東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本近世史料 幕府書物方日記四

 本冊には、原本の〔書物方〕日記二・三(享保七年)と〔書物方〕留牒九(享保八年)との三冊分を収めた。
 この冊では、毎年の恒例である曝書や書籍改めの外にも、いろいろの記事がみえている。享保七年には、幕府から佚書探訪の令が諸藩その他に伝達されて、諸向から献上のあったことは、近藤正斎の「好書故事」(第五八・第五九)に要領よく紹介されているが、本冊にも、その経過が時を逐い、具体的に記されてある。この時の捜索書籍は、新国史・本朝世紀・寛平御記・延喜御記・律集解・令・令抄・弘仁式・貞観式・法曹類林・為政録・風土記・本朝月令・律・令集解・類聚三代格・類聚国史であるが、献上本の処理の経過が重要な部分を占めている、用・不用に区別して格納したり、善本が後から献上された為、前に決定した用達本を取消したり、吉宗の指示による側役の有馬氏倫・戸田政峯・加納久通らと書物方との連絡が克明に記されている。また書名と内容の不一致や同本の重複を避けるために、林家の指示に従って献上させたり、書物の分類について林家に依頼している様子など興味があろう。
 寛永諸家系図や国絵図(正保・元禄の両図共)の出納も頻繁である。有徳院殿御実紀附録巻十には、「紅葉山のみくらに蔵めらるゝ所の古新の地図、あるは諸国の城図、家々の系譜をめして、ことことく御覧ありしかば、世人聞伝へて、政の要領に御心を用ひたまふ事ををしはかり奉りしとかや」とも記してあるが、或いは享保図作成のことに関連するものでもあろうか。その外、大日本史、康煕字典、支那の地誌等も度々出納されている。
 また、平家物語の板本と写本との校異を命ぜられ、その結果を報告したり、金沢本「史記」の筆者について吉宗の下問があり、結局は古筆見了音に鑑定させたところ、万里小路秀房筆でなく三条西実隆筆に極ったこと、ついでに他の書籍を鑑定させた記事、水戸藩編集の「礼儀類典」を霊元法皇へ献上、「経解」を天皇へ献上の記事等も注目すべきものであろう。この献上は、霊元法皇より「本朝世紀」の写本を贈られた返礼としてなされたものである。「本朝世紀」の写本は、伏見営家に伝った本を東園大納言基雅らに命じて新写し、享保七年五月に所司代松平伊賀守忠周が江戸に持参したものである。(「実紀」による)また、八年六月には半井驢庵・今大路道三・曲直瀬養安院らの願いで、医書を次々に同人らの許へ届けたり、多くの痘書が吉宗の手許に上呈されているが、医史研究の良い史料であろう。
 享保八年十一月二十二日に、下田師古が書物奉行に任命されている。師古は先手組与力から正徳五年三月六目に表右筆(二百俵)となり、享保元年二月十三日に奥右筆に転じたのであるが、和学に詳しく、同七年に「参考太平記綱要」(写本、内閣文庫蔵)を考訂している。彼の就任は、奉行に初めて学者を迎えたわけである。
 なお、「人名一覧」・「書名一覧」を巻末に附してあることは前冊と同様であるが、文庫の位置、本文中に現れる諸門・番所等を理解する一助として、「紅葉山惣指図」(東京都立日比谷図書館蔵)を原色刷で複製して添附した。文庫内の細部を示す図は未だ見当らないが、その位置を示すものは、これまでに、東京大学附属図書館〓外文庫に架蔵する図(安政五年以後の状態を示すもの)と国立国会図書館所蔵の図(文化十年七月以後、天保元年十二月以前の状態を示すもの)を森潤三郎氏が紹介されてあるが、今回附録の絵図は、正徳二年頃の状態を示すもので、文庫の配置図としては早い時期のものであろう。且亦、江戸中期の紅葉山の状態を伝えるものとしても有益である。和紙を用いて原本の色調をほゞ出し、価値高い附録である。
(例言・目次五頁、本文四〇四頁、人名一覧二四頁、書名一覧六八頁、附図一舗)
担当者 太田晶二郎・山本武夫


『東京大学史料編纂所報』第2号p.46