東京大学史料編纂所

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武雄・長崎における幕末維新期史料の調査・撮影

一、佐賀県武雄市
  1、佐賀県立武雄高等学校(武雄市武雄町大字武雄五五四〇—二)
 十二月六日、佐賀県立武雄高等学校を訪問し、武雄鍋島家寄託の洋書類の調査を行った。同校所蔵の洋書類に関しては、有馬成甫氏によって「武雄蘭書目録」が作成され、同目録には七〇部一三八冊が数え上げられている(有馬成甫『武雄の蘭学』、武雄市教育委員会、一九六二年)。今回は全体の収蔵状況を確認するとともに、このうち軍事技術関係の書目について写真撮影を行った。
 (23—32)Uitegeleeze Natuurkundige verhandelingen door voornaame Natuurkundigen,in verschide gedeelten des Aardrijks.1 vol,Amsterdam,1734.  一冊>
 イギリスの科学者J.T.Desaguliers博士がオランダで現代自然科学の構造について論じた機会に企てられた論集。第一章は、Uittrekezel van de Weegkundige Proeven omtrent de Planten van S.Hales と題し、植物の吸水と蒸散について論じたもの。第二章は、Natuurlijke Historie der Motten と題して、イガ虫の自然史を論じたもの。第三章は、Onderzoek der Oorzaken waar door dedeelen in een Lichaam samenhangenと題し、部分が物体となる引力についての研究。第四章は Spina Bifida という疾病についての研究。第五章と第六章はジフテリア関係の論文。第七章は、ユトレヒトで観察された気象天候と流行病と磁針の変化についての論文。第八章は、ポーランド人に多い疾病 Plica Polonica についての研究である。これらを通じて自然科学的実験の有用性を理解することにねらいがある。
 (25)Natuurkundige Leer‐cursus ten gebruike der koninklijke militaireakdemie,Breda,1840.  一冊
 化学の教科書(軍事にかぎらない一般的な化学教科書)。物質の定義・結合・水溶液などを述べたもの。
 (30—36)Tijdschrift voor Handel en Neijverheid 1844—1847  一冊
 産業技術上の草新が、実際の産業にどのような影響を与えているかを報告した報告集。例えばvol.1では、
 Praktische onderzoekingen aangaande het electro‐chemisch of galvanisch vergulden en verzilveren.
 Verbeterde wijze verdrijving der lucht uit zoodanige vaten,als ter bewaring van voedings‐middelen bij verzending dienen moeten.
 Over de vervaading van Rozen‐olie
などが取り上げられている。
 (36—89)Hubner,De staats en koeranten Tolk.1 vol,Leiden,1734.  一冊
 以下の三点は、江戸期の世界地理認識に大きな影響を与えたとされる、ドイツ人地理学者Hubnerの著作である。これは、二冊で一部の著作物である。前者が地名辞典、後者が科学百科辞典に相当する。これらは宮城県立図書館に旧伊達家洋書として所蔵されていることが知られている。ただし、これら三冊には、伝来にかかわる書込みはない。
 (37—90)Hubner,Algemeen kunstwoordenboek der Wetenschappen.1vol.,Leyden,1734.  一冊
 (38—91)Hubner,De nieuwe vermeerde en verbeterde Koeranten Tolk.1vol.,Leyden,1748.  一冊
 一七三四年版の増補版。こちらの版がコウランツ・トルコとして当時日本で最もよく引用された地名辞典。
 (37)ORDNANCE INSTRUCTION FOR THE UNITED STATES NAVY.     一冊
 米国海軍砲術教範。米国海軍省、ワシントン発行、第四版、一八六六年。
 原稿三行落ち。
 (78)REPORT FROM THE SELECT COMMITTEE ON ORDNANCE;TOGETHER WITH THE PROCEEDINGS OF THE COMMITTEE,MINUTES OF EVIDENCE.  一冊
 大砲選定委員会報告、(付)委員会議事録および証言記録。英国議会下院への報告書、一八六三年七月二三日。アームストロング後装砲等の採用をめぐるもの。この年八月の薩英戦争の経験は再度議論を生むこととなる。【撮影済】
 (127)H.J.PAIXHANS:PROEFNEMINGEN,GEDAAN DOOR DE FRANSCHE MARINE OMTRENT DE BOMBE‐KANONS.  一冊
 H・J・ペキサンス中佐:フランス海軍に対して行ったボンベ・カノンに関する実験(蘭訳/原文仏語)。'S GRAVENHAGE(ハーグ)発行、一八三五年。
 ペキサンスは、カノン砲を改造して口径を広げ、爆裂弾をもちいるボンベ・カノン砲を考案。この蘭訳本は国内でも翻訳されている(例えば、小山杉渓訳『百幾撒私』安政二年)。【撮影済】
 (64&65)J.C.Pilaar,Handleiding tot de Beschouwende en Werkdadige Stuurmanskunst,2 vols.Amsterdam,1847.  二冊
 実践航海術便覧。第二冊の最後に世界各地の緯度経度表が付属しており、これによれば、宮古・久米島から、長崎、五島、対馬、能登、江戸、松前等が記されている。
  2、武雄市教育委員会(武雄市武雄町武雄五五三八、武雄市文化会館内)
 十二月五・六日の両日、武雄市教育委員会所蔵武雄鍋島家文書および同家資料の調査をおこなった。維新史料室では、すでに一九七八年に当該文書の調査を行っており(『所報』一四号、一九七九年参照)、今回はその補充調査と写真撮影にあたった。
佐賀市教育委員会所蔵 武雄鍋島家文書
○武雄鍋島家文書
I/49 天保十一庚子年自然長崎表御制禁船来着之節人数差越候仕組     一冊
 長崎に異国船が来航した際の動員人数予定の書上。
I/50 漂流人四人之者申立候口上書・魯西亜国帰国漂流人共申立候様子書・魯西亜船渡海船路之様子書(文化元年)  一冊
 寛政五年の難破船若宮丸(奥州石巻)乗組員が、文化元年九月、レザノフによって長崎へ送還された際のもの。最後に信牌やヅーフの書面あり。【撮影済】
I/51 嘉永六癸七月十八日 長崎表異船渡来ニ付而旦那様都合御心得被為蒙仰候一通控(嘉永六年)  一冊
 実際にロシア船来航に動員された人数の書上控。形式はI/49に同じ。【撮影済】
I/52 嘉永六癸年七月十八日より長崎表異船渡来ニ付□□都合御心遣被為蒙□□通控也  一冊
 I/51とセットとなり、動員の記録を示す。前半の破損が甚だしい。動員の最初の部分を引用する。
「旦那様御事、此度長崎表異国船渡来ニ付□□惣御心遣被仰付候、表向御達之上ハ□□〆被成御越候半而不相叶候条、其御仕組旦那様被為蒙御内達候段、御帰之上□□付則其段以飛脚在所申越之」
I/53 嘉永六年七月長崎表異船渡来ニ付御越方控             一通
 最初の部分を引用する。【撮影済】
「七月十九日
一、今度長崎表江魯船渡来ニ付彼ノ地都合御心遣、明日より御越被成候様、今日被為蒙御達候事
一、此表御一体白帆見隠御同様ノ儀ニは候得共、為増御供等分儀ニ而其外拾人」
I/54 嘉永七寅三月廿四日 長崎表異船渡来ニ付而旦那様彼ノ地御固被為蒙仰分御出崎被遊候一通控  一冊
 二度目のプチャーチン来航に際しての鍋島茂昌の動きを記したもの。最初の部分を引用する。【撮影済】
「廿四日
一、昨夜七ツ時比より異船渡来ノ合図打立候ニ付、御登城被遊候処、西泊御固被蒙候事」
I/55 嘉永七寅三月廿四日より異船渡来ニ付長崎御越一通控        一冊
 茂昌が長崎へ出立してから帰還までの記録。【撮影済】
「(三月二四日)
一、旦那様御事、今般異船数艘渡来ニ付、御出崎被為蒙仰、廿六日暁明六ツ時前御発駕、今津材木屋暫時御立宿、無間も同所御乗船諌早御渡海、廿七日九ツ時比御着船……」
I/56 (仮)茂昌長崎滞在記録(安政二年)               一冊
 I/55と同じ性格の記録。I/57の文章を若干の修飾語を省くなどして、再収録したもの。【撮影済】
I/57 安政二年三月一九日 此度異船渡来ニ附旦那様御事出崎ニ付諌早迄之控  一冊
「(三月十九日)
一、今度長崎表白帆船相見候段、注進有之有由、御番方より切符を以達候付、旦那様御事、段々御出仕被遊、此節之義御順番之順ニ候得は、御都合次第二は御出崎可被遊哉も難計ニ付、其仕与相立候様被仰出、其段御在所江も申越」【撮影済】

I/58 長崎表異船渡来ニ付御越方日記控 御次(安政二年)        一冊
 茂昌の動きと共に、御供に動員された武士達のリストが付されている。【撮影済】
I/59 長崎表異船渡来ニ付御出崎控 物書所(安政二年)         一冊
 動員された船の記録【撮影済】

「(三月二一日)
一、旦那様御事小ケ倉為御出張御出七ツ半迄柳ノ瀬御石火方御着同所御住居被遊候事
一、御繁相成居候御船左ノ船
四十六丁立
 御本船天神丸                         船頭山本七郎」
I/60 長崎表異船渡来ニ付御出御越之控(安政二年)           一冊
「(三月二二日)

一、旦那様御事長崎表江異船渡来ニ付御地都合為心遣、廿一日夜九ツ時御発駕、今津材木屋暫時御立宿、無間も同所御乗船」【撮影済】
I/61 払郎斯船渡来都合為御心遣御出崎御手配且自彼地之贈答一通控 武雄物書所(安政二年)  一冊
「一、安政二之卯三月十九日暁八時過、長崎御家代竹林祐作より、昨十八日午上刻仕立之宿継大早飛脚到着、同日巳下刻白帆相見候、合図之石火矢順打有之候、未何国之船ニ哉不相分候得共、先以其段及注進候由申越候付達
一、‥‥最前注進之白帆船之義‥‥蒸気船ニ而、只今壱艘之見出ニ而有之由候得共、類船之有無未相分由、然末右船フランス蒸気船ニ而‥‥」【撮影済】
 武雄鍋島家は、高島流砲術をまっさきに取り入れたことでも知られており、砲術・大砲鋳造関係から以下のものについて部分的に写真撮影を行った。  

I/65 蘭製御筒剣付筒御筒取調子(天保末年)              一冊
I/72 砲術秘事鑑 頼穩(文久三年)                  一冊
I/78 荻野流・高嶋流打控(天保六年四月)               一冊
I/81 於田上荻野流并高嶋流稽古丁打目録 高島四郎兵衛門入(天保六年四月)  一冊
I/86 高嶋四郎大夫へ未年相頼出来立候指物同人願過半差替候残開キ明ケ細工出来工合見調子控留之書(天保九年二月)
                                     一冊
I/89 武雄佐賀大砲寸法比較表                     一冊
 「高嶋製ニ而出来方相候此御方御筒寸法」と「此節於佐嘉ニ新ニ御鋳立相成候寸法」を比較したもの。
I/90 砲術之書付                           一冊
 包紙には「寅十一月廿日 高島一件書附入」とあり。中は砲術伝書。     一冊
I/93 午年ヨリ長崎高島四郎大夫ヨリ御調入物其外控           一袋
 この中より「三百目巣中三尺五寸余之鋳筒」の発砲図を撮影。
I/98 徳丸ケ原試打砲ニ関スル問合セ                  一紙
I/169 長崎御注文方控 慶応二年四月〜十二月             一冊

 武雄鍋島家が長崎の竹林祐作を通じて英商オールト等へ武器・火薬ほかの軍事物資、軍事書籍などを注文した記録。記載は具体的で、かつ種々の問い合わせや竹林からの報告なども含まれている。以下に一部を例示する。【撮影済】
「 五月十二日書状
   竹林祐作江
 一、大砲的前稽古并射中ノ事ヲ記タル書
 一、大砲隊操練書
 一、大砲弾玉製作書
  附、新発明ノ弾丸ボイスノ事ヲ記タル書
  右ハ、千八百六十三年より以来著述書、成丈新板、昨年ノ板ナラバ尚宜シ
 一、ゼー・タクチーキ
  右モ前条同断
 一、火術ニ属スル製薬書
 右、何モ蘭書致注文候様申越                        」
「 七月十八日認竹林祐作より之書状、同廿日達、申越、左ニ
 一、御注文之元込エンヒユール百五十挺致来舶、御奉行所江買請願御聞番差出相成候間、御印済品々受取可差越段申来
 一、右ニ付金子不足ニ有之、今度長崎若松屋庄兵衛〓佐嘉六庄町佐藤六左衛門へ送金を為替ニして、於長崎百三拾両受取候而、右金為替手形引替ニして相渡候様申来候ニ付、則佐市相渡候通相計候事   」  

I/170 長崎御注文方控 慶応三年正月                 一冊
 慶応三年十二月までのもの。【撮影済】
I/171 異国御注文機会御取入方長崎贈答控 慶応四年正月        一冊
 右二冊と同性格、慶応四年五月までのもの。【撮影済】
I/172 定約書 慶応二年十二月                    一冊

 表題は「日本慶応弐年寅十二月十八日、英商オールト江武雄政府注文長崎渡来之上於商会品物請取候取極直段定約書」とあり、武雄用達竹林祐作から英商オールトに宛てられている。内容はスペンサー銃の弾薬など。末尾に、スペンサー銃二〇〇挺およびその弾薬等の納入に関する約定(慶応三年正月十五日)が綴られている。【撮影済】
 

I/189 長州御追討出馬仕組 元治元年十二月              一冊
 第一次・第二次征長の出陣関係史料を以下に掲げる。出陣の役方と人数の内訳。
I/190 御印帳承知     元治元年十二月              一冊
 「長州御追討御出馬仕組御印帳之旨可被得其意候
                               武雄一之進(印)
 御印帳之趣承知仕奉得其意候
                               立野円二郎(印)
                           (以下九三名連印省略)」
I/191 長州御追討一左右次第出勢仕組 元治元年十二月         一冊
I/192 長州御追討出馬仕組 元治元年十二月              一冊
I/193 御出陣御留主武雄仕組 慶応二年                一冊
 出陣中留守の役方と人数の内訳。
I/194 御出陣御留主佐賀御屋敷仕組 慶応二年六月           一冊
I/195 長州御追討一左右次第出勢仕組 元治元年十二月         一冊
I/196 長州御征伐御出勢仕組 慶応二年五月              一冊
I/197 御印帳承知 元治元年十二月                  一冊
I/197—2 長州御追討一左右次第出勢仕組 元治元年十二月       一冊
I/197—3 長州御征伐敵地入仕組                   一冊

 御備方で作成した行軍の次第と人数内訳。冒頭の「斥候」から末尾の「夫丸六拾壱人」まで。また惣人数一〇二七人で内訳は士分以上一一一人、徒士六二人、足軽二一五人、職人六人、仲間七人、従者五六人、未丸五一〇人。
I—198 御出勢仕組地取 慶応二年三月                 一冊
 各部隊の人数構成の内訳。他に「陣馬方持越品」(諸道具・陣小屋の間取り・旗など)、「小荷駄納戸方持越品并荷物積」「兵粮方持越品」。惣人数一二六三人で、内訳は士分以上一八三人、歩行・足軽五〇八人、職人・御仲間二〇人、従者一九一人、夫三六一人、他にも馬一五二疋、馬子一五二人。
I/199 長州御征伐御出陣ニ付而御備立方其外江被仰出候書附写 慶応二年一袋内容は左のとおり。
 ・行軍(下書) 慶応二年六月  一冊。
 ・(陣屋間取など)       一冊。
 ・(陣営図)(原題「慶応二寅六月長州御征伐御栄出之節御備立方被差出候御陣営図」) 二枚。
 ・(陣図)(原題「御備立方被差出候陣図 慶応二寅六月」) 二枚。  

I/200 御出勢仕組草創 慶応二年三月                 一冊
I/201 御直御軍制御潤色等之諸御書附写 慶応二年夏          一冊
 内容は安政三年〜慶応四年までの軍制に関する書付類の写など。
I/202 長州為御征伐茂昌公御出馬一通記録 慶応二年夏         一冊

 五月二七日〜八月二日までの動向を記す。二七日に本藩の命令下り、二八日に出陣仕組を下命。六月四日に武雄出勢、筑前木屋瀬まで人数差出し。
 なお六月一日付の本藩への出陣人数届では、惣人数九七〇人、内訳は士一一三人、徒士五九人、足軽二九六人、仲間八人、職人八人、従者八六人、夫丸四〇〇人、他に乗馬一〇疋、駄馬四五疋、野戦銃八挺、小銃四八〇挺とあり。  

I/203 長州御征伐御出陣人馬積帳 慶応二年六月            一冊
I/204 御行軍                            一冊
I/350 書籍目録 天保一〇年                     一冊

 末尾に「天保十亥年持渡書」とあり、オランダ船によって持ち込まれた西洋書籍のリストである。書名・冊数・価格・著者・刊行年が記され、この年のものは医学・天文学の書、辞書類で占められている。冒頭部分を例示する。【撮影済】  

「一、内外并外科ノ辞書              全拾冊        價拾両
    但、ゲ・ハーモストノ著述、千八百卅六年ノ出板
 一、人体窮理書                 全二冊        全三両
    但、ア・ファン・エルペキユノム著述、千八百卅六年ノ出板
 一、小児ウァートルカンクルノ治療書       全一冊      同壱両弐歩
    但、ア・ホツトギートルノ著述、千八百卅五年ノ出板
 一、和蘭国ニテ医者ニ拘タル規則ノ書       全一冊     同壱両三歩」
I/351 持渡書籍銘書帳 弘化二年                   一冊
 【撮影済】
I/352 当末阿蘭陀船 持渡候書籍銘書 弘化四年八月          一冊

 この年以降、同様のものがほぼ一定の形式で安政年間まである。内容は、オランダ人が長崎出島に持ち込んだ西洋書籍の改め帳で、オランダ通詞が作成したものの写と思われる。書籍はオランダ人の「見用」とされ、商館員ごとに書名が記されている。しかしその中には教練書や築城学・造兵学の書などの軍事書籍も多く、年をへるにしたがってその比重も大きくなる。これらはある種の見本本でもあったのだろうと思われる。また、蘭語以外の言語で記された書籍については内容が取られていない。以下に例示する。【撮影済】  

 「                             かひたん
 一、ゲデンキブック               壱部、但壱冊
    但、千八百四十年 四十弐年迄、第二代目ウィルレム〔人名〕の説を記す
 一、書籍                    三拾八冊
    但、蘭語ニ無之
                               ほるすと
 一、シーゲンベーキ〔人名〕、オーフルテ・スペルリング 壱部、但壱冊
    但、文字綴方の書、千八百五年版
  ……………                        でるふらっと
  ……………
 一、セスセレル〔人名〕、エルンスト・フュール・ウヱルケン 壱部、
    但壱冊但、火術書、千九百二十三年版
 一、レゲレメント・オップ・エキセル・シティーン・デル・インファンテリー 壱部、但弐冊
    但、砲術書、千八百三十一年 同二年迄、著述者銘無之
 一、セーリグ〔人名〕、オンドルウヱイス・インベウエーキング・デル・ラステン 壱部、但壱冊
    但、重荷等を運送いたし候事を記す、千八百三十五年版
 一、ファン・ヲーフルタラーテン〔人名〕、ハントレイデイング・トット・ケンニス・デル・アルテイルリー 壱部、但壱冊
    但、砲術書、千八百四十二年版
 一、フヲールシキリグト・トット・ベティーニング・ファン・バテレイゲシキュット 壱部、但壱冊
    但、台場大砲用方等之事を記す、千八百四十四年版
 一、ハントレイディング・フヲール・エキセルシティーン・デル・ベレーゲリングゲシキユト 壱部、但壱冊
    但、大砲備方之書、千八百三十六年版
 一、リルダーテンスコール・フオール・インファンテリー 弐部、但弐冊
    但、砲術書、千八百三十三年版、銘無
  ……………
 右は、当未阿蘭陀人共見用ニ持渡候書籍類相改候処書面之通御座候、以上
   未八月                    名 村 貞 五 郎(印写)
                          荒 木   熊 八 (同)
                          西   慶 太 郎 (同)
I/353 阿蘭陀持渡書籍銘書 嘉永元年七月               一冊
 【撮影済】
I/354 当酉阿蘭陀船 持渡書籍銘書 嘉永二年八月           一冊
 【撮影済】
I/355 当戌阿蘭陀船 持渡書籍銘書 嘉永三年七月           一冊
 【撮影済】
I/356 当子阿蘭陀船 持渡書籍銘書 嘉永五年六月           一冊
 【撮影済】
I/357 当巳阿蘭陀船 持渡書籍銘書 嘉永六年七月           一冊
 【撮影済】
I/358 当寅阿蘭陀船 持渡書籍銘書 嘉永七年七月           一冊
 【撮影済】
I/359 いろは見用之内取集書籍銘帳 安政四年八月           一冊

 これは表紙に「朱○印ノ分、御用」とあり、価格も明記された書籍カタログ(注文表)になっている。一部を例示する。【撮影済】  

「い一 一、デオールログ            三冊物 三部(朱)『○内一部』
       軍法書  代七百五拾目                    」
I/360 当節咬〓〓政府 差越書籍銘書帳 遠征四年九月         壱冊

 これも同様に書名・部数と価格、注文印のつけられたもの。巻末に次のように記され、西洋書籍が幕府と諸大名へ納入されていくルートを知る手掛かりとなる。以下の書籍目録も、価格・注文印のあるものとそうでないものの二種がある。「右は兼而上候通、肝要之書籍類日本政府へ為可差出咬〓〓政府より差越候様領事官掛合置、今度書面之通積越候ニ附差出申候、尤諸家御託之分も一同差出候間、政府御入用之分御引除之上、諸家御注文之御向々江御廻し被下度領事官申出候ニ付、此段申上候、以上」  

I/361 当午持渡書籍銘書 午七月                   一冊
 【撮影済】
I/362 阿蘭陀政府送書籍御買上之儀申上候書付 午九月         一冊
 【撮影済】
I/363 四番午年持渡之内蘭書目                    一冊
 【撮影済】
I/364 六番政府送書籍銘書 安政六年五月               一冊
 【撮影済】
I/365 巳年持渡政并見用過書籍銘書帳 安政六年五月          一冊
 【撮影済】
I/366 午年持渡第三番政府送り蘭書目録                一冊
 【撮影済】
I/367 巳年持渡之蘭書目                       一冊
 【撮影済】
I/368 午年五番政府送書籍銘書                    一冊

 末尾に、「右之外五十弐番カルリスト〔人名〕著述ノ英語蘭語対訳辞書拾六部有之、代銀四拾五匁替之処、皆以唐人返事、英語稽古之者借覧被差出置候由、和蘭通詞共も借覧願出候得共不被相叶旨ニ付、御願出ニ相成候とも御聞済相成間敷旨」とある。【撮影済】  

I/369 当卯阿蘭陀船持渡書籍銘書                   一冊
 【撮影済】
I/370 書籍銘書                           一冊
 【撮影済】
I/371 当亥阿蘭陀船持渡書籍銘書 亥七月               一冊
 【撮影済】
I/372 西洋原書簿                          一冊

 「兵書・砲術書・記録書」の副題があり、「総計百二十一部、冊ニシテ弐百六十二冊」とある。武雄鍋島文庫の原書簿と思われ、「文久三癸亥年二月調、弐百六十二冊」とあるほか、「大正十五年十一月調」の書き込みがみられる。【撮影済】  

「一、ケレークスリーフトフテン                      一冊
 一、ベルキーシケイチング                        一冊
 一、ケレークスリーフトフテンケデンキソイル               一冊
 一、ケレイヂング(geleiding)                      一冊
 一、カノンウェルキング(kanonwerking)                 一冊
 一、ペキサンス ボンベカノン(bombekanon)               一冊
 一、ソルターテンスコール(soldatenschool)               一冊
 一、セッセル                              三冊
 一、セーアルチェルリー(zee artillerie)               十二冊
 一、ハンドフークカノン(handboek kanon)                二冊
 一、デッケル タクチーキ(taktiek)                   二冊
 一、ミリタイルザークブーク(militaire zaakboek)            一冊
 一、フラクハント ボンベカノン                     一冊
 一、ゼーアルチェルレリーレイトタラード(zeeartillerieleidraad)     一冊
 一、レゲレメントヲップデキセルセチーン                 一冊
 一、フロショネール                           一束
 一、ハンドレーデントットヘットゲブロイクハンヘットレキートケウェール
   (handleiding tot het gebruik van het lekiet geweer)    一束
 一、ゼーアルチェレリー                         一冊
 一、ウェルキトイグキュンデ(werktuigkunde)               一冊
 一、メイトル                              一冊
 一、ボナパルテ戦争記                          一冊
 一、ウェンケバフ                            一冊
 一、サハルトヘスチンク                         一冊
 一、ヘコノッブテ メートキュンデチーン(meetkunde)           一冊
 一、運送書                               五冊
 一、新セーアルチェルレリー                       一束
 一、チライルレウル                           一冊
 一、プロイン アルチェルレリー                     一冊
 一、ソルーターテンスコール                       一冊
 一、ヘロトン スコール(school)                    一冊
 一、カンフ 築城書                           一冊
 一、ヲントルヲヒシール(onderofficier?)                一冊
右四部
茂信様長崎ヨリ御買入
以上合 三十二部
   冊数 五十八巻                            」

 このほかに、文典書字書三十一部八五冊、分離書十七部三六冊、医書十六部二一冊、窮理書十一部十八冊、暦書など九部十一冊、雑書五部三三冊が上げられている。  

I/373 浄天様御手許御書物帳 御書物方 文久三年二月         一冊
 【撮影済】
I/374 茂昌公御当世御蔵書控 古賀隆作ら三名 慶応元年七月      一冊
 右の二冊は、武雄鍋島文庫全体の蔵書の帳簿。【撮影済】
K/97 諸控 製造所 慶応三年九月〜四年八月              一冊

 武雄の製造所の日記記録。大砲・小銃製造のほか、火薬や弾包、的、テントなど幅広く造兵分野をカバーしていたようである。以下に一部を例示する。【撮影済】
「(慶応三年九月)十一日 晴 二
一、セグメント御打試シ被遊候ニ付、来ル十六日迄ニ出来立相納候通相計候様、数之義ハ出来候分ニ而可然段古賀隆作方相達被成候ニ付、鋳物師嘉左衛門呼出申付置候事
   本文セグメン五ツ出来立相納候事、十六日納
一、鉛・錫并ヅク鉄、鋳物師兵衛江相渡候事                  」
O/3 武雄絵図              明治二年           一舖
 平地部分に畑(黄)・田(白)等と考えられる色分けがなされており、城郭・本陣・高礼などの記載を欠くことから、土地の利用関係の図示を主眼とした地籍図と考えられる。山は山並に緑青で彩色したうえ、山・峠の名称が朱筆で記入されている。寺社と、方形・赤で記載されており、一部に寺社名の未記載の部分がある。宿は類型化された家並みで表現されている。また、道は朱、川は青、村名は墨書で記入されている。
 なお、本図については、ダイレクト・プリントによる複製が作成されている。
○武雄鍋島家資料
 武雄鍋島家資料には、同地で製造したモルチールやカノンをはじめとする現物資料が含まれており、そのうち左記の資料を撮影した。
三、設計図(全点撮影済み)
六五点
 各種大砲、台車、馬具、ボール盤などの図面類。詳細は『武雄鍋島家資料目録』を参照されたい。
五、和書/160 軍書目録                        一冊
 表紙に「遠山左衛門尉立会相改候高島四郎大夫蘭書天文台へ相納候分」とある。【撮影済】
長崎県立長崎図書館
 長崎県立長崎図書館に所蔵される旧長崎奉行所文書については、既に、『所報』(第十一・十二・十三・二一合)において幕末維新関係の調査報告がなされている。今回は、『幕末外国関係文書』が文久年間の編集を開始するに当り、旧来活字本(『長崎幕末史料大成』)があるとして撮影されなかった各国往復書翰の簿冊を撮影すること、および、長崎に関係の深いロシア軍艦対馬占領事件と文久年間に完成する居留地築造関係史料を補足調査するためである。また、科学研究費重点領域研究『沖縄の歴史情報研究』公幕研究「欧米外交文書による対琉球条約の分析」にあわせ、長崎聞役関係史料を撮影した(なお、聞役関係史料については別稿を用意するのでここでは触れない)。
3—37—3 長崎県港外国人遊歩程行地界略図(写)            一舖
 彩色。七五×一五二(センチ)。朱書で「東京往復留ニ属ス」とあり。桃色(長崎市中)・黄色・茶色の三区分。
3—203—2 居留地図(写)                      一舖
彩色。三九×八二(センチ)。出島・大浦・浪ノ平・古河・解牛場までの居留地の全体図で外国人墓地もあり。居留地はすべて地割され番号が付されている。
 13—651 清国賊乱ニ付聞書和解 文久元年              一冊
 冒頭に文久元年十二月付で万延元年四月以来の太平天国の乱の概況について述べたものをはじめ、漢文も含めた風聞書数点を収載。
 万延元年六月付の「唐国騒乱ニ付十二家船主程稼堂申立方」では、「此度唐国賊乱之ため蘇州落城致し、私妻子共難を避御当地ニ逃来候ニ付、右之模様略左ニ申上候」と乱の展開状況や上海の危急などを具体的に述べる。安政二年九月付の「卯壱番船主楊少栄」による風聞書は、長崎帰着の自船よりの報告として、同年五月の官兵による上海の平定、南京での反乱軍の強勢、広東の「豪勇」たちによる海賊行為の横行などを詳述。他に安政二年正月、山東へ向かう途中で薩摩に漂着した「江南省蘇州府通州船 船主楊全南 乗組七人」よりの聞書。【撮影済】
 13—665 唐国賊乱ニ付避難の略記                  一冊
 (万延元)五月二五日付、程稼堂の上申書写。内容は13—651の同年六月付のものと同じ。【撮影済】
 「此度唐国賊乱之ため蘇州落城致し、私妻子共難を避け御当地ニ逃来候ニ付、右之模様略左に申上候
 当夏四月四日南京之逆徒蘇州を取、巻城外民家ニ火を付、逆焔を挙候処、守兵ニ防戦之心なく、官員は難逃支度候而巳ニ而……
 此段以書付奉尊聴御明鑑被成下度奉願候
   申五月廿五日           十二家在留船主
                                 程稼堂  」
 13—760 崎陽来航一件并琉球国一条御届之写 古賀大一郎       一冊
 永見徳太郎氏寄贈本。まず、パレンバン号につき、商館長申出を載せる。
 「異国船渡来取扱方并願之ケ条
当時唐国と異国との争又候再発、イギリス郭より軍船三百艘仕立ニ相成居、則、乍浦之方角ニも参候趣、此後唐人より不申出候哉之趣、入津之阿蘭陀船より申出ニ御座候、扨此後渡来致候大船ニ而石火矢二段ニ備江四拾挺ツツ御座候、但大筒壱挺ニ五人ツツ手当、矢砲掛り有之趣ニ而、日本人漂流人連候由、此者ハ近年彼地江致漂流候者歟也、右□年より漂流いたし彼国ニ罷在、日本通詞并文字師匠等いたし居候者を案内者として連渡候歟也、聢とハ不相知候、此度使節渡来ニ付、阿蘭陀人より五ヶ条願申出候
一、使節船人津之節、石火矢打候節、此方ニ而も同数合砲致候義、彼国之礼式ニ付、合砲被成下度候事
一、乗組之者人別御改無之様仕度事
一、沖掛不致直ニ湊江入可申候、且出島ニ往来可致事
一、出島水戸閉不申、何時ニ而も勝手次第入可仕事
一、船中之事探改無之、帯剣之儘出入致事
右之通願出候処、御聞済難相成、然る処、此節乗渡候使節は身柄至而重キ者ニ而、右御免無之候而は、カビタン落度ニ相成候趣、昼夜願立候ニ付、当十九日御手付を以左之通被仰渡候
此度阿蘭陀国王より日本国江之使節其外乗組船壱艘、当湊江致入津候由、咬〓〓頭役より先達而荒増申越候趣、御役所江申立、阿蘭陀国法之通日本ニ而も合砲いたし候旨、五ヶ条願書差出候ニ付、遂一覧候処、探改・帯剣・人別改・端船之廉は別紙之趣を以承り届、湊内江入津候節并滞船中ハたとへ如何様之船ニ而も日本国法ニ候間、玉薬取揚、武器類ハ見分之上可伺差図候、右品々は帰帆之砌不残相渡は勿論之事、本船ニ而石火矢打候義は国之趣ニ可有之候共、日本ニ而ハ合図之外合砲不致国法ニ候間、礼儀とハ不心得候、右之趣相心得、別紙之通横文字ニ認直シ、高鉾迄江着之時を見計、使船江可申遣事     」
 つづいて、薩摩藩からの琉球への異国船来航情報が留められている。情報の中身は、『風説袋』に収録されている。
14—7—1—18 御用留 文久二年                   一冊
 最初に目録あり。内容は文久二年一二月に新設された臨時廻方掛に関する文書の留。同年一二月、長崎奉行所は英国領事より大浦居留地に徘徊する悪党の取締方を依頼され、東條八太郎以下二名を臨時廻方掛に任命、御役所附触頭吉村藤兵衛以下一名、手附四名、手先四名を附属させ、「外国人居留地最寄悪党共召補方其外取締筋」を任務とさせる。以下、臨時廻方掛よりの人員・取締向・入費などの上申書類、同掛役人の人事関係書類、奉行所内諸役方への達類などを中心に、外国軍艦・商船水夫の市中での取締向に関する英国領事と長崎奉行との往復書翰類なども収載。臨時廻方掛役人への達類などは原史料を綴り込んである。
 臨時廻方掛は、文久三年四月より海陸取締掛と改称。居留地以下港内・市中の取締が強化されるなかで人数も増員され、八月には非常用としてライフル銃二十挺を下付されている。
 なお、文久三年十二月、海陸取締掛及び海陸廻は廃止され、連上所掛のもとに統合されている。【撮影済】
14—32—1 呈書諸控 文久元年〜慶応三年 居留場掛          一冊
 以下の、居留地関係の収入・支出のバランスシートを一括して合綴したもの。元治元年ころから、御普請の計上がなくなり、安定的地代収入期に入ったと思われる。
 『大浦人家御買上其外御入用銀御出方之分勘定帳』
 『外国人居場御入用銀勘定帳 文久元年酉九月十七日』
 『外国人居留場坪数取調子候書付 文久元年酉九月十七日より』
 『文久弐年戌四月十八日御勘定桜井又五郎殿出立之節差出候勘定帳之写 大浦外国人居留場御入用銀勘定帳』
 『戌十一月御普請役仁井田源蔵殿江差出候控 大浦三等之貸地坪数取調書』
 『戌十一月御普請役仁井田源蔵殿江差出候控 外国人居留地埋立并諸御普請向其外御入用部分ケ取調帳』
 『酉年中外国人居留場諸入用取調書』
 『亥三月御普請役田中亀次郎殿御出立之節差出候控 大浦三等之貸地坪数取調書』
 『亥三月御普請役田中亀次郎殿御出立之節差出候控 外国人居留地埋立并諸御普請向其外御入用取調帳』
 『文久三年亥九月御普請役土屋左一殿御出立之節差出候控 居留場御入用高書付』
 『元治元年子九月 外国人居留地貸地坪数并諸御入用』
 『元治二年丑二月 長崎表外国人居留地貸地坪数并諸御入用』
 『丑六月御目付前島東三郎殿原又七殿御出立之節差出候控 居留地地料高并掛り人数名前書』
 『外国人貸地料高并子九月朔日より丑八月晦日迄御入用出高』
 『子九月朔日より丑八月晦日迄一ヶ年 居留場御入用内訳帳』
 『寅四月出立御勘定方へ差出候控 外国人居留場御入用帳』
 『寅四月より卯三月迄居留場御入用内訳帳』
 『慶応二寅年十一月御勘定方御尋ニ付差出候控 外国人通船冥加銭納払高控』
 『寅九月朔以来卯八月晦日迄 居留場御入用内訳帳』
 『居留外国人員数各国岡士名前貸地坪数地料高寄銀納払取調書』
 14—58—8 唐館新地処分書類 慶応四年三月〜明治二年四月      一冊
 内容的には慶応四年三月〜五月が中心。以下は冒頭にある三月付の唐人屋敷差配役尾里秀之助による「口上覚」。
「     口上覚
一、唐人屋敷之儀者、元禄元辰年長崎御奉行山岡重兵衛様・宮城主殿様御在勤之節、島原松平主殿頭様・平戸松浦肥前守様御立合ニ而縄張被仰付、町宿之唐人共不残囲江御入相成、其節 役々勤番相始、私共同役先祖唐人屋敷組頭役居附被仰付、御役料銀五貫弐百七拾目宛被下置、私共迄数代相続罷在、御場所柄厚御委任被仰付、唐人人別を始唐人屋敷之儀者一体被御預置、御取締筋第一ニ心掛ケ、持出入之品者勿論、通詞其外対話之節者其時々立合、諸事進退仕向来、御規則之通相勤来候処、各国諸蕃御開港已来相対之商法与相成、唐人共ニおいても従来商法之規則不相用様成行、万事有名無実与相成、旁外夷附属之名義を以唐人共商法取始候處、諸事外国人同様之振合ニ而因循被相過候ニ付、漸々唐館及疲弊、富者之者者悉く唐館を致脱走、居留所江立退、或ハ外国人附属不相好者ハ夫々帰唐仕、全唐館江相残居候者ハ、帰唐路費之手当も不出来候程之窮民而巳ニ而、日々之糊口茂出来兼候者共、進退ニ迫り不得止事、館中破屋江起居罷在候儀ニ御座候、斯迄廃絶之期極ニ相臨候迄も旧法依然与被立置候ニ付、一昨寅十二月能勢大隈守様江事情建白仕、面謁之上委細申立置候処、土地御改革被仰出候節、唐館一局丈ケ御改革之所置ニ相漏れ、私共一役御引残、追而唐館改革之節一同身分も御引直相成候旨被申諭、地役一同受用銀之旧法被相廃、幕府御家人之列ニ被引直、御切米御扶持ニ而被下、其節手附筆者拾壱人・日行使弐人・辻番拾五人之者ハ、本船番并下番ニ御組入、私共之儀ハ御引残中被下物出所無之候ニ付、為御手当金五拾両宛唐館地料之内を以被下候旨ニ而、差配役与役名替被仰付候ニ付、速ニ回復之義取斗申度、猶其節川津伊豆守様江面謁之上事情申立置候處、漸宿意相貫、既ニ唐館表門相開不用之場所夫々唐人江貸渡、追々商法被取開候期ニ至居申候央、
 御政道御一新之御時節ニ相成候ニ付、前文之事情猶又可申上心得ニ御座候処、不図今日唐館御一覧相成候儀ニ付、私共見込之次第不取敢以別紙奉申上候、猶巨細之儀者紙上逸々申上候義も出来兼候間、御目通相叶候儀ニ御座候ハヽ、委敷申上度奉存候、宜敷御明裁被成下度奉願候、以上
  辰三月               唐人屋敷差配役
                              尾里秀之助(印)」
 他に「唐館公司鈕春杉」よりの願書類、「唐人屋敷差配役」よりの「唐商引立方之儀ニ付申上候書付」、「唐方商法ニ付見込之大意申上候書付之覚」など。
14—59—6 自万延至慶応出島取扱御用留 居留場掛           一冊
 はじめに目録あり。
一「出島築地惣坪数并家賃銀調書類 付、家賃銀之義ニ付御相談書 壱冊」〜三十「出島地主共地数渡方不同意之者有之、混合候ニ付居留場掛乙名評議申上候書付」まで。
 自由貿易が開始されて以降、商法が改革されて本方銀がなくなり、出島地代を負担できなくなり、それに伴って、出島地代をどう負担するかを処理した一件から、万延元年の出島水門増築問題等の一件の書類留。
14—61—1 長崎縣居留各国人員録 文久二年              一冊
 内容は、長崎居留の外国人について、国別(英・米・仏・蘭・葡・露・独・瑞・中国)に、文久二年一〇月より明治二年一二月まで月毎の居留人数を記載したもの(但、独は文久三年以降、瑞は慶応二年以降。また慶応二年以前は特定月のみ)。年ごとに月平均人数を算出している。これにより、各国別の居留人数の年次的な推移が把握できる。【撮影済】
14—62—6 居留地代元極一件 外務 居留地懸 万延元年〜慶応三年   一冊
 英・仏・米領事と長崎奉行所の間で、居留地地代の支払方法をめぐって紛糾した内容などが留められている。【撮影済】
14—63—3 梅香崎昆布蔵並大浦百姓住家御買上一件 安政五年〜文久元年 長崎奉行所居留地掛
                                     一冊
 内容は、「梅ケ崎・大浦昆布蔵所上地被仰渡候ニ付御手当銀之儀取調申上候書付 会所掛」(安政五年一二月)、文久二年以降の常盤崎・浪之平の埋立請負人よりの金子借用願類、「市郷之者建家外国人江譲り渡候届之部」(万延元年一〇月〜文久元年七月、米コンシュル借宅の買い受け)。
14—70—5 御書簡翻訳留 慶応三年九月〜十一月 運上所通詞      一冊
 長崎奉行及び配下役人より各国領事宛に差し出した書簡写とその翻訳文を日付順に留めたもの。なお、慶応四年二月以降の長崎裁判所設置後は、各参謀(井上聞多・佐々木三四郎・野村盛秀)以下諸部局より差出の書簡が、同年六月のものまで留めてある。【撮影済】
14—80—4—1 明治六年外務課事務簿 電信一件            一件
 明治六年分の長崎県(外務局)が打電した電信と電信文にかかわる諸書類(会計処理・官吏間往復文書)などをファイルしたもの。
 「御差越之電信案致拝承候、就而は未ダ御開業前何分通信難取計故、別紙之通り御認替へ差被越候得は、通信可致候也
  四月十四日                          電信局(印)
   外務局御中
 石丸電信頭殿                             長崎県
 今十四日午前九時魯親王上海より着艦セリ、右之通り外務省江至急御達し被下度候也                                       」
 「第壱号
       廿日午后二時二十五分従築地電信局出ス於下関電信局取次
明治六年第四月
       廿一日午前十二時於長崎電信局受致十二時三分認出ス
音信六十字  届先 長崎県    出状人 東京開拓使
クロダマル ジウヨツカ
チヤクノヨシ ヨコハマエ
ムケ ナンニチニ シユツパン
セシヤ ハヤクシユツパン
セヨト メイゼラヨ
ゴトヲ アレ                                」
「第九百十六号
別紙英文電信案、在仏鮫島弁事公使へ至急電信ニ而御通信有之度此段申入候也
  明治六年六月十四日                      外務大小丞
 長崎県御中
七月七日按筆午前十時過電信
                       Nagasaki,July 15th 1873
To the Japanese Legation in Paris
I returned from China with all the success.infrorm this our Ambassador and Miniters in Europe.
Soyshima
14—97—1 明治六年稲佐郷平戸小家善之助及志賀親憲所有地露西亜国海軍用貸渡
一件 外事課                               一冊
 稲佐郷のロシア施設について明治になって調査した記録。
「                                   長崎県
 其県管下稲佐郡平戸小屋郷於テ村民善之助所持之地面、一昨辛未年中魯西亜軍艦碇泊中、水夫浴場并船員置場之為メ、十ヶ年貸渡之約条ヲ以貸渡候処、当春来同国皇子渡来之節、水師提督ヨリ示談ヲ以、近傍地続ニ而増地囲込度旨懇望有之候処、右地所海軍必要之地面ニ而、其県於テ回答難致趣、同国公使ヨリ外務省エ申出有之候末、処分之方法当省エ照管有之、右は居留地区画外、殊ニハ隔海之地所、猥ニ貸渡候段不都合之次第ニ有之候条、就而は最前貸渡候原因始末、其他約条書類等取調、至急申出候様可致、此段相達候事
                          大蔵省事務総裁
  明治六年八月廿四日                    参議大隈重信 」
「当県管下稲佐郷ニ於テ村民善之助所持地之内、辛未年中魯西亜軍艦碇泊中水夫湯浴并船具置場之為、十ヶ年貸渡之義ニ付鏤々御下命之趣承知候、因茲取調候処、右場所之義は、旧幕管轄中魯人休憩所建設ケ有之旧地ニ而、其後慶応元丑年、魯艦入港中、前条之用ニ充テ候為、貸渡之義許允致シ有之由之処、庚丑年ニ至り、地主代友次郎より別紙甲号之通り願出候ニ付、其筋官員ヨリ応接ニ渉り候得共不相纒、結局魯艦在港ニ不拘、年々地代相払候ハヽ、故障有之間敷旨ヲ以相対示談致シ置、辛未年十一月約書調印致し候趣、乙号之通村吏ヨリ申出、不都合ニは有之候得共、初発旧幕ニ而許可致シ、既住之義ニモ有之候間、其儘聞置候次第ニ有之処、当春同国水師提督渡来之節、近傍地続増加囲込度懇望致シ候得共、右地所は海軍省必要云々之訳ヲ以て、当県ニ於テ需ニ難応旨挨拶致シ置候義ニ有之候、因而約条書類等取束ね、此段拝答仕候也
  明治六年九月五日                長崎県令参事
                                各名
大蔵省事務総裁
  参議大隈重信殿                             」
「   乍恐奉願口上書
魯軍艦修復場
平戸小屋御浜手
一、畑地坪数四百拾坪七合五夕 但長平均弐拾六間五合横同十五間五合
 右は一ヶ月金五両宛之地料ニ付右日数に応じ魯軍艦アドミラールより差出候横文之通
一、起返料金七拾七両永拾六文 但起返料一坪ニ付金三朱宛
右は耕地起返候同雇人夫賃銭并諸道具買入候諸入用共
右は六ヶ年前慶応元丑魯西亜軍艦乗組アドミラール・エンダグーロフ義、私所持之畑地別紙絵図面之通魯軍艦修復中船具材木其他バッテイラ引揚修復所ニ借請、休息所壱軒新規ニ取建、当港入津之魯艦は船修復不致候而も入港之日数ニ応じ地料一ヶ月金五両宛之割ヲ以、入港之時々地料相渡候約定にて、アドミラールより横文差出候ニ付、貸渡置候処、魯軍艦当港江無絶間渡来候訳ニ而無之、一二ヶ年も渡来不致、邂逅入港仕候而も纔一七日或いは十日碇泊之節は軍艦修復も不致出帆、地料も不相渡候儀度々有之、御年貢諸懸り物は年々地主より上納仕来、難渋之仕合奉存候、魯艦にても強而入用にも無之候間、今般入港之艦四艘之内ニアドミラールも乗組参り居候ニ付、魯人ニ而取建候休息所壱軒解取、書面之通畑地起返料并地料魯艦四艘にて割合相渡呉候様御引合被為仰付被下候様奉歎願候、以上   庚午十月五日              平戸小屋郷
                          地主代善之助
                             友次郎 印
   外務
    御掛所
前書之通奉願候ニ付、奥印仕差上申候、以上
                                志賀礼三郎 」
「平戸小屋郷百姓中村善之助畑地魯艦修復場ニ借請候儀、魯岡士と地主善之助申談候事件申上候書付
一、明治三庚午十月廿一日より向卯十月廿一日迄拾ヶ年之間善之助畑地魯艦入港之節船修復場ニ借請候ニ付、作□地料并起返料として洋銀七拾五枚去庚午十月中前渡し、善之助江相渡置候一件、水師提督アルマス艦船将魯岡士并地主善之助、右事件横文字壱枚宛都合四枚、此節改認メ候ニ付、善之助名印村長見届印致シ呉候様、魯岡士より申聞候ニ付、調印致置候、尤其横文字は水師提督と申聞候上、地主方江も近日之内訳文ヲ相添壱枚相渡候様申談候事
一、魯艦当港出払候節は、同所ニ魯人ニ而取建有之候家ニ残囲付置と品は何品ニよらす品立員数横文字書付訳文を相添、錠鍵迄地主善之助江相渡置、地所并建家番取締致し呉候様相願候ニ付、一ヶ月洋銀弐枚宛番賃として魯岡士より月々朔日ニ其月分前渡可致旨談判取極置候、右取極横文字ニ訳文ヲ相添、近日之内相渡候様申談候事
右は魯岡士独逸人ウエストファル氏と地主中村善之助申談取極候事件申上候様御沙汰ニ付、此段申上置候、以上
   辛末十一月十日                      志賀和一郎 」
14—98—3 露西亜人上陸場取締番所其他露人借宅願綴込 慶応三年〜 外務局
                                     一冊
 「魯取締勤番所」は、露軍艦入港中に乗組員が止宿する悟真寺と船津浦・平戸小屋郷の民家・休憩所の取締のために安政七年に設置されたもの。前半部分は、この勤番所の規律や運営に関する史料で、勤番所詰役人よりの露人借宅願の伺や露人滞在中の遊女の取締に関する懸合書のほか、慶応二年にロシア人相手の諸商売人より冥加銀を徴収して勤番所の経費にあてる件に関する文書を載せる。冥加銀徴収の対象者は、「魯人江関係いたし候もの」として諸色売込人・貸家家主・休憩所地主・通船船主・洗濯屋・遊女屋などとなっている。なお、これらの文書のうちには、勤番所詰地役人の筆頭である長崎附三ヶ村庄屋頭取志賀和一郎を差出とするものが多い。後半部分は、明治元年以降の露人借宅願の伺を中心に、通船渡世者や遊女屋よりの渡世継続願、通船冥加銭の書上など、明治三年閏一〇月のものまで収載している。【撮影済】
14—99—1 梅ケ崎海岸地先え架造り建家被仰付度居留場掛り乙名共伺出候書付文久三年
                                     一冊
「書面梅ケ崎海岸地先江別紙図面之通架造り致度旨、本篭町利吉願出候ニ付、旧記取調掛乙名江調子申付候処、差支之儀も無之旨申出候間、願之通被為成御免候ハヽ、場所調子御地子銀之儀は、高木作右衛門殿江被仰渡様仕度、此段奉伺候
 亥十一月                        薬師寺久左衛門(印)
                             高木源之丞(印) 」
14—182—5 居留場掛書類綴込 文久三年〜慶応元年 居留場掛     一冊
 居留場掛で綴じた、外国人関係の雑件書類留。例えば「各国軍艦江売込人小旗為相建候儀ニ付御手頭之義申上候書類」など。文久三年以降の居留地をめぐる社会問題を知るには格好の史料。今後機会があれば撮影を要す。
14—277—12 下り松板橋一件 明治三年三月 長崎県外務課営繕掛   一冊
14—369—2 嘉永六年琉球江異国船渡来ニ付従薩州長崎御奉行所江御届書 一冊
 ペリー来航を伝える薩摩藩長崎聞役の届。このほかに、
「嘉永六年丑六月 相州浦賀江異国船四艘渡来ニ付、江戸表より御役元江御懸合
書面写
丑六月六日
牧野備前守殿御渡
   大目付江
   覚
(中略)
一、右浦賀江渡来異国船嘉永六年丑六月三日来着、右之通公儀より被仰出候段、飛脚を以申来候旨、長崎聞役針尾大衛殿江御右筆方より懸合来候を為心得写候事
   但、江戸より御城下迄十四限飛脚ニ而到来之事
  丑六月廿四日                              」
を収めている。
14—380—3 外国人居留地官民有地明細帳 明治八年 長崎県外務係   一冊
 番号・坪数・借地代金・官私の別の一覧。
14—415—6 鎮台交替之節申送帳 文久二・三年 長崎奉行所      一冊
 目録では14—414となっている。長崎奉行の交替に際して、前任者が後任者への引継事項を記したもので、以下の四冊が合冊されている。
�「番外三ノ門 外国人応接申送書 高橋美作守」
�「外国人応接申送書 三 岡部駿河守」
�「港会所 申送所二 服部長門守」
�「港会所 申上御下知不相済分 二ニ添 服部長門守」
 �の冒頭と末尾の記載は以下のとおり。
 「別冊岡部駿河守〓申送之内、御下知有之候分其外ケ条者下札いたし、其以来之事件左之通り
(1)米国医師スミット長崎医術伝習触達の件
(2)米国コンシュル病気につき温泉治療の件
(3)米商フレッチャー召使日本人清国渡航の件
(4)英国船日本沿海測量につき熊本藩問合わせの件
(5)魯西亜船対州退帆につき今後の魯西亜船扱い方の件
(6)米船を日本人商人購入希望の件
(7)オランダより各国規則書抜粋上書の件
(8)米表渡し方につき江戸にて決着の処当地領事不承知の件
(9)オランダ総領事より引替洋銀の件
(10)日本人奸商処罰の件
(11)米国商人大砲売払の件
(12)オランダ商人家屋購入の件
(13)米国領事日本人水夫雇入の件
(14)シーボルト帰国につき鉱石寄贈の件
(15)英国船水先案内人賃金受取り方の件
(16)積荷卸規定の件
右之通申送候、以上
    戌七月                        高橋美作守(印)
         妻木源三郎殿
右者高橋美作守〓之申送書取直し候間合無之ニ付、相替り候廉者下ケ札を以申送候、以上    戌九月                       妻木源三郎
         大久保豊後守殿
右者妻木源三郎〓之申送書取直候間合無之候ニ付、相替候廉者追而支配向掛り之もの可為申上候、以上
    亥五月                       大久保豊後守
         服部長門守殿
右者大久保豊後守〓之申送書取直し候間合無之候付、相替候廉者追々支配向懸可為申上候、以上
    亥六月                        服部長門守
         大村丹後守殿                     」
 これは高橋美作守より後任の妻木源三郎への申送書で、本文では、外交に関する取調中や未決定の案件、或いは留意すべき事柄について箇条書でその要点を記しており、居留地商人と日本商人間での商取引上の係争事項も多い。本来は奉行の交替ごとに新しく作成されるべきものであろうが、末尾の奥書が示すように、妻木以降の奉行たちは、下札や担当者の上申によって変更部分を補いつつ、この申送書を引き継いでいる。また引用部分冒頭の「別冊」とは�の岡部駿河守が退任時に作成した高橋美作守宛の申送書のことで、本文には高橋による下札が付され、末尾の記載は�と同様である。
 �は岡部駿河守の作成、�はその続きとして高橋美作守が作成したものであり、�、�同様に高橋以降の後任者たちに引き継がれている。なお、�、�表紙の服部長門守の名前は貼紙の上に記されている。内容は輸出入品の管理、運上銀取立の手続や両替など貿易関係事項が多い。【撮影済】
14—552—3 解牛場一件留(五番解牛場) 居留場掛          一冊
 右記の文久元年分を抜撮。同留は「屠牛場一件書類 居留地ノ部 士木課」(文久元年〜明治四十年)として、他の資料とともに合綴されている。【撮影済】
14—563—2 外国人居留場地所規則書 万延元年四月          一冊
14—699—1 居留地埋立 丑閏五月迄諸伺并御入用銀出願御印物又ハ写御下ケ相
成居分取調書銘書 居留場掛乙名                      一冊
 表題に「但、夫銀出方之分ハ御印物揃居候ニ付、別段取調不申事」、また朱書で「第五号」とあり。
14—705—2 外国人居留場諸入用勘定帳 安政六年〜文久二年 居留場掛 一冊
 番号を付された帳簿五冊が合冊されている。
(第七号)「外国人居留場諸入用勘定帳 居留場掛」。
 朱書で「居留場発記安政六未年大浦御埋地以来慶応元丑六月迄」とあり。
(第八号)「常盤崎人家拾六軒御買上代」ほか。
(第九号)「外国人居留場会所請地埋立其外同所買揚諸御入用帳」。
(第十号)「大浦外国人居留場御入用銀出方之分」。
(第十一号)「文久二年戌正月改 居留場御入用銀会所出方目録」。
14—708—1 居留地御入用銀会所出方目録 壱 開発より文久元年十二月迄   一冊
 家買い上げ代・蔵取り建て入目・上地の節年貢銀庄屋渡しなど、費目毎に銀高が書き上げられている。【撮影済】
14—1352 夷国船之儀ニ付御評議書并夷国船一件ニ付諸家江御達書    一冊
 嘉永二年から三年にかけての打払い令復古と海防強化令の評議の書類。千八百五十年にオランダ商館長にあてられた、海防強化令に対応する薪水給与令確認の命令を収める。
 「                           新古かひたん
我国祖宗の掟ありて、異国の船猥に来るを許さず、されとも難風にあひ漂流にて食物薪水を乞ふ迄ニ来るものを旧法ニより厳に取扱んも無情の事なるゆへ、右等之船江は仁政を以憐恤を加へんと、天保十三年其国江も示したる所也、右之旨趣を全洋中ニ而災厄に罹り余儀なく渡来して見棄かたきもの江は憐恤を加へんとの事ニ而、祖宗の法を改革し、渡来之船は何くれとなく皆温和ニ接待せんとの事にはあらさる也、然るに右に示したる旨趣外国人江通シ外国人思ひ違へたる事もあるにや、近年漂流したるニもあらす、食物薪水乏しきにもあるさる船度々渡来し、我国禁を犯し、押て上陸し、或は測量等致し、又は海上にて我国の船へ乗移り、横行の振舞いたす事もあり、当時欧羅巴・亜墨利加諸国勢盛んに政事正しきよしなれば、其国王政府より右様之船を差越たるにはあらさるべく、何国之船ニ候哉、全く其船主首一己之所存なるへし、去なから右様之事あるは、万一天保に示したる旨趣の行違たる事もあらんか、我国祖宗の法を堅く守りて人心一定したる国柄なれば、たひたひ他国の人きたりて我国禁を犯す事あるを、いつまても其儘に捨置かは国法崩れ民心服せされハ、ことによりては捨かたき場にも至らんか、抑測量は外国の習にて、国地の様子を窺ふ意味にあらす共、我国禁なれば、来りて測量することなかれ、されとも洋中にて災厄ニ罹り余儀なく来る船に憐恤を加ふ事は、是迄の通ふりなれば、疑ふへからず、却而此度法令を改革したるにはあらす、天保ニ示したる書付を能々熟覧して、右之旨趣其頃通じ置たる国々もあらハ、猶又此旨を通じ、外国人思ひ違へる事なきよふに致すへき也
右之通かひたん江申渡候間、可得其意候
 戌九月廿日                                」
16—1 埋地日記 長崎奉行所                      三冊
 安政六年九月〜一二月、万延元年正月〜六月、同年七月〜一二月。
 最後の冊には、万延元年一二月中に天草郡赤崎村庄屋北野織部よりの埋地請負残金の下付受領書、文久元年正月一七日の「出来栄身分願」を記載。
16—2—4 埋地書留 但五間築足並梅ケ崎埋立其外波戸築立川筋浚 元治二年正月〜長崎奉行所  一冊
 最初に内容目録(一〜七一)あり。元治元年正月よりの第三次造成工事完成後の身分や普請入用に関する諸書類の留。目録四〇よりは「大浦海岸江波戸弐ヶ所貸立一件」(慶応元年三月)。
16—5—1 常盤崎〓大浦海岸地先埋立并沖手方落入所石垣築立一件留 安政六年五月〜  一冊
 最初に目録あり。万延元年中のものが大半。文久元年は普請役人中への野扶持米下付とその受取のみ。大浦埋立についての関係書類はほとんど収録されている。
16—6—4 常盤崎崖地之港会所地所石切出方一件 万延元年六月〜文久元年六月 居留場掛  一冊
 天草郡赤崎村庄屋北野織部が請け負った、大浦居留地埋立工事のなかの、大浦川河口常盤崎から港会所までの崖地工事に関係する一連の書類を綴じたもの。内容は「石切割見込書」以下、「去申六月試〓当六月迄之切出し石出高并諸雑費勘定」などを文久元年八月時点で決算した時の書類。また石切出箇所の絵図もあり。【撮影済】
16—7—1 弁天崎海岸地先立一件留 外務課「居留場掛」 文久元年    一冊
 居留地用地の不足のため地先埋立の必要を主張した、長崎奉行上申(文久元年三月)以下、関係書類の留。冒頭に目録有り。【撮影済】
16—8—2 大浦并下り松海岸埋立御入用 附詰所雑用掛り役々手当共 居留場掛 万延元年〜元治元年  一冊
 内容は以下のとおり。
○「外国人居留場相成候大浦海岸埋立候御入用」
○「外国人居留場相成候下り松辺海岸埋立候御入用」
○「初発万延元申十月〓文久元酉十二月迄外国人居留場御普請御入用并掛り役人御手当詰所雑用」
○「文久二戌年中御普請御入用并掛り役人御手当詰所雑用」
○「文久三亥年中御普請御入用并掛り役人御手当詰所雑用」
○「元治元子年中御普請御入用并掛り役人御手当詰所雑用」
16—9—1 大浦海岸六番〓拾壱番半迄地揚一件 慶応二年三月 居留場掛  一冊
 大浦当該地所について各番地内部の建物の配置がわかる絵図面あり。本家・小屋・土蔵・賄部屋・物置などの別が記されている。
16—12—5 居留地場五間築立并梅ケ崎埋立御用留 附下り松并出島築立 壱番外務課 元治元年正月〜十二月  一冊
 大浦海岸二百十八間の場所の五間築出、梅ケ崎三八〇〇坪余埋立、下り松・出島築立の留。【撮影済】
16—13—2 元治元年子正月〓出来栄迄五間通り足し・同所波戸二ヶ所築立・梅ケ崎埋立并波戸築立・下り松波戸築立・出島波戸築立・川筋堀浚御印物 元治元年 埋地掛  一冊
 最初に目録あり。内容は、埋地掛の人員増加願関係書類が多い。また入札時の御入用積書や見張番所・波戸の絵図のほか、請負人よりの願書や証文類の原史料が綴り込まれている。
16—19—4 妙行寺下手より下り松辺海岸埋地明細帳 明治六・七年    一冊
 地番毎に、地所・坪数・地料・表間口・入間数・東西南北隣の項目が書かれている。すでに入居している地番地には、入居期間も記されている。【撮影済】
17—628 唐国渡海日録
 原題は「文久元辛酉九月ヨリ 唐国渡海日録 本商」とあり。記載期間は文久元年九月二一日〜一〇月一〇日、文久二年正月一四日〜五月一〇日。冒頭の二日分の記載左のとおり。
「   酉九月廿一日 晴天
一此度唐国上海辺江御国益筋并彼地風土交易筋御取調事御試として、御渡海相成ニ付、仲間内〓両三人罷越候様江府〓御沙汰之由ニ而、長崎会所〓浜武様江御掛合相成候ニ付、切紙ヲ以同所〓呼使御座候間、<文<キ辺御出相成申候処、本商人之内両三人是非羅越可申様御沙汰ニ御座候
   九月廿二日 晴天
一前文御達しニ付、早朝〓本商中并組内重立候者多人数新蔵□江寄合評談御座候へとも、相進ミ返答致候者壱人も無之、依之鬮引ニも可相成処、其儀も不承知之向多分談決不仕、夜四ツ時比各引取相成候事
 以下「本商人」の人選についての記事が続く。「新商人或者市中之者」よりの希望者は多数いるも、「本商人」の「仲間内」より差し出すことを請け合う。二四日に<文利助・<カ>伴吉・<カ文助(病気のため<キ慎助と交替)に決定。【撮影済】
古賀13—313—1 魯西亜方長崎御奉行所旧記写 記録所         一冊
 レザノフ来航時の長崎での様子を書き留めたもの。
「一、今未刻、白帆為見届差出候行方覚左衛門・矢部次郎大夫、丑之刻過罷帰申聞候は、右船乗付ケ、紅毛人并通詞を以様子相尋候処、魯西亜人八拾壱人、日本人四人乗組渡来之旨、右日本人は奥州之者ニ而、去る丑年逢難風魯亜国江致漂着候ニ付、此度連渡候得は、是は奉行所江直ニ差出度旨申之、横文字壱通信牌写壱通差出候ニ付請取帰候段、申聞候」
青方14—17 風説もの                         一冊
 安政二年三月フランス軍艦が下田に来航した際の応接の記録。『幕末外国関係文書』に収められている応接記とは別系統のもの。
「三月四日夕七ツ時頃、蘭西船碇泊
応接 与力 合原猪三郎 立合 小人目付 壱人
       山本市太郎     御普請役 壱人
       同心三人      通詞 堀達之助
一、何用ニて参候哉、国許より歟外より廻り候哉
答、国王之命ニて支那国へ参り、用事相済せれより下田江参り候、諸国順問之為ニ致廻船候
一、碇泊いたし候心得ニて参候哉
答、定約之義は別段使官国許より参候へ共、先ツ右之義奉願候
一、薪水食料等入用ニは候哉
答、薪水食料等被下候様奉願候、致上陸度候間、宜敷奉願候、書面差上候間、御奉行様へ御廻し被下候様いたし度候
一、使官ハいつ頃参候哉、国許致出帆候哉
答、使官ハ国許出帆いたし候歟、いつ頃参候哉、私共ハ相分り不申候       」
                   (杉本史子・保谷徹・松本良太・横山伊徳)


『東京大学史料編纂所報』第30号p.82