東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 幕府書物方日記五

 本巻は、「幕府書物方日記五」である。この巻には、書物方日記の享保九年・十年のニケ年を収めた。原本は享保九年の分は「日記 四」であり、享保十年の分は「留牒 十」である。
 書物奉行は、前年からひきつづいて浅井半右衛門清盈・堆橋主計俊淳・奈佐又助勝英・川窪斎宮信近であり、前年十一月二十二日に任命された下田幸大夫師古も、享保九年正月十五日より正式に出仕するようになった。師古は「和学御用」の別命を受けていたので、その方の和学関係書籍の調査や書目作成をおこなっていて、きわめて自由な状態で奉行職を務めており(十年五月二日記等)、先任の四人とは、おのずからその執務様態が違っているようである。文庫の書籍は書写することなどは、ほとんど例のないことであるが、師古は公用のためそれが許されていた)九年正月二十日)。川窪信近は、十年六月五日に死去し、その後任には松村左兵衛元隣が七月十一日に任命されている。
 また出入りの書籍商出雲寺助三郎も山形屋伊右衛門も、それぞれ京に帰るときは、一々願いの伺書を出している(九年正月二十日・二月九日)。それが翌十年からは届書でよいことにかわったのは、注目すべき変化であるといえる(十年三月七日)。新入庫本の部分け(分類)をおこなって目録に登記することは、林家に諮問しておこなわれている(九年二月十日・十二日)。また京都の浪人羽倉斎は、国学者荷田春満であるが、「類聚三代格」を之に見せて、真偽を判定させており(九年三月二十七日)、その結果、羽倉氏は「偽類聚三代格考」を撰してたてまつっている(九年八月二十五日)。また医師今大路道三に「石室秘録」の校補をおこなわせている(九年五月十二日)。さらに九年閏四月六日から、書目の部立て(分類)の変更などが問題となりはじめ、その仕事は五月十七日に完了している。その他、この年の中で、とりたてて注目されるのは、医書が前年より引きつづき閲読されていることと、六月に入ると、上命によって中国の画人の姓名や伝記をしきりと索め、そのための書物をさがしたりしていることである。そういうなかで、面白いことは、「芥子園画伝」を、徂徠の弟の荻生惣七郎観の持っていた善本(「笠翁画伝」)と交換していることである(九年六月十一日)。この観はまた、「大明絵図」の校勘もしている(九年七月二日)。
 小者の生活問題も、時々「日記」にあらわれるようになり、増高は願えても、足し米を願うことは禁じられていること(九年七月十四日)などは、このころの御家人層の生活史料としても興味深いものがあるであろう。この増高も、結局は不許可となる(九年八月十五日)。
 すでに恒例となっている貸出書籍の三十日伺が、なかなか事務を多忙にし、かつ繁文縟礼であるようになったために、書物によっては不用にしようとしており(九年九月二十三日等)、また命によって文庫から差上げる書物は、将軍の御前の御用になるほか、「拜借」になるという事があったことが知られる。恐らく将軍家から下へ貸し下されたのであって、こういう経路で文庫の蔵書が或る範囲には利用されていたものと考えられる。そこで、同じ書が二部以上あったとき、御前御用ならば、美装本の方を差上げたいと申し上げたが、その必要はないという指示であったことなども面白いとりきめである(十年九月十五日)。また文庫側では防火設備として御蔵の窓にすべて金蓋を付けるように願い出たのは、書籍保護の熱意がうかがわれてたのもしいが、上からはその数を減らすように達せられ、諸事節約の風の強かった当時の緊縮ぶりも察せられて興味深い記事である(十年十月十六日等)。
 ほかに興味ある記事としては、川窪信近の死後の家督相続のことで、家督申し渡しの時に旧同僚の臨席することが、更めて確認されているし(十年九月二日)、また買上げ本については、出雲寺と山形屋と両方から提出させて、良い方をとるというような配慮も見える(十年正月三十日)。さらにこのころの大火のため類焼した書物方同心の衆には、拜借金の出ていることも注目すべきであろう(十年二月十四日・十五日・三月七日等)。五年の間に二度も類焼している同心が四名に上るというのも、火事は江戸の花といわれたことが、なるほどとおもわれて、見のがせない史料であろう(十年三月七日)。
 この巻は、以上のような内容を含むものであるが、なお両年の記事を通じて、将軍吉宗の後継者として、家重が、ようやく江戸城内で重き地位を占めつつあることがわかるのも、また興味深い。
 なお、前巻と同様「人名一覧」「書名一覧」を添えた。
(例言・目次五頁、本文二九〇頁、人名一覧二一頁、書名一覧三九頁)
担当者 太田晶二郎・松島栄一
(目次五頁、本文三五一頁)


『東京大学史料編纂所報』第4号p.84