東京大学史料編纂所

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盛岡市中央公民館所蔵国絵図の調査

 一九八八年三月七日より九日の三日間、盛岡市に赴き、同市中央公民館所蔵の陸奥国南部領絵図などの国絵図調査を行った。
 同公民館所蔵の国絵図については、『[盛岡市立中央公民館所蔵]郷土史料目録』(昭和五七年)によって、その大要を知ることが出来るのだが、今回の調査目的は、寛永二〇年に南部領山田浦(山田湊)に漂着したオランダ船ブレスケンス号の船姿が、それらの国絵図に描かれているか否か、描写されているとすればどのようにか、そしてその撮影は可能かといった点を調査することにあった。以下に調査した国絵図を列挙し、その調査結果の要点を記述する(なお、絵図名・番号・絵図の大きさなどは前掲の郷土史料目録によった。

一、領内図                       折一   二八・八—六
二、南部領惣絵図  縦約二八尺×横約一二尺六寸     折一  特二八・八—一
三、南部領惣絵図  縦約二八尺×横約一二尺六寸     折一   二八・八—二
四、南部領内総絵図                   折一  特二八・八—三
五、南部領内図   縦約九尺五寸×横約五尺五寸     折一   二八・八—四
六、南部領内絵図                    折一   二八・八—五
七、南部領高都合并郡色分目録  縦約二八尺×横約一四尺 折一  特二八・八—七
八、南部領天保国絵図控  未登録
九、南部領海辺際絵図                  折二   二八・八—八
 まず一は、絵図の裏に、
   「此御絵図ハ正保年中
    公儀江被指上候扣 」

との貼紙があり、さらにその貼紙の下に「公儀へ被指上候絵図」とあるので、正保国絵図の控図であることが確実な絵図であるといえよう。調査・点検した結果、同絵図の「山田湊」の湾内に、オランダ船ブレスケンス号の姿が描写されており、そこに「寛永廿年癸未六月十三日、阿羅陀船此所へ着岸、阿羅陀人十人搦捕、江戸へ指上」と記載されていること、およびその部分の撮影が可能なことを確認した。陸奥国南部領正保国絵図としては最も良質なものといえよう。
 二と三は、同じ紺表紙のもので、ワンセットになっている。二は、同じく正保国絵図であり、恐らく江戸幕府に提出された正保陸奥国絵図の写図であると判断されるものである。元禄国絵図を製作するにあたって幕府は、献上されていた正保国絵図の借覧を許した。そこで、絵図元となった藩などによって多くの正保献上国絵図の写図が作られたのであるが、本絵図もその一つだと判断できるものである。ブレスケンス号の船姿の描写、およびその着岸に関する記載は一と同じであるが、残念ながら傷みがある。
 三は、描写・彩色ともに元禄国絵図に近いが、記載されている事項は正保図のものであり、元禄国絵図の製作プロセスを示す正保国絵図写図といえよう。この図も、一と同じ船姿の描写と着岸に関する記載だが、これまた傷みがある。
 四は、小型の正保国絵図であり、丁度、郷土史料館の方に展示されていたので調査は出来なかった。
 五は、これまた小型図であり、村高・郡高の記載もないので、制代年代・目的などを特定するのは困難である。僅かに、貞享元年に上がった岩手山の噴煙の描写があるのが唯一の手掛りであろうか。なお描写されているブレスケンス号と着岸に関する記載は正保図の系統であって、本図が正保図をベースにしていることを示している。
 六は、当面、作成時期・目的ともに推定困難な絵図である。
 七は、元禄国絵図であり、「元禄拾弐乙卯年三月」と〓紙書にあり、元禄国絵図の控図とも思われる出来映えのものである。この元禄国絵図にも、山田湊にオランダ船ブレスケンス号の描写がなされており、「寛永二十癸未年六月十三日、おらんだ船此所ニ着岸仕節、阿羅陀人拾人搦、江戸江差上ル」とあり、正保図とは記載の文字に違いがみられる。また船姿・船型も、正保図とは大分異なるものとなっている。
 八は、未登録の絵図であるが、その箱書に、
    「御国絵図  十三巻   北五
     達書  御役方名付共弐通  ノ三九号」
とあり、その割裂された形態からも、天保国絵図の控図であることが確認できるものである。なお、この天保図には、元禄図には残されていたオランダ船の描写がなくなっていることに注意したい。
 九は、元禄国絵図作成の際に、一緒に作られた際絵図である。この絵図にも、オランダ船ブレスケンス号が描写されており、八の元禄図と船姿・船型の描写および着岸に関する記載が同じであることはいうまでもない。
 以上のように、正保・元禄国絵図などでは、ブレスケンス号の姿を描いていることが確認されたが、天保国絵図では、その姿は描かれなかったと思われる(もっとも、最終的には国立公文書館内閣文庫の天保南部領国絵図を調査しておく必要があるが)。ただし、その船姿は、絵図によって微妙に変化しており、正保国絵図の船姿を起点とする変形のプロセスを、税務大学校所蔵の南部領元禄国絵図も含めて検討する必要が残されているといえよう。
 なお、その目的を達したのち、時間の許す限り城下町絵図などの他の絵図類を調査したが、それらの絵図については、十分な調査を行いえなかったので、ここでは検討結果の記述は省略することにしたい。
                           (加藤榮一・黒田日出男)


『東京大学史料編纂所報』第23号p.58