東京大学史料編纂所

HOME > 編纂・研究・公開 > 所報 > 『東京大学史料編纂所報』第9号(1974年)

所報―刊行物紹介

大日本古記録 猪隈関白記二

本冊には、正治元年十月より建仁元年三月までの一年六箇月分を収めた。記主藤原家実は二十一才−二十三才、左大将、右大臣の地位にあった。本書が、既刊の関白記、即ち「御堂関白記」・「後二条師通記」・「殿暦」等と対比して最も著しいのは、記述がより詳細であることである。そしてそれを可能にしているのが、本書の継入紙による記述方法である。「所報」第七号には年紀について多くの紙数を費したので、今回はこの点に若干言及する。
公卿の日記は、古くは具注暦各日条の余白に書き入れたものが多いが、書ききれないときは裏面に書き継ぐというのが一般で、既刊の関白記もすべてこの方法をとっている。但し、某件について特別詳細に記し置く必要がある場合には、別紙に記して別巻(冊)とする。いわゆる別記がこれである。然るに本書の場合、若干の例外を除いて裏書とせず、別紙に書いて継ぎ入れる方法をとっている(図版参看)。従って余白に書き入れる場合と異なり、必要なだけ詳細に記すことができるし、関係史料を挿入することも可能である。本冊において、特に注目される数例を挙げれば、五節舞姫奉献の定文(正治元年十月十五日)、春日祭雑事の定文(正治二年正月十日)、陣定文(同年七月十二日)、荷前使並に元日擬侍従の定文(同年十二月廿日)等がある。又同じ理由によって、公卿当年給申文・宣旨目録・奏報・神事の簡等の書き様が示されているのも興味深い。
前冊に引続き、この時代は内大臣源通親の全盛時代であった。通親はいわゆる建久七年の政変によって、藤原兼実の関白・氏長者を止め、家実の父基通を以てこれに代えた。ついで建久九年正月幕府の反対を押し切って、後鳥羽天皇の譲位と、外孫為仁親王(土御門天皇)の践祚を強行し、後鳥羽院政の中心人物となった。基通は摂政、家実も程なく左大将、権大納言に進み、翌年六月右大臣に昇任した。
本書は、既述の如く、朝儀や典礼についての記事が大半を占めているが、本冊について見るに、上皇の諮問に答えること十四回、節会その他の朝儀に内弁又は上卿をつとめること約十回、しかもその公事については〓々従祖父基房を訪れて指教を仰いでいる。その他注目すべき記事としては、皇弟長仁・守成の親王宣下(正治元年十二月十六日)、忠実の春日社参(正治二年二月三日−五日)、守成親王の立坊(同年四月十五日−十七日)、通親の中院第行幸(同年六月十三日・十四日)、東宮の御着袴(同年十一月廿一日)、上皇の熊野御幸(同年十一月廿二日・廿八日)、改元(建仁元年二月十三日)、笙の名手豊原利秋から重代の秘譜を授けられる記事(同年三月十九日)等がある。
担当者 近衛通隆
(例言一頁、目次二頁、本文三五三頁、図版二葉、岩波書店発行)


『東京大学史料編纂所報』第9号p.93