東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古記録 小右記五

 この冊には寛仁二年から同四年に至る三カ年間の記を収めた。この間、寛仁二年秋・同四年春・夏を欠き、また二年春・四年秋は略本の形でしか知られていないが、他の部分は広本であって、日記の全容をほぼ存しているものと認められる。このうち寛仁三年春は先行の刊本である史料通覧版及び史料大成版では略本、寛仁四年秋はそれらに全く欠けていたものである、
 編修校訂は第一冊巻頭の例言に述べるところならびに前冊までに形成された体例に、能うかぎり忠実に依っており、本冊であらためた主なものは、本冊例言に述べる如く、古写本を伝存しない部分の底本として従来用いて来た秘閣本に替えて京都御所東山御文庫本を採った一点である。この両本は、前者に一部明治期書写の後補があるとはいえ、ともに江戸前期の書写にかかる新写本であり、必らずしも容易に甲乙をつけうるものではないが、後者の方が年月をより具備し、ことに次冊以降に収められる部分について後者にのみ記のある時期が多いこと、同じ時期の記について見ても前者が略本であるときに後者は広本を収めている場合がまま見られ、その逆はないことなどによって、一貫して底本とするには後者がやや高い適格性を具えていると判断したことが、この変更の主な理由である。当然に古写本の欠損部門を補填するにあたっても、後者をまず用いることになる。
 この時期、記主藤原実資は六十二−四歳、正二位大納言右大将の地位にあり、前冊の時期に既にほの見えていた大臣昇任問題がいよいよかしましく衆口にのぼりつつあり、それに伴って彼の内心の動揺もただならぬものがある。一方藤原道長は、彼を得意の絶頂におしあげ「此世をば」云々のよく知られた自讃の和歌を吐かせるにいたるその女威子の入内・立后を見、ついで胸痛と眼病とに悩まされて出家する。道長の主観に即すれば彼の権勢が頂点をきわめて、更にようやく下降線をたどり始めようとする時期であろう。この両者の位置関係にどのようにか規定されるのであろうか、実資の道長批判が本冊では量的にもまた質的な鋭さにおいても衰えることも注目される。なお本冊に見られる人事問題以外の本来の政治的案件と称すべきものの主要なものとして延暦寺と賀茂杜との所領をめぐる紛議と女真族の来冠及びその事後処理の問題との二つがある。何れも王朝政治の態様をうかがうべき興味ある素材であるが、特に後者における源俊賢の言説は当時の政治的思派の良質な部分を典型的に示すものとして注意してよいであろう。これらは内容の一端である。検索の便を考慮して標出はできるだけ網羅的な内容見出しとなるように留意したので、委細はそれに譲りたい。
 なお図版三点は何れも前田本小右記であるが、そのうち第一は女真族の来襲による被害に関する大宰府の注進の記録であって、これによって組版上の制約のために活字上に再現しがたかった部分を補おうとしたもの、第二は本文鉛印の中にも作字をして示した藤原資平を指示する作り名の原形を掲げたもの、第三は古写本の補修によって生じ新写本の作成に際しても踏襲された錯誤の状況を古写本について示そうとしたものである。
(例言一頁、目次一頁、本文二七三頁、挿入図版二葉、岩波書店発行)
 担当者 太田晶二郎・山中裕・龍福義友


『東京大学史料編纂所報』第4号p.80