東京大学史料編纂所

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正倉院出張報告

 昭和四十四年十月二十六日より三十一日まで六日間、例年の如く正倉院に出張して古文書の調査を行なった。
 今年も従前通りの調査を続行して、正倉院文書の原本の形態、断簡の接続について調査を行ない、一応、続修正倉院古文書第三巻までの調査を終えた。これは正倉院文書全体の一割にも満たない量であり、まだふりかえって調査を追加すべき箇所も多く、前途はなお遼遠である。
 また今年は特にこの調査期間を利用し、本所所蔵の「穂積三立解」を正倉院に持参して、正倉院文書と比較する調査も行なった。この文書は「日本帝記」の記載があることで有名であり、すでに重要美術品にも認定され、『大日本古文書』二十四にも収載されているが、最近、酒井宇吉氏より本所に寄贈されたもので、太田晶二郎氏は本所研究発表会に於て、疑問として検討すべき点四条を挙げてこの文書を疑われ、真贋の確定にはなお、写経関係文書を広汎に見、この解と内容上のみならず実物についても対照する等の検討が必要であるとされた(本誌一四三頁「日本帝記を記載した写経生解について」参照)。
 今回の調査は、この太田氏の研究に呼応したものであるが、調査の結果でも偽物と断定するに足る最後の決手は得られなかった。しかしいくらかの知見を得たので、以下、それについて報告する。
 先ず用紙についてみると、「穂積三立解」は縦二八・五糎、横一一・五糎の紙に書かれており、界線があり(界高二二糎、界幅一・七—二糎)、一見したところ、奈良時代の写経用紙の断片かと思われるものである。紙質については、正倉院文書の紙の研究で著名な大沢忍博士の鑑定をお願いすることができたが、その結果は典型的な奈良時代の紙ということであった。我々の調査でも、これと全く同様の紙質で同様の界線のある紙に書かれた手実を正倉院文書中に発見しているから、用紙については疑わしいところはない。従ってこの文書が偽文書であるとしても、用紙は正倉院文書の余白を切断して利用したものと考えなくてはならないであろう。
 次は筆蹟であるが、正倉院に伝わる穂積三立の手実でこの年代に近いものとして、(1)天平十八年三月廿四日手実(続々修十九帙七、『大日本古文書』九ノ一四五頁)、(2)天平十八年六月廿八日手実(続々修二十三帙四、九ノ二三五頁)、(3)天平十九年十二月二日手実(続々修十九帙十二、九ノ五八八頁)、(4)天平廿年四月一日手実(続々修一帙四、十ノ一五七頁)の四点と比較してみたところ、(2)(3)が本所所蔵の手実に筆蹟が似ており、他は筆蹟が異るように見受けられた。このように写経生の手実は自筆とは限らず、他人が代って出来高を申告することもあったらしいことは他にも例があるので、この場合、どれが穂積三立の筆蹟であるかの決定はできない。ただ本所にある手実は、正倉院にある他の手実に比して、幾分筆勢が弱いということはいえるようである。
 次に内容上から写経関係文書との関連を調べてみよう。「穂積三立解」は天平十八年閏九月廿五日に提出された手実で、現在正倉院文書中に残っている、子部多夜須・倭人足・爪工家万呂・茨田兄麻呂・民屯麻呂・阿刀弟人等六名の手実(続々修二十三帙四、九ノ二六六頁)と内容的には一連のものである。この時の手実は散逸してしまって六通しか現存しないが、一緒に写経に従事した十三人の写経生の出来高は、同十月一日に志斐万呂によって写経生毎に、写された経典名と枚数が記録されている(続々修二十三帙五、九ノ二八二頁、これを「写疏用紙注文」とよぶことにする)。更にまた写経生毎に写された総枚数とそれに対して支払われる布施が計算され(続々修四十二帙二、九ノ二八四頁、これを「写疏布施注文」とよぶことにする)、同日付の写疏所解は七月一日から閏九月卅日までの写疏六十一巻の分として布施を申請している(続修別集二十六、二ノ五三九頁)。このように調べてみると、「穂積三立解」は光明皇后願経五月一日経の書写に関する手実であることがわかり(皆川完一「光明皇后願経五月一日経の書写について」附表、『日本古代史論集』上巻所収)、従来正倉院より巷間に流出したものと考えられて来ただけのことはあったわけである。
 しかし内容を子細に検討すると、疑わしい点がないわけではない。先ず太田氏が疑問点の一つとされた(三)であるが、用紙の配給を記録した充紙帳(続々修三十五帙六、九ノ一三頁)の穂積三立の項と手実とを比較してみると、手実では閏九月廿五日までに写された筈の瑜伽論抄記巻第十九の用紙が、充紙帳では閏九月十二日、十二月三日、同四日と配給されてはじめてその一巻分となっているのである。しかし、これは先に他の用紙を流用して写し上げていたのではないかと思われるふしがあり、爪工家万呂の場合でも、充紙帳では十月に用紙が配給されてはじめて瑜伽論抄記巻第十三の一巻分の紙がまとまったのに対し、手実では閏九月廿五日までに写し上げられたようになっているのである。そしてこの瑜伽論抄記巻第十九、第十三はともに十月一日の写疏用紙注文に記録されており、すぐに校正に廻されたことは、常疏校帳の潤九月廿五日始のところに記載されていることによって知られる(続々修二十六帙五、八ノ二一四頁、この断簡を「常疏校帳」とよぶべきことは前掲論文五二〇頁参照)。このように写疏用紙注文と常疏校帳からみれば、瑜伽論抄記巻第十九は閏九月中にたしかに写し上げられていたのであり、充紙帳との食違だけを以て穂積三立の手実をあやしむことはできない。
 ただ不審といえば、穂積三立の瑜伽論抄記巻第十九の枚数が、手実では七十三であり、写疏用紙注文では七十五、充紙帳では七十二と食違っており、爪工家万呂の巻第十三の場合も、手実と写疏用紙注文では七十四、充紙帳では七十二となっていることであるが、用紙の流用等から生じた数えちがいによるものではあるまいか。
 太田氏の(二)について考えると、日本帝記の用紙数が「十九枚注」と記され、用紙合計のところにも「之中注十九枚」とあるのを、氏は夾注十九枚に亘ると考えて不審とされたのであるが、これは「注を含んだ文章十九枚」と解すべきで、このような記載の仕方は、後写一切経関係文書の中によくみられるのである。例えば、十八年閏九月の手実(続々修十九帙六、九ノ九四—一〇八頁、及び正集十九裏、九ノ二七四—二七六頁)と、それに対応する十月一日の写後経所解(正集三十七裏、二ノ五〇九—五一〇頁と、正集二十七裏、二ノ五三六—五三九頁の二断簡に分れるが、両者は接続して一通の文書となる)を参照すれば明かである。その場合、布施についてみれば、注を含まない普通の経は八十枚で〓一匹であるのに対し、注を含むものは六十枚で〓一匹の規定であったのである。
 以上で太田氏の示された疑問点の(二)(三)は、ともにあやしむに足らないと考えるのであるが、我々が内容上疑問として問題にしたいのは、「穂積三立解」と写疏用紙注文を比較してみたときの食違である。写疏用紙注文には、
 穂積三立 解密深【レ】経疏第二巻 用六十三瑜伽論抄記第十九 用七十五瑜伽論抄記第廿四巻 用六十花厳疏第十 用卅七第十一 用廿
とあるが、この中で瑜伽論抄記巻第十九の用紙のちがいは前述の如くに考えるとしても、ここに問題の「日本帝記」が記載されていずに、その代りに花厳経疏の「第十一 用廿」がみえるのは不審としなければならない。日本帝記がここにみえないだけであれば、光明皇后の願経の書写を本務とした写疏所では、日本帝記の書写は臨時の仕事であるから、布施の計算の際には除外されたのだと解することもできよう。しかし手実にみえない「第十一 用廿」がここに現れて、その総計が写疏布施注文に、
 積穂【レ】三立写紙二百五十五枚—銭一貫七百八十五文
と記載され、そのままの計算で十月一日の写疏所解に於て布施が申請されているのはやはり疑ってみなければならない。この食違は、手実の「穂積三立解」の方の記載をあやしむ以外に解釈の道はないであろう。
 当時、外典が写経所に於て写されることもあったが、このような本務以外の書写は、布施の出所が異るため手実を別にするのが原則であった。例えば天平十五年の手実(続々修一帙三、八ノ二五六頁)では、光明皇后願経の書写(「常写」)の手実と、それ以外の臨時の書写(「間写」)の手実を別にして整理している。また一紙の手実に両者を混合する時は、その別を示さなければならなかった。例えば天平十八年三月の手実(続々修十九帙七、九ノ一四二頁)では、手実の中に「常」「間」の区別を注記しているのである。
 ところが「穂積三立解」の日本帝記には、間写の外典であるにもかかわらず、そのことを示す記載がみあたらない。手実が布施の計算の基礎となることを思えば、整理の際に当然そのことを記すべきものである。このように考えると、うたがわしいのは「日本帝記十九枚注」の記載にあるとみなければならなくなる。
 この点で、太田氏の(四)は十分に考慮しなければならない問題である。それは鴨脚文書に次のような偽文書があり、その中に「日本帝紀壱巻」がみえるという指摘である。
  造東大寺司牒 西隆寺鎮三綱務所
  合奉請経論伍部伍拾参巻
   楼炭経八巻 集異門足論廿巻 道照撰
   品類足論十八巻 法勝何【マヽ】〓曇心論六巻 基法師 撰
   日本帝紀 壱巻
    天平六年八月六日真大広肆〓部宿祢〓魚
 この文書は位署書の記載から家永三郎氏によって偽物と断定されているが、更に正倉院文書中の次の文書、
  造東大寺司牒 西隆寺鎮三綱務所
  合奉請経論伍部漆拾弐巻
   楼炭経八巻  集異門足論廿巻
   品類足論十八巻 法勝阿〓曇心論六巻
   舎利弗阿〓曇論廿巻
    (以下切断、正集五、二十三ノ一六九頁)
と比較すれば、これをもとにして書替、書加えをしたものであることがすぐにわかるであろう。「日本帝紀壱巻」を書き込むための偽作であることは今や明らかである。
 「穂積三立解」は、うたがわしい点があるにせよ、全く堂々たる文書であって、このような偽文書とは同日の論ではない。日本帝記が両方に見えるからといって、すぐに同一人の偽作と決めてかかることももちろん不可能である。しかし一方に日本帝記に関心を持った者の手になる偽文書が存在することは、「日本帝記」の記載に疑問が持たれている「穂積三立解」も、それと同じ目的で偽作されたのではないかという推測を可能にするであろう。
 もし偽作とすれば、これだけ立派にできた偽文書であるから、偽作にあたっては当然もとづく文書があったであろう。この時の手実は今日正倉院に六人分しか残っていないけれども、この外に穂積三立の手実が存在した筈であり、それがこの文書を偽作するもとになったと想像されるのである。その内容は写疏用紙注文にみられるようなものであったと思われる。
 (稲垣泰彦・土田直鎮・皆川完一・鈴木茂男)


『東京大学史料編纂所報』第5号p.133