東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古記録 建内記 四

本冊には、前冊のあとをうけ嘉吉元年の左記の部分を収めた。なお、( )内は、底本に用いた諸本である。
八月記及び同記紙背文書(宮内庁書陵部所蔵伏見宮本建内記第七巻 自筆)
九月記(京都大学文学部国史研究室所蔵勧修寺本建内記第八冊 写本)
閏九月記及び同記紙背文書(宮内庁書陵部所蔵伏見宮本建内記第八巻 自筆)
十月記及び同記紙背文書(同 第九巻 自筆)
十一月記及び同記紙背文書(同 第十巻 自筆)
なお、九月記は、未だ自筆本の所在が判明していない。建内記の流布の写本の多くは、この九月記が略本であるが、今、広本によって収めた。広本は、紙背文書を省いて写してはいないが、そのうちでも筆づかい、行款等の点において原本に比較的近いと思われる勧修寺本を選んで底本にとり、同じような内閣文庫所蔵二十三冊本を用いて対校した。
本冊にみられるおもな内容を拾えば、故足利義教の遺子千也茶丸の名字が義勝と治定し、叙爵宣下が行なわれたこと、赤松満祐父子追討のため発向した幕府軍の戦況、或は、満祐が足利直冬の末孫を還俗させて主に戴き、足利義尊と名乗らせ、その判形をすえた軍勢催促の廻文を諸国に発したらしいこと、前将軍の忌憚に触れて却けられていた公家・武家の人々が、おいおい復帰してくる記事、幕府が義教の薨去により五山の住持の更迭を行なったこと、土一揆が近江から起って洛外に至り、代始の先例ありと称し徳政を求めたこと、また閨九月十日の徳政令のうちで、永領地の条が山門の強い反対に遇って、その適用を断念せざるをえなかったこと等々がある。
また、記主萬里小路時房個人に関する事柄では、女算子が義教後室の瑞春院に喝食として入ったこと、嘉吉の乱のためもあって、播磨・美作・備前等の萬里小路家領で代官及び地下の違乱がたえないこと、時房が、慫慂されて南都伝奏に就任したこと、西園寺公名の内大臣辞退の闕を、花山院持忠と競望していることなどが、目ぼしい記事であろう。
担当者 田中健夫・百瀬今朝雄・益田宗。
(例言一頁、目次一頁、本文二七四頁、図版二葉、岩波書店発行)


『東京大学史料編纂所報』第5号p.113