東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第一編之十九

 本冊には、円融天皇の天元四年十一月から同五年十二月までの史料を収めている。この時期は、藤原頼忠が一貫して関白太政大臣の地位にあった。
 この冊の宗教関係の記事では、慈覚・智証両門徒不和の始めと伝えられる智証門徒権大僧都余慶の法性寺座主補任と、その改補をめぐっての慈覚門徒の動静(四年十一月二十九日の条・同年十二月十五日の第二条)、更に、これに関聯して、延暦寺住僧に円珍の経蔵を守護させた記事(五年正月十日の第二条)が見える。
 ついで宮廷関係の記事では、頼忠の女遵子の立后に関するそれが、まず挙げられる。五年二月十七日の内裏参入の記事を始めとして、翌月十一日の立后、五月七日の四条第より内裏へ入御など(五年二月十七日の第四条・三月十一日の第一・二条、同月二十三日・四月九目・同十二日の第二条・同十五日・五月七日・同月二十八日の条・六月一日の第二条・同月二十日の第二条など)一聯の記事が見える。つぎに東宮師貞親王御元服に関する記事がある。天元四年九月二十五日に同親王元服定があった(前冊)が、御生母藤原懐子の姉妹の逝去により、御元服は延引された(四年十二月九日の条)。次いで翌年二月十七日に雑事定があり(同日の第一条)、翌々十九日に、紫宸殿に於いてその儀が行なわれた(同日の第一条)。
 天元三年十一月二十三日に焼亡した内裏(前冊)は、その復興が完成して、造宮叙位・新所旬が行なわれたのは、それぞれ四年十二月四日(同日の条)・同十五日(同日の第一条)のことであった。それから一年に満たぬ五年十一月十七日に、またも内裏の焼亡があり、翌月二十五日に堀河院に遷幸され、同二十八日に新所旬が行なわれた。この内裏焼亡に関する一聯の記事が、十一月十七日の第一条・同十八日・同二十二日・十二月七日の第一条・同八日・同十四日・同二十五日・同二十八日等の条に見えている。
 なお、当時の社会情勢を示すものに、海賊の蜂起(五年二月七日・同二十三日の条)と、京中群盗横行(五年二月二十八日の第二条)に関する記事がある。
 最後に、死歿などの条に、その伝記を掲げたものを示せば、多武峯検校千満(四年十一月十二日の条)・律師法縁(四年是歳の第二条)・権律師寛〓(同第三条)・冷泉上皇女御藤原超子(五年正月二十八日の条)・左近衛少将藤原光昭(同年四月二日の条)・橘直幹(同年七月是月の条)・石清水八幡宮寺俗別当紀良常(同年八月二日の条)・前大宰権帥源高明(同年十二月十六日の条)などがある。
 これらのうち、橘直幹は大内記・大学頭・文章博士等を歴任した文人で、所謂「直幹申文」の作者として知られている。彼の伝のなかで、この申文に関する『十訓抄』の記載や、彼の秀句にまつわる逸話なども収載している。
 源高明は、醍醐天皇の皇子で、延喜二十年十二月二十八日源姓を賜わり、天慶二年参議に任じ、以来、累進して左大臣に至った。所謂安和の変で宮廷を逐われ、大宰権帥として配所に赴き、天祿三年四月に帰京し、天元五年十二月十六日に薨じた。その女に藤原道長室明子がある。著書に『西宮記』があり、その前田家所蔵巻子本の写真を挿入図版として収めた。
(目次二一頁、本文三八七頁、挿入図版一葉)
担当者 土田直鎮・林幹弥


『東京大学史料編纂所報』第9号p.91