東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 市中取締類集七

 本巻は、名主取締之部の原本八冊のうちの第八冊と「追加市中取締類集」としてまとめられた名主取締之部の原本五冊のうちの第一冊・第二冊とを収録した。この「追加市中取締類集」は、①市中取締 ②名主取締 ③地所借地 ④身分取扱・祭礼 ⑤町触申渡等 ⑥奇特御賞等 ⑦芝居床見世 ⑧遠国伺の八部類よりなり、ほぼ嘉永二年から同六年にかけての書類を集め、大体嘉永元年で終る「正篇」のあとをついで編纂されたものと思われる。なお、名主取締之部は、「追加」のあと、文久二年度までが「市中取締続類集」にも収録されている。さきに市中取締之部を出版したとき、同部の「追加」を「正編」に続けているので、本巻でも「正編」の名主取締之部につづいて、同部の「追加」を収めることとした。「正編」のこの部の表紙の押紙には、「九ノ六十四」「第五棚」とあり、「追加」のそれには「九ノ六十五」「第五棚」とあるところから、原蔵、あるいはそれに近い形で排列されていたとき、「正編」と「追加」とは、同じ棚を与えられ、番号も隣り合っていたことが推測される。本巻には、第九四件「深川平野町名主甚四郎重痛ニ付役儀御免并跡役願之儀ニ付調」から、第一二七件「組合世話掛名主勤越并取締諸色掛御褒美調」までの三四件、一六五通(文書番号三九四〜五五九、他に附属書類八通)を収録した。前巻にひきつづき、名主風儀の取締、名主の任免、肝煎名主そのほか諸掛役の任免、支配地の割替、勤務に対する褒賞等に関する書類が多い。
 新吉原町の各町は公娼街であるばかりでなく、岩淵筋の鷹狩場のうちに含まれ、同町附近の在方へは、将軍家御成りの機会も少くないところであり、当時「境外在地御場中」にある町と呼ばれていた。江戸周辺の鷹狩場は、岩淵・葛西・戸田・中野・目黒・品川の六区劃に大別され、この新吉原町は岩淵掛りの御鳥見の持場内に入っていた。この岩淵筋には、小石川大塚町・駒込富士前町・駒込肴町・下谷坂本町・浅草鳥越町・浅草橋場町・豊島郡小塚原町・下尾久村などの名主たちが関係を持っており、御鳥見組頭からの申付けで岩淵御場肝煎として野羽織の着用を許され、一ケ年に三人扶持を支給されていた。そして、同肝煎を十ケ年つとめれば、老中に伺いの上、苗字御免の特典を受ける慣例になっていた。新吉原町の名主の一人が、この岩淵筋の御場御用を勤めるようになったのは、天保三年からのことで、江戸町一丁目の名主がそれに当ることとなり、鳥見役人の申し立てにより、小納戸頭取から町奉行に掛合いがあって、老中に伺いの上、御用を勤めることが申し渡された。ところが、天保十三年に同人が病気で名主を退役した折、「古復」の意味で、御場御用についての代人が立てられなかったため、嘉永元年に至って、御鳥見役人から、再び新吉原町から御場所肝煎を一人出してほしいという要請がおこなわれた。「古復」とは天保改革における経費節約のための冗員切捨の意である。嘉永元年における要請は、御鳥見役人の差図が直接届かないと不便であるからであり、同時に、そのころ竜泉寺村の耕地で新吉原町に近いところに鶴の飼付場が設けられていたからでもあった。町年寄から江戸町二丁目の名主佐兵衛(四〇歳)、同一丁目の名主仁左衛門(三六歳)の二人が候補としてあげられ、前者の方が吉原町一統の気受けもよく、世語掛並をも仰せつけられているので、二人のうちからというならば、佐兵衛を推挙する旨の上申がなされている。以上は、本巻の第九八件の取扱うところであるが、江戸周辺の狩場のことは小納戸頭取の管轄であることや、御場御用をつとめる名主を中心とした事柄に対して、恰好な材料を提供している。
 そのほか、浅草茅町の名主権之丞(岸本弓槻)は国学者岸本曲豆流の次子で、父の後見のもとに名主役をつとめていたが、父と同じく歌道執心で、歌学・国学を学んでおり、あまり忙しい仕事には不向きであるが、「世語掛並」ならば任命しても差支えないだろうという風聞(四二六)、先代の借財が多く、蒔絵を内職として身上向きをとりつくろうばかりか、借財の返済にあてているという桶町の名主藤五郎のこと(四四六)、坪割にすると名主役料が一ケ年に銀一八匁となり、小間割だと銀六匁になるという一三・五坪の拝領屋敷地の支配割替についての紛争(五一六)など、これらはいずれも隠密廻りの調査にかかるもので、町年寄から町奉行所に提出された調書の裏づげとされるものであった。また、名主の業務は手代まかせにして置き、支配町内の家主らを自分の下男のように扱うという山下町の名主伊左衛門は、手代の名儀で町内に頼母子講をひらき、多分の金子を取集めてそれぎりとしたり、自宅における祝儀・不祝儀に地主から醵出され、または町内のものから届けられた心付・肴代の多少を論ずるばかりか、町内の山王祭附祭に出しものを請負った芸人から、肴代と唱えて多分の金子を受取るなど、名主の役柄に似合わない行為があるため、同町の地主たちから支配離れが願い出されたこと(五二八)など、前巻にひきつづき町名主の種々相を具体的に見ることが出来る。 (目次一七頁、本文四三四頁)
担当者 伊東多三郎・阿部善雄・進士慶幹


『東京大学史料編纂所報』第2号p.44