大日本史料第5編之31

 このページを作成するにあたって
1,史料集を手にするたびに以前から思っていたことが
  あります。編者はこの傍注をどういう根拠に基づい
  て付したのだろう?それが分からないんじゃ、論文
  に使えないなあ。
  本ページはそうした疑問に答えることを目的の一つ
  といたしました。傍注の根拠を明らかにすることに
  よって、利用する方にその正当性を判断していただ
  く。まあ大日本史料5−31の注釈編とでもいいま
  しょうか。もし、これは違うんじゃないか、という
  箇所がありましたら、遠慮なくご指摘下さい。
  使って下さる方も参加できる史料集を一応目指して
  いるつもりです。

2,ここに記された事柄には
   a、大日本史料第5編の編纂室に伝わった資料を用
    いたこと
   b、近藤成一教授にご教示いただいたこと
   c、私、本郷和人の考え
  の三種がまぜこぜになっております。研究上の著作権
  とかを考えると面倒ですが、私としては
   使って下さる方の参考になれば良いな
  それ以上の難しいことは全く考えておりません。
  文章の責任は本郷が負いますが、それを以て学問業績
  にあてよう、等というのは、筋の違う話だと理解して
  おります。この点、どうぞご理解下さい。

 七月

 八月

 九月

 十月

 十一月

 十二月

 僧侶

 本書の中心的な出来事は、四天王寺別当の改替です。
それまで延暦寺がもっていた四天王寺別当職を三井寺
に移す、というので延暦寺衆徒が激怒、蜂起します。
それに伴って、人事があり、祈祷があります。
 問題は何で三井寺に移すのか、ということなのです。
このあと三井寺には戒壇が作られんとし、また山門、
寺門の抗争がある。こうしてみると、この時期に三井
寺を何者かが後押ししてるんじゃないか。もしそう考
えるなら、それは幕府ではないか、と私は思うのです。
 もともと幕府は三井寺といいですよね。で、延暦寺
というのは幕府にとって厄介である。そこで三井寺に
肩入れすることで、延暦寺の勢力を削ごうとしたので
はないか。
 でも結局、その試みはうまくいかん。そこで幕府は
新しい宗派である禅宗に接近し、いわば御用宗教に仕
立て上げていくのではないか。
   あまり根拠のない見通しですが、そんなことを考え
ているところです。