東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本史料 第二編之十六

 本冊には、平安時代なかばの、後一条天皇寛仁四年八月から、翌治安元年四月十九日に至る、約十箇月間の史料を収める。
 この間に於ける主要な事件としては、先ず改元の事がある。寛仁五年二月二日、改元が行われて、年号は治安と改められた。その関係史料は同日の第二条(二九二頁以下)に掲げてある。この寛仁五年は、干支辛酉に当る。一般に、辛酉革命と言われて、辛酉の歳に改元が行われたことは、延喜以来の通例であるが、より正確には、実は辛酉の歳必ずしも革命に当るとは限らないのであって、この寛仁五年辛酉が果して革命に当るか否かについても、諸道の勘文が徴せられ、論が分れた。結局朝議は、革命には当らずとも改元すべきことを定め、詔文には革命を言わず、単に辛酉は凶年なるが故に改元する旨を載せることとしたが、その間の経緯は改元部類記・小右記等に明らかである。又、革命の当否に関して、紀伝・明経・暦・陰陽等の諸道から提出された勘文は、一通り東山御文庫記録の革暦類に収められて居り、これらの勘文は、同類のものは必ずしも多数が今日に伝えられてはいないから、その点でも興味があろう。
 なお、この年代には、有名な藤原道長はすでに出家して入道前摂政太政大臣の身であり、その長子頼通が関白内大臣となっているが、実際には諸事道長の指示を受けることが多く、この革命当否の議に関しても、公卿の陣定の前日に、道長の許に数名の公卿が祗候して内議の上、ほぼ内定をしており、大納言藤原実資はこれを憤って、定に欠席した由が小右記に見えている。
 しかし、当時、道長の精力は主として、寛仁四年三月二十二日に落慶供養が行われた無量寿院(後の法成寺)の拡充に向けられていたのであって、本冊では、同院に阿闍梨六口を置き、封三百五十戸を寄進した由が寛仁四年十二月十八日の第二条(一八五頁以下)に、同院十斎堂及び三昧堂建立の事が同年閏十二月二十七日の第二条(二二〇頁以下)に見えており、治安元年二月には、道長の室従一位源倫子が、同院に於て出家している。(同月二十八日の条、三二一頁以下)
 なお、当時としては珍しい事でもないが、この寛仁四年及び治安元年には、疫病流行して疫死する者多しといわれ、読経・修法・諸社奉幣などの事が頻に行われた。先年来の懸案である後一条天皇の春日社行幸が、重ねて延引された(治安元年二月二十五日の条、三一五頁以下)のも、死穢の遍満が一つの理由に挙げられている。
 次に、本冊に於て、その事蹟を集録した者の中、主なものを挙げれば、寛仁四年八月十八日に出家した一条天皇女御藤原元子がある。(事蹟は同日の第二条に合叙)元子は左大臣藤原顕光の女で、一条天皇の女御となって承香殿の女御と称せられ、天皇崩御の後、参議源頼定と通じて父の勘当を受けたことは著名である。
 同年十月十五日には入道大納言兼皇太后宮大夫藤原道綱が、十一月一日には民部卿前大納言藤原懐忠が薨去した。両名の事蹟はそれぞれの薨去の条に係けて集録してある(五六頁以下及び一二二頁以下)が、特に道綱は、周知の如く道長の異母兄であり、その母はかげろふの日記の作者、陸奥守藤原倫寧女である。従って幼少期の道綱については、かげろふの日記にも多くのことが記されているが、本条ではそれらの記事もなるべく省略することなく収載した。彼は令名今に高い母とは異り、必ずしも卓越した人物とは言い難いようであるが、その行動については、本条及び本条末尾の連絡案文に、つとめて詳細に掲げてある。懐忠については、流布本の公卿補任に見える彼の官歴と大いに異る点があるので、九条家本中右記部類の紙背に存する公卿補任異本のそれをも併せて掲載した。(一二五頁)
 かげろふの日記の著者の姪で、同じく平安女流作家として文名の高い菅原孝標女が、上総介の任満ちて帰京する父に伴われて東海道を上ったのも、寛仁四年の九月三日から十二月二日に至る間であった。その行旅の追憶記で、交通史料としても著名な更級日記の冒頭の部分も、治安元年正月二十四日の県召除目の条に併せ収めている。(二七一頁以下)
 最後に図版については、東京都日野原昌広氏の所蔵にかかる重要文化財、藤原行成自筆書状のコロタイプ図版を挿入した。この書状は、冒頭に行成の花押を有し、惜しくも末尾を闕いているが、寛仁四年十一月二十九日に権大納言に任ぜられた行成が、某知人の来賀を促したものであって、彼の自筆にかかることは疑なく、又、その内容から、同年十二月乃至閏十二月のものであることも明瞭に察知せられ、行成の筆蹟としては最も確実な、しかもその記された年月まで判明する遺品として、極めて貴重なものである。なお、本文(一七二頁)に掲げたこの書状の釈文は、従来、図録の解説等に於て示されている所と多少の差異があるが、これは、今回、本所に於て写真を撮影した際の検討の結果であることを附記する。
(目次一六頁、本文三七九頁)
担当者 花田雄吉・土田直鎮・渡辺直彦


『東京大学史料編纂所報』第1号p.25