東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古文書 家わけ第十七 大徳寺文書之八

 本冊は前冊にひきつづき大徳寺本坊所蔵の「己箱」文書の一部を収める。内容は「大徳寺竝諸塔頭所領文書」で、年代的には元亀三年から天正十九年に至り、それ以降はさらに次冊にひきつがれる予定である。本冊の文書群は内容上分類すればつぎの三つのグループから成立っている。
(1)元亀三年の一寺中指出関係文書
(2)天正十三年から天正十七年のいわゆる「太閤検地」関係文書
(3)天正十九年の大徳寺領土居堀成注文
 (1)は元亀三年四月甘五日織田信長が大徳寺及諸塔頭の旧来の所領を一旦棄破し、それぞれの領有の由緒を審査の上、改めて寺領として安堵した事実(大徳寺文書之一 八六号文書)と関連をもつものと思われ、同年五月から十一月の間に各塔頭から提出された指出六六点をふくんでいる。
 (2)は太閤検地関係文書二七点である。豊臣秀吉は天正十三年信長と同様大徳寺領を一旦棄破し、散在所領を三箇所にまとめて千五百四十五石の朱印地を寄進した(同上九八・一〇一号文書)。(2)の中の二五三四号−二五四四号文書はそれに先立って行なわれた指出であり、二五五〇−二五五一号文書はこの時行なわれた検地を基にした大徳寺方丈分と龍翔寺の所領の田畠目録である。山城では天正十三年検地につづいて十七年にも検地が行なわれたといわれるが、二五五四−五九号文書はその関係の検地帳・名寄帳類で「大徳寺文書之五」所収の天正十七年大宮郷・北山村検地帳(一九九八から一九九九号文書)と関連をもつ史料である。山城の太閤検地帳の所見は極めて少くわずかに東福寺領山城横大路村の天正十三年検地帳案(東福寺文書之四、五六三号文書)などが代表的なものとして知られているにすぎない。その点でこの文書群は山城太閤検地の研究にとって貴重なものといえる。とくにこれら検地関係文書に現れる土地が室町以降の売券・検注帳にもきわめて多くみられ、一つの土地の変遷が時代を追ってみられること、またこれら史料を詳細に検討することによって天正十三年から天正十七年の検地の実態がつかめる内容をもっている点からも興味のあるものと思う。
 最後の(3)は秀吉が天正十九年京都の防衛や洪水対策のために京都市街の四周に築造した「お土居」に関するものであって、この修築によってつぶされた田畠の所在・面積・高等を大徳寺及諸塔頭から報告した注文である。これにより「お土居」の位置等を確定することができ、これまた興味ある史料といえる。
担当者 稲垣泰彦・佐藤和彦。
(目次八頁、本文三四二頁)


『東京大学史料編纂所報』第5号p.111