東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古文書 家わけ第十九 醍醐寺文書之八

本冊は七にひきつづき醍醐寺文書第十一函の後半・第十二函、及び第十三函の前半、合せて三三三点の文書を収める。例の如く、内容はきわめて多岐に及び、年次もまた平安より明治にわたる。
個別文書の解説はもとよりこれを略すが、これまた例の如く、編者の個人的関心に従い二・三の文書を紹介しておこう。
第一七四三号文書は、欠年五月六日付の権僧正覚猷の左大弁あて書状であるが、この筆跡は、既刊醍醐寺文書之五、第九七二号文書の紙背、(天承元年)十二月廿五日付、権僧正覚猷請文と全く同筆であり、この書状もまた当時のものであることは疑いない。実をいうと第九七二号文書編纂の際は、全く気づかなかったのであるが、鳥羽僧正として余りにも著名な覚猷の権僧正在任は大治五年より天承二年の間であり、してみれば、この二通の文書が、鳥羽僧正覚猷の自筆文書である蓋然性はきわめて高い。
第一七四五号より五一号に至る七通の文書は何れも将軍足利義輝の自筆書状であり、すべて欠年であるが、内容よりみて永祿元年、近江朽木より帰洛直前のものと推定される。座主義堯を介してしきりに根来寺への働きかけを行っており、摂津・河内の軍事状勢とあわせて注目される内容をもつ。同時に折紙を用いた室町将軍の純然たる私的な書状(御教書や御内書ではない)という文書形式が、当時の将軍の政治的地位とからんで若干の興味をそそる。
第一七九〇号文書は永仁三年二月、大僧正賢助が弟子賢俊に充てた置文であって、紙背に足利尊氏の署判がある。もしこの署判に付せられた「元弘三」なる押紙に信をおけるとすれば、賢俊と尊氏の接触が、幕府の崩壊した時点において既に始まっていことたを示すものであり、南北朝史に新しい示唆を与えるものといわなければなるまい。
第一九六五号より六九号に至る文書は、野鞍庄代官職の請文が、請人と寺家との数回の土代の往返によって、両者の合意に達していく過程を示す興味深い史料といえよう。
(目次二三頁、本文三一六頁)
担当者 笠松宏至


『東京大学史料編纂所報』第9号p.92