東京大学史料編纂所

HOME > 編纂・研究・公開 > 所報 > 『東京大学史料編纂所報』第3号(1968年)

所報―刊行物紹介

大日本史料 第一編之十六

 本冊は、前冊に引き続き、円融天皇の貞元元年七月から同二年是歳までの史料を収めている。この時期は、二年十月に、関白を藤原実頼の子同頼忠に譲るまで、藤原兼通がその職に在って政権を握っていた。
 本冊のうちで、最も重要と思われる事項は、二年十月十一日の兼通の関白辞任と頼忠の関白就任であろう、かねて弟藤原兼家と不和であった兼通は、病勢革まるに及び、兼家を却けて、源兼明の左大臣を奪ってその職に就かせるなど引級につとめた頼忠(二年四月二十一日・同二十四日の条)に関白を譲った。且つ、兼家の右大将を停め治部卿に遷任し、そのうえ、兼家の子同道綱を土佐権守に貶した。そのため、兼家は長歌を奏して衷情を訴えたが、暫らくの聞は屏居の余儀なきに到り、不遇の地位に陥った。本冊は、これを『栄花物語』『大鏡』などによって示した。
 その他の主要な事項を挙げれば、改元と新造内裏の完成とであろう。改元は七月十三日に行なわれ、内裏焼亡(元年五月十一日の条)と地震(元年六月十八日の条)とによるものである。この改元詔の作者紀伊輔の伝をこの条に合敍している。内裏は、元年五月十一日に焼亡し、このため職曹司に遷御があり、同十四日には造宮・遷宮の日時勘申などのことがあった(以上前冊)。  本冊では、元年七月十七日に皇后が職曹司より藤原朝光の三条第に遷御せられ、同二十六日には、職曹司より兼通の堀川院に天皇の遷御・造内裏事始があり、これ以後、内裏造営に関する記事はしばしば見え、十一月二十八日には内裏殿舎立柱上棟、二年七月二十九日に新造内裏に還御をみ、八月一日には新所旬、翌二日の敍位には、造宮別当藤原文範等の加階をみて、おおむね造宮関係の記事は終っている。この新造内裏の殿舎等の額は、藤原佐理が書したもの(二年七月八日の条)である。
 このほか、文芸関係の記事では、二年八月十六日の藤原頼忠家歌合がみえる。これには大中臣能宣・紀時文・清原元輔・慶滋保胤・源順・平兼盛らが列し、また、程経て、曽祢好忠にも歌を詠ませたものである。本冊では、これを前田育徳会所蔵の十巻本『歌合』などによって示し、その網版印刷をも掲載した。
 また、死没などの条に伝記を掲載したもののうち、おもなものには、西大寺別当中算(元年十月十九日の条)・平貞盛(元年一二月二十一日の条)・賀茂保憲(二年二月二十二日の条)・藤原兼通(二年十一月八日の条)・藤原倫寧(二年是歳の条)が挙げられる。
 中算は、興福寺の僧で、応和宗論(応和三年八月二十一日の条)に法相宗の論匠として天台の良源と論義をたたかわし、また、さまざまの逸話をもつ人物である。著書も多く、なかでも『法華経釈文』『法相宗賢聖義略問答』は平安時代の古写本が伝存している。前者の一部を醍醐寺所蔵本により網版印刷で、後者については、挿入図版として東洋文庫所蔵本の一部を、網版印刷で薬師寺所蔵本の一部を、それぞれ示した。中算の伝に、その養童松室仙人の説話も合わせて掲げた。
 貞盛は平将門の乱に活躍したもので、その伝を真福寺本『将門記』などによって示した。保憲は天文・暦道の名匠で、暦道を子賀茂光栄に、天文道を弟子安倍晴明に伝え、以後両道は相分れて伝えられた、といわれている。保憲の伝のあとに、保憲女・孫女の伝を合敍している。保憲女は歌人で自ら歌集を著し、歌論についても一廉の識見をもった人であるが、その伝を『賀茂保憲女集』などによって掲げた。
 兼通は、早くから官位を弟兼家に超えられ、世を疎んじていた。天禄三年十一月一日に兄の摂政藤原伊尹が薨ずると、円融大墓の母后で兼通の妹の藤原安子の遺書により、大納言を経ずして内大臣となり、やがて関白となった。女藤原嬉子を入内させて中宮とするなど、自家の勢力拡大につとめた。この間、兼家の女藤原超子の腹に冷泉上皇の第二皇子の御誕生(元年正月三日の条)などのことにより、兼家とますます不和になり、やがて、彼を廟堂から退けたことは既にのべた。この兼通の伝に続けて、兼通らと交渉があったと思われる著名な歌人本院侍従の伝を合敍した。
 倫寧は、兼家の室すなわち道綱母の父で、諸国の国司を歴任した人物である。道綱母の『かげろふの日記』によって、彼と兼家との関係などを示した。
(目次十六頁、本文三七四頁、挿入図版一葉、網版二二頁)
担当者 桃裕行・花田雄吉・林幹弥・岡田隆夫


『東京大学史料編纂所報』第3号p.64