東京大学史料編纂所

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新発田市立図書館所蔵の国絵図等の調査

 一九八三年八月二三日から二四日にかけて、新発田市立図書館を訪れ、同館所蔵の国絵図などの調査を行なった。
 同館には、多くの絵図が所蔵されているが、その内次の十三点について調査し、それぞれの絵図の性格を確かめることが出来た。  

一、元禄御国絵図 元禄一三年                       一枚
二、御領分絵図 正保四年                         一枚
三、佐渡国絵図                              一枚
四、正保越後国絵図                            一枚
五、正保二年高田江被遣候当御領御絵図控                  一枚
六、山城国・伊賀国絵図                          一枚
七、新発田領内絵図                            一枚
八、佐渡国絵図                              一枚
九、信濃国絵図                              一枚
十、新発田領内絵図 明和六年                       一枚
十一、越後村上・新発田領内絵図                      一枚
十二、越後国蒲原郡小川荘絵図                       一枚
十三、蒲原郡の内村上領絵図                        一枚

 まず一は、越後蒲原・岩船郡絵図というべきものであり、貼紙が多数貼られており、恐らく元禄国絵図の下絵図ではないかとおもわれる。二は、正保国絵図に関連するものであるが、溝口氏の一族の知行地の村形色分けがなされていること、及び「村上」の飛び地の村形色分けがなされていること、の二点で、正保国絵図とは異なっている。また、七は、色取目録を検討しなければならないが、ほぼ二と同系統の図と思われる。
 四は、既に周知の正保図であり、今回の調査で改めてその点を確認した。絵図の裏書きによれば、「正保二年御絵図控 壱枚 但、従公儀御貸渡写」とあり、元禄国絵図作成を命じられた際に、江戸幕府より貸与された正保越後国絵図を写したものであることは明らかである。この絵図にも多くの貼紙があり、元禄国絵図作成に際して作業用に用いられたとみられる。また、十三も、正保国絵図の写しである。
 五は、正保二年に、国絵図作成にあたって、高田に送られた新発田領内絵図であり、これまた正保国絵図そのものではないが、その作成過程に作られた絵図である。
 六は、山城や伊賀とは関係のない絵図であり、真ん中の三分の一が欠けている点が惜しいのであるが、正保大和国絵図の写しである。蓬左文庫所蔵の正保大和国絵図写との比較検討がなされねばならない。
 九は、本調査の主な目的であって、正保図であるか否かを調査したが、その結果、同絵図は、正保信濃国絵図の写図であることが確認できた。現在までのところ、正保信濃国の一国絵図はこれ以外にはみつかっておらず、本絵図は貴重な絵図といえよう。
 十は、所謂、明和の国絵図である。まだ実例は多くないが、今後更に明和国絵図の発掘につとめなければならないであろう。
 十一と十二であるが、調査時間の制約もあって、十分にはその性格を明らかに出来なかったが、後者は元禄図系統の写しではないかともおもわれる。但、どのような目的で作られたかも、今後の検討課題である。また前者は写図であることは明らかであるが、検討は不十分なものにとどまった。
 三と八は、共に佐渡の国絵図である。前者は、絵の描き方などからみて、近世後期の絵図である。村名・村境線・道・御林・郷蔵・銀山・寺社・高札・田などが描かれており、江戸幕府国絵図系統の絵図ではない。詳細な検討が必要であろう。また、後者も、極めて詳細な記載がある。海岸には、島名・岩名などのほかに湊とその船掛かりが詳しく記されている。また島内では、まず駒形の郡枠の中に郡名・高・地子そして村数が記されている。村形内には村名だけであるが、その他に、御城・金山・番所・寺社などが記載され、黒丸一つの一里塚が書き込まれている。これまた今後の研究が必要である。
 以上が国絵図調査の概略であるが、その他に大日本史料十二編の関連史料を二点撮影した。  

一、中嶋組所々新田帳                           一冊
二、元和八年御蔵納高目録                         一冊

                            (黒田日出男・藤田覚)


『東京大学史料編纂所報』第19号p.99