東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第二編之十八

 本冊には、後一条天皇治安二年正月一目から、同三年二月二十七日に至る一年二箇月間の史料と、二年年末雑載(自然・社会・経済・宗教・学芸)の史料とを収めてある。
 まず、この間に於ける入道前摂政太政大臣藤原道長の主な行動について見ると、彼は、是より先、寛仁四年三月二十二日(第二編之十五、二六九頁以下)に落慶供養が行われた無量寿院に金堂以下の諸堂を建立する計画を立て、治安元年七月十五日に金堂及び五大堂の立柱上棟を行ったが(第二編之十七、八四頁以下)、二年七月十四日に至ってその落成を見、後一条天皇の行幸を仰いで盛大な金堂供養を行った。そして、この供養に際して寺号を法成寺と改め、無量寿院の旧額はこれを阿弥陀堂に掲げた(一〇七頁以下)。この供養行幸御祈のため、同月十一日(一〇五頁以下)には、七社に奉幣のことがあり、供養当日非常赦を行い、又、太皇太后(藤原彰子)・皇太后(同妍子)・中宮(同威子)・東宮(敦良親王)・小一条院(敦明)も、これに臨席された。これらの模様や法成寺の景観については、小右記をはじめ、諸寺供養類記・大鏡・栄花物語等に、詳細な記事がある。ついで、同年八月には、同寺金堂に於て、大般若経の毎日読誦を始めるとともに、同寺五大堂に於ては、五壇法を修し(八月五日の第二条、二二〇頁以下)、九月には同寺阿弥陀堂に於て、亡母(藤原時姫)のため、その遺言に従い法華八講を修しており(九月十五日の条、二三六頁以下)、更に翌三年正月には、同寺金堂修正を行ったことが知られる(正月八日の第二条、三四五頁以下)。又、この間、関白藤原頼通以下を伴って延暦寺中堂に詣で、造立の十二神将像を供養したこともある(二年十一月二十四日の条、二八四頁以下)。
 次に、治安元年十二月二十三日(第二編之十七、三九八頁以下)に焼亡した宇佐八幡宮のその後の経緯を見ると、二年二月に至り、大宰府解に基づき、同宮焼亡による石清水八幡宮祈請并に遷宮のこと等を議定し、又、軒廊御卜を行い、諸道をして勘文を上らしめ(二月二日の条、二六頁以下)、同月十九日には定に従い、石清水八幡宮に奉幣あり(三二頁以下)、ついで、同月二十六日、重ねて陣定を行い、諸道より進めた勘文を議するとともに、その翌日、宇佐使を発遣し、貞観十年の例に準拠して、五箇日廃朝を行った(三九頁以下)。六月には、官符を大宰府に下し、同宮遷宮の日時を改定し、併せて豊前・豊後の両国及び同官大宮司宇佐相規をして、早く正宮を造進すべきことを令し、十月に至り遷宮を遂げている(六月二十七日の条、九八頁以下)。
 本冊に於て、その事蹟を集録した者の中、主なものとしては、二年九月十二日に薨じた前斎宮当子内親王(二二九頁以下)と、同年十二月二十五日に薨じた前一条天皇女御従二位藤原尊子(同日の第二条、三〇二頁以下)とを挙げることができる。
 前者の当子内親王は、三条天皇の第一皇女で、母は藤原済時の女、皇后同城子であり、寛弘八年十月、内親王となり、長和元年十二月、斎宮に卜定された。同五年九月御帰京の後、藤原道雅に通じ給い、ために三条上皇により出家せしめられた。その間の出来事については、本条に掲げた大鏡や栄花物語などに見えている。
 後者の尊子は、暗戸屋女御・子代女御などと称せられ、関白藤原道兼の女で、母は藤原繁子である。長徳四年二月に入内、長保二年八月、女御となり、寛弘二年正月従三位、ついで、同七年正月には従二位に叙せられ、一条法皇崩御後、長和四年十月に至り、藤原通任の室となった。
(目次一六頁、本文四〇〇頁、挿入図版一葉)
担当者 山中裕・土田直鎮・渡辺直彦


『東京大学史料編纂所報』第5号p.110