
昭和四十五年五月十一日から十三日まで、水戸市の彰考館において、『大日本史料』第一編の編纂のため、同文庫所蔵の写本栄山寺文書の調査・校合を行なった。このうち『平安遺文』三一八号の天元三年九月に推定されている太政官符案は坪付部分のみで後欠となっていることが判明した。
次に『大日本史料』第三編の編纂準備のため、「元永二年記」、及び「元永三年記」の調査を行なったが、その結果これ等は下記の如く錯簡した「長秋記」であることが判明した。
元永二年記
首 元永二年四月十三日条〜同年同月十五日条
同年同月十九日条前半を欠く
一丁〜八十七丁 同年同月十九日条後半(御産調度事)〜同年十月一日条
元永三年記
一丁〜七丁(後から 三行まで) 元永二年四月一日条〜同年同月十一日条
七丁(後から 二行より)〜十一丁(後から 六行の立まで)同年十月一日条末尾一行より〜同年同月五日条(後欠)
十一丁(後から 五行の爰より)〜三十八丁 天永四年正月七日条(前欠)〜同年同月十六日条
三十八丁〜八十八丁 元永二年十月五日条(前欠)〜同年十二月廿九日条
また「延久五年記」は「為房卿記」であることが判明した。これと「保延四年記」及び「建永元年記」を写真撮影した。
また「長秋記」九冊・「永昌記」四冊・「中右記」三〇冊の調査を行ない目録を採った。(岡田隆夫)
『東京大学史料編纂所報』第6号p.128