東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第六編之三十六

本冊は、南朝長慶天皇文中元年、北朝後円融天皇応安五年七月から十二月・是歳及び同年雑載、さらに翌年正月の史料を収めている。本書でまず注目されるのは、九州地方における南北両党の勢力争いである。たとえば、北党では、深堀時広が南党菊池武安を破ったこと(八月四日条)、これよりさき筑前佐野山に出陣していた今川貞世が大宰府を陥れ、ついで城山に陣したこと(八月十二日条)、石見国周布兼氏をして豊前鷲尾城を攻めさせ、翌日夜凶徒が没落したこと(八月二十二日条)、今川頼泰が禰寝久清一族の弾正忠信成をして筑後酒見城を援けさせたこと(九月二十五日条)、今川貞世が薩摩伊作親忠の代官を参陣させたことを賞したこと(十月十三日条)、今川義範が阿蘇惟村の戦功を賞したこと(十一月十三日条)、今川貞世が渋谷虎王丸を誘致したこと(十一月二十五日条)、日向飫肥郡北郷を兵粮料所としたこと(十二月十一日条)、書を樺山資久に遣わして中条三郎左衛門尉某の参陣を賞し、また渋谷重頼を招いたこと(十二月二十五日条)など、今川貞世を中心とする北党の活動を示す関係史料が目立つが、一方では、南朝方の征西将軍懐良親王が青方新左衛門尉某の烏帽子嶽・有智山・高良山における戦功を賞したこと(十月二十三日条)、あるいは渋谷重頼に令旨を賜い、父重門の忠節を賞したこと(十二月二十一日条)、南党が肥前高来郡に蜂起したので、今川貞世は山名少輔次郎某を遣わし、田原氏能をして撃たせていること(是歳条)など、南党の動きを示す史料も少なくない。
このようなとき、京都の室町幕府では、将軍足利義満の判形始が行われ(十一月二十二日条)、ついで、これを祝うために、鎌倉からは関東管領上杉能憲が上洛していることが知られる(十一月二十八日・十二月二十日条)。
また、この年には、外交上にも重要な事件が起きている。すなわち、五月に明使の仲猷祖闡と無逸克勤が来朝したことである(是歳条)。これは明の皇帝朱元璋が杭州臨安府天寧寺の禅僧仲猷と瓦官教寺の天台僧無逸とを、日本からの留学僧椿庭海寿・権中中巽を案内人としてわが国に遣わし、倭寇の禁止と通商の再開とを求めてきたものである。これよりさき二年ほどの間に、明は使者を三回も日本に遣わしたが、いずれも関西天皇(懐良親王)が信書を自ら納めてしまった。このために、明の皇帝はその意向を北朝の持統天皇(後光厳天皇)に伝えることができなかった。そこで、懐良親王が明に遣わした祖来を護送しながら、三たび明使を日本に送ったわけである。こうして、いよいよ仲猷・無逸が来朝するにあたって、天界寺の季潭宗〓はその餞偈をつくり、朱元璋またこれに韻を和し、さらに、宋景濂はその跋文を作っている。それらはいずれも本書に収録されており、これによっても、明側の意気込みがいかなるものであったかが知られよう。
このようにして、仲猷・無逸らは五月二十四日明を出航して、三日で五島に至り、ついで博多の聖福寺に寄寓し、日本側の出方を待ったが、百余日を経ても一向に返事がなかった。そこで今度は、北朝への上奏を天台座主の承胤法親王に懇請しようとして、椿庭を使者として虚堂智愚賛の天台大師画像などを捧呈した、そのとき無逸が座主に贈った書翰なども収められている。なお、椿庭の帰国を送る仲銘克新・了庵清欲・恕中無慍・智覚などの餞偈も併載されている。
このほか本書で注目される点は、七月二十日、伏見の大光明寺で光厳法皇の年忌仏事が行われたが、これに赴いた崇光・後光厳両上皇の御幸記が収載されていることである。宮内庁書陵部所蔵の同記は後崇光院の直筆であること、さらに、年忌仏事の内容が詳細に記されているばかりでなく、当時の衣食住生活の実態を知るうえなどの点で、きわめて興味深い史料である。
また、足利義満が臨川寺三会院に夢窓疎石の塔を拝して受衣したこと(十一月二十七日条)、二条良基が救済とはかって制定した連歌新式、いわゆる応安新式選定の記事(十二月是月条)のほか、前建仁寺住持聞渓良聰(七月五日条)、和泉旭蓮社澄円(七月二十七日条)、山科教言の父正四位下左近衛権中将兼内蔵頭山科教行(八月十五日条)、前南禅寺住持大林善育(十二月三日条)、興福寺別当頼乗(応安五年雑載疾病・死亡条)、従一位前内大臣勧修寺経顕(応安六年正月五日条)、前美濃天福寺住持先覚周怙(正月二十日条、恬は怙の誤り)の事蹟などを収録している。
担当者 今枝愛真・新田英治・安田寿子・山口隼正
(目次一六頁、本文三五八頁)


『東京大学史料編纂所報』第6号p.99