東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第八編之二十八

本冊には、後土御門天皇延徳元年(長享三年)六月より、十月に至る約五箇月間の史料を収める。この間、概して平穏無事であるが、最も顕著な事象は改元である。長享三年八月二十一日を以て、元号を延徳と改められた。それについて、この時代としては、相当に詳細な史料が揃っている方で、御湯殿上日記・親長卿記・実隆公記・宣胤卿記・拾芥記などは勿論のこと、神宮文庫所蔵の長享三年八月廿一日改元記草と題する記録があり、三条西実隆の筆録にかかる実隆公記の別記ともいうべきものである、これらによって、この回の改元の経緯が詳しく知られる、それによると、この改元は将軍足利義煕の薨去(長享三年三月二十六日)によるらしく、足利義政の執奏によって行なわれた。しかもこの回の改元の特殊事情は、その執奏者たる義政が中風に罹り、右手不仁のために、吉書に加判すること能わず、新元号の武家側に於ける採用は、通例、吉書以後であるのに、将軍の加判不能のために、事実上吉書の儀が行なわれ難いので、今回は公家の施行と同時に新元号を採用することとなったことが知られる。
義政の中風は、他にも影響を及ぼしている。それは五山禅僧の住持任命のための公帖頒布への影響である。公帖には通常将軍の直判を押する。しかるに義政は右手不仁で加判出来なかったので、六月九日に至り、義政は直判の替りにその印判を捺した紙片を貼付するという臨時の措置を許した(延徳元年九月十日桂林徳昌を建仁寺住持とする条)。これは古文書学上興味ある異例として注目すべく、その公帖の実物が現存しないのは残念である。因みに義政の中風に対しては、八月十五日、幕府が京都・奈良の諸寺院をして平愈を祈らしめていることが見える。また夫人日野富子も病み、後土御門天皇は勅書を以て問疾せられていることが八月十一日の条に見える。なお富子は、七月十五日に金竜寺に於て薙髪せんとし、細川政元にとどめられていることも注目を惹く。
次に目立つ事件は、相国寺に於ける大衆の騒擾である。既に本年五月五日(第八編之二十七所収)の条に、同寺の大衆が同寺鹿苑院塔主惟明瑞智の不法を憤って蜂起し、惟明はこれを懼れて、同院を退院した一件が見える。七月十五日になって、禅昌院の楞厳会満散に、相国寺の社中衆のみが集って詩会を催し、同寺維那衆がこれに加えられなかったのを憤り、主として東班衆(知事)が蜂起し、鹿苑院塔主月翁周鏡や伊勢貞宗等の苦慮により、義政の決裁を経て、漸くにして、これを鎮圧した。相国寺は、最も幕府に親近する寺院であるにも拘らず、頻々として、大衆蜂起を惹起しているのは、時の勢であろうが、注目すべき現象である。このような禅院の退転と関連してみると、六月二十六日に、義政は林光院領加賀横北郷を安堵しているが、それにも拘らず、同院の財政困難をいとって、蘭坡景〓等を次々にその院主に擬しても、悉く辞退して就任しないし、九月二十七日には、西芳寺住持竺心梵密が、同寺の寺債の多いのを苦にして退院を請うている。
禅院住持就任としては、春陽最杲の相国寺、蘭坡景〓・以参周省・廷麟英瑞の南禅寺、桂林徳昌の建仁寺、業仲良心の東福寺、高先景照の天竜寺、天縦宗受の大徳寺への入住、または受帖の史料が収められている。
また伝記史料としては、転法輪三条冬子(後花園天皇女御代、実尚の女)・唐橋在治・筒井順尊・本国寺日円・石清水八幡宮護国寺検校證清のものが収められている。
更に、この頃頻りに足利義政は、東山山荘に土木を興し、その内に観音殿を新築し、横川景三をして、その下層に心空殿、その上層に潮音閣と命名せしめ、また横川をして心空殿の額字を書かしめたり、また山荘内に小亭を構え、釣秋亭と命名して、横川をして、またその額字を書かしめている。土木に関連して、蔭凉軒主亀泉集證は、かねてから相国寺雲頂院内に自房松泉軒を新築中であったが、八月二十四日、落成移居し、義政はこれを祝って物を贈っている。新築とは反対に、六月八日には、等持院の浴室が焼失した記事が見える。その外学芸事象としては、勝仁親王(後土御門天皇皇子、のちの後柏原天皇)が正平版の論語集解を三条西実隆に与えられたことが六月十八日の条に見える。その事は東洋文庫に現存する同書の実隆自筆の識語によって知られるのである。担当者 玉村竹二・瀬野精一郎・小泉宜右。
(目次一五頁、本文四四二頁)


『東京大学史料編纂所報』第3号p.65