東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 諸問屋再興調十

 「諸間屋再興調十」には国会図書館所蔵の江戸町奉行所引継書類のうちの諸問屋再興調拾漆と拾捌が収められている。ただし拾捌については、後半の十組諸間屋一件「難破船調」を、内容の性格からして次巻に収めることにした。髪結再興調関係の書類は多量に上り、第拾漆冊も全冊がその書類で占められている。第拾捌冊は石灰蛎殻灰問屋再興調関係の書類である。
 前者の髪結再興関係は九件に分けられ、第一件は髪結職の駈付義務の復古について、第二件は新床髪結たちの揚銭高に対する反撥について、第三件は町内所持の床番屋に課せられた番人役と再興との関係について、第四件は髪結職譲替の届出の厳守について、第五件は猿若町に髪結を定め置くことなどについて、第六件は新開町屋敷の髪結に駈付焼印札を下付する件について、第七件は髪結床持主紋助の仕置をめぐる法的問題について、第八件は新床の揚銭励行の実情について、第九件は焼印札の焼失事故による代札下付について、などの書類を書き留めている。
 このうち第五件に挿入されている髪結の丁場割の図面は珍しいものであるが、第七件も興味ある事柄であるから、若干説明しよう。紋助は、所有の同一地面を幾重にも抵当に出して、四千両余を詐取したことが発覚し、天保十三年七月に獄門に処せられたが、その持味も抵当に出して借金していた。ところが彼が欠所にあったさい、その持床については融資者側から申告がなされていなかったため、欠所を免かれることとなったが、それがひとたび露顕すれば、当然重大な手落ちとなる。第七件はその手落ちに対する吟味と措置をめぐっての書類が一四通収められている。
 第拾捌は石灰蛎穀灰問屋の再興に関するものであり、一七件に分けられている。石灰・蛎穀灰は八王子・下野の竈元で焼かれていたが、石灰はすでに慶長年間から焼かれ、幕府にも御用品として納めてきており、享保十四年には言上御帳付となり、ついで竈元の数も一〇株に定められた。そして寛政十一年に所管が町奉行から勘定奉行に移り、さらに諸国の産出額が高まってくるにおよんで、文化九年からは右の株主たちが会所を設け、年季を限って一手販売権を請負うようになったが、その会所体制で天保改革を迎えるのである。そして改革以後は他の商売と同様、大名の国産品の江戸販売を行なう者などを含めて、新規営業の者があらわれてきた。第一件から第九件までの書類は、主として従来の沿革と取締に関係する書類から成っている。
 第一〇件は漆喰練売灰仲買三一人の再興についてのものであるが、これは古仲間でないため、文化以前の姿をもって仲間形態をとることを許可するという措置をとるにとどめ、新規の者は仮組に加入せしめた。第一一件には嘉永五年十月に提出された三手竈持惣代再興願書が収められているが、これの再興は会所名目の再興を意味するものであり、複雑な事情があったらしく、第一五件の安政五年七月町奉行上申書に至って、はじめて会所再興を許可すべしという意見がみられる。
(目次九頁、本文二三一頁)
担当者 阿部善雄・進士慶幹


『東京大学史料編纂所報』第5号p.114