東京大学史料編纂所

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龍谷大学図書館・京都大学附属図書館・京都大学文学部古文書室所蔵の近藤重蔵蝦夷地関係史料の調査

 昭和五十五年七月二十一日より二十四日まで、龍谷大学図書館、京都大学附属図書館、京都大学文学部古文書室において、近藤重蔵の蝦夷地関係史料について調査をおこなった。
 龍谷大学図書館では近藤重蔵の有名な著書「辺要分界図考」を閲覧した。同館の所蔵本は閲覧カードに「自筆本」の記載がある。同書に関しては、已に内閣文庫所蔵の五部(十冊、九冊、九冊、七冊、七冊)と零本一冊、東京大学総合図書館所蔵の一部(八冊)を調査しているが、いずれも写本であって、この自筆本という点が注目される。龍谷大本は全八冊で、閲覧したところでは、序文の末尾に「文化元年甲子十二月二十三日 小臣近藤守重謹記」とあり、巻之一より七までの各巻頭に「近藤守重輯」の記載があるのみで、特に自筆本と思われる点は見当らず、また筆蹟も重蔵のものとは考えられない。
 内容については、巻之一より六までは他の写本と同様で、巻之七は近藤正斎全集所収の巻之七の前半である「魯西亜考」で、巻之八は全集巻之七の後半の「釆覧異言増訳云」が収められ、全集本の巻之八にあたる部分を欠く。地図、挿絵の風俗図は美しい淡彩で、全体に保存の良い浄書本である。
 京都大学附属図書館所蔵の「近藤正斎外書状」は巻子本、一巻。重蔵自筆の書状一通の他、次の人々の書状が収められている。いずれも重蔵宛である。

 阿部棕軒(主計頭正精)                         三通
 松浦静山                                一通
 河尻肥後守(春元、勘定吟味役、後松前奉行)               一通
 黄雪                                  一通
 林大内記(述斎、大学頭)                        二通

 右のうち蝦夷地に関するものは、阿部正精の正月廿三日付(享和二年カ)書状にクナシリ・エトロアを探検した重蔵を賞賛した記事がある位のものである。
 京都大学文学部古文書室では「近藤正斎宛書簡」と「近藤守重書付」を閲覧した。
 「近藤正斎宛書簡」写本、一冊。この書は重蔵に宛てた書状を某人の一筆により書写し、一冊としたものであるが、序跋奥書はない。初めに阿部正精の書状のみ二十通を収め、その終に朱書で「以上阿部侯の直書なり」と記し、以下は多数の書状を順不同で集めてある。それらの主な人物をあげれば林述斎、藤井貞幹、古川古松軒、松平忠明、間宮士信等々で、重蔵の交遊の広さを伺うことが出来よう。
 阿部正精は重蔵の学問上の知己であり、重蔵が「擬進賢之私表」(下書)(寛政十年、本所蔵)を草して、対口シア交渉の役に推薦し、政術の理に通じ、蛮夷の事を諳じて万国之情に通じ云々と絶賛した人物である。その書状二十通のうち、九月十九日付(享和元年カ)一通は重蔵がエトロフ島より発した書状に対する返書で、正精の北方問題に対する関心の深さを示す史料である。その他松平忠明の四月十日付のものにクナシリ・エトロフ・ウルップに関する記事がある。

 「近藤守重書付」一冊、は重蔵自筆の文書二通を収めた影写本で、次の奥書がある。
 「近藤守重書付
  右大阪平賀敏氏蔵原本巻紙二通
  大正七年七月影写四月廿二日一交畢」
 第一の文書は端裏に「ウルップ嶋取扱之儀ニ付奉伺候書付 近藤重蔵」とある。

 重蔵は寛政十二年、享和元年と二年続けてエトロフ島へ渡っているが、享和元年十一月江戸帰着ののち、ウルップ島渡海の命を受け、翌二年の正月起草したのがこの伺書である。
 「此度ウルップ嶋に被差遣候旨被仰渡候処同所〓魯細亜人共数年在留罷在候ニ付右取計方心得之儀左ニ奉伺候」という書き出しで始まる。ウルップ島には七八年前よりロシア人が在留して蝦夷人もその風俗に染り、彼等は一向に退去する様子もなく、早々と退去させないと、本来日本領でありながら、いずれは異国領になり兼ねないこと。そのためエトロフ島を十分に取り固めて御威光を広大に張り出し、ロシア人が自から引き拂うようすべきであること。応対にあたっては穏便に、事を荒立てないよう取扱うこと。ウルップ渡海については大船を用意すること。これは海が荒れ、汐路も不明であり、滞留することになれば多量の糧食がいるので持参しなければならず、またロシア人は着類道具とも美麗を尽しているので、こちらも十分に用意していかなければならないこと。着岸後は、島の繋船場所、周囲見廻り、産物、ラッコ漁等を調査し、ウルップ島より北の島々についても尋ねること。鉄砲を持参すること。万事臨機応変に取り計うこと等々。外交折衝、島の経営について彼の実地見聞に基いた優れた見識を示している。
 第二は同じく端裏に「ロシヤ船渡来候先達而申上置候風聞之趣尚又申上候書付」とある。
 二百年以前よりロシアは日本の地に眼を向けて、千島・カラフト・西蝦夷地にも渡来していること。その事情、対応策等を書いた下書で、多数の訂正、書込みがある。
 両者ともに原本は重蔵のたしかな筆蹟であり、重蔵の識見が知られるばかりでなく、当時の北方関係史料としても貴重なものである。
                                 (鈴木圭吾)


『東京大学史料編纂所報』第16号p.77