東京大学史料編纂所

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岡山大学附属図書館池田家文庫及び岡山県立博物館所蔵国絵図調査

 一九八三年二月一六日から一八日にかけて、岡山大学附属図書館(岡山市津島中三—一—一)、岡山県立博物館(岡山市後楽園一—五)の二カ所に出張し、江戸幕府国絵図の調査を行なった。この両館所蔵国絵図については、既に一九七九年に調査を行なっているのであるが(『東京大学史料編纂所報』第一五号八一〜九〇頁)、未調査の分も残っているので、再度の採訪となったものである。以下、採訪先に則して、その調査結果の概要を報告しておくことにしたい(尚、前回と重複する点は省略するので、前掲所報を参照されたい)。
池田家文庫
 同文庫中の国絵図類は、『岡山大学所蔵池田文庫総目録』(以下、『目録』と略す)によって、その全貌がつかめるが、今回は次の絵図を調査した。

 � 備前国九郡古図                      一枚T1 14
 � 備前国絵図                        一枚T1 16
 � 正保二年御献上御絵図之写                 一枚T1 18
 � 備前国絵図并備中国郷帳                一枚一冊T1 20
 � 備前国絵図                        二枚T1 19
 � 備前絵図 宝永七年                    一枚T1 17
 � 備前国絵図 明和二年                    一枚T 12
 � 備前国絵図 文政元年                    一枚T 18
 � 備前国図                          一枚T 15
 � 備前国絵図                         一枚T 17
 � 備前上り絵図控                       一枚T 13
 � 御国中枝村絵図(備前国)                  一枚T 16
 � 備中国絵図                        一枚T1 30
 � 備中国古図                        一枚T1 31
 � 備中国絵図                        一枚T1 32
 � 備中国新御絵図写                     一枚T1 21
 � 水谷伊勢守殿より参四郡之絵図               一枚T1 34
 � 津高郡図                         一枚T2 82
 � 津高郡図                         一枚T2 83
 � 和気郡図                         一枚T2 72
 21和気郡図                         一枚T2 95
 22和気郡図                         一枚T2 86
 23都宇郡之図 戸川土佐殿より参               一枚T2 92
 24下道郡之絵図 伊藤甚太郎殿より参             一枚T2 94

 まず�は、�と共に「寛永古図」と伝承されてきた国絵図である。この両絵図については、既に川村博忠氏の論稿「寛永期における国絵図の調製について」(『地域—その文化と自然』所収)が、寛永十五年に幕府が全国的に作成を命じたと考えられる国絵図であると指摘されている。今回の調査の結果としては、�に「山崎甲斐守先知」とあること、および黒田の「寛永江戸幕府国絵図小考」(『史観』第百七冊所収)で指摘している諸特徴とこの��の特徴が一致するので、この両図は、寛永江戸幕府国絵図と認めてよいと考えられる。今のところ、この両絵図と後述する��しか寛永十五年の国絵図は見つかっていないので、寛永国絵図の作成基準についてはこの両絵図がその特徴を検討する一番の手掛かりである。特に郡堺線の金泥色(金色・黄土色)は、寛永国絵図の特徴とみられる。また、平地を郡別に色分けしている点も、寛永図の特徴のひとつと見たいが、その点は、今のところ西日本の例しか見つかっていないこと、および、慶長末・元和初年の国絵図にも同じ特徴が見られることに留意する必要がある。寛永国絵図の作成基準・様式を明らかにすることは今後の課題である。
 この両絵図は、その仕上り具合からみて、控図ではないかと思われる。
 �は、�と同じ寛永図であるが、全体的に淡彩であるばかりでなく、郡別の平地色分けも省かれ、また、郡枠内の郡高、村形内の村高も省略されている。『目録』は、これを�の原図とするが、裏書の記載から見てもそれは無理で、�の写図とみるのが自然である。村名と郡毎の村数に焦点をあてた写である。
 �は、元禄国絵図作成にあたって幕府は、献上されていた正保図を借覧させたが、それを写したものである。
 �は、元禄図である。箱入であり、その箱蓋裏書によって、この図の性格は明瞭である。裏書は、本所報第一五号八二頁を参照されたい。但、彩色は、元禄図としては暗い色調である。
 �のうちT1 19 1は、元禄図であって、その彩色は典型的な元禄図の色調である。それに対して、T1 19 2は相当汚損しており、何かの作業用に用いられたかと思われる。
 �は、宝永七年の図であり、この年、幕府の巡見使が来ているので、そのために作成された国絵図であろう。その特徴は、�村形内に石高記載がないこと、�元禄図をベースに作成されているのであるが、郡別の平地色分けという寛永図以前の伝統的な描法がとられていること、�本村と枝村の関係を示す記号が村形内に記載されていること、などであろう。尚、この記号は、T1 6やT1 7図とは異なっている。
 �は、明和二年十一月に作成されている(本所報第一五号八三頁ではT111となっているが誤り)。この年には、幕府から国目付が来ており、そのために作成された国絵図と考えられる。石高や描法共に元禄図によっている。
 �は、南園耘夫が作成したもので、中世の庄名・保名・墓・城などを地図上に比定してある。中世史研究には参考になる絵図であろう。
 �は、今回の調査の重点であるが、岡山県立博物館の特別展図録『古地図—地図が語る歴史と文化—』に、その図版と観察結果が記されている。それによると、結論的には、最も古い備前国絵図であり、慶長国絵図と思われるとされている。しかし、調査結果からすれば、慶長九年の江戸幕府慶長国絵図ではないことは明らかである。
 ここでは、本絵図の特徴を箇条書に記すにとどめる。
 (一)全体的に装飾画風であり、山々の向きも、児嶋郡を除いて、海上の上空の視点から描かれている。このような描き方は、これまでに見つかっている慶長国絵図には全くない。
 (二)郡別に平地を色分けしている。これは天理図書館所蔵播磨国絵図や��などと共通するが、江戸幕府慶長国絵図ではこのような例はみられない。
 (三)村形は円形で、郡毎に色分けをし、村名を変体仮名まじりで記し、村の字はつけない。また石高の記載はない。これも慶長図の特徴に合致しない。
 (四)本来の郡名は打付け書きされ、郡高は記されていない。そして、別に貼紙に郡名・郡高寺領高が記されているが、そのどちらも慶長図のものではない。
 (五)郡界は細い墨線であって、慶長図とは異なる。
 (六)岡山城が鳥瞰図的に描かれ、八塔寺には七重塔、児鳥には下津井城が見えるなど、現存国絵図中最も古い備前国絵図と考えられる。
 (七)児嶋郡内海部中央に湾入部があり、そこに海を仕切る茶の太い線が入っている。これは、干拓の堤を示すかも知れず、今後検討を要する。
 (八)上東郡の一部が邑久郡に張り出している。天正年間に河道が変ったためで、寛永図の段階では邑久郡に編入されている。本図は、それ以前のものである。
 以上のほかにも興味深い色々な特徴があるが省略する。今後、他の絵図と比較しながら、本絵図の絶対年代を確定するように努めたい。
 �と�は同じもので、前者の方が紙質・仕上りともに良い。元禄備前国絵図をベースにしており、どの村が本村であり、その枝村はどの村であるかを、色々な記号を駆使して示したものである。本村は、例えば、村形内に「(+)何村」と記し、枝村の方はたんに「(+)何」と記して区別している。いずれも、�と同様に、岡山藩の一種の伝統化した描法というべきか、郡別の平地色分けをして、各郡を区別している。
 �は、彩色・描法共に慶長国絵図を思わせるような趣がある。『目録』には、正保控図と推測されているが、むしろ完成度の高い下絵図とみるべきであろう。そのような下絵図が、控図とされる場合もあることは言うまでもない。
 さて、次は備中国絵図であるが、�については既にふれたので、�から調査結果を記していく。
 �は、�と同様に寛永国絵図である。『目録』では、�の原図と認められるとしているが果たしてそうか。第一に、郡堺線を〓紙書では「金泥」としているが、絵図上の郡堺線は墨線である。また、海上の記載も、�では金泥で記しているのに対し、�では墨書されている。第二に、�と比較して、山とか海などの描写も全般的に薄い彩色となっている。第四に、山姿などは、�と較べて随分違っており、また、賀陽郡東部、備前との国境の山(正保図で龍王山とある)の頂上に一本松の巨木が描かれているが、これなどは�にはない。そして第五に、郡枠内の字の向きや〓紙書の内容や向きにも随分差異がみられる。したがって、本図は�の原図とは簡単には言えないだろう。第四に指摘した龍王山の一本松が正保図にも描かれているので、正保図作成の際に、�の写図がつくられた可能性もあるからである。そのように考えると正保図の郡堺は墨線であるから、第一の郡堺線を墨線としている特徴も説明しやすいであろう。
 �は、袋のウハ書に、「正保二年御献上絵図之写」とあり、元禄図作成に際して幕府より借覧した正保献上図の写図である。カラフルで精細な丁寧な写しであるが、各所に「この村名不見」などの貼紙があり、元禄図作成の際に利用されたと思われる。
 �は、元禄図の写図である。
 �は、貼紙に「水谷伊勢(勝隆)守殿〓参四郡之絵図 上房 阿賀 哲多 川上」とあるように正保備中図作成にあたって、水谷勝隆より作成提出された水谷領絵図である。正保備中図の下絵図と言えよう。興味深い点は、郡堺線が、慶長図と同様に「柴筋」となっていること、郡毎に平地色分けとなっていること、および〓紙書に「一、枝村之くゝり本村と同色」とあるように、村形内の郡別色分けとは別に、村形の枠線(くゝり)の色によって本村と枝村の関係を示していることなどである。
 ��と〈22〉は、いずれも藩政レベルで作成された郡絵図であって、江戸幕府国絵図とは関係ない。
 � 〈21〉は、元禄図に関連のある郡絵図であるが、時間的に余裕がなく詳しい検討は行なえなかった。
 〈23〉と〈24〉は、両方共、正保備中国絵図の下絵図である。共に、正保国絵図の作成基準とは大幅に異なる記載と描写であって、正保絵図の作成過程などを考察する上で、重要な絵図であると思われる。
岡山県立博物館

 同館では、次の二図を調査した。
 �美作一国之絵図                        一枚
 �備中国絵図屏風                      六曲一双

 まず�であるが、本所報一五号八九頁にも指摘されている如く、正保国絵図の写図と考えられるが、領主・石高・いろは付けなどが見られない。その点、検討を要する。
 �は、山陽道の矢掛町の本陣石井家に伝来したものであるという。御蔵入代官二名のうちの一人が、正保備中図では米倉平太夫であるのに、この屏風では彦坂平九郎に変っているが、正保図を装飾的に屏風に仕立てたものと見てよいであろう。問題は、誰が屏風をつくったかであるが、観察すると、水谷伊勢守の所領だけを白筋で囲んでいる。おそらく、水谷氏のつくらせたものであろう。
 以上が調査結果の概要であるが、前回と今回の池田家文庫の調査は、備前図・備中図の調査にとどまった。しかし、池田家文庫には、『目録』によると実に多くの各国国絵図が所蔵されているのであり、その中には慶長図や寛永図の写図などが含まれている可能性があるように思われる。したがって、同文庫中の各国国絵図の性格を今後さらに調査する必要があるのである。
                            (黒田日出男・藤田覺)


『東京大学史料編纂所報』第18号p.154