東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 細川家史料 三

本冊には、前冊にひきつづき、寛永五年より同七年にいたる三年間の、忠興(三斎)より忠利(越中守)に宛てた書状二百三十六通、及び参考として三斎画像(部分圖、永青文庫蔵)を収載した。
書状の内容は多種多様であるが、めぼしいものを列挙すれば、後水尾天皇譲位の経過、そのかくされた理由、明正天皇の即位、高仁親王の薨去、大徳寺・妙心寺長老の紫衣褫奪・流罪一件、并せて江月宗玩に対する酷評、以心崇伝の動きと彼に対する悪評等、京都の動静を伝えるものが多い。次に、対幕府関係の記事も、家光の庖瘡の容態、それに対する秀忠をはじめ諸大名の見舞の様子、江戸城普請及び伊豆採石の廻送、普請について酒井忠世と土井利勝の争論のあったこと、家光夫人鷹司氏の自殺未遂についての三斎の評、豊島信満の井上正就刺殺事件、森川重俊の加判衆参加、国替の噂とその予想案、藤堂高虎の幕府要路への接近と彼の老耄状況の伝聞など、常に注意を払っている様子が随所に見られる。親疎とりまぜて、幕臣・諸大名への注意は当然とは言え、〓々筆にされている。谷衛友遺領相続の内紛解決には、相当深く首を突込んでおり、また、島田直時の不慮の死の真相、或いは平野長泰・仙石忠政の訃報、或いは上方にて親交あった諸大名の他界を惜しむ感壊も、忠興老境の情を知ることが出来る。また、天樹院(千姫)の再縁問題、京極忠高とその室(秀忠女)との不仲、及び病歿時の忠高の態度、家光の土井臨邸に際して、利勝の為に座敷節りの念入りの配慮、伊達政宗と兼松正尾の喧嘩、諸大名間の親疎の状、江戸の白晝強盗辻切の横行、その対策としての番所の設置など、世相に触れることも少くない。
また、楢村孫九郎の江戸城西丸刃傷事件に関連して、細川家と親密な曽我古祐・近祐父子の褒賞の事を報じてあるが、この事件の発生を、寛政重修諸家譜の曽我家の部には寛永四年十一年六日とし、徳川実紀もこれをうけて、「諸事此事を五年にかくるもあり、今は東武実録・鈴木譜によりてここにおさむ」と、疑念をはさみつつも、寛永四年のこととしている。さて、重修譜を再検するに、
曽我近祐「寛永四年十一月六日当番の夜………」
倉橋忠堯「寛永四年十一月六目西城にをいて………」
鈴木久右衛門「寛永五年(或は四年)十一月六日夜………」
と、編者の懐疑の跡がみられ、且つ断家譜では、
鈴木久右衛門「寛永四年丁卯十一月六日於殿中………」
楢村孫九郎「寛永五年戊辰十一月六日当番夜於西丸………」
と、これまた混乱を残している。が、忠興・忠利の往復書状によって、寛永五年十一月六日の事件であることが明白である。
その他、孫光尚の縁談については、乱世を生きぬき、多くの婚姻政策の経過を見つめ、家臣を統制し、且つ、幕府より統制されるものとしての婚姻観を、忠利に述べているのも興深い。飛鳥井家の財政の処理、日野資勝・烏丸光賢和解の斡旋、烏丸光賢一家の京都より中津訪問、その慰みとして、花火を興行し花鳥を与えるというよき祖父ぶり、また、家光の武具製作について、始めに意見を佳としながら、納品に当って不採用、且つその処理の理不尽に憤慨する様子、江戸近郊の鷹場拝領、眼痛・癰・虫歯の治療等の医事関係、更に、演能及び能役者への批評、舶載珍品の購求、兵法者松山源丞についての評なども記されている。
担当者 山本武夫・村井益男・加藤秀幸
(例言一頁、目次一八頁、本文三三一頁、人名一覧三八頁、図版二葉)


『東京大学史料編纂所報』第7号p.42