東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古記録 梅津政景日記九

 梅津政景日記は、出羽久保田(秋田)藩主佐竹義宣の家老梅津主馬政景(天正九年−寛永十年)の日記である。自筆原本二十一巻二十五冊は政景の家に伝えられて来たが、現在、巻十六下を除く二十四冊が秋田県立図書館(秋田県公文書館)に架蔵され、巻十六下は所在不明である。
 本日記は、慶長十七年二月二十八日政景が院内銀山奉行として赴任した日に始まり、政景が死んだ寛永十年三月十日の直前の同月六日に及んでいる。この間、慶長十八年、元和元年、および元和九年の日記を欠き、慶長十八・十九両年の院内銀山籠者成敗人帳、慶長十八年院内銀山春諸役御運上銀請取覚帳、および慶長二十年御算用極覚日帳が加わっている。政景は、院内銀山奉行から総山奉行、勘定奉行、家老格を経て、家老兼久保田町奉行に昇進し、秋田藩成立期の藩政の枢機に参画し、民政・財政・鉱山行政の執行に努め、また幕府や諸藩との交渉に当ったが、日記は、これらの政務や諸行事について逐一記している。さらに政景は、この間、慶長十九年には金銀山運上を駿府に持参し、大坂夏の陣に従軍し(但しこの際の日記を欠く)、家康の死に際しては義宣に従って駿府に赴き、元和五年・寛永三年の上洛に扈従し、元和六年には徳川和子入内祝賀使として上京し、元和五年・同七〜八年・元和九〜寛永元年・寛永三年・同五年・同七年の参勤に扈従し、元和八年最上氏改易に当っては由利領受取の使者、また寛永元年には幕府への使者となっているが、日記は、これらの記事によって幕藩体制確立期の幕政の諸動向についても伝えている。政景はまた、文筆・算用に長じ能吏として出頭したのみでなく、鷹・鉄砲・馬、香・連歌・能楽等文武両道に亘り広い教養を身につけており、日記にはこれらに関する記事が多い。
 大日本古記録「梅津政景日記」は全九冊のうちに本日記二十五冊をすべて収めた。巻十六下を除く二十四冊はすべて自筆原本に基き、巻十六下のみ本所架蔵の影写本に拠った。第一冊の刊行は昭和二十八年三月で、第九冊は昭和四十一年十二月である。
 第九冊には、寛永九年十月以降の日記のほか、補遺・解題・系図・索引を附した。本書に収載した日記は、巻二十のうち寛永九年十月一日より十一月二十一日まで、および巻二十一すなわち寛永十年正月元日より三月六日までであり、寛永九年十一月二十二日から年末までの記事を欠いている。寛永九年二月家老小場宣忠が歿したあと、政景は独り政柄を握ることとなったが、前年十一月帰国の途に病を得てから持病となって、遂に久保田を離れることなく、本書収載の日記はすべて久保田で記している。この間の日記は、政景の死に至る五ケ月余のことに限られるが、家中・領民・旅人の訴訟を裁き、藩主の馬を検し、算用を監査し、金銀山運上を幕府に上納し、江戸屋敷に鷹や塩鮭を送り、佐竹家菩提寺天徳寺の江湖会に赴き、また法問を聴くなど、参勤留守中の政務や行事に関する記事のほか、

領内の通貨極印銀を丁銀・豆板銀の形状に鋳造し、切目のある銀の通用を禁止する(十月三日)。京銭通用の高札を建てる(十月十八日)。
横手配流の本多正純の家臣長谷川左近が横手で病死する(十月十三日・同十五日・同十八日・十一月十八日)。
幕府巡見使の下向に備える(正月四日・同五日・同二十八日・同二十九日・二月八日・三月二日・同三日)。
義宣が病死する(正月二十二日~二月三日)。霊柩が帰国する(二月五日・同七日・同十ニ日・同十三日)。荼毘に附し、遺骨を天徳寺に納める(二月十六日・同十七日)。

等の重要記事をふくんでいる。また、政景自身、年始の回礼で中気に罹り、小康を得たところ、義宣の訃報の衝撃で再発したが、遺言に従って、帰着した遺骸に独り通夜し遺骨を拾ったあと、病床から離れられず、ついに義宣の後を追うまでの日々の記事がある。
 補遺は、原本第三巻上の落丁と第一巻の原表紙を補ったものである。解題は原本の体裁と略伝から成り、略伝は出身・父兄・事蹟・妻子に分けて述べている。系図は、梅津政景略系、佐竹義宣略系、佐竹氏略系の三系図を掲げている。索引は件名・地名・人名を併せ、原則として五十音順に配列し、主要項目には小見出・孫見出を設けている。
担当者は第一冊から第八冊まで伊東多三郎・広野三郎・山口啓二・山本武夫、第九冊は伊東多三郎・山口啓二・加藤秀幸。
(第九冊、例言一頁、目次一頁、本文三一頁、補遺二頁、解題二一頁、系図五頁、索引二二四頁)


『東京大学史料編纂所報』第2号p.43