、伝奏野宮宰相中将、議奏中山大納言・飛鳥井中納言・阿野中将・三条中納言・正親町三条大納言、伝奏坊城大納言。なお、一九日条の御礼廻勤先には、次のように記されている。

「 御懇意ニ依而也、   青蓮院宮様
             野宮宰相中将様
  同断、        広橋左大弁中将様
           御所司代
             牧野備前守様
             正親町三条大納言様
  御親類ニ付而也、   正親町大納言様                  」

75 勤仕録                           堅冊写本四冊
 第一冊に安政元〜三年、第二冊に同四〜六年、第三冊に万延元年〜文久二年、第四冊に同三年〜慶応元年分の記事を収載する。幕末期藩主高謙の事蹟(主に国許以外での)を編年的に記録したもの。後世の写本らしく、誤写が多々認められる。
 一冊目の書き出しは「嘉永七甲寅年九月老中逢一件」と題され、当時の藩主毛利高泰の嫡子高謙が、父に同道され老中宅を訪問し、老中との対面儀礼を済ませる様子をまず記す(同九月中には五人の老中宅をそれぞれ訪れている)。翌十月の「初而御目見江之一件」がこれに続く。高謙は十二月十八日諸大夫成。この冊では、豊後岡藩主中川久昭・越後新発田藩主溝口直溥の柳之間取締加談就任を報じる安政二年三月十三日付同席廻状写等も注目される。
 二冊目では、安政四年十一月一日に幕府が諸大名に対し、米国大統領親書・ハリス口上書の写を示し、意見を徴した際の記事がある。
「…中川・京極之両人波之間ニ罷出、堀田備中守殿出座、此度亜米利加官吏 持参之國書右両人江御渡御座候…同席觸ニ而大目付より觸面来ル
 一 亜米利加官吏此度持参國書和解一冊、昨日備中守殿〓御渡御座候ニ付、順 達旨ヲ茂觸有之」。
翌十二月十五日、
「松平飛騨守・中川修理太夫江、堀田備中守殿出座ニ而、亜墨利加使節申出和解為心得一覧置候被申渡…」。
同晦日、
「…同席共御白書院御下段ニ罷出、老中衆列座、備中守殿〓□、亜墨加申立之趣モ追々申縮メ平穏ニ相成、此節亜墨加江御心配ヨリ諸侯家来共騒敷儀無之様ニト申談られ候趣、若存寄之儀ニ候ハヽ無伏蔵申聞候様被申候、同席内黒田甲斐守〓只今存寄之趣も無之、帰宅候上以留守居可申上旨被申候、右者相済、夫〓大廣間ハ於柳之間下田奉行・海防掛御目付両人被判談有之候様子、柳ノ間共ハ大廊下ノ御部屋下田奉行・右御目付一人罷越、亜墨利加官吏申立之趣其外諸説話有之候、右者夕七半時頃相済、直ニ退出…」。
 三冊目では、万延元年六月二十六日条での、高謙の受領改名のプロセスが詳しい。
「…今日本多美濃守殿加判列被 仰付候ニ付、名差合ニ相成候間、御親父様〓拙者名伊勢守ト御用番内藤紀伊守殿江留守居ヲ以相伺之(ママ)通被仰付候ニ付…口上を為念記置候

        中奉書半切
       ┌────────┐
       │ 美濃守    │
       │  毛利伊勢守 │
 御月番   │私名同氏安房守 │
 江差(ママ)│奉伺之通被仰  │
 候口上書  │付難有仕合   │
       │奉存、為御礼  │
       │伺公仕候    │
       │六月二十六日  │
       └────────┘
                                      」

 さらに、文久二年十二月十二日に高謙は隠居した父の家督を相続している。
 四冊目では、文久三年正月の高謙江戸発駕→帰国に際し、京都に立ち寄った際の記事がまず注目される。
「(正月二十三日)…兼而江戸表ヨリ大坂○留守居ヘ申遣置候而、都之様子並合ヲ聞合候処、同席并ニ他席之衆モ初而在所江御暇之分者京都近く通行致候衆者京都江罷越、天奏(ママ)衆迄伺 天気候由ニ付、此方モ初而御暇ニ付諸司(ママ)代迄罷越候事故并合之通り天奏衆月番坊城大納言殿江御逢申込候処、早速承知有之候ニ付、今朝者支度服紗小袖半上下着用罷越、玄関〓客間江通り、…雑掌呼出候処、山科筑前守ト申者出、一通り兼而相頼置挨拶申述、暫シ而坊城殿出座有之、一通挨拶申述、口上書差出候、尤口上書江者左之通
 今度廻京仕候ニ付奉伺 天気度、此段宜敷御執成 御奏奉願候事
   月 日          此方名
右之通認有之候、夫ヨリ茶并菓子出、御包物致頂戴、無程退散…夫ヨリ諸司代屋敷江罷越、口上書持参、玄関ニ而取次江申置退散…                   」
高謙の佐伯着城は二月二十三日だが、国許での記事は見えず。翌元治元年末に高謙は出府参勤の中途上京する。
「子十一月二十一日…諸司代松平越中守・守護職松平肥後守江為届罷越、口上書持参、取次江申置候、夫ヨリ両傳奏衆飛鳥井中納言・野々宮中納言江参り罷通、口上書持参、取次江申置候、二条関白殿江罷越、取次案内ニ而書院江罷通、同人江口上書相渡候處、披見致候上同上申聞候ニ者、諸大夫江可申聞段申退引、夫ヨリ暫シテ亦々出、諸大夫江申聞候処、御用多端ニ而得逢不申、後刻可申聞段申聞候付致挨拶、取次先下玄関ニ而時宜合致、今出川通安居院通之新町超勝院旅宿江致着候…
 一京着當日諸司代・守護職江口上書左之通
   私儀今般伺之通上京被 仰出難有仕合奉存候、依之今日當御地江着仕候ニ付、為御届伺公仕候
   十一月二十一日   此方名
(なお、両伝奏衆・関白宛口上書も同文である。)               」
翌日条では、
「…左之通廻勤
傳奏衆      同
 飛鳥井中納言殿  野々宮中納言殿
五議奏
 久世前宰相殿 正親町三條大納言殿 柳原中納言殿
 六條中納言殿 廣橋中納言殿
右之通致直勤、坊城江者此前之挨拶旁罷越、夫ヨリ加陽宮様江罷越、取次ヘ申置、夫ヨリ常陸宮様江罷越、罷通取次江口上申述、口上書相渡候処、一旦引取、暫シ而諸大夫長田越後輔与申人出、鳥渡御逢申度段申聞候ニ付、難有段申…夫ヨリ雑掌御仮殿江案内ニ而居間江通り、上檀下ニ着座候処、是非上り候様被申候ニ付、上檀下ニ而脇指脱上り候而致平伏候…段々咄モ有之、至極丁寧之事ニ而候…
 一月番傳奏江口上書左之通
  私儀今般上京仕候ニ付、奉伺 天気度、御序之節宜敷御沙汰奉願候
  十一月廿二日                          性名  」
とあって、さらに同二十五日条では、清水谷侍従宅での習礼を経て高謙が参内した際の、孝明天皇への天気伺・天盃頂戴の儀礼について筆録する。
「…中宿清水谷宅江罷越、取次案内ニ而書院江通り、…暫シ而雑掌桂主膳・木村小平太江逢、一通今日頼之口上、中宿之挨拶申述候、夫ヨリ雑掌案内ニ而居間書院江通り候上菓子出ル、小平太江頼仮ニ支度着用之上嫡子侍従殿江逢、今日之挨拶申述、夫ヨリ習礼致呉、相濟而侍従殿退引、仮支度取申候、暫シ而頼衣文方高津越後守与申人参り、逢候上官服等改、無程衣官具致着用候、…凡九ツ半時過頃、野々宮殿雑掌西池主水与申人参り逢候処、最早御参内之時刻宜敷段申述候ニ付、委細承知、尚又萬事御頼申段申述、…直様供揃出宅参内、公卿御門外石橋前ニ而下乗供頭沓出之、太刀者抱込、平唐御門内諸大夫間西階沓脱石ニ而沓供頭取之、太刀刀番江渡、昇殿、鶴之間江着座、頼非蔵人松尾丹波・福原安藝其外非蔵人七人出候ニ付挨拶致候、非蔵人案内ニ而鶴之間後休息所江参り、清水谷家来茶莨盆・火鉢差出候、暫シテ非蔵人参り申聞候ニ付鶴之間江復座、傳奏飛鳥井中納言殿・野々宮中納言殿出座ニ付参内被 仰付、奉伺 天気候段申述候処、月番野々宮〓申達候段被申、且其節習礼之義御頼申段ヲモ申述引、夫ヨリ御儀奏被出挨拶有之、退引、亦々休息所江参り居、…非蔵人参り 出御有之段申聞候ニ付、中廊下扣場江出御有之迄扣居、夫ヨリ程合宜敷節傳奏衆誘引所江扣挨拶有之、御太刀折紙自分持参、傳奏衆着座被致候所ヨリ膝行ニ而御下段敷居内江据置、膝行ニ而拝所江下り、拝 龍顔平伏、相濟而誘引所江扣居申候、御太刀折紙御手長之人引候上、御盃銚子持出天盃頂戴始り、傳奏衆ヨリ宜敷段申候上、以前之処ヨリ藤行ニ而御下段御太刀折紙据置候敷居内江出、平伏致居候得者、御盃渡シ候ニ付御時宜致三献頂戴、其都度々御時宜致シ膝行ニ而下り、御太刀目録非蔵人持参処ニ而手ニ移致頂戴御盃相渡候得者持下り候而此方家老江相渡候…  」
本条に「参内之図面」も付載されている。高謙は同月二十九日京都発、翌十二月四日に江戸藩邸到着。翌年五月十七日に高謙が江戸を発駕し、閏五月十八日佐伯着城の記事で本史料は終えられている。
98 文久三年癸亥正月十八日御参内一件帳抜書               一冊  このときの参内については、年譜等の記事からは省かれている。内容は、正月十五日伝奏用番から呼び出され、雑掌から「来る十八日未刻参内するよう」達せられてから、十九日までの記事。参内の道筋を記した「禁中御絵図」が添付されている。
127 系譜事跡草稿                           一冊
 初代から十三代まで記す、たとえば、十二代高謙は、文久元年本領を賜り、元治元年四月東照宮二百五十回忌に梶井宮接伴役、慶応四年「西京ニ上り、神祇御誓詞ニ輿リ」四月帰藩、明治二年四月東京に上り、六月版籍奉還、佐伯藩知事。
128 歴代系譜履歴草稿                         一冊
 表紙に「明治十年二月二十日宗族長亀井茲監殿ヘ差出ス、但シ宮内省ヨリノ需メニ依ル」と注記があり、罫紙使用。「127 系譜事跡草稿」の加筆をふまえた草稿と思われる。
131 (毛利高謙履歴)                         一冊
 高謙の履歴と親族を記す。「128 御歴代系譜履歴草稿」と同罫紙、同一人の筆による。「母方親族」として亀井茲監らを記す。
132 履歴箇条書
 十二代高謙について、叙位(安政元年十二月十六日従五位下)・遷任・家督・元服・乗出(安政元年九月十七日)目見(安政元年十月朔日)・任知藩事・版籍奉還(明治二年三月上表提出、六月二十日版籍取調帳・絵図面提出)などを記す。他に、明治元年・二年の徴兵関係記事、旧幕門番(呉服橋門番)、警衛(元治元年〜同二年正月、宮益道玄坂警衛など)、馳走人(元治元年二月、日光山梶井宮馳走人)、上京(元治元年十一月参内、十二月十四日江府着。明治元年三月十一日着京、三月十四日参内「御宸翰御誓文拝見仕、誓紙ニ実名認」、四月十八日京地発、閏四月五日着城。明治二年七月三日参内、龍顔・天杯頂戴、八月十一日着府)、入部(文久三年二月二十二日はじめて着城)。
B�(朝廷・幕府関係一般文書)
1孝明天皇宸翰写
(1〜6の包紙)「御宸翰写弐通、上意振并御達書写共弐通、御覚書壱通、御名前書壱通」、(1〜2の包紙)「六月廿九日一橋中納言殿江賜候宸翰写」
「一、此頃世上騒敷由甚心痛之事ニ候、昨年八月十八日一件関白始予之所存を矯候ニてハ決而無之、且其後申出候件々各真実ニ候、偽勅と之風説有之由ニ候得共、必々心得違有之間敷事                                   」

2孝明天皇宸翰写
「               一橋中納言
此頃‥‥御守衛総督之辺を以諸事御任被遊、‥‥                」

3征長之節上意振并御達書写
(3・4の包紙)「上意振并御達書写共弐通」
「松平大膳大夫家来共‥‥速ニ征伐いたす間、‥‥               」

4征長之節上意振并御達書写
「一橋中納言殿江賜候宸翰写為心得相達候事
  八月                                  」

5牧野備前守御渡覚書写
(包紙)「牧野備前守殿御渡覚書写
  大目付江
     覚
今日相達候宸翰写今日病気等ニて出仕無分在国在邑之面々江は同席等より通達候様出仕之面々江可被達候事
  八月二日                                」

6征長之節御名前書上写
 (名前書)
「分部若狭守様、毛利伊勢守様、遠山信濃守様、田村内膳様、一柳兵部少輔様、一柳対馬守様、以上」

7〜12 包紙(7〜12の包紙、1の写し)と前出1〜6の写し
43 手寄御役人様并出入御坊主名前
 手寄御奏者番は久世出雲守様、土屋采女正様、青山大膳亮様、手寄大御目附は深谷遠江守様、以下御手寄目付二名、御手寄西丸目付一名、出入御坊主については、大勝手通七名、御数寄屋五名、西丸三名、勝手通四名等とあり、弘化年代のもの。
44 攘夷ニ付勅答書付写
 安政五年三月二〇日のもの
45 攘夷ニ付条々書
 三月二〇日の勅答に関連し、二六日、伝奏議奏が堀田正睦に対し、「永世安全可被安叡慮之事」以下の条々について衆議を求めた箇条書
46 下田条約ニ付御達書写
 三月二〇日の勅答を示し、「勅諚之趣も有之候間、猶篤と致勘弁、各存慮之趣早々可被申立候事」と諸大名に意見を求めた四月二五日の幕達
47 下田条約ニ付御達書順達諸侯名覚写
 江戸での順達触の大名名前書、毛利は安房守(佐伯)と讃岐守(清末)の二家
48 風説書和解写
 阿部正弘が渡した安政二年七月付の別段風説留
49 御書付写
 「書付写」とある包紙のみ。「致拝見則写候、田村右京大夫殿江致順達候」との一〇月二一日付附箋あり。48の別段風説書を順達する際のものと思われる。
50 大名名前書上
 47と同一種類のもの。48の別段風説書を順達する際のもの。「交替寄合江も廻達候様可被致候事」「在邑之御方々様、御重役一覧写取之上、御順達之事」とあり、一〇月一九日付附箋には、「致拝見則写取、久留嶋信濃守殿江致順達候」とあり。
51 御達書
 安政二年八月一三日、中川修理大夫に阿部正弘より渡された米英露三国条約書及び日米条約批准書写に附せられたもの。
52 北亜墨利加合衆国測量船ヨリ差出候横文字和解
 安政二年八月一三日、中川修理大夫に久世大和守より渡された「合衆国測量」横文字願書和解写。出願日付は西暦一八五五年五月一四日(於下田)。
53 大和守殿御渡書状
 52に関して、内容を説明したもの。
54 亜墨利加条約写
 日米和親条約及び批准書
55 魯西亜条約写
 日露和親条約
56 英吉利約文字
 日英和親条約
57 御名前書上
 順達の諸侯名前を記したもの。八月一三日の一件書類順達時のもの。阿部、久世の名前とともに、「御名前書一通、覚書一通」とのみあり。
58 覚書
 57に言及の「覚書」。「御承知之上、伊勢守殿大和守殿江御銘々〓御請御留守居使者被差出候事」とあり。
59 合衆国書翰
 ペリーのもたらした米国書翰中漢文書翰、「嘉永六癸丑年七月朔日 伊勢守殿御渡亜墨利加国書翰之写 手元扣写本書 猥不許他見」とあり。
75(1) 亜墨利加国より差上候書翰和解
 「備中守殿御渡亜墨利加使節口上并書翰和解」とあり、(1)は大統領ピアース親書和解。ハリスを条約改正全権にする旨
75(2)亜墨利加使節拝礼之節口上之趣和解
 安政四年一〇月二一日、登城したハリスの口上
77 阿蘭陀条約
 �安政二年一二月二三日締結日蘭和親条約、�安政四年閏五月批准書交換文書、�安政四年八月二九日締結日蘭追加条約、�追加条約添書、�追加条約別紙、�踏絵廃止に関する書付
78 魯西亜条約追加
 日露追加条約。一二月一三日「備中守殿御渡阿蘭陀条約并魯西亜条約追加」とあり、77も同時の時のもの。包紙に「安政四巳年十二月十三日御渡、在所江安政五午年正月十九日達、本書写御朱印箱入、東西家老預り 手元用」とあり。
79 鄙策
 下問に答えた佐伯藩士水筑龍の答申書。嘉永六年八月。�長崎に来航させ、石炭のみ交易、�薪水は給与する、�南海の内に地面割譲不可の三点。
80 鄙策
 79の下書。嘉永六年八月。
81 鄙策
 嘉永六年八月三日付水筑龍意見書
82 亜米利加使節登城之節御目見之御次第書
 安政四年一〇月二一日ハリス登城の際のもの。
89 奉札留
 慶応二年七月二六日より同年一二月及び明治二年七月一四日より一二月迄のもの。大名間の連絡が主で、公務を受けた際の報告はあるが、政治的な内容に渉るものは存在しない。私的なものが多い。慶応二年七月二六日付延岡藩主よりの書翰の記録を左に示す
 右ハ備後守様
 御進発御後備ニ付御上坂之処、去月二十八日於御同所板倉伊賀守様江御家来之者御呼出ニ而、芸州□御討手被蒙仰候、応援之御心得を以急速御出張可被成候様被仰渡、且又依御達同二十九日御登城被成候処、昨年以来永々御滞在、其上戦地御出発御大儀被思召、依之御出格之訳を以金三千五百両御拝領被成候段為御知申来ル
90 御奉札留
 慶応三年正月より一一月迄と明治元年四月より明治二年四月迄。内容は89と同一のもの。
C(勤役)

25 華族名前書                           横帳一冊
(冒頭)
      壱番「九月望       『申三月朔
         十二月朔」(抹消)  申五月望』(後筆)
『申八月朔    正二位  三条西季知
 申十月望』   同    伏原 宣諭
         正四位  松平 斉民
         従四位  久松 勝成
         同    南部 利義
            (以下略)

 明治四〜五年のものか。従五位以上の華族(公武)の名前を一番から五番に分けて書き付けたもの。公武の華族が混在している。
26 京都エ差置候御用弁之者任当伺書                   三通
(包紙)「窺書   」
 本包紙には「京都エ差置候御用弁之者任当伺書 七藩公用人」と記された付箋が貼付されている。書付三通を同封。一通目のみ左に掲出する。


「諸藩公用人自今京都ニ差置ニ不及、但シ御用有之節相弁候者差置、兼而其姓名可届置旨、於東京被
仰出、就而者姓名早々御届申上候様、此表
御布令之趣奉畏候、右者是迄差出置候公用人体之者ニ而可然哉、又者
御一新以前差置候用達体之者ニ而可然哉、
一御用之節是迄公用人ト唱来候処、向後於此表者如何相唱可申哉、
  右之件々奉窺候、何卒早急ニ
  御指図奉願上候、以上、
                               森藩公用人
                                今村才治郎
                               佐伯藩内
                                関谷太郎左衛門
                               人吉藩内
                                赤坂孫六
                               府内藩内
  八月十七日                         岡本源太夫
                               日出藩内
                                宇都宮隆太
                               杵築藩内
                                三浦多一郎
                               岡藩内
                                田近八郎
  弁官
   伝達所                                」

D—� (御用日記)
542 嘉永五 御用日記                         一冊
 国許の御用日記。概して江戸からの情報を留めることが多く、長崎とのやりとりはまれである。
「一、六月十五日、一、追々相記候□御備組猪本江漂着唐船長崎表ニ而御引渡無滞相済候ニ付、今日左之御届書
  海岸防禦御掛御月番牧野備前守様江被召出候付、御留守居宮木又左衛門御使者相勤候処、備前守未御退出無之、公用人被預置候段申聞、尤御退出之上思召無之候ハヽ別段案内致間敷旨、公用人被御聞候段、右又左衛門〓御中老隼人ヘ申達候
    先達而御届置候私領分□□備組之内沿海枝郷猪ノ本と申所江漂着仕候唐船、夫々警固等念入手筈申付、右漂着之船并唐人取計方委細長崎表江家来之者〓相伺候処、乗船之侭警固船相添風順次第早々長崎江可漕送旨差図有之候ニ付、夫々手当申付、四月十一日在所表出船仕候段、兼而御届申上置候処、右漂着之船并警固之者共、同月廿一日長崎表ヘ着船仕候ニ付、早速差添家来之者〓御奉行所江及御届候外、翌廿二日漂着之唐人船共相改夫々吟味有之候処、聊不審之段無之候ニ付、無滞受取相済申候、依之差添候家来之者共一統引取申候段、在所家来之者〓申越候、此段御届申上候、以上
       六月十五日                  御名      」
543 嘉永六 御用日記                         一冊
(三月十日)
「一、長崎御奉行大沢豊後守様御用人一木辰右衛門・中里弥次郎〓切紙ヲ以、昨年唐船漂着之砌御備心得方之儀伺書差出置候処、御達之儀有之候ニ付、一人早々御役所江差出候様豊後守様御沙汰之趣申越候ニ付、長兵衛ヘ申達、彦左衛門・七郎右衛門〓相応之致□蔵差返申候、尤長崎御用達小笠原甚四郎方江□□七郎右衛門〓書状、右飛脚之者江為相渡差越申候
一、右ニ付柳川吉左衛門儀長崎表江出役被仰付、来ル十六日御出兵御定之通休息被仰付候段、同人呼出し、長兵衛〓申渡候                       」
(七月一日)
「先月十一日江戸出御用状着
一、六月六日 一、当月三日未上刻相模国城ヶ島沖合江異国船四艘相見候処、千駄崎辺迄迅速ニ走込候由、右異国船之儀は、アメリカ合衆国政府仕出之軍艦ニ而、弐艘は大砲弐拾挺、弐艘は惣体鉄張之蒸気船にて、壱艘は大砲三四拾挺、ハテイラ七八艘、鉄張之様子相見、壱艘大砲弐拾挺拵、進退自在ニ而艫櫂不相用迅速ニ大砲出設いたし、応接之もの寄付不申候処、漸々申諭一人乗組相諭候処、国王之書翰護送いたし奉行へ直ニ相渡可申旨申聞、彼之者諭示等は引受不申、既ニ江戸表江も其段通達候旨申之、泰然自若罷在、於同様之軍艦致渡来候段申聞、一切船を近辺江近寄候事相断候、尚御国法可相諭候得共、不容易軍船ニ而、此上変化難計ニ付、応接申候得共、及注進候段、浦賀奉行戸田伊豆守様〓追々注進有之由、御固四家井伊掃部頭様、松平肥後守様、松平誠丸様、松平下総守様江も御同様之注進有之、遠州掛川太田摂津守様……よりも御届有之候段相聞候処、近日近海御用掛御用番牧野備前守様〓被成御渡候御書付写大目付様より御同席田村右京大夫様〓御順達之旨、御留守居宮本又左衛門出し候、右触書左之通……
(中略)
一、六月九日 一、御留守居共申聞候、昨八日牧野備前守様〓被成御渡候御書付写、大御目付様〓の御同席触今朝田村侯〓御順達有之候段、御中老隼人江出之御触面左之通……
   大目付江
異国船万一内海江乗入……
   大目付江
異国船万一内海江乗入……
   大目付江
此度浦賀表江異国船……
一、前条之通公辺〓御触有之候ニ付、御屋敷ニおゐて御固向可有之儀ニ付、兼而御近所御同席様方御寄合承り合い候様御留守居類役共打寄、先左之通致談決候段、右同人相達候ニ付、御屋敷にも左之通申付候様御中老隼人江申渡
一、御武器類御役中之通、御料理之間江差出置、非常□□前相錺可申、尤近海御手当之御長柄、十筋、御権器之一鏈之間江掛置候事                   」
「一、九月二十二日 一、御留守居申聞候、中川修理大夫様・溝口主膳正様〓去ル十八日一応通達有之候大船製造之儀阿部伊勢守様江被成御伺候条々、別紙壱通御取調出来候ニ付、御在府の御方様江は御直廻状を以御通達有之候、御在邑并御幼少之御方様江は、御通達中川修理大夫様・主膳正様御留守居之者〓之廻状昨夕着付致到来候由、右写書之候
一、大船之義は軍艦蒸気船之類ニ可有御座哉
  此儀軍艦蒸気船候趣被仰聞候事
一、右大船の儀は在所之海岸有之もの共在所ニ而製造致候事哉、又は江戸表近海防禦□□手当致候事ニ可有御座哉
  此義在所海防の有無共、江戸近海警衛御手当ニ被仰出候御趣意、在所候義ニは無之、乍去追而船数出来之上、在所ニ海防有之候者共、在所江相廻候は仕儀次第之旨被仰聞候事
一、大船出来之上運送之義并乗試候而も不苦義可有御座哉
  此義作用方其筋江伺候砌、運送并乗試等之義御沙汰可相成由被仰聞候事
一、右之大船は抑席一統銘々被仰付候事ニ可有御座哉
  此義御書付文面候処ニ而は、一統江被仰付候様ニ相聞可申候得共、大船製造之義入費不軽義ニ付而は、高之大小ニ不抱勝手向不如意候者義可有之、就而は願候者江被仰付候御趣意ニ候得は、無理成差略を以銘々製造致候ニは不及、乍併当時節柄之義ニ付而は、大砲ニ不限器械手当向無油断備候様心掛候而も同様之旨被仰聞候事
一、同席申合相願候而も不苦義も可有御座哉
  此義申合相願候而も不苦旨、被仰聞候事
一、願出候者江は被仰付候御趣意其外相伺候云々同席共江申達可然義ニ可有御座哉
  此義同席江申達候様取計可申旨被仰聞候事
右之通伺候ニ付、為御心得奉申上候、以上
  九月二十一日                      中川修理大夫
                              溝口 主膳正  」
544 嘉永七 御用日記                         一冊
(二月十一日)
「一、延岡表江万一異国船渡来之節援兵之儀、同所御家老共〓申来候、当御領内之儀は海岸専ら之御場所、殊ニ御在府中は別而御人少之儀ニ付、御使者備之積ニ而、同目付一人御船奉行壱人并小頭足軽□□共可被差出哉之御手当帳面ヲ以相伺候処、伺之通被仰付候付、御目付山口藤右衛門御船奉行高瀬悟呼出し、拙者〓申渡候処、御受□之候、其外江は御番頭見習セ右衛門より支配々々ヲ以為申付候処、御受申之候段、相達旨申聞候付、達御聞候   」
(二月十五日)
「一、長谷川右門、岡崎□右衛門呼出、万一下□沖江異国船渡来之節御留守中御物頭共御人少ニ付、御物頭代被仰付候間、御物頭共申談入念同様申渡、□右衛門義は其節被至御物頭代可被仰付候間、其心得可罷在旨、拙者〓申渡候処、御受□之候付、達御聞候  」

546 安政元 御用日記                         一冊
547 安政元 御用日記                         一冊
548 安政二 御用日記                         一冊
549 安政三 御用日記(〜安政四年閏五月)               一冊
550 安政四 御用日記(六月〜八月)                  一冊
551 安政四〜五 御用日記                       一冊
552 安政元 御用日記                         一冊
544の清書本。                             一冊

(八月二十九日)
「一、八月十六日 御留守居宮本又左衛門申聞候、去ル十三日阿部伊勢守・久世大和守御宅江中川修理大夫様被召呼被成御渡候御書付弐通、外夷江御渡御条約文、亜墨利加合衆国測量船〓差出候横文字和解共、都合四冊、外ニ御順達御名前書御覚書共弐通、同日夜四ツ時細川山城守様〓御留守居使者を以御順達有之候段、同人出候ニ付、同役共始列座、御役人共即刻御表江罷出、同役共拝見之上右写御祐筆助共江被仰付候段、申渡候

  伊勢守様御渡
    書付写一通
    魯西亜江御条約写 一冊
    亜墨利加江御条約文写 一冊
  大和守様御渡
    御書付写 一通
    北亜墨利加合衆国測量船〓差出候横文字和解写 一冊
      別ニ中川様〓御順達御名前書 一通
    御覚書一冊                             」

553 安政六〜七 御用日記                       一冊
(1)安政六年七月〜同十二月
(2)万延元年正月〜十二月

554 安政六〜文久元 御用日記                     一冊
(1)安政六年正月〜同十二月
(2)安政六年十二月〜万延元年正月
(3)万延元年正月〜同閏三月
(4)万延元年六月〜同十一月
(5)万延元年十一月〜文久元年四月
(6)文久元年四月〜同十二月

553の(1)の記事は七月二一日から開始、554の(1)にも七月二一日の記事があり、同文。ただし、553の(1)はその続きがあるが、554の(1)はいきなり九月二一日の記事に飛ぶ。両者を比較すると、553の(1)の一つ書きに×がある箇条の記事は、554の(1)には写されていない。ある段階で、553系の御用日記を清書して554系の写本を作成したものと推定される。

555 万延元年 御用日記                        一冊
反故紙のコピー故ほとんど解読不能。
556 (万延元年〜文久元年分)御用日記                 一冊
反故紙背を再利用のため複写裏写りが酷く精読不能。
557 文久元〜二年 御用日記                      一冊
 「文久元六月ヨリ文久二戌二月十五日迄」とある。

(文久元年六月二十五日条)
「當五月二十八日、於高輪東禅寺外国人旅宿江致乱入、不届及所業逃去候者共之内、左之者常州浪人之由ニ相聞、逃去候付、怪敷躰之者見受、其所ニ留置、早々御料者御代官、私領者領主地頭江申出、夫〓於江戸月番之町奉行江可申出、若及見聞候者其段も可申出、尤家来・又者等入念可遂吟味旨御老中本多——〓御渡ニ相成候御書付写、大目付様〓之御同席觸…家中江者御目付共〓為相觸、両町・寺社・御領分中御預所江も例之通為相觸候様、御家老共申聞候付、其段夫々江申渡候」。第一次東禅寺事件の処理に関する幕令の通達である。『幕末御触書集成』第五六三七号参照。
(九月十日条)大坂留守居の交代に伴う記事。
「一柳田吉左衛門申聞候、同人義大坂表交代仕…大坂屋鋪無別条兼而今井鉄五郎江交代被 仰付候付、大坂御用向申談引渡交代仕候段、相達候付御家老共江申達候
 一右吉左衛門申聞候、大坂屋敷御用金銀米諸帳面・諸御道具等鉄五郎立會不残相改、鉄五郎江無相違引渡、鉄五郎受取候処相違無御座候段、右両人連印之書付出之候付、御家老共へ差出申候
 一前条吉左衛門申聞候、大坂御蔵屋敷御用金銀米惣寄目録・御道具帳面三冊持下り差出し候付、御家老共へ申達、改候様御勘定へ申渡候」

558 文久二年(御用日記)                       一冊
(七月二七日条)幕府勘定所より御達あり。
「     申渡
                              毛利安房守
                                 御預所
 豊後国村々之もの共儀、
 御本丸御普請御入用之内江願之通上納金申付之、
右者脇坂中務大輔殿江申上之上申渡之、                    」

(閏八月二七日条)
「一御預所掛役黒木——当七月廿「四日」(抹消)七日相□候通、御預所村々之者共〓近来引続臨時御出入 御本丸御普請ニ付而者莫大之御入用被為在候ニ付、御国恩為冥加上納金左之通昨日蓮池御金蔵江相納候処、無滞相済候段相達、御金奉行中様御連印之御受取書一通御渡相成候付、受取罷帰差出之候、

   一金弐百八拾弐両弐歩三朱                       」
(一一月一四日条)
「若殿様江 御家督可被遊御譲 御内慮ニ被為 入候、             」
(一一月二六日条)元水戸藩士鮎沢伊太夫の赦免について町奉行浅野備前守より「口達之覚」を伝達される。
(一一月二九日条)
「…昨日町御奉行様御達之儀ニ付、差図元水野和泉守様・御用番井上河内守様江左之御届書被差出候付、…
 水戸殿元家来鮎沢伊太夫義、先年私江御預被
 仰付候付、在所江差遣置候処、此度
 御免被 仰付、遠国之儀ニ付彼地ニ而
 御赦免候後早々呼寄候趣、昨夕町奉行浅野備前守於御役宅家来之者江申渡有之候、此段御届申上候、以上、
  十一月廿九日                          御名  」
(一二月一六日条)鮎沢への赦免申渡と請証文受取の手続。
「一右相済、此度 御赦免ニ付
  殿様〓大小一腰・小袖一重・上下一具被相贈候段申述御使相勤候処、…」
(一二月六日条)毛利安房守隠居・嫡子伊勢守家督相続の願書を老中に提出。

559 (御用日記)文久二・三年(文久二年分の内容は558と重複、本史料が原本か) 一冊
(文久三年二月三日条)
「    二月三日[先月廿五日同役儀右衛門〓中国路七日限同所〓当御地迄二日半雇飛脚ヲ以差立候御用状着、](割書)
 一両殿様駅路益御機嫌克被遊御旅行、大殿様ニ者先月廿二日伏見駅御着、翌廿三日六半時御供揃ニ而仮御座船江被為 召、夕□□時頃直ニ川口御本船江被遊 御乗船、 殿様ニ者先月廿三日伏見駅江御着、翌廿四日六半時御供揃ニ而仮川御座船江被為 召、夕六時前直ニ川口御本船江被遊 御乗船、何茂恐悦至極奉存候段申越候、
 一殿様御儀、先月廿二日草津駅手前月輪御立場被遊御小休候処、兼而京都表江為差遣置候大坂御勘定方大塚義右衛門罷出、当時之形勢ニ者御同席様方之内段々御廻京 天機御伺有之、既先達而秋月長門守様ニも二夜御滞京之由ニ付、此度養賢寺隠居鼎州、京地江罷在手寄ヲ以、伝 奏坊城大納言様雑掌江 天機御伺之儀申上候趣ニ付、義右衛門儀も幸雑掌桃井筑前守与懇意ニ付万事相頼置候段申聞候、右ニ付直様夫々御用意申付候、同廿三日大津駅御発駕、京〓一里前蹴上御立場ニ而御服紗半御上下被為 召、坊城様被遊御勤、夫〓同所所司代様被遊御勤候、同廿四日当時両町御奉行様可被遊御勤之処、此度ハ御屋敷御着座無之ニ付御不快分ニ而御使者被差出候、                     」
(二月六日条)
「一二月六日、御留守居宮本又左衛門申聞候、此度 殿様御下向之節 御上京、坊城様江御太刀一腰・御馬代銀三枚被送、 天機被遊 御伺候ニ付、左之御届書助御用番井上河内守様江被差出候間、同人義御使者相勤候処無御滞御落手相済候段申聞候、
  伊勢守儀、今般在所江罷越候砌、御誘之儀御座候ニ付上京、 □坊城大納言様江御太刀一腰・御馬代銀三枚持参参上仕候処、御逢之上御沙汰御座候而、
  天朝奉伺御機嫌直様退引、京地出立仕候段申越候、此段各様迄申上置候、以上、
  二月六日                       御名家来
                                宮本又左衛門」
(二月九日条)
「一二月九日、御留守居宮本又左衛門申聞候、水戸中納言様〓御内々之御使御同朋山方南無阿弥ヲ以被 仰入候者、御家来鮎沢伊太夫儀、
 此方様江御預ヶ中長々厚御扱ニ相成忝思召候、依之為御挨拶左之御蔵版本一部、且御肴料金五百疋被送候、且又此度同人当表江御呼登ニ付、道中差添人御用人長溝保太夫始夫々厚心附致介抱候ニ付、是又為御挨拶御金銀被下置候段被仰入候旨、右南無阿弥被申聞候ニ付、委細御口上之趣 殿様御旅中江可申上旨、同人迄及御受置候段申聞候、尤御書物之儀者当時御摺立中ニ付、追而御出来次第御差廻相成候段、右南無阿弥被申聞候段申聞候、
  大日本史    一部
  御肴代     金五百疋
   白銀  七枚     長溝保太夫
     (以下略)                            」
(四月朔日条)
「一拙者共并御番頭共被為 召、旧臘御渡ニ相成候
勅書并 上意御書付写御家中之面々江拝見為仕候様被 仰出、依之攘夷御決定相成候得者何時異国之軍艦致渡来候程茂難計候間、平常武備専可相励旨委細 御書付を以被 仰出、 御書付被遊 御渡候ニ付御受申上候、
     (中略)
 一昨日為相触候通、御家中御目見格已上登 城、
 一何茂列座之上、御中小性已上一同呼出、旧臘 殿様被遊御拝見候
勅書并 上意 御書付御写拝見為仕候様被 仰出候、依之攘夷御決定ニ相成候得者、海岸重之御領分何時異国之軍艦致渡来候程茂難計候間、御家中之面々出張之□ニ及不覚悟之儀無之軍功有之候様、平常武備専可相励旨、拙者共〓申渡、…           」

(四月一一日条)
「一左之面々一同呼出、左之通被 仰付候段、拙者共〓申渡候、
   海岸防禦隊伍早々取調                  佐藤兵左衛門
   且又御台場之義ヶ所見立仕立方              阿南宗平衛
   取調候様被 仰付候、                  田原新蔵
                               佐藤佐治太夫
                               河治弘右衛門 」

(四月一五日条)
「一此度海岸防禦御手当武器修復料、拙者共江被下置候段蒙 御意候ニ付、御受御礼御直ニ申上候、次ニ御家中末々迄割合を以被下置候段、一統江可申渡旨被 仰出候ニ付御受申上候、
 一御番頭兵右衛門義、来ル廿五日乗船出府被 仰付置候処、当時海岸防禦御手当御用番ニ付、当年江戸勤番被成 御免候段被 仰出候付、其段拙者共〓申渡候処、御受済し候ニ付達 御聴候、
 一御番頭・御用人・御郡代・御目付共追々呼出、海岸防禦武器修復料割合ヲ以被下置候段被 仰出候間、早々武器可致修復旨、拙者共〓申渡候処、御礼済し候ニ付達 御聴候、 大殿様江御礼拙者共義 御直ニ申上候、其外者拙者共江済し候ニ付達 御聴候、
 一何茂列座之上、御中小性已上一同呼出、 殿様近々諸芸事可被遊 御覧、尤御目見格以下之者共茂炮術・剣術被遊 御覧候段被 仰出候、西洋炮術稽古之儀御家中之面々末々迄、師家阿南宗兵衛方江罷越致稽古候様被 仰出候間相励可申、且又海岸防禦武器修復料度々割合を以左之通被下置候段被 仰出候間、早々武器修復可致候、出来之上御目付共江相達可申、其上ニ而可及見分候、当時莫大御入用之中右様難有被 仰出候義を不顧、若他事ニ相用候儀相聞候節者、急度御沙汰ニ可被及候、御倹節之儀兼而被仰出候得共、当節柄故音信・贈答・宴会等御停止、衣類も成丈麁服可相用旨被 仰出候段、拙者共〓申渡候処、御受御礼済し候、

     (中略)
   金拾五両宛           三百石已上
   同弐拾両宛           弐百石已上
   同弐拾三両ツヽ         百石已上
   同弐拾五両ツヽ         百石已下
   同拾両ツヽ           御給人見習
   同拾両ツヽ           御中小性
   同七両ツヽ           同見習
   同七両ツヽ           御徒士
   同五両ツヽ           同見習
   同五両ツヽ           御目見格
   同三両ツヽ           同見習
   同五両ツヽ           足軽・水主迄廻勤迄
   同三両ツヽ           所々手代共
     (中略)

一高嶋流炮術師役阿南宗兵衛呼出、此節御家中末々ニ至迄、西洋流炮術稽古被 仰付候間、猶又稽古人引立、万一非常之節御用ニ相立候様相励可申旨被 仰出候段、拙者共〓申渡候、  」
(四月二四日条)
「一片岡為五郎義、此度御台場御築立御用懸可被 仰付様与相伺候処、伺之通被 仰出候ニ付、御番頭七郎右衛門〓為申渡候、  」
 「江戸先月廿六日之御用状着、」
「一三月十五日、此度英国船横浜表江渡来不容易之儀申立候ニ付、公辺〓追々御触達も有之候間、諸家様方御奥向者勿論御家中家族共俄ニ御在所表江御差立又者御下屋敷立退被 仰付、当時八九者御上屋敷在住者有之間敷、殊ニ市抔江者老幼婦女子之分者身寄之方江為立退可申旨被 仰出候事故、家財等日々持退近在等江立退、殊之外動揺仕候、右ニ付当御家中婦女子之分者、此上之模様次第一端広尾御屋敷江立退被 仰付候儀ニ者候得共、万一兵端相開候得者急ニ平穏ニ可相成程も難計、左候得者有限御囲米之儀往々之処甚以無心許候間、兼而御在所勝手被 仰付候面々者御下屋敷普請出来之程合も可有之候へ共、時勢柄之義右等ニ不拘御差立被 仰付可然歟、若又無拠他方引合等之儀未相済面々者、家内計出立可然、尤引料も被下置候儀ニ付、仮令借財向内証不行届ニ而も家内共出立者差支も有之間敷候間、前条之通被 仰付、此節柄之義ニ付席々少々ツヽ拝借金被 仰付差立可申、乍去故障之筋も有之、家族共難差立儀ニ候得者、非常之砌者御屋敷江為立退可申旨被 仰付可然与何も申談、其段御目付共〓席々江通達為仕候、  」
(五月一二日条)
「一熊本・竹田・臼杵・延岡江御使者被 仰付置候秋山庄兵衛・矢野程蔵儀、明十三日致出立候ニ付、左之御口上書拙者共〓相渡入念相勤候様申渡候、
   肥後
    …然者今般蛮夷御拒絶之段被 仰出候ニ付、海岸之領地何時襲来候茂難計御座候、成丈手勢を以掃攘可仕候得共、小身之儀故時宜ニ寄御援兵等奉乞候儀茂可有御座、其節者宜敷奉希候、…
   竹田
    …時宜ニ寄何角御頼可申義も可有御座、兼而御含置被下候様御頼申候、…
   臼杵
    …防禦之儀無御腹臓被仰合被下候様御頼申候、…
   延岡
    …防禦之儀無御腹臓被仰合被下候様御頼申候、…            」
*五月一〇日条によれば、秋山庄兵衛が延岡藩、矢野程蔵が熊本・竹田・臼杵藩への使者を仰せ付けられた(秋山の帰着は五月一九日条に、矢野の帰着は六月三日条に記事あり)。
(五月一九日条)
「中川修理大夫御内使者岩瀬辰之助、昨夜参着、
   今般英国軍艦渡来、不容易儀申立応接之模様ニ寄開兵端候儀難計旨、御沙汰御座候ニ付而者、万一之節者御互ニ唇岸之地形万端御助救御頼被成度、其御家来衆〓家来共江も諸事無御腹臓申談御座候様被成度被存候、此段以使者御頼被申述候、  」
(五月二六日条)
「一臼杵御家老共方〓村継ヲ以、去ル十日夕七時上筋〓蒸気船壱艘乗下り候処、亜墨利加船ニ相違無之、小倉御領ニ寄、田之浦〓下方致碇泊候処、既攘夷期限之期ニ候得共、何分矢先届兼候趣之処、松平大膳大夫様御軍艦無間茂上筋〓下り候ニ付、同方御家来衆江も被申合、御軍艦江乗船、同夜半過数度炮発之処、三発異船江打込、其余之儀者暗夜ニ而中り不申相分兼、破船之侭上筋江乗戻し、其後証跡相尋候へ共、雨夜之儀ニ付船影不相見候段、毛利左京亮様衆〓小倉表江為知有之候段、府内表〓致承知候旨為知申来候ニ付達 御聴候上相応之返報村継ヲ以差越候、   」
(六月朔日条)大炮鋳立のため鉄炮師雇入の件、大坂留守居今井鉄五郎に指示していたところ、大坂幸町一丁目中尾半次郎に決定。

560 (文久三年正月二日〜三月分) 御用日記
 冒頭に代替りの記事あり。これに伴い、例えば、
「殿様御事
  大殿様
 若殿様事
  殿様
 右之通可奉称旨被 仰出候」と、呼称の変更が命じられている。
(正月十二日条)参勤交代緩和令に伴う柳間詰取締の勤役方法について。

「御留守居共申聞候、松浦肥前守様・松前伊豆守様御留守居共〓之廻状昨夕到来之節、右写出之
 従来柳班之義者年功番頭之面々〓申談、初伺仕来候處、嘉永度ニ到り溝口——・中川——江取締、黒田甲——・藤堂佐渡守江加談被 仰付候以後者連綿与代り被 仰付罷在候、然處、今般参勤年割ハ寛々右同席五・六人宛…被仰出候、就而者取締四・五人ニ候得者、年割之内詰合無之向茂多方候得者、取締・加談之面々江問合候共、在所江罷在候得ハ往復之間機會を失勤向申談之儀差支可申者必然之事ニ而、甚懸念心配仕候得者、如何相心得可然儀ニ御座候哉、又者如前々同席一統申談勤務可仕義ニ御座候哉、當節差懸り御次第も御座候得者、當勤一統申談仕候處、何茂同意御座候間、此段務筆頭両名奉伺候、程能指図可被成下候、以上
   十二月廿五日                         松前伊豆守
                                  松浦肥前守
 御附札
  如前々同席中一統申談いたし取締向行届候様可被心懸候、尤取締被 仰付置候者在府之節者引受取扱候様可致候事   」
(二月九日条)安政大獄後に鮎沢伊太夫の身を預かっていた佐伯藩へ、水戸藩から謝礼として『大日本史』板本等を贈呈されたことを記す。
「…水戸中納言様〓御内々之御使御同朋山方南無阿弥ヲ以被 仰入候者、御家来鮎沢伊太夫儀  此方様江御預ヶ中、長々厚御扱ニ相成辱思召候、依之為御挨拶左之御蔵板本一部、且御肴料金五百疋被進候、…尤御書物之儀者當時御摺立中ニ付追而御到来次第御差進相成候段、右南無阿弥被申聞候段、申聞候
      大日本史           一部
      御肴代            金五百疋
(後略)                                  」
562 (文久三年九月〜十二月分) 御用日記
(九月十日条)佐伯藩は八月末に宇土藩と共に佃島非常警衛課役を命じられた。
「先月二十八日江戸御用人共方〓大坂迄四日切、同所〓中国路小倉迄四日切、同所〓當地迄二日半雇飛脚
 一八月二十七日   一今暁八ッ時御用番板倉周防守様〓御呼出ニ付罷出候處、公用人を以御書取被成御渡候付、奉受取罷帰候段——又左衛門相達候、右御書取写今便差越候(中略)
 一…今晩八時頃御留守居又左衛門御用番板倉周防守様〓御呼出ニ付罷出候處、今度非常為御警衛佃嶋御固被 仰付、細川大和守様も御同様被 仰付候間、申談相勤候様被 仰付候段、御用人共〓申渡候處、御受謁候…                     」
 これに対し佐伯藩は、少人数の出動であっても、海岸手広な領分の海防だけでも手一杯であるとして、免除の願書を提出している。
(十一月七日条)十月の生野事件処理に対し、警戒を促すべく海付を領する大名に宛てた西国筋郡代の達を留めている。
「日田御郡代屋代増之助様〓御内状ヲ以、但州ニおゐて浪士共猶又徒黨致乱暴候由、其上中国筋〓四・五十人致乗船候浪士共何方江致上陸候哉行衛不相知、方今上方筋於湊々者入津船之分悉相改候由ニ付、右浪士共四国・九州之内江可致上陸様之風聞有之、因而者當御領分船付之場所其外江自然致上陸候節者早速差押候儀ニ者候得共、若右様之儀有之候節者日田御陣屋江時日を不論可申遣旨兼而相達置候段、御飛札申来候付、達 御聴候上、御受取状飛脚之者江相渡遣、差返し候   」
563 (文久三年三月〜九月分) 御用日記
564 御用日記 元治元年                        一冊
 御用日記を後年写し取ったもの。「元治元甲子年、六月十六日ツヽキ、十二月マテ、仁」と冒頭にあり。
 下関遠征を前に偵察のため姫島へ来航した英鑑情報が記載されている。
「 七月五日
一、臼杵御家老方〓村継を以、先月廿三日夜五時過、杵築御領姫島南浦江蒸気船弐艘致碇泊候付、‥‥翌廿四日朝五時分ハツテーラニ而異人数人上陸、其内両人庄屋宅江罷越申出候は、英吉利軍艦ニ而江戸・横浜江参候処、長州懸合之筋有之罷下候得共、異船ニ而は難罷越候ニ付、漁船を以下ノ関迄‥‥押送呉候様強而申出‥‥押送遣候由、日本風之服ニ致着替、右之者共元長州之産ニ相聞、言語等右様相分候之様子ニ申出候趣、長州懸合相済候迄軍艦は同浦江滞船之旨、其外無心ケ間敷儀少も無之候得共、早速夫々御人数出張之段同所〓為知有之候旨府内表〓致送知候段為知申越候付、達御聴候上相応之致返報村継ヲ以差継候
  七月六日 一、日田御郡代窪田治左衛門様〓最合飛脚を以松平中務大輔様御領分豊後国姫島沖江英国之軍艦弐艘碇泊、異人共数人致上陸、右嶋人共を以申威、漁船為差出、防州下ノ関迄為押送、或は海岸致測量、‥‥早速治左衛門様彼地江御出張之上可申諭為退帆候音積ニ候、‥‥若乱妨之次第も候得は不被得止事、右御家来江及御差図可申、然処一小藩之儀ニ付御手当御行届兼、万一御国辱共相成候而は被成恐入候儀ニ付、援兵之儀兼而相心得居候様、尤右之趣江戸表江も申上被置候、依之諭書写相添被成差越候ニ付達御聴候上、於御請之儀は従是可申上段書状飛脚之者江為相渡差返候
  七月八日
一、杵築御家老共方〓飛札ヲ以先月廿三日夜五時過五十間位之蒸気船弐艘御領分姫島南浦江致碇泊……、右船先月廿九日暁一旦退帆之処、翌朔日八時分罷越同所江致碇泊候
  七月九日
一、(日田郡代への返報)当方之儀小藩之上、海岸之御領分[ ]佃島御固中之儀ニ而、別而御人少、迚も多人数出張仕候儀は出来兼候得共、差図次第御人数差出可申段御請書状‥‥
  七月十日
一、日田御郡代‥‥援兵之儀兼而相心得居候様頃日被仰越、御出張之処、其以前致退帆候旨彼方〓注進有之候ニ付、途中〓被成御引帰候段被成御申越候ニ付達御聴     」
 江戸からの御用状は、六月十一日に江戸を出た書状が七月十一日に国元着、七月十五日のものが八月一日着などとなっている。基本的には江戸から大坂へ(五日)、大坂から船で鶴崎へ回達され、雇い飛脚で佐伯までというルートが用いられていたようである。以下、記載を例示する。
「一、 七月九日 一、 御用人共申聞候、毛利数馬様此度野州表浮浪之徒為討手御出張被蒙仰付候ニ付、足軽一人・小人二人被成御借度御願之旨申聞候    」
「(八月一日)
一、臼杵御家老方〓飛札を以、此度京都表大変之趣久留米早打小倉表江向候処、順風無之ニ付日出表着岸相成風聞、実事は不相分候へ共不一形事柄故承候侭不取敢別紙之通同所〓為知有之候段、府内表〓致承知候旨為知申越候付、達御聴候上相応之致返報‥‥
一、久留米飛脚大塚慶助去ル十九日夕京都発足、同廿日大坂着、直様乗船、同廿一日安治御出帆、昨廿六日御着船上陸、直ニ久留米江出足仕候    」
「 八月九日
一、杵築御家老方〓飛札を以去ル朔日夕七時分御領分姫島浦江英国軍艦弐艘碇泊、同二日三日迄同国軍艦六艘・仏国同四艘・蘭国同四艘・米国船壱艘、是は軍艦ニ無之、都合十七艘同嶋江致碇泊居候処、跡一艘待合候模様ニ而、翌四日相揃候と相見へ、同日朝異船不残出帆、此節も長州江懸合筋有之罷越、来ル七日八日頃ニは掛合相済可申、模様ニ寄候而は戦争ニ可相成も難計、又候姫島江可致碇泊米船通詞青田喜三郎と申者申候由、尤長崎御奉行服部長門守様江神奈川奉行白石忠太夫〓之書翰持参候由申候
565 御用日記 元治二年(五月末まで)                 一冊
566 御用日記 慶応元年                        一冊
「 下札   側衆
伊勢守儀、子ノ例ニ而四月参府・翌四月御暇之家格ニ御座候処、御変革ニ付参勤割合被仰出候通、文久二戌年十二月廿八日家督後初而在所江之御暇被下置帰邑仕候、其後参勤割合御復被仰出候付、元治元子年十月廿七日在所表乗船伺済之通、為朝観十一月廿五日参内、同月廿九日京地発足、十二月十四日参府仕候処、慶応元丑年正月十九日至日光、梶井御門跡様御馳走人被仰付、同年三月十五日日光表江之御暇被下置、右御馳走無滞御勤、四月廿六日江戸着仕候処、御進発ニ付、中国・四国・九州筋之面々為参勤国邑発足之義見合候様、且人数備置可申旨被仰出も御座候付奉願、同年五月十五日在所表ヘ御暇被下度候、帰邑仕警衛手当罷在候、尤寅年参勤明年之処、参府頃合義ハ達次第参府仕候心得ニ御座候
                           御名内  赤木又左衛門」
「 六月十七日
一、‥‥日田御郡代窪田治部右衛門様〓左之通御達御座候ニ付、拾ケ村ニ而人夫十人・宰領壱人差添当表江差出可申、右ニ付人夫為引渡御預所付壱人差越可申之処、当時御人少ニ付御足軽壱人御貸渡可被仰付‥‥
   申渡
此度長防御人数御差向候付而は、御代官・御預所役人江兵粮其外持運等之ため、右人数ニ応し人馬付属無之候而は不相成候処、‥‥馬之儀は場所ニ寄差支候由ニ付、都而人足ニ代、村高千石ニ付五人ツヽ壮健成もの相撰、凡弐拾五人ニ壱人之当りを以宰領之もの付添、差図之場所江差出候様可申渡候                        」
567 慶応二年 御用日記                        一冊
 朱書で『写取可然也』とあり。ある時期に写しが作成されようとしたことがうかがわれる。
(九月一日)
「一、御番頭七郎右衛門儀、御前江被召出、中津表応接之節出役被仰付候間、万端入念可致指揮被蒙御達候付、御受、拙者共差合申上候
(中略)
一、何も列座之上御中小性以上指持医師共一同呼出、先月十七日於大坂表御老中稲葉美濃守様〓御留守居今井鉄五郎御呼出候処、小倉表江長州人度々襲来、小倉城及自焼候ニ付而は、中津表孤軍ニ相成防禦之術難行届候ニ付、自然同所江襲来之節は急速人数差出、応援可致旨御達書、公用人を以御渡相成候ニ付、万一中津表応援之節は出張御人数急速被差出候、右出張御人数帳面は御□□共江相渡置候間、可致披見、壮年之面々は別而砲術調練精出し可相励候、壮年之面々之内諸芸事度数付ニ名前不相見面々も有之候間、以後急度精出、此又相励候様被仰出候儀ヲ、拙者共〓申渡候処、御受済之候、御徒士已下江は右之趣—衛士〓支配々々を以為申渡候処、御受済候旨相達候段申聞候付、一同達御聴候   」
(九月八日)
「一、奥平—〓御使者罷越候趣ニ付、左之面々左之通可被仰付歟と相伺候……」
(九月九日)
「一、右竹下之旅宿江御用人坂本—罷越応対御口上之趣承手控相渡候付、受取委細可相達旨及挨拶引取候段、右外記出之候付、達御聴候、右御口上左之通
  伊勢守様江                          大膳大夫口上
秋冷之砌候処、弥御堅固珍重存候、然は小倉表江長州人度々襲来終ニ小倉城及自焼候趣候処、当城之儀ハ小倉近方之要地ニ候処、前条小倉自焼ニ付而は孤軍ニ相成、此上襲来候様ニ而は防禦之術難行届、依而援兵之儀御沙汰有之候様、大坂表江相願候処、未タ御指図無之、当節至急之折柄ニ付、猶又京極主膳正様江も右之趣申達候処、右方〓も大坂表江可申上候得共、切迫之場合ニ付、同所〓御沙汰有之候迄之処襲来等も致候ハハ急速応援之御人数被差出候様可致旨、右方〓も其御許様江被達候段、御達有之候処、此程従公辺右之通応援之儀被仰出候旨、大坂表〓申来候ニ付而は、及前条之次第候節は、宜御尽力被下候様致度、此段御頼御案内旁御使者申述候、尚委細使者江申含置候
一、前条御返答被仰遣候間、御用人坂本—旅宿江罷越、御返答之趣竹下佐右衛門江相達候様、右外記江申渡、御口上手控相渡候処、則罷越委細申述候処、帰国之上可相達談、御受済之候旨、相達候付、御聴候、右御返答御口上左之通
  大膳大夫様江                          伊勢守口上
秋冷之節御座候処、弥御堅勝被成御座珍重奉存候、然は小倉表江長州人度々襲来遂に小倉城及自焼候趣候処、其御城地之儀ハ小倉御近隣之御要地ニ御座候処、前条小倉自焼ニ付、此上長州人襲来候節は御防禦難行届、依而御援兵之儀御沙汰有之候様、大坂表江被成御願候処、未タ差図無御座、当節御至急之折柄ニ付、猶又京極主膳正殿江も右之趣御達候、右御方〓も大坂表江可被申上候得共、切迫之場合ニ付、同所〓御沙汰有之候迄之処襲来等も致候ハハ急速応援之人数被差出候様、右御方〓も弊藩江被達候段、御達有之候処、此程公辺〓右之通応援之儀被仰出候旨、依而前条之次第ニ及候節は、致尽力候様被成度、御頼御案内旁遠路態々以御使者被仰越候趣致承知候、当領分之儀は海岸重ニ御座候処、小藩至而人少防禦行届兼致心配居候、迚も御為ニ相成候程之儀は行届不申候へ共、万一之節は少人数ニ而も差出候様可致候、乍去遠境之儀急速御間合兼候儀も可有御座、此段は兼而御含置被下候様奉存候」以後周辺諸藩との使者の往復多し。
568 慶応三年 御用日記                        一冊
(二月四日)
「細川越中守様江
……御休兵後も小倉領ニは矢張長州人屯集罷在、折々及戦争候処、当時は小倉惣勢引払ニ相成候由、此段長兵自然蚕食仕候様可成行も難計、時勢切迫之趣中川修理大夫方〓承知仕、不容易次第、海岸之小藩防禦不行届甚心配被仕候……異変有之節は御救助之儀偏りニ奉願候 中川修理大夫様江
……委細御承知厚忝思召候、差図之通直様熊本表江御使者被差遣候段……」

(二月六日)
「一、臼杵表江御使者□申置候……手控左之通
……若異変有之候節は、兼而御頼被進候通御救助偏御頼被仰進候……  」
二月九日、久留島伊予守様御使者
二月十一日、稲葉右京亮様御使者
二月二十日、細川・中川江挨拶手控

569 慶応三年 御用日記                        一冊

570 (慶応四年〜明治二年 御用日記)                 一冊
内容は、慶応四年から明治二年。
(明治元年十一月十三日記事)
「一勢州度会判事〓切紙を以、御領分之百姓共三十家計被成御貰度旨、弁事御役所江差出候伺書写相添、到来ニ付、京都詰□頭太郎左右衛門〓相応之致返報候旨申越、右伺書写、切紙返報状写等、前条御使ニ夫々差越候ニ付、入 御覧候、
当府支配之農民遊惰にして往々貧困ニ及嘆ケ敷情態ニ候処、豊後佐伯毛利伊勢守領分地狭民多、殊ニ風俗質僕、力作ニ耐候由ニ付、壮健之者三十軒計相雇、右惰民策励シ、荒田墾僻為致度、尤様子次第ニ而者永住可申付候不苦儀ニ候哉、相伺申度、早々差図可被下候成、
   十一月                         度会府
  弁官事御中
其御領分、兼而民俗質僕強壮力作之趣承及候処、今般、当府(中略)旁以其御領民三十家計貰受度、尤当分ハ雇と申所ニ相成度候、因而弁事迄別紙写之通、一応伺置候間、宜承致被下御頼申入候也、
 十一月                  度会府判事
毛利伊勢守殿
   重臣中
(中略)
一前条ニ付伺所江被遣候百姓共人数吟味為申付候様、—七郎左右衛門へ申渡候   」
575 御用日記 明治三年                        一冊
「 九月十日
一、田中静衛儀、先達而発火操練ニ付於軍務局大監察官江対失言之次第有之趣達御聴候処、畢竟御役柄を軽蔑之段不埒ニ思召、依之差控被仰付候段被仰出候付、其段少参事山口啓佑〓為申渡候処、奉畏恐入候段‥‥   」
この処分をめぐり紛糾し、参事らが処罰される。
「 九月十九日
一、先日操練局ニ而田中静衛失言有無直方不調〓兵員動揺ニ立至、不埒ニ思召候、依之差控被仰付候    」
「 九月二十九日
一、英武隊兵員一同罷出此度之事件ニ付
殿様江奉掛御心労候段奉恐入、如何様之御咎被仰付候共可奉畏候旨申出候付、達御聴候
一、何も列座之上前条兵員一同呼出、昨日参事共夫々御処置被仰付候ニ付而は、‥‥全参事共不行届故之義ニ付、於兵員は別段不被及御沙汰被仰出候段拙者〓申渡候処‥‥ 」
「 十月二十三日
一、今晩七時頃土屋六右衛門名代親類村山良七・英武隊兵員両三人罷越申聞候、同人倅健蔵儀、昨夜四時頃自殺仕候、事件之義は不奉存候得共、此段不取敢御届申上候、猶隊中動揺不仕候様奉願候段六右衛門〓之口上書差出、隊中〓も左之通口上書差出候付、達御聴候
   口上書
土屋健蔵儀、昨夜四時頃自殺仕候趣、‥‥忽隊中衆議仕候処、此内学校定員之衆ト隊中兵士三十七人之中ヲ反覆仕候相談も有之趣に相聞へ、同人殊之外心痛之趣ニ御座候由承知仕候、此段不取敢御届申上候、以上
  庚午十月二十三日                 英武隊兵士三十六人  」
「 覚
一、疵口咽
  左之方〓右之方江三寸程
  其侭打伏候ニ付上ノ方江
  切上り、深サ三寸五分程
    右は土屋健蔵疵相改候処、書面之通ニ御座候、以上
  十月二十三日                              」
「 十月二十四日
一、英武隊兵員一同此度之事件ニ付殿様江奉懸御苦慮候ニ付、奉恐入謹慎仕度段申出候旨、軍務総裁戸倉六郎兵衛申聞候付、達御聴候処、被遊御聴被仰出候付、其段右同人江申渡候    」
「 閏十月二十七日
一、何も列座之上、英武隊・雄武隊役員、英武隊兵員一席両三人ツヽ、大砲役人両三人呼出、今般従朝廷藩々石高は草高を不称、物成ヲ以可称、雑税本石高ニ可詰込段被出候付、追而兵制御立替被仰付、夫迄は暫解兵被仰付候間、尤諸役人も是迄之通相心得候由、余は不被仰付候、銘々文武所志之芸事可相励旨被仰出候段、拙者〓申渡候‥‥     」
「 十一月九日
一、拙者権大参事幾作侍座、歩卒将共一同御前江被召出、今日御不審之面々御処置有之候付致警衛候様被仰付、御上段下東之方御杉戸際江為相控候
一、右畢而、上中士廿二人被召出、左之通被仰付候段、御直ニ被仰出候処、奉恐入畏候段御受申上候
                          田中静衛(ほか八名)
先達而病気と偽他藩江罷越、藩之名を売り、銃器買入之相談等致し、或は脱走を進メ、其他不審之儀不少、依而御城内江禁錮被仰付候
一、右相済、御廊下〓御稽古場通り御書蔵向役所江暫為相控候、尤歩卒将并ニ二ノ御居間江為相控候面々致警衛候
一、右□局囲出来之上同局江為致幽閉候                    」
「 十二月十五日
一、臼杵藩庁〓飛脚を以、日田県弾正台出張所〓之回章左之通昨夜差越候ニ付達御聴候、且相応之致返報飛脚之者差返候
(森藩参事から岡・杵築・日出・府内・佐伯各藩参事宛)
近来浮浪之徒豊後路辺各所ニ潜伏シ、時ニ出没暴行ニ及ヒ候段日田県・中津藩〓届出候ニ付テハ、近傍地方官管内取押方厳重ハ勿論、臨機兵威ヲ以処置可致候
  庚午十一月                           太政官 」
「‥‥藩士之内九人別紙之通浮浪之徒ヲ藩内江密ニ引入、或ハ脱藩シテ右之徒ト会合シ、金子ヲ差贈、又藩制ヲ犯シ、市店等ニテ粗暴之所行有之、旁幽閉申付置候、先日御達之儀も御座候ニ付、此段御届申上候
  庚午十二月廿一日                       佐伯藩  」
三月に弾正台(巡察使糾弾所)の取調があり、四月二十七日付で藩へ御預けと決まる。佐伯藩ではその取扱いについて伺書(省略)で確かめている。糾弾掛の付け札回答は以下の通り。
「付札  幽閉所三奥之間江一人ツヽ差置候儀は過当ニ候処、我侭之儀申出候段不相済次第、此上我侭申募候へは一間二人ツヽ入置候而も不苦候付札  幽閉所江酒差送候儀は厳禁ニ候
筆墨等入遣候儀は堅不相成候
衣服飮食之儀は其藩之規則も可有之候
沐浴之義は其藩之規則も是可有之候間、見込ヲ以被差計候            」
D—�(海陸日記)
18 御参勤海陸日記 梶西平馬・関谷藤蔵                 一冊
 元治元年十月から十二月までの藩主参府の際の側用日記。十月二十八日出船、十二月十四日品川着。十一月二十日伏見着の条に、次の記事有り。
「一、此迄御参勤御下向共ニ京都西本願寺〓御使者を以御進物御見舞等被仰付候ニ付、此方様〓も御使者贈物等遣来候処、嘉永三戌年江戸御屋敷御類焼後、厳敷御省略之廉を以以後御断、前広大坂御留守居〓掛合置候処、右掛合之通相済候段、兼而御留守居〓相達候ニ付、嘉永五年子年御参勤之節より不差出候                   」
D—�(江戸・在所往来用向覚)
36 従江戸来御用状留                          一冊
 慶応三年九月二六日発国元宛江戸状より慶応四年三月二九日発国元宛江戸状を綴り込んだもの。例えば九月二六日書状は、九月一二日より二五日迄の江戸の諸件を報告している。幕府からの廻達もあり。大阪迄は正五日か六日限飛脚便、大阪よりは「例之通早便船」で逓送している。大政奉還上表は一〇月二一日に江戸では達せられている(一〇月二四日便)。
 薩邸焼打事件は、一二月二八日便により、左の如く報ぜられている。
「    当月二十五日
 一今朝五ツ時頃〓三田辺出火之処、炮声相聞、市中騒々敷ニ付、火元見足軽差出候処、罷帰申出候は、諸家様御人数甲胄着込釼鎗抜身ニ而大小炮相備、薩州侯御上屋敷并小山嶋津淡路守様御屋敷取囲戦争罷在、不容易趣申聞候付、其段権助〓又左衛門江相達、何も相談之上、御並合も御座候付、通用御門潜〆切、御家中高下出入差留、御屋敷内火之元入念為相触候様、御目付共江申渡候
    同二十七日
 稲葉美濃守〓御渡書付
 当節悪徒共市中致暴行、且野州其外おゐて徒党を結、不容易事共取行候付、此程夫々御召捕相成候処、右同志之者共松平修理太夫屋敷内ニ致潜伏居、去ル二十三日夜、市中為御取締出張罷在候酒井左衛門尉人数屯所江乱入、炮発ニおよひ候所行難捨置、同人江召捕引渡之儀及掛合候処、理不尽ニ発炮ニおよひ候付、無余儀戦争相成候、就而〓猶脱走之輩も難計候間、右様之もの及見聞候ハヽ、速ニ召捕、自然手余候ハヽ討捨之上早々訴出候様可致、万一見聞候共、其侭ニ差置候者〓可被所重科候、
 右之趣、御料私領寺社領共不洩様可被相触候、
 右之通、万石以上以下之面々江可被達候、
  十二月                                 」
 鳥羽伏見戦争は、一月十六日便により、左の如く報ぜられている。
「    (一月)十日
 一御留守居又左衛門申聞候、松浦肥前守様京極佐渡守様稲葉右京亮様御重役壱人宛西丸江罷出候様、大目付川村信濃守様〓依御達、昨九日罷出候処、於大広間二ノ間御同人様〓御別紙之通御口達有之、
  御一統様江も御内達申上候様御達御座候付、御通達申候段、右御留守居共〓之廻状、今朝一柳対馬守様衆〓順達之旨、権助江出之候、
  御用談有之候付、重役之家来壱人宛、明九日西丸江可被差出候、依之申達候、以上、
      正月 八日            川 村 信 濃 守
    大目付川村信濃守様御口達
 去ル三日、上様為 御上洛、御先手会津松山姫路等罷出候処、先方〓炮発致し候哉、是〓炮発致し候哉、何分碇トハ分り兼、全御用飛脚致到着候儀ニハ無之、飛脚屋〓申出、併戦争〓慥ニ相違〓無之候得共、勝敗も分兼候、此程薩州動揺之節、船ニ而迯延候族も有之、海路陸路共襲来も難計、何分戦国と相成候心得ニ而、屋敷之人数厳重可致置候、唯今ニも彼等襲来候も難計、此段無急度拙者〓御咄申候、御同席様江も御内達被置候様、尤御用状到着致し候ハヽ、何れ御一統江御達可申候得共、此段御心得迄御達申候事
    十二日
 一御留守居又左衛門申聞候、稲葉美濃守様被成御渡候御書付写四通、大目付様〓到来ニ付、則写相廻候段、関伊勢守様溝口誠之進様衆〓之廻状、昨夜書付到来之旨、権助江出之候   」
四通の内、�酒井雅楽守加判、�立花出雲守老中格、�諸向普請等不要の出費禁止令、あと一つを左に示す。
「    大目付江
 松平修理大夫奸臣共、兵仗を以宮闕ニ迫り奉、侮幼主、私論を主張し
 先帝御委托之摂政殿下を廃し、妄ニ宮堂上方を黜陟し、或〓家来とも浮浪之徒を語合、屋敷江屯集、江戸市中押込強盗致し、酒井左衛門尉人数屯所江炮発乱妨、其他野州相州等所々焼打劫資ニおよひ候証跡分明ニ有之、殊ニ此程
 御上洛之前路を遮り炮発乱暴、終ニ去ル三日より京坂之間不容易事態ニ押移候段、大坂表〓注進有之候、此段為心得相達候
 右之趣、向々江可被達候
  正 月                                 」
 ところで、慶喜等が開陽丸にて「今十二日四ツ時被為在還御」との報知が、同日「夕六ツ時」達せられたので、担当者が西丸に出頭、そこで稲葉美濃守と小笠原長行が、左の通に演達する。
「上様御事、去ル六日大坂御乗船、同八日御出帆、今朝四ツ時還御被遊候、右之御趣意〓、旧臘尾張大納言殿松平大蔵大輔下坂
 上様御上洛被遊、京都御取締被遊候様被仰出、其後御催促も有之候付、御上洛之思召ニ而、去ル三日御先手御人数、鳥羽街道為御差登之処、四ツ塚関門ニ而長州薩州人数相固居差通不申候付、御先詰之訳を以談判中、彼方〓炮発に及候付、其侭にも差置かたく、不得止戦争に相成候得共、不意被討候事故、終ニ敗走操引ニ而引取候、然ル処
 朝廷江薩長〓反逆起候段及奏聞候様子ニ而、朝敵之趣、大坂ニ而被成御承知、全朝敵ニ被為成候訳〓無之候得共、一旦被仰出候上〓、彼是被仰立候而も御申訳之様有之、戦争〓猶更不宜候間、御使番ヲ以、戦引揚候様御下知ニ相成、一先還御之上御策略も可有之、篤と御評議之上、尚又御上坂、朝敵ニ而無之旨被仰上、奸賊を御拂被遊候思召ニ而、一先
 還御被遊候、実ニ恐入候事ニ候、此以後、猶更憤発、忠勤ヲ尽候様可致候、    」
 二月五日便で、始めて慶喜恭順の態度が報ぜられる。即ち一月一九日、板倉伊賀、稲葉兵部より左の如き「御口達」あり。
「京坂戦争之儀、薩長〓炮発ニ及候儀、元〓朝敵之義ニ〓無之候処、朝敵之汚名ヲ蒙り候、残念之至ニ候、就而〓恭順御謹慎之御取計思召候、其上届兼候節〓、尚御取計之品も可有之候、右之心得ヲ以一統勉励、忠勤ヲ尽し候様御頼ニ候            」
 二月二〇日便で徳川宗家と諸大名との関係の変更が報ぜられる。即ち二月一四日に左の如き「覚」が達せられる。
「王政復古被仰出候付、万石以上之面々、以来万事御取扱追々御改可相成候間、為心得万石以上之面々江可被達候事                          」
 なお、この御用状から、又左衛門が佐伯藩江戸留守居、権助が留守居助役、また田原新蔵が大坂留守居なることが判明する。
37 江戸大坂より来候御用状留                      一冊
 表題とことなり、慶応二年一二月二九日発国元宛大坂状に始まる、大坂及び京都御用状を国元で綴り込んだもの。最後は慶応三年一〇月二五日発京都状(京都御用達木村源三郎より大坂留守居田原新蔵宛)である。大坂発のものは財政関係が主で、政治的情報の報告は見当らない。京都状は内容あり、左に二通を示す。一つは一〇月二二日付田原宛木村御用状である。
 「(前略)今夜亥ノ半剋、伝奏日野大納言様〓御用ノ儀在之候ニ付、留守居又は家来之内即剋罷出候様、雑掌ヲ以御呼出相成候ニ付、直様用意仕、即剋罷出候処、於御広間ニ雑掌山科筑前介殿ヲ以御書付御渡ニ相成、昨日一同御達可申筈之処、未御冶定不被為在候ニ付、則唯今御達申候、早々御上京可有之候様御沙汰ニ候旨被申聞候、依之右御書付、三時限雇飛脚ヲ以御下申上候、早々宜御執計可被成下候、
 一右被召候ニ付而は、前便ニ申上候通、不取敢御旅館ニ甚心痛仕候、寺院之向は京都は不及申、近在迄も諸家様〓最早不残御借入に相成在之候ニ付、殆差当此儀ニ当惑仕候、譬如何様に相成候共、御用意之儀に付御借入に相成不申候而は御不都合共、乍恐奉存候に付、明早朝〓此儀可成丈穿鑿可仕候、乍去猶余之儀共何角一同ニ宣御差図相待申上候、
 一右御用に付、私早々下坂仕、何角万端可申上存候得共、何分当所壱人之儀に付、何時如何之御用辺も難計御座候に付、不止得急御用状ヲ以申上候、此段宜御承知可被成下候、何分にも当月中旬已来昼夜御用多ニ而、甚々当惑仕候、幾重にも宜御賢察之程奉願上候、
 一昨日御所司代松平越中守様〓中川修理大夫様御留守居衆御呼出ニ而、去ル十七日
  御所江被仰立之処、下ヶ札之通被仰出候ニ付、此段御同席中江回達候様被仰付候間、則中川様〓今夕方御回達在之候別紙写之、御下申上候、               」
 二つ目は一〇月二五日付田原宛木村御用状である。これは、同日伝奏に呼び出され、「早々御上京在之候様」との指示を受けたことを述べた上で、左の如き文面となっている。
「一右は表通如此御達に相成候得共、内実今度諸家様御上京之上ニ而、如何之変動に相成候哉も難計候儀に付、何方様にも一際多人数御上京、其上武器等も成丈御用意可在之様子に風説も在之候に付、此段乍序申上候、
 一御旅館之儀、日々種々穿鑿仕居候得共、何分にも諸方共一時之儀に付、明寺院之向更ニ無御座、町家之向も先年大変後、間広之家建等は無御座、実以心痛仕居候、依之勝手相知候者抔江も申付、所々吟味仕、或は疾外様〓御借入に相成在之候分ヲ、手筋ヲ以御振替之儀頼込、種々探索仕候得共、先今以壱ヶ所も取扱候儀は無御座、呉々も当惑仕候、乍去所々江申込置候分も在之候に付、猶追々可申上候、猶又御宿料之儀も、可相成は先年
  御朝覲之格ヲ以相談仕度存居候処、諸方之風聞問合候得は、此度は迚も先格ニ而は六ヶ敷由にも承り、是又心痛仕居候、   」
38 江戸大坂へ差越候御用状留                      一冊
 大坂宛の国元発御用状。37と内容的に対応しているもの
39 京都木村源三郎より差越候御用状留                  一冊
 �一〇月二一日付田原宛木村御用状
 �一一月一八日付田原宛木村御用状
 左に一二月九日付田原宛木村御用状を示す
「(前略)従御所御用之義有之候間、昨八日正午ノ剋無遅ニ御仮建所江罷出候様、伝奏日野大納言様〓中川修理大夫様御留守居御呼出ニ而、其旨御同席中江も廻達候様被仰出候に付、巳ノ刻頃御廻達有之候に付、夫〓用意仕、巳ノ半刻〓御所御仮建所江罷出候処、諸御大名様方大小に不拘不残御呼出之処凡二百三四十方程罷出申候、尤別紙之方々様も御参内有之候、夫〓戌ノ半刻頃迄相扣居候処、議奏伝奏衆御列座ニ而、御書付二通御直に御渡有之、内壱通〓
 皇国人心一和ヲ被思食、寛大之御所置ヲ以防長之義大膳父子其外末家共官位如元、入洛御免、今壱通〓、外夷〓申立之一条、右二ヶ条之内、防長御所置之分、猶諸藩銘々之見込之儀等有之候得〓、無伏臓御答可仕候様被仰渡候、然ル処、中に〓御重役衆罷被出候向も段々在之候得共、何分にも大事件に付、即答難仕段御断申上候処、衆議被為有候御儀に付、今日罷出候者之見込之次第を是非即答仕候様、再応強而被仰出、甚一同心痛仕候、夫〓銘々最寄最寄談合仕、御同席様三十方様程申合、別紙之通文面連名ニ而、子半刻頃差出申候而相扣居候処、寅半刻頃又々議奏伝奏御列座ニ而、即答之趣被聞食候、大同小異〓有之候得共、何分人心一和ヲ深被思食候御儀に付、其旨篤と拝承仕候様と御直ニ被仰聞、御書付壱通御渡有之候、偖又外夷一条之儀、事甚々切迫に及候に付、九日巳ノ刻迄ニ見込之趣、書取ヲ以本役江言上仕候様被仰聞候、右に付又々談合仕、文面取極候、其後卯ノ刻頃最早退出ニ而不苦候旨、非蔵人ヲ以被申聞候に付、一同退出仕候、右御渡之御書付類、弐百余人之中に五通宛御渡に相成、余〓銘々写取候儀ニ而、其上御仮建所間狭に付、中々混雑筆紙ニ難尽候、右ニ付、乍立写取候に付、今朝改見候処、段々誤字脱字等有之、相分兼候ニ付、猶相改候上、早便御下可申上候、何分壱人ニ而行届兼、此段不悪御承引可被成下候、乍去御趣意〓荒方前文之通ニ而御座候、
 右之次第柄に御座候に付、此段追々御用之義有之候節〓被召候儀と奉存候、且前文之次第も此余委細に文面にも書取兼候義等有之候に付、何分にも此書面着次第、早々何方様も御上京被成下候様奉頼上候、
 巳ノ上刻前文之通外夷一条見込難申上候段、伝奏日野大納言様江書取持参罷出候処、御所九門内、何角甚々騒々敷体ニ而、薩州候も俄ニ御参内、其余尾州様芸州様〓昨日〓御参内之侭御退出も無之候、私も今朝引取候後、又々何角と急変之儀等出来候哉、市中〓今にも御所辺に発炮有之抔と申合、唯今騒動真最中に御座候、尤薩州人千人程繰出、中に〓着込抔ヲ着し御築地辺ヲ厳重に警衛致居、如何之次第ニ而候哉、委敷承り度存居、相分り次第早速可申上候、二条於御城にも、少々御手配有之候様子風評も有之候、何卒御静謐奉誓願候、  」
40 江戸大坂より来候御用状留
 慶応三年一二月一八日発国元宛田原御用状より明治元年一二月一五日発迄のもの。但し、人の動きと手紙の動きはわかるが、内容は一切わからない。
41 京都大阪へ差越候御用状留
 慶応四年一月一四日国元発御用状より同年一二月二八日発のものまで。但し内容はここからは一切わからない。
42 従京都来御用状留
 慶応四年三月一九日発国元宛御用状から始まり、同年一二月迄のもの。内容が詳細であり、この年の佐伯藩の動きが日をおって判明する貴重なもの。以下、御用状に示された月日に従って、内容を左に示す。
三月一一日 殿様京着
三月一四日
「殿様被遊御参内、鶴之間脇仮御建所江御着座、御使番を以非蔵人御呼出、天機被遊御伺、暫して虎の間江参与御出座相成候付、同所敷居内江中川様御一同被遊御出候処、天機不被為替段被仰渡相済、御復座、加州様〓松浦様江御宸翰并御誓文被成御渡、御番之御組々ニ而被遊御内見、御取締松浦様〓御書付被成御渡、二番組ニ御番入相成候、九ツ半時、非蔵人〓為知申参候付、紫宸殿江御一同被遊御出、弁事之衆御習礼申上候而暫被遊御休息候処、八ツ時頃又々非蔵人〓出御前之為知有之、直様紫宸殿御板椽階際江御着座之上、御祭祀御餝付等有之、暫して出御、天神地祗江御拝被為在、議定参与之御方様〓御誓紙相初り、中ノ御柱〓御壱人宛御膝行ニ而被遊御出、天神地祗并玉座江御向御拝、敷呉座上に御着座、御誓紙ニ御実行被遊御認ニ上、又々如前御拝礼、夫〓仮御建所江被遊御帰座、夜五ツ時過御機嫌能被遊御帰宅  」

三月一五日
 (従来留守居方の者)富小路江旅宿罷在候処、(伊勢守上京故)五条坂袋中庵に移宿の旨届
三月一六日
 天機伺参内
三月晦日
 用達木村源三郎、始めて御目見
四月一二日
 江戸屋敷の家来三十余人引払いの旨届
四月一五日
 聖護院村操練場調練のため
 目付  国矢藤右衛門、古賀直衛
 教師  平野左橘
 司令士 西名亀之丞
 半隊同 間作平
 嚮道  桑原駿蔵、羽野三太左衛門、梶西左織、矢野文雄

 銃隊  袋野直紀、田中市郎太夫、浅沢鴻之丞、今井捨次郎、梅田実、川野左嘉衛、高橋熊太、古川済、井沢半左衛門、岩崎九兵衛、山崎四郎治、
 外に足軽二一名、太鼓三名
閏四月一七日
 貢士野村脩左衛門の旨、弁事役所宛届
閏四月二四日
 留守居平野左橘、留守居助役長谷川績
閏四月二五日
「此度徴兵差出方之儀御沙汰相成候ニ付、三ヶ年之間軍防局江被差出候段被仰付候、諸藩入交り之儀ニ候得〓、謹慎第一ニ礼譲厚く、他藩江対シ聊不作法成義無之様相心得、非常之節〓為朝廷専ら抽忠勤上、御不外聞に不相成様、精々可申談旨被仰出候、尤軍服并月給御賄等ハ、従朝廷被下置候段御沙汰ニ候間、左様相心得可被申候、        」
 この際の徴兵は六名、総て士分の者。即ち、間作平(二一歳)、西名亀之丞(二一歳)、矢野文雄(一九歳)、浅沢鴻之丞(二〇歳)、古川済(三〇歳)、矢野儀六郎(二一歳)
五月二二日
 軍資金当正月分二百両、陸軍局宛上納
七月六日
 徴兵交代。臨時に差出す新たな人名は、衛藤順左衛門、児玉郁太、山田儀助、衛藤穆太郎、寿平(足軽)、琢治(足軽)
七月一二日
 徴兵交代で国元に差戻す人名。衛藤順左衛門(三六歳、徒士並)、山田儀助(二四歳、歩卒、以下同じ)、衛藤穆太郎(一九歳)、児玉郁太(二四歳)、佐藤寿平(三〇歳)、加藤琢治(二二歳)
八月一二日
 元徳川両番毛利数馬、勤王京着届。七月一六日東京出立、八月一〇日着京。
幕府より三〇〇俵、内分一八〇石。
八月一九日
 在京の藩兵(進義隊)は、隊長一名、銃隊二一名、役付四名、但し英式。
在京の役人は、重臣一名、留守居一名、勝手方一名。
八月二九日
 毛利伊勢守宛行政官御沙汰書
「其藩旧来御預之御領所豊後国海部郡十ヶ村高二千百四拾三石、追而何分之御沙汰被仰出候迄、租税等日田県へ可差出旨御沙汰候事                  」

九月四日
 大坂より「徴士水筑小相、公議人竹中武之丞其外御差登御人数、昨三日致着坂、明五日夕、船ニ而可致上京旨」連絡。
九月八日
「                        私儀
 先般徴士三河国知県事被仰付、難有奉畏候、右御請申上候
   九月八日             徴士 水筑小相
  弁事御役所
       覚
 一昨七日京着仕候ニ付、三河表江何日頃出立可申儀ニ御座候哉、
 一於三河表月給御下渡被仰付候儀ニ御座候哉、
 一書役之者、当御地ニ而被仰付、同道仕候儀ニ御座候哉、兼而三河表ニ而被仰付置候儀ニ御座候哉、
 一於彼地何方江着、止宿仕候而宜敷儀に御座候哉
  右之趣奉伺候、以上
   九月八日             徴士 水筑小相
  弁事御役所                               」
九月八日
 平野左橘は従前留守居、公用人と御改になったので、此者に申付云々
九月八日
 竹中武之丞、公議人として七日京着の旨届
 軍資金九月分、二百円、八日に差出し
九月一九日
 水筑に宛て、「三河県知事被免、鎮将府出仕被仰付候間、早々東下可致事」との行政官達あり。二六日出立予定。
一〇月二七日
「                        長谷川七十郎
 右之者、為銃練稽古、平元良蔵方江入塾仕居候処、昨二十六日退塾仕候、此段御届申上候、以上
     十月二十七日             御名内 明治琢磨
   軍務官 御役所                            」

一二月五日
 毛利数馬に対し東京下りを命ぜられたが、小祿御奉公難行届、何卒家臣之列に相加え、御用を勤めさせたい旨願出、許可を得る。
一二月一九日
 水筑小相、下総知県事被仰付候段、申越候、
一二月二〇日
「御呼出ニ付、(竹中)武之丞儀、弁事伝達所江参朝仕候処、矢野程蔵儀、御用有之、御雇被仰付候間、東京江出仕可申付、且武之丞儀も御用有之、御雇被仰付候間、知県事水筑小相支配所江出仕可申付旨、御書付二通、大原少将殿〓御渡相成候段申越候、右御書付且写共差越申候、   」
 右の如く、竹中が東京において雇となったため、かわりの公議人として千葉左司馬を東京に派遣することとなる。
一二月一七日
 操練場で調練、内訳は、高瀬藤兵衛(教師)、羽野沢衛(半隊長)、千葉左司馬(嚮導)、薬師寺喜真多(分隊長)、阿南勇(小隊長)、銃隊三一名、楽隊五名、隊長代兼補備は桑原駿蔵、欠席は不快で大石盛之丞、淳助(足軽)、亦蔵(足軽)、御用欠席は佐藤拙蔵と淳蔵(足軽)。
 なお、水筑小相は秋月橘門(淡窓高第)のこと、橘門の子が秋月新太郎(劉士新)である。水筑は矢野文雄の父矢野光儀が郡代兼町奉行として牧民に通じていたので下総によびよせ、明治三年一月一二日、光儀がかわって葛飾県知事となり、明治四年一一月には岡山の深津県令(のち小田県)となり、明治七年に辞任する。

E(藩財政)
29 領地租税録                            竪一冊
 明治二年四月時点での佐伯藩の総高、及び年貢収納高・小物成総額を五年分の平均値で計上したもの。
「 高弐万石
     外
   新田高改出高
    高千九百五拾弐石弐斗壱升四夕三才
  元治元甲子〓明治元戊辰迄 五ヶ年平均
正租納高
一米七千六百弐拾六石三斗七升
一金壱万弐千八百八拾四両
一永四百六拾八文壱分六厘
  右二口、米ニ〆弐千弐百三拾弐石五斗二升五合
   右定免之分
 同断
雑税納高
一金四千八百四拾六両
一永八拾三文八分三厘
     右内譯
  千五百拾壱両八百三拾三文三分                 網運上
  千八百拾八両四百八拾五文                   帆別運上
  九百四両三百弐拾七文                     小物成運上
  九拾四両六百拾四文壱分                    野開地運上
  九拾八両百六拾文六分                     酒屋運上
  五拾八両五百四拾六文六分                   塩濱運上
  三百六拾両百拾七文二分三厘                  諸漁運上
     内
金千六百六拾四両
永九百九拾四文
     右内譯
  千五百拾壱両八百三拾三文三分                 網運上
  九拾四両六百拾四文壱分                    野開地運上
  五百八両五百四拾六文六分                   塩濱運上
  右定納之分
 此外年々不同ニ御座候
右之通御座候、以上
  明治二己巳四月                        毛利伊勢守」

F(法令・法制・達)
35 慶応三年正月より御触書写帳                   横帳一冊
 中身は、慶応二年十二月〜同三年十二月。大目付触がほとんどだが、大目付廻状・同席触で流されたものも多い。
(元治元年)
「八月二十四日
一 牧野備前守様御渡候御書付写、大目付土井出羽守様御触付ニ付、北条相模守様・藤堂佐渡守様衆〓之御同席触左之通
 大目付江
松平大膳大夫家来とも、迫
禁闕炮発候条、不恐
天朝次第、殊ニ父子之軍令条家来江遣候始末、重々不届之至ニ付、父子共官位并 御一字 御称号被 召放候旨 被仰出候、此段為心得、向々江可被達候、
    八月                                」
「   五月
水野和泉守御渡御書付并御別紙写共、大目付有馬阿波守様〓御触書左之通、
   五月十六日    大目付
弐拾壱御名殿奉
    右留守居
   大目付江
毛利大膳父子
御裁許、去ル朔日別紙之通名代之者江於芸州表申渡、尤申渡之趣早々帰国主人江申達候上、来ル廿日迄ニ請書差出候様相達候、 右之通、大坂表御供万石以上以下之面々江相達候間、向々江可達候、
    五月
                            毛利大膳
                            毛利長門
                            毛利興丸
   (下略)                               」
47 廃藩ニ係ル指示写
 「臼杵藩」罫紙。廃藩令をうけた豊後国諸県よりの熊本県への問答書。あわせて回答も留められている。
「今般廃藩相成候処ニ而は、大参事以下本官ヲ被免候処ニ相心得可然哉、又ハ在官之心得ニ而可然哉
     但、追テ御沙汰候迄、其事務取扱之儀者御達之通勿論之事、
    一書面ニ認候節、何県大参事何県大属抔ト相認不苦哉之事、
 一追而御沙汰候迄被差延候事件ハ扣置可申候得共、指向之賞罰賑恤其外是迄知事致裁決来候件々之分は、大参事致専断不苦儀ニ可有之哉、
 一旧藩正権大参事并大属東京詰之義は、進退如何相心得可然哉、
 一兵隊ノ義ハ追テ御沙汰有之迄、従前之通指示可申哉、
 一東京其外江官費ニ而文武修行申付差出置候書生之類、其侭差置不苦義ニ御坐候哉、
 一官員官禄、先ツ其侭ニ而可然哉之事、                   」
   右之事件御問合ニ及申候也、
 回答は、下紙にて左の通
「在官之心得ニ而可然ト存候、但書面ニ認候節、御問合之通何県大参事并大属ト相認候而可然ト存候、右以下何分之御沙汰被為在候迄、是迄之通ト御心得可然ト存候、  」
48 御藩制御布告階級官禄家禄定官員順次
 明治四年正月制定の、職制、禄制にかかわる詳細な規定

49 新県取計心得
 明治四年一一月のもの。「佐伯藩」罫紙。
「一廃藩之参事総テ新県之場所江呼寄会合之上、万端宣布致照会、将来之目途可相立事
 一廃藩之場所ハ総テ出張所ト見做シ、従前之通管轄内事務為取扱可申事
    但、事務ハ総テ従前之通据置、細大トナク為申出、不都合之廉々ハ釐正之見込可相立事
    附、出張所等ハ成丈ケ箇所少ニ引纏候様見込可相立事
 一廃藩之大小参事、奉任以上ハ新任権参事之次席タルヘク、判任之向ハ総テ新任之相当次席ト可心得事                               」
G(軍事・徴兵)
1 (第二次征長出兵を命じる老中御書付)
(包紙)「御老中稲葉美濃守様〓御渡御書付入」
(端裏書)「  毛利伊勢守江」
「                           毛利伊勢守
豊前国小倉表江長州人度々襲来、小倉城及自焼候ニ付而ハ、奥平大膳大夫城地之儀孤軍ニ相成防禦之術難行届候ニ付、自然同所江襲来之節ハ急速人数差出応援可被致候、  」
2 御請書
(包紙)「御請    毛利伊勢守」
「中津表江自然長州人襲来候節者急速人数差出応援可仕旨奉畏候、右御請申上候、以上、
                              毛利伊勢守   」
3 口上書
「中津表江長州人自然襲来候節者急速人数差出「可□旨」(抹消)可致応援旨致承知候、当領分之儀海岸手広之処、小藩人少ニ而防禦行届兼致心配居候得共、万一異変有之節者小人数ニ而茂差出可申、乍去遠境之儀急速之御間ニ合候程ハ難計、此段兼而御含置被下度候、
             上包
              御口上  伊勢守                」
  口上覚書の控。
4 口上書
「私領分之儀海岸重ニ御座候ニ付、夫々手当申付置候得共、小身人少ニ而行届兼、当時勢心配仕居候、若遠境江人数差出候節者、海岸者勿論城下防禦茂難行届甚心痛仕候、右等之義兼而御含置被下候様、此段申上候、以上、                  」
5 口上書
「私領分之儀海岸重ニ御座候ニ付、夫々手当申付置候得共、小身人少ニ而行届兼、当時勢甚心配仕居候、遠境□(江ヵ)人数差出候節者、海岸者勿論城下防禦茂難行届御座候、可成御義ニ御座候者領分防禦専らニ被
仰付度、此段奉願候、已上、                         」
6 御書付写
(包紙)「御書付写」
「  覚
一今般諸事簡易質素ヲ用ひ、別紙帳面之通変革申付候間、堅く相守弥文武相励可申候、人少之事ニ候得者尚又農兵仕立候義当今之急務ニ候間、早々可申付候、右手当茂有之殊ニ早春已来莫大之入用ニ而勝手向必至与差支候趣ニ付、家中扶助之内何れ与歟申付度候得共、多年差出□□□□(折レ)一統難渋之趣相聞候故、難及[  ](折レ)沙汰、依而我等手元始格外省略申付候間、何れ茂検(カ)節相用当今必用之武器相貯、非常之節不覚悟無之様平常士気可致振起、勿論粗暴ニ不相渉互ニ礼義正敷謹慎肝要之事ニ候、右之趣家中末々迄不洩様可申渡候、以上、
 辰(安政三年ヵ)
  五月
                                  家老共
                                  中老共
                                  番頭共 」
13 御上屋鋪・広尾御屋鋪海防御用御武器御改帳              一冊
 嘉永七年、御武具奉行。具足類・弓・長柄(一〇筋)・中柄(五筋)のほか、御持御鉄炮五挺(一〇匁筒二挺、八匁筒三挺)・百目抱筒一挺・三匁五分筒一〇挺。
14 広尾御屋鋪御武器改帳 嘉永七年四月 御武具奉行           一冊
 槍一〇〇本以上、銃砲は皆無。
21 松平加賀守家中 千石以上書付                    一冊
 分限帳(千石以上分)。
23 御行列帳 文久三年二月                       一冊
「御参内之節二条御城〓施薬院迄并神社仏閣江御参詣且堂島門御上り場〓大坂御入場之節御供建」
24 〔軍費宛行面付〕
25 (包紙)「上   英武隊兵員三十六士」
(表紙)
「明治三庚午年閏十月 奉願口上書
   英武隊中兵員三十六士名百拝」
「 奉願口上書
先般御藩内動揺ニ付、官員相欠、今以御撰挙アラセラレス、人民帰スル所ヲ知ラスシテ危急存亡ノ秋故、総ヘテ君意ヲ遵奉シ、去ル十四日異変不仕口上書差出候処、返テ御混雑モ之レ有ル哉ニ相聞、‥‥去ル十月十六日戸倉総裁ヲ経テ差出シ候建言書並ニ同二十二日差出候口上書御下ケ被仰付度、伏テ願ヒ奉り候、‥‥爾後ハ万事進退方向ヲ定メ口ヲ閉シ、政庁ノ御指揮ニモトツキ献言等モ不仕、操練ニ志ヲ纏ヒ、事変ニヨリ出兵等候節ハ心力ヲ尽シ、身命ヲ擲チ候存意ニ付‥‥‥‥
  明治三年庚午閏十月十八日                        」
26 (表紙)「建言書 英武隊兵士」
「一、会計局ニ大小参事出局アリテ判談シ又ハ度支ノ事ヲ論スルヲ廃シ、惣テ議政庁ニテ決議アラセラレ度事
  (中略)
一、今般参事ト兵士議論ノ事
但シ四参事知事公ヲ無キ者トナシ、大参事ヲ軽蔑スルカ故ニ、其上達シモ之レナク政庁ヲ騒動セシメンコトノ罪ヲ唱ヘ、戸倉総裁ヘ申出ルノ処、‥‥隊外ノ藩士ハ参事ノ罪状・隊中ノ事体承知之レナクテハ御下問アラセラレタリトモ奉答書ハ差出シ難シト奉存候、昨日御下問ヨリシテ隊中も二ツニ離レ藩士分体ノ形勢ニ立チ‥‥
  午十月十六日                  毛利金次郎(以下三六名)」
27 兵員并炮銃、弾薬、兵員数取調帳 辛未十月 佐伯県          一冊
 常備兵は歩兵六〇(士三〇・卒三〇)・楽隊卒七を含む英式一小隊。ほかに予備歩兵二〇・大砲十二門、うち仏朗西四斤砲四門・一五拇砲二・拾二斤加納砲二・仏朗西忽微砲三・六斤加納砲一。小銃四〇〇挺、雷管三一万二〇〇〇、摩軋管五千など。
28 官員兵隊人数並分評官禄俸金取調帳 明治四年十月 佐伯県       一冊
29 現石人口常備兵隊大砲小銃員数 午三月                一冊
 現石高7626.37石、人口67512人、うち士族937(男436・女501)・卒族1247(男613・女634)。常備兵員は、歩兵二小隊(一隊六〇、役員十三)・砲兵一分隊(一五)・騎兵なし。大砲は四斤施条砲二門。小銃は短電銃四百挺。
30 〔定〕                               一冊
 G—29の書式雛型。
31 七口掛り等写
 明治二年のもの、�賞典禄の各人の高書付、�京都七口、即ち丹波口、長坂口、鳥羽口、粟田口、鞍馬口、大原口、伏見口の名前書付
32 西南戦争ニ係ル古賀直衛書状
 明治一〇年六月一六日付のもの、東京宛か。
「客月二十五日、重岡口〓初而賊三百名程襲来、同二十七日朝賊一同重岡迄引揚ケ候処、同三十日又々侵入〈此度ハ四百名程之由〉之処、士族ヲ皷動スルノ模様有之候得共、士族ハ大概遠近在浦ニ遁迯シ、不得已残リ居ル新士族ノ内〈旧卒族ナリ〉老若ヲ合シ凡百名余賊ニ随心之趣〈心服スルモアリ脅従スルモアリ〉、市街ノ騒擾ハ筆紙ニ難尽、御推察可被下候、同三十日竹田城落去、去五月十三日〓同城下ニ屯集ノ賊同城ニ拠ル、竹田村ノ士族ハ十ニ八九賊ニ随従ス、竹田村士族邸并市街共不残焼失之由、本月一日賊臼杵町ニ襲来ニ付、警視隊ノ巡査ト臼杵士族三四百名程ニテ防戦ノ処、遂ニ敗走、臼杵市中ハ半方兵火ニ羅ル、其後官軍追々操込相成、同八日臼杵ニ屯集ノ賊ヲ進撃、官軍大勝利、賊ハ三重の市、川登り、重岡辺、各所ニ出没、即今ハ日々官軍討撃有之候得共、賊之惣勢二千余有之故、迚も十五六之間ニハ平定ニ到リ間敷ト推考罷在候、佐伯村ノ士族〈旧上士旧中士〉ハ、十ノ七八ハ大分町佐賀関其他各所ニ遁迯致シ申候、何分旧卒ノ内ハ過半賊ニ随従シ、大義名分ヲ弁セサルモノ有之、不相済次第御坐候、既ニ藤田春競、富沢闊吉、小原到一〈喜多左衛門ノ忰ナリ〉ノ三名ハ賊ニ随従ノ上、□木村ヲ徘徊シ、官兵〓捕縛ニ相成申候、客月大分町〓得御意候通リ、小生ハ先月二十五日、佐伯村遁迯、同二十六日県庁ニ出頭後、日出、別府等各所ニ出没、賊難ヲ避ケ居申候、佐伯村ハ賊従退去ノ趣ニ候得共、未佐伯警察署并同区裁判所ノ人員モ同村ニ難入込、依テ区務所之吏員ハ于今県庁下ニ避ケ居申候云々    」
33 京都残兵隊一切御取消伺書
 明治元年六月一八日付の弁事役所宛佐伯藩伺書。しかし附紙には、「在所表ニ可備置兵隊百人之内、三分之一京都ニ差置、余ハ引取不苦候事」とある。
34 徴兵交代願書
 軍務官役所宛佐伯藩伺書。国元から交代の人員上京故、残置兵隊と交代させたき旨願書
�(武学)
11 銃隊操練手続                            一冊
 横小帳。雷管銃段階の調練号令書。
17 中嶋流火術昼夜合図稽古打業書 嘉永六年               一冊
 師役佐藤兵右衛門
18 〔覚〕                               一紙
 安政四年閏五月十四日付の家老申渡。
「 覚
一、甲州流調練・越後流調練一昨卯年稽古いたし候様申付置候処、昨年来留守中甲州流調練稽古無之、……此度〓在所ニ而も越後流調練稽古之節は家中末々壮年之者惣領二男三男厄介足軽共奉公と存、兵学之趣意不構稽古之節出席可致
   閏五月十五日                             」
【先哲史料館】
大分県先哲史料館、および大分県公文書館は、大分県立図書館とともに新しく作られた史料保存機関である。このうち、府内藩記録は、維新史料室でもすでに調査済である(『所報』十七号)が、先哲史料館に移管されており、今回改めて閲覧状況について調査した。あわせて新収史料についても閲覧した。
府内藩記録
甲388  日記 御用留
(慶応四年正月二十七日)
「一御家御一大事之儀ニ付、今日又々御目見格迄惣出仕、朔日申述候通、徳川家朝敵と相成、且御譜代御三家様方、段々勤王と被相成、既ニ仁和寺宮様征討将軍ニ而進発被遊候程之御時合、且江戸表江之通路一切不相成、進退度々廻り勤王に無之様而者、朝敵と相成候付、勤王不相成候而者、国家損亡之一段ニ付、御養子を貰受、勤王ニ押立候歟、又者江戸江身を粉ニいたし候而も御膝元迄罷出候歟、又者何れ迄も御普代を言立候歟、右三ヶ条之処、一ヶ条存奇書差出候、外記(家老岡本外記)〓委細及演舌候」
(同正月二十九日)
「一今日も又々惣出仕之儀及沙汰候処、何れも罷出候付、外記演舌、右朔日御養子之儀、一統江談判ニおよひ候得共、疾と相考候得者、此時合ニ至候而者、何分御他家江養子御取組申義ニ至兼候付而ハ、評決之上左之通増沢与衣之丞殿(留守居家老増沢虎之丞男・元藩主近儔曾孫)御事御血統之事故、此説〓改而与衣之丞様子奉称、一藩之御指揮被成下度、御家中者不及申、小前末々迄、其旨相心得候様、左之通書付を以及演舌、町・郡奉行へも触書相渡之、
 今般天下之形勢一変、西海道御列藩為
 天朝御尽力御為在候付、御当家ニおいても(中略)
 殿様御儀、関東ニ被為在、此節御変革ニ付而者、為
 天朝御為尽御心候御事と者奉存候得共、東西隔路、書信之義不任心底、何分御帰国と申訳ニ参り兼候間、増沢与衣之丞殿御事、正敷御血統ニ付、此節〓改而与衣之丞様ニ奉称一藩之御指揮被成候間、御家中者申ニ不及、小前末々迄右之通相心得、勤
 王之志気奮発仕候様相心得候と申者也、
     辰正月                              」
 当時藩主松平近説は若年寄在任中。二月六日若年寄を辞し、三月二十三日には京都にて謹慎。一方、増沢与衣之丞は、二月二十六日薩摩藩主の使者に対して、藩主に代わって新政府側に付くことを誓約した。与衣之丞は藩主家を継ぎ、近道と名乗る。「旧府内藩事績」にも関連記事あり。
岡本家文書(寄託文書)
 一九九五年の開館時に県立図書館から移管された文書(五〇一点)。府内藩大給松平家の家老を代々勤めた岡本家及び府内藩の諸史料。前回の出張では〔施政・日記〕(188〜235)を閲覧・調査している。

〔藩内情勢〕
375 岡表江御使者往来勘定帳写 慶応三年一二月         横半帳・一冊
「卯十二月十八日出立、同廿六日迄往来道中入ヶ勘定」。使者は上原五十馬。
376 薩州御使者一件 慶応四年二月一六日            横半帳・一冊
「 薩州ヨリ御使者
            地方千石
            役料二百石  園田彦左衛門
            御側役
            地方三百石
            御側目付   久保田新治郎
            役料百石
                    右両人持参、
   御布告書
天ニ無二日地ニ無二王是天地ノ大経万世ノ通義ナリ、往時皇国衰弱ノ弊ニ乗シ徳川氏兵馬ノ権ヲ掌握セシヨリ以来
王室愈不振其漸終ニ 至尊徒ニ虚器ヲ擁シ給フノミ、……速ニ去就ヲ決尽力竭忠共ニ可翼戴
王室ヲ首鼠両端ヲ抱テ擬議猶予スルノ族ハ邪正曲直判然タル天裁アルベキ者ナリ、
 十月                            嶌津中将
  右御請
方今
御大政御変革ニ付而ハ列藩為

天朝御尽力被為在候折柄、於弊邑も一同戮力尽丹忠可申処、左衛門尉儀関東ニ罷在、山海阻絶、俄ニ帰国仕候儀出来不申候処ヨリ一藩奮発勤
王江決議仕、左衛門尉帰国迄私指揮ヲ受申度段
朝廷江奉懇願候儀ニ而既ニ御親兵ヲモ乍聊登
京為仕置候、扨今般ノ
御布告謹而拝見仕候処、一々感泣仕候儀ニ御座候、右御布告左衛門尉江拝見為仕度候得共、東西隔絶仕居候ニ付、急速ノ運如何可有御座哉、同人帰国ハ勿論勤

王可仕、仮令帰国不仕候トモ於私赤心報
国ノ外他念無御座候、依之御請如斯御座候、謹言、
 慶応四戊辰年二月十六日                   増沢虎之丞
                                    近篤判
…長門守孫増沢虎之丞儀、左衛門尉帰国迄摂位仕、一藩指揮ヲ受
朝廷ニ奉願上置候義ニ御座候、…
 年号月日                          岡本主采判
岡本外記判
 園田彦左衛門殿
 久保田新次郎殿                              」

377 岡并熊本御使者手続 慶応三年正月二日           横半帳・一冊
 慶応三年正月二日に国許を出立した中川修理大夫・細川越中守宛の年始御祝詞使者の日記。使者は上原五十馬。
378 岡表御使者勤書 慶応三年一〇月二九日           横半帳・一冊
 中川修理大夫への使者上原五十馬の日記。慶応三年一〇月二七日から一一月四日までの記事あり。末尾に「御使者之模様書取差出候様御筆頭御沙汰ニ付、左之通書付差出ニ付留置之」として、一一月付上原五十馬の「岡表御使者荒増」を記し、他に中川修理大夫よりの返答や、岡藩士小原隼太と京都見聞次第等を密話したとの記事などを記す(この密話については「繁雑ニ付口上ヲ以申上之候」とあり具体的な内容は記述されていない)。

379 於佐賀之関御使者日記写                   竪帳・一冊
(奥書)「文化六己巳年
       二月吉日     上原氏
     又明治二己巳年
        九月吉日虫喰損候ニ付再改写之、
                 八代
                   上原景義」
 高鍋藩領漂着唐船の長崎引送につき佐賀之関において使者加勢を勤仕した記録。

381 (藩内情勢)                       横半帳・一冊
(冒頭)「薩藩奈良原幸五郎ト申仁御供頭之由、足軽弐人召連、当月廿日之夜京都出立、翌日大坂〓早船借切、昨夜四ツ半過鶴崎着、艮刻御郡代詰所ニ参、小川方ヘ内話之大意」
「当月十七日
主上被 仰出与有之、中川宮様外ニ何某様与歟〓会津様・薩州様へ非常之覚悟ニ而早々
禁庭江人数差出候様と之御達ニ而、非常之覚悟与有之候得共、戦争之外無之、…」
 文久三年八月一八日の政変に関する情報。
「…薩州御少人数其上前文奈良原与申仁者京表迦し候身分ニ而無之候得共、此一大事飛脚ニ而御国元江申越候而も事実貫兼候上、薩州侯ニも此方様被 仰談、近々御人数御繰出有之哉ニ承居候処、前条之変事差起候而者、弥以覚悟研窮之筋も可有之儀ニ付、右御人数御差立已前ニ是非鹿児島ニ駈付候存念ニ而大早打ニ而出立いたし候、尤兼而小倉路通行ニ候得共、不容易御書付等も所持いたし居、小倉路通行甚不安心ニ付、不案内之道筋なから当所着之上者宿々無支様御世話御頼談仕候心得ニ而、当所を目当ニ致渡海候間、熊本迄之駅ニ人足継立及延引不申様、偏ニ頼入候与之相談有之候、且右一大事最早熊本江も御注進者相達居可申候得共、不容易事件ニ付急迫之内なから熊本ニ而者兼而津田山三郎与申仁知音ニ付、同氏宅江立寄、段々之次第ハ具ニ相咄、役筋江被相達呉候様可申談相含居候由も咄いたし候ニ付、前段之通ニ候得者、三条様を始長州侯等最ニ外夷拒絶と御唱之御方々此ニ御不首尾之方ニ而も有之候哉、且即今之形勢ニ而者如何成行可申見込ニ候哉ニ被尋候処、御内輪之御様子ハ一切聞取候儀も無之候得共、此節御書付御渡之内ニ攘夷之儀ハ兼而叡慮ニ有之候得共、今般
御親征等之儀を御触立有之候処、右様之儀者、
叡慮決而無之御模様之御文面有之、長州御受持場御免抔ヲ以相考候得者、何れ御不首尾歟と被考候付、此末大変ニ至り可申哉、又正議之御方之御出現ニ而却而此侭平穏ニ相成可申哉も難計与存候段返答いたし候、不軽気喘之様子ニ而急速人馬手当被申付申処、暁八ツ半頃此元出立、尤宿々大津迄ハ大早打ニ而人馬手当先触も仕出申事、
 奈良原権門駕ニ天秤仕懸両掛壱荷、足軽弐人・馬弐疋迄之由也、
  亥八月廿五日                              」

[風聞書・その他]
383 (風聞書)(国内一般情勢)
384  風聞書
387  山口藩上書写 未一月
388  日記(京都情勢) 慶応四年一月一日〜
389  杵築藩集会議事其外共備忘 明治三年一〇月一六日
393  対馬守宅江銘々家来呼被達書付写 五月二九日
394  御勘定奉行久須美佐渡守様江差出候処… 一二月二日
395  雑書 安政二年
607 (国内情勢及幕府達写等)
608 (口上その他)

清長家史料
94—051 御郡代様御巡見御供弐番日記 清長公英            一冊
 西国筋郡代窪田鎮勝(元治元年〜)は、もと熊本藩関係者で、その後幕府郡代に転じた。慶応元年彼が支配地域の北九州一帯を巡見した際、巡見に随行した熊本藩士一行の日記。
 四月十五日〜十八日、熊本滞在
(四月十八日)
「早朝豊殿拝神、朝飯後小子に限出、両人御供桜井町小堀氏江行、暫く雑談御酒、午飯仕舞、夫より長六橋を渡り田中氏江行、御酒午飯又候仕舞、尤当家小性頭ニ而千石高也、芸子両人出誠大賑ニ而、夕六ツ時頃駕籠ニ而御引取、実心痛付候、」
四月十九日、出立
(四月二十二日)
「朝飯後殿様他肥後□海岸御見分、小生御供支度致岡□町御通行ニ而御立寄、裏道通海岸付御見分相済、又候寺江御引取、午飯弁当相済、西磯辺通り御知行右浜ニ而稽古連中五拾人余りニ而野試合、源平ヲ定、頂ニ木壱寸角之板を付、右板割候を勝利と定、両度試合跡稽古歩合を分候ニ付、殿様御意ニ而、小生、荒木円蔵、吉村尽太郎右両人試合致し、他富川、萩原、中村、小崎皆々試合致し済跡、同士稽古相済、先生木戸新三郎・荒木円蔵、右両人ニ而形二本遣ひ引取、御帰陣   」
(四月二十三日)
「殿様小生寝所江御入、御意色々、牛深江御見地江御出張ニ相成申候、尤御供富川・萩原・荒川、右両人也                              」
(四月二十五日)
「午飯後殿様御帰陣、勿論御乗船ニ而、岡□西の浜江御着岸、御玄関迄出迎、殿様も殊之外御大病、其侭御伏、小生、謹之助按摩ニ罷出、夫より小生は岡野様行、夕飯ヲ頂き引取、又候按摩ニ罷出申候、医師は吉川外壱人御伺御薬献上之事。尤萩原・富川共風邪、肥後大砲方は暫く牛深へ滞留ニ相成候由ニ御座候                  」
(四月二十六日)
「殿様も今朝は余程御快方色々御咄し御座候ニ付、会所江挨拶ニ罷出、暫時雑談、跡而配札之儀御咄申上引取居候処、別船壱艘相見へ候ニ付、多分江口先生御出之     」
(四月二十八日)
「殿様日田江御帰陣之上当所出立之由ニ相成申候、夫より引取居候処、殿様〓御召ニ付罷立候処、色々被仰付候義有之候                        」
(四月二十九日)
「午飯仕舞、長崎行荷物打揃、尤明日小生御先番相勤候ニ付預候、繁船夫々役義申付、猶又色々殿様江御伺之上相済、今日御白洲ニ而も賊御吟味             」
(四月三十日)
「朝飯後荷物相調、五ツ時御供揃、即刻会所〓御乗船、小生は肥後生と同船、御先番ニ而小生相勤、三里程順番ニ而通船……正九ツ時茂木江御着岸、同所庄屋宅ニ而御休……小生御先番ニ而案内壱人召連出立……山ヲ越長崎市中懸りニ而松尾亀兵衛御出迎、油屋町通り東中町西照寺江着……高木作右衛門殿〓使者小生取次……」
(五月二日)
「四ツ時より製鉄所江見物ニ罷出、尤惣人数三拾七人也、其筋江引合船ニ而渡海、誠ニ言語ニ難尽御座候……夫より同所見物済、同神主宅ニ而昼食仕舞、右船ニ而大浦ニ上り、商館見物致し、夫〓原□□方へ暫く立停同人案内ニ而唐館委細見物致し候処、唐人共余程和語相分り申候、尤酒店又候豆腐屋菓子屋も有之候、夫より丸山江行        」
(五月三日)
「御出立市中通行山路ニ懸り峠ニ而御小休……茂木村関所ニ而御印鑑ヲ出通行、同所庄屋御昼食相済、□前仕ニ而御乗船、小生は元〓共一同乗船……岡富御陣屋江七ツ着船 」
(五月四日)
「朝飯仕舞、御長屋江暇乞、□□町より蒸気道具取寄仕懸ケ見物致し、午飯仕舞、……御役所ニ而大庄屋共皆御呼出し御吟味、殿様も御立聞、小生共も立聞致し候処、全寺院出入候義ニ付、余程議論強く、右庄屋腰懸迄引取らせ居候処、殿様〓御役所詰一同御呼出し、猶又御議論強く……柴田氏御立入ニ而夜分半時迄ニ而漸く相片寝         」
(五月六日、乗船、佐敷に着)
(五月七日)
「同所(佐敷)出立、峠ヲ三ツ越、吉村庄屋宅ニ而御小休、……相良越前守御城下江七ツ半時御着、……又候処殿様〓御召罷出、按摩九ツ半時迄、甚迷惑仕居候      」
(五月八日、飯野着)
(五月九日、野尻着)
「尤辺鄙故頓と言語不相分、此内改事色々御座候、尤婦人共三十才以上は黄帯、赤腰〓、帯下裾模様付有之、誠ニ見悪事ニ御座候                    」
(五月十日、本庄着)
(五月十一日、都農着)
(五月十二日、高鍋着)
「都農出立……御用状到来、尤将軍様今十六日御進発之由申参候、……秋月と御支配堺有之同所御郡奉行御付添……八ツ時頃高鍋□着     」
(五月十三日)
「朝飯後細嶋御台場御見分、……御台場は秋月長門守殿御受持壱ヶ所、内藤佐渡守殿御引受壱ヶ所、都合弐ヶ所御座候、尤内藤様御筑立は余程念入丈夫ニ有之候   」
(五月十五日)
「朝飯後稽古試合御謁覧ニ相成、都合拾六人程、尤先生は黒木房之助と申し、延岡藩中之由、同人共は格別出来申もの無御座候……午仕舞御陣屋出立、是より延岡迄平地壱里行……延岡城下渡辺榮太郎と申町年寄之宅江御宿陣   」
(五月十六日八戸、十七日小野市、十八日竹田)
(五月十九日)
「同城七ツ時出立、其前殿様江御暇乞ニ罷出候処、色々と厚蒙御懇命、漸く御意一才奉畏候   」
94—052 慶応二丙寅六月初六御征長御供出張ニ付陣中日記        一冊
横小帳に細字で記入したもの。表紙に「禁他見、窪田治部右衛門内清長公英蔵」とあり。記主は六月七日に日田を出立、九日に小倉表へ到着している。
「 十七日 晴
暁七ツ時分〓大炮発頻ニ相響夜明迄百発も相聞候、依而朝飯仕舞老中屋敷江御登城ニ相成候処、専ら田の浦江戦争被始候由注進、諸家軍兵何れも出陣之用美々敷事ニ御座候
田の浦放火、宮路浦共敵蒸気船ニ而五艘焼払之上、陸戦三百人余上陸之由、原三左衛門殿打死、幸松丸殿大里迄引退キ申候、大炮・小荷駄共不残被奪取候由
千人隊之内弐百五拾人出陣ニ相成候
不意ニ押寄ニ而候得は死人も不少由ニ御座候
午後飯後御登場御供、未戦争不相止、火煙殊之外大相ニ御座候
八ツ半停止
‥‥‥‥
  (七月)三日 晴
暁七ツ時〓大炮響、四発目ニ不寝番〓申出候共、左候処中々間を相聞候ニ付、早速支度致し荷物相片付用意致し、朝飯仕舞居候
‥‥敵長之賊徒軍鑑弐艘ニ而白木崎江炮発致し居候内、引嶋嶺頂ノ台場〓破裂丸ニ而大里江打懸、焼立候小船ニ而賊徒押寄、上陸合戦相始メ候、尤小倉勢先日之勢を繰替、弐四六と出陣之処、追々切戦、小倉引退キ候内、田の浦江屯候徒山越ニ而伏勢横合〓打懸り、依而喰留兼敗走、赤坂村迄引退申候、敵鳥越迄押寄来リ候由、遠江侯も出陣、殊之外血戦之由、同勢五十人も討死之由、都而死人・怪我人百人も有之趣、長州ニ而も多分出来候由、其内船ニ而双方〓海陸大砲之取合有之候、敵船江山手〓肥後勢大砲五、六発も打候得共、都而前後ニ落不当、久留米台場〓も同断、五ツ時久留米勢五百人も赤坂手前江繰出し候敵□裏手山〓大砲取懸候得共不届、公義御船勝角丸〓も六発も引嶋江打懸候得共、丸不届候、四ツ時頃敵船は公義御船弐艘之中を通り無難ニ而□海口江相迫り申候、九ツ時頃戦争休、敵も大里辺迄引退キ候由、小倉勢壱番手嶋村之手ニ繰替相始候就中敗北、久留米勢江押寄炮戦、是も敗走之由、尤敵勢働候は武者七、八十人も有之、□合印は小倉合印を付、旗印は細川侯江似セ居候由、此義小倉勢〓細川勢江注進、依而細川勢弐千人繰出し候由、長浜出張先ニ而見聞致し候、夕刻賊徒安達山越え致し候噂ニ而、千人隊曽根村江繰出し候、援兵柳川侯二百人□川〓繰出ニ相成候、‥‥
  四日
‥‥大里戦場跡江見物ニ罷出候由、不当之ものニ而候、家数六軒焼残り居候、家主之もの共引取、大ニ悲嘆いたし、火抔消し致候もの鑿出居候由、甲胄を付候死人四人程土地江捨有之候、夕飯後広隆寺座敷天井〓物音致し候由、三百人余之人夫驚馳り出申候、壱人も不残ありて出怪我人も両三人‥‥逃去候ものも有之候由」
94—053 日田表出張日記                     横半一冊
(表紙)
「 慶応三年
 御郡代様被遊御上坂御用濟御機嫌
 能御帰陣為御窺日田表出張日記
  丁卯二月廿三日
          清長公英  」
 記事は二月二十三日より三月十一日まで。二月に郡代窪田は中津方面から日田へ向かい、二十四日に帰陣。窪田は翌三月三日、天草幕領巡視へ出立。この間、日々酒宴を催す記事が目立つ。以下、日記に続けて記された「抜書」の内容を掲げる。郡代発言などの情報を留めたもの。

「殿様御目見之節、宇佐郡有馬殿江御預りニ相成候事件御演舌御座候
 大樹公御手元御入用□中金三百両試御検約之御事
 主上崩御御病症御疱瘡ニ被為在候
 太子様御即位之御事未御疱瘡御煩ひ之御跡御見不申候由
 教英館人数譬有馬殿江御預りニ相成候共、決而動揺ヶ間鋪無之様被 仰渡候事
 三條殿以下御帰京・御復位相成候由
(中略)
 兵庫御開港相成候事
 志賀様始御役所向并一般何れも此度宇佐郡混雑可致与専ら噂有之候
 細川侯御預り日州并直入郡、此迄高松御預り之分 』松浦郡嶋原侯御預之由
 先般處々御陣屋諸家江御明渡し之砌、天艸并日州丈者其義無之、尤日州ニ
 而者原様殊之外御立服、延岡より義論相立一切取合不申由
 都而諸家〓出務之向御入用御遣捨之由
 有馬殿〓扶持方
  志賀氏〓百五拾俵、岡田様・脇谷様・佐藤様七拾俵宛
 有馬殿〓制勝組江御扶持御附ニ可相成候処、殿様〓御断ニ相成由
(中略)
 有馬殿ニ而も是非教英館者一廉御取立ニ可相成様、三松氏〓談判有之候
(下略)                                  」
志賀等の人名は郡代手代で、原は日向富高詰手代(『県令集覧』)。

可児家文書
 可児家は大分府内藩の砲術家。
25合衆国書翰ニ付存念書 嘉永六年八月中旬
 可児忠之丞の上書。アメリカ側の言い分を「随分程能く和順交易して可然様に候得共」と述べた上で、「精く考るに、是全く彼レが謀書にて、若シ一箇も許し給ふ時は大災を可生乎、其故如何となれば、彼国実に交易を願ふの所存あらず、文面にも心得有べし」と指摘する。しかし、現実には「世上一統花美之風義ニ募り、武備の実意は薄き近世の人情ニ有之間、公儀〓最前に御見置の御上使を被差出候而、日本国中の御全備を可被成置候筈之処、御厭ひニ而乎、是迄御沙汰無之は返而日本の愁ひとも申べく、其故去る酉ノ年阿部様御渡之御触并御口達之御趣意に、日本惣国警衛向御手当全備いたし居り候ハヽ、今度浦賀ニおいひては彼ノ船御打払可被成」と考えざるをえない。そこで、「今〓早々厳敷御手当有之、日本の海岸を城郭となし給ひ、当年中に全く用意を調置、来春〓追々彼国の軍船又は外国〓譬へ如何程充満蜂起して及戦闘候共、日本神国武国の尊厳を穢さざる」ようにしたい。そこで、砲家への手当が薄いので増額して欲しいという内容。
35(可児流砲術由緒)
「抑当流は荻野家之砲術、大坂天満組与力荒木新七より田原氏晴初而伝来し、是則当国の開基なり」とあり、文久元年から慶応元年までの訓練の記録あり。
【大分県立公文書館】
 県立公文書館の内、明治初年のものを左に示す。
○太政官伺書類
 明治元年から二年一二月迄のもの。
明治元年九月の処に左の記述あり。
「勅授 三等官以上、奏授 五等官以上、判授 六等官以上、徴士可為五等官以上、但弁事直達、六等官以下、御雇ノ類、但官長ヨリ直達、右之条、辰後四月二十五日御治定、右弁事阿野中納言ヨリ写被相渡候   」
一一月二〇日の処に、日田県支配となり、郷村諸書物を受けとった旨県届書あり。それによると、有馬家より宇佐郡五九ヶ村(二二一〇九石)、熊本細川家より直入郡国東郡大分郡速見郡六九ヶ村(二二三七八石)、日向富高役所附臼杵郡諸県郡宮崎郡児湯郡那何郡三三ヶ村(二七二八〇石)。
 また一一月二〇日現在、日田県は一六万一五七一人、三三一九六軒、一六万四一九石八斗五升一合二才、外に木下内匠助知行所(速見郡)五〇〇八石一斗九升、大給劭吉知行所(大分郡)一五〇〇石、大給駒之丞知行所(大分郡)千石、この外、日向国富高役所付三三ヶ村。
 また一一月二〇日付日田県知事松方助左衛門の弁事宛の減免願について、左の如き指令あり。
「御下札
 検見之目適ヲ以歩合引方致候儀ハ当然ニ候得共、皆無之畑方雑毛作有之ニ付、大豆石代ヲ斟酌シ為相収候〓、安石代ト唱来候旧来之弊習、甚以不宜候間、自今安石代を廃止シ、精々遂巡検、当年作柄相当之引方取計、下方難渋之廉も候ハヽ、救助筋之儀〓別段可被取計候事   」
一二月一九日
 府県掛弁事より日田県に宛て、木下内匠助、大給劭吉、大給駒之丞に関する県問合について、左の如き回答あり。
「先達而御問合有之候左之名前之もの、未帰順願書等不差出ニ付、領地之儀〓、其県江預り置、支配可致候、仍而及御答候也   」
明治二年五月一八日
 府県掛弁事にあて日田県より「戊午以来為勤王ニ死亡之者并其妻子現存之者取調書」上申。
 �日田県支配所豊後国日田郡赤岩村出生、当今長門国長府住居長南梁二男春堂、丁卯九月没
 �豊前国下毛郡落合村 社人 高橋伊賀
「右之者、従来神道之廃崩ヲ憂ヒ、勤王之事ヲ志シ、窃ニ時勢ヲ窺ヒ、山中ニ隠居シ、時々同志之輩会議致シ居候由之処、旧幕吏ヨリ嫌疑ヲ受、一旦脱走、所々潜伏致シ居候得共、尚モ探索厳敷候ニ付、無余儀丙寅年窃ニ上京候処、於大阪旧幕吏窪田治郎右衛門之為ニ被召捕、丁卯二月帰船中、蒸気甚敷処ニ入置、終ニ焚死候由、死体〓獄中ニ入置候末、刑罰所ニ埋メ有之を、御一訴後奥平美作守取締中、親族氏子共貰い請、申合改葬祭仕候趣、現存之者左之通
                            伊賀妻  のふゑ
                            同人忰  土 佐
                            土佐忰  靱 負  」
明治二年五月一八日差立の郷村租税録の中に、「毛利伊勢守御預処 豊後国海部郡郷村租税録 一冊」とあり。
明治二年七月の処に、府県掛弁事に宛て、日田県より左の如き届あり。
「当県支配所豊後国日田郡堀田村儒者広瀬範治江、漢学所御用掛被仰付候間、出仕可致旨相達候処、御請仕候、依之此段御届申上候、已上                」
明治二年八月の処に、府県掛弁事に向て、日田県より、広瀬範治につき、左の如き届あり。
「右之者江漢学所御用掛被仰付候ニ付、今般出府仕候、仍添翰差上申候、以上   」
○布告綴 明治三年(その一)
 日田県宛のもの。明治三年一〜九月。
 明治三年四月二日著の「何国何郡御林帳」(雛形)に関し、翌三日付で小幡権大属、中村大属、高橋大属、馬渊権大属の意見が附せられている。県レヴェルでの検討の実態を示す貴重な史料となる。
○布告綴 明治三年(その二)
 明治三年一二月迄のもの。閏一〇月四日に松方が民部大丞となり、閏一〇月に太政官より山口脱走徒の追捕の達が出されている。一一月には日田県宛に太政官より河野弾正少忠を派遣する旨が達せられ、一一月一二日には日田県監察掛に宛て弾正台より左の如き達が出されている。
「豊前豊後両洲之内、山口藩脱走之奇兵隊潜伏有之哉之趣相聞エ候ニ付、右至急取調、以封書内々可申出候也                             」
 更に一二月には四条陸軍少将が巡察使として日田県に派遣される。
 なお、本史料に「豊後国旧県管地治革記、豊後国各郡治革記」があり、これによると、柏江村等佐伯渡藩の預地に関しては、明治四年二月に日田県管轄となり、同年一一月に大分県の管轄となっている。床木村、棚野村、府坂村、西野村、石打村、波越村、泥谷村、塩月村、柏江村、津志河内村の一〇ヶ村。

○各会所伺書 明治五年
 大区会所の記録
○宮省達留(その一)
 太政官よりのもの。明治五年八月〜一〇月
○宮省達留(その二)
 太政官よりのもの。明治五年一〇月〜年末
○宮省達留 明治六年
 太政官よりのもの。明治六年一月〜四月
○祝寿録
 明治五〜六年のもの。八八歳以上の人々への祝寿記録
○建白一件
 明治八〜九年。区制・教育・宗教など多岐にわたる。権令森下景端宛のもの。

○伺届留(その二)
 明治四年のもの。佐伯藩預り天領について、二一四三石七斗二升四合、一〇ヶ村、現石九七五石一斗五升八合五夕、戸数四二七八人、内祠官三四人(男一六人、女一八人)、僧侶三一人(男二〇人、女一一人)、平民四二一三人(男二一七八人、女二〇三五人)とあり。この預地は、明治三年一二月、日田県管轄を達せられ、明治四年二月、佐伯藩よりうけとっている。
○辛未壬申官省達留
 日田県騒動に関連して、元佐伯藩士族の内、古川静蔵、田中静衛、関守人、長谷川七十郎、阿南勇、高橋貢、高橋熊太、谷川豹の八名が香川県へ、尾間捨蔵が敦賀県に預けられている。
 この内、高橋熊太は慶応四年四月一五日、京都聖護院村操練場で銃隊の一員として参加している。阿南勇は九月二五日の京都調練の際の小隊長。長谷川七十郎は明治元年、平元良蔵方へ銃練稽古として入塾している。
○伺届留 明治四年                            一冊
 明治三年からの日田県のもの。写真帖で閲覧した。
(辛未正月、弁官御伝達所宛日田県届書)
「賊徒当県庁を襲、貢米を掠奪、不容易企有之、‥‥去午十一月十三日夜、県下豆田町おゐて賊徒間諜之者五人捕縛之由、三人は企救郡山本村外弐ケ村之者ニ有之、‥‥及糺問候処、追々銃器相揃候上は、日田地ニ而一挙、即時ニ小倉庁をも可襲内計無相違相聞‥‥名所潜伏不意ニ可襲も難計ニ付、夫々取締被在候処、本県下日田・玖珠両郡百姓共俄ニ蜂起いたし、浮浪之煽動も有之哉ニ相聞‥‥                    」
(同月、弁官宛日田県上申書)
(同三月、弁官御伝達所宛日田伺書)
「旧政府之節も郷兵ヲ以取締いたし来、御一新後府県兵一端御廃止被仰出候節、‥‥(松方が)兵員弐百五拾名是迄之通可差置旨御沙汰[ ]候間、人選交代ヲ以夫々兵賦取締罷在候、‥‥去午十月中兵部省江相窺候処、兵隊編制之義至極当然之処、府県ニおゐて兵隊編伍いたし置候ニ不及、依之是迄在来之兵卒総而警戒兵之編制ニ改正可致旨之御[ ]有之候、‥‥
 御付紙写
 今度鎮台被設候ニ付、警戒兵差図ニ不及事                  」
(辛未十一月十二日)「極老人員御届書」に、米寿をこえた老人男性六〇名・女性一五八名を書き上げる。内訳は、

年齢 99 98 97 96 95 94 93 92 91 90 89 88
男性  1        1  2     1  1 11  7 10 26
女性     1     1  3  1  2  8 27 13 21 21
(辛未十一月十二日)「戊辰以来棄児員数御届書」、男児四四名・女児五四名
「当未十月中上米相場書
 当未十月中相場相立候日数八日、上米平均壱石ニ付
一、金三両永四百弐拾三文三分  豆田町
 右同断、日数五日、上米壱石ニ付
一、金三両永三百六壱弐文    森町
 右同断、日数廿九日、上米平均壱石ニ付
一、金四両      宮ノ原町                       」
○官省達留   辛未・壬申 秘書
  明治四年十二月からのもの。大分県の罫紙を用いる。
「                   元日田県管内
                    豊前国企救郡
                    山本村真言
                    西勝寺弟浄泉事
                      小屯達之助
      右更ニ仙台県江御預
          ‥‥‥‥
                    元佐伯縣士族
                      古川 静蔵
                      田中 静衛
                      関  守人
                      長谷川七十郎
                      阿南  勇
                      高橋  貢
                      為川  豹
                      高橋 熊太
                    元杵築縣士族
                      岩平喜一郎
      右更ニ香川縣江御預
                    元佐伯縣士族
                      尾間 俊蔵
                     (ほか2名略)
      右更ニ敦賀縣江御預
 右小山達之助外十五人、更ニ右縣々江御預相成候間、受取人差出候ハヽ厳重引渡可有之候也
  辛未十二月                       司法省
   大分縣                                」

        (小野 将・杉本史子・箱石 大・保谷 徹・宮地正人・横山伊徳)


『東京大学史料編纂所報』第36号p.81