東京大学史料編纂所

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所報―刊行物紹介

大日本古文書 家わけ第十六 島津家文書之三

 本書は既刊の第一・二巻にひきつづいて、「黒塗第二番箱」・「黒塗第三番箱」中の文書十三巻三八三通を収めた。
 すでに知られているように、島津家においては慶安二年以来、まず中世および近世初期の文書を嫡流関係と庶流関係に大別した上、文書の差出者の地位などに応じてこれを分類し、それぞれ島津氏の代々に従って排列整理した後、巻帖に仕立ててこれを保存してきた。「大日本古文書島津家文書」も整理成巻された現状により、各巻帖の原題を初めにかかげる体裁をとっている。
 さて本書に収められた各巻の内容を略述しよう。
 〔他家文書 二十七通 巻一〕・〔他家文書 三十七通 巻二〕の二巻は、直接、島津氏との関係の十分明らかでなく、伝来過程も詳らかでない文書類を、ほぼ年代順に整理したものである。天福二年から寛永十九年までの文書をふくみ、内容もきわめて多様であるが、「巻一」では薩摩国伊集院、および同国伊作庄関係の史料若干通が比較的まとまった方であり、所従三十二人を譲与した弘安二年六月二七日の「たからのすへなか」=院司沙彌迎慶譲状(一一六七号)も注目される。「巻二」では、文禄・慶長年間の文書が多く、文禄・慶長の役関係のもの数点を数えるが、島津氏の知行充行状など多方面にわたる内容である。
 〔御文書 明 阿蘭陀 朝鮮 暹邏 十八通〕は、標題の示すように、これら諸国(およびイスパニヤ)からの文書であって、いずれも中世末より近世初頭にいたるわが国の海外交渉史上、重要な内容をふくむものばかりである。なかでも特に重要と思はれる万暦十九年七月日朝鮮国礼曹佐郎黄致誠復書(一二三五号)、万暦二十二年六月日明国福建巡撫許孚遠回文(一二三六号)、万暦丙午(三十四)年四月日暹邏国書(一二四二号)、(元和九年)拾月十九日いすぱにや国使節ドン・フェルナンド・デ・アヤラ他一名連署書状(一二四三号)の四通を選び、写真をコロタイプ版として挿入している。
 〔御文書 光久公 四十二通 巻六〕・〔御文書 光久公 四十四通 巻七〕・〔御文書 光久公 四十八通 巻八〕の三巻は、内容上、既刊の第二巻の〔御文書 義久公 二十九通 巻一〕より〔御文書 家久公 四十通 巻五〕(七六九−九五一号)の系列に接続するものであって、徳川家光・家綱・綱吉の三代の将軍から島津光久にあてた御内書が、そのほとんど大部分を占めている。
 〔御文書 伊作家 十八通〕中の半数は、すでに正文によって既刊巻一に収録されたものであるが、伊作氏関係の文書であり、中には明応年間かと推定される琉球国世主の島津式部大輔(伊作久逸カ)あて書状(一三九四号)などの注目すべき文書が含まれている。
 〔御文書 忠良公 六通〕は島津忠良(日新)あて、もしくは忠良よりの発給文書である。
 〔御文書 諸公子 六通〕は、島津義弘の子忠清の書状三通と、義弘の娘帖佐屋地の文書二通、同じく義弘の娘千鶴の消息一通を収める。慶長元年閏七月の大地震の状況を在朝鮮の忠恒(家久)に報じた同月二十九日の帖佐屋地書状(一四〇七号)、慶長十八年末頃、人質として江戸に下向した千鶴から父義弘あての消息(一四〇八号)などが含まれている。
 〔御文書 貞久公 元久公 忠昌公 貴久公 義久公 四十四通 巻一〕・〔御文書 義久公 二十八通 巻二〕・〔御文書 義弘公 三十通 巻三〕・〔御文書 家久公 三十七通 巻四〕の四巻は、量的にも本巻中、もっと大きな割合を占めるが、そのほとんど大部分は島津氏嫡流の当主から発給された文書であり、これを各代々ごとに年代を追って整理したものである。年代的には何といっても永禄年間以降が圧倒的に多く、寛永三年に及んでいる。従って中世末から近世初頭にかけての島津氏の直面したさまざまの問題について、きわめて豊富な内容が含まれており、なかでも秀吉の九州征伐、文禄慶長の役、関ヶ原の戦などに関係する文書や、島津氏と秀吉、家康らの中央権力との関係を物語る史料が多いことはいうまでもない。また島津氏の発した掟書も五点ほど収められ、あるいは琉球や安南との交渉に関する史料若干も含まれている。天正十六年六月、上洛した義弘が国許の忠恒に充てて道中の模様、秀吉との対面の次第を伝えた長文の書状案(一四九三号)も、種々の意味で興味をそそるものがある。
 これらの、いわば島津家文書本来の内容以外にも、多くの注目すべき文書がある。その一例として(永禄三年カ)六月朔日島津貴久書状(一四一三号)を見るならば、足利学校第七代の庠主九華(玉崗瑞〓)が、学校の講堂の再建が造畢したので故郷大隅に下向しようとしたことが知られるが、これは比較的文献に乏しい当時の足利学校の状況を示す貴重な史料ということができよう。
 なお本巻担当者は川崎庸之・石井進である。
(目次三〇頁、本文三七五頁、花押等一覧六頁)


『東京大学史料編纂所報』第1号p.28