東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

保古飛呂比 佐佐木高行日記 二

本冊には、巻十一より巻二十まで、すなわち元治元年高行三十五歳より慶応三年三十八歳までを収めた。この四年間は、大政奉還、王政復古に至る激動期であって、本冊には、その間の中央の政局、土佐藩の動向を背景に、高行自身の履歴について、公私自他の記録・文書・追想を集録している。以下、本冊の記事から高行の履歴の概略を摘記する。
元治元年(巻十一、巻十二)、正月に養父高下が病死、二月高行は家督を相続、郡奉行兼普請奉行、格式馬廻、知行七十石、役領知五十石となったが、銭貨騰貴対策としての富家の捜索を拒んで免職、小姓組に戻された後、馬廻組に入り、八月、禁門の変後の時情探索のため京都に派遣され、九月帰藩、軍備御用を経て、高岡郡奉行、格式外輪物頭、役領知百三十石となり、須崎に赴任している。
慶応元年(巻十三)、土佐勤王党の野根山挙兵は高行の出京中に起ったが、勤王党に同情する高行は藩当局から危険視され、三月免職、その後、小姓組、馬廻組、記録分限集録取次兼軍備御用、武校調役、免職、小姓組、馬廻組と転々し、九月末、ようやく郡奉行兼普請奉行に再任された。
慶応二年(巻十四、巻十五)、高行は、前年末着工された開成館の経費調達の御用金に反対して、六月に免職、小姓組に戻されたが、容堂に兵庫開港の不可を建議して認められ、馬廻組、新馬廻組を経て、御手許臨時御用兼御隠居様御用に登用され、九月大宰府に派遣されて三条実美や薩摩藩士と連絡し、十二月には小目付、格式馬廻、役領知三十石、兼ねて軍備御用取扱となっている。
慶応三年(巻十六より巻二十まで)、二月に西郷隆盛が土佐に来た際、高行は西郷説に雷同することを戒しめる意見書を執政に提出して注目されたためか、郡奉行兼普請奉行、格式外輪物頭、役領知百八十石に進められ、三月に一時免職されたが、四月に復職、藩政批判を上書したところ、格式・役領知そのまま、大目付に抜擢され、かくて六月に国事周旋ならびに探索御用として京都に派遣され、後藤象二郎等在京首脳部に列して、幕府に対する政権返上勧告の建白書案の評決に加わった。ついで八月、長崎における英人殺害事件について、英艦ならびに幕府軍艦の土佐乗込みに先行して帰藩、直ちに現地談判のため長崎に派遣されたところ、別に土佐藩士の英米人傷害事件が起ったため、その審問に加わるとともに、諸外国の領事や商人との交渉、薩長はじめ諸藩士との接触、坂本龍馬等海援隊員との連絡に当り、土佐藩、とくに在京首脳部のいわば長崎出張員としての役割を果した。
本冊の刊行は、「明治百年記念」臨時事業費によるものである。
(例言一頁、目次一頁、本文六四六頁)
担当者 小西四郎・山口啓二


『東京大学史料編纂所報』第7号p.45