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建長元年7月1日田口成蔵3071.95−24
成蔵なんて変な名前ですね。むろん「しげぞう」じゃありません。 もっと時代が下るけど、赤穴郡連なんて人がいて、妙な名前だなあ、 と思ったことがありますが。
7月2日薬師法桜井宮は覚仁法親王。後鳥羽上皇皇子で、園城寺の人。修験道方 面で重要な人みたいです。あと後鳥羽上皇皇子で備前に流された頼 仁親王との関係ですね。
7月13日相良一族間の相論相良氏は遠江の武士で、一説によると畠山重忠討伐に功があって 肥後国人吉庄を宛行われた、といいます。 相良長頼(蓮仏)が実質上の初代。命蓮と頼氏は長頼の子。頼重は 長頼の弟、宗頼の子。で、本文読んでみると、命蓮の養母が頼重の 母。そういう人間関係のようです。 (参)工藤敬一氏「肥後国人吉庄の成立と特質」 (熊本大学『文学部論叢』25)
7月20日順徳天皇の号を定む佐渡院に「順『徳』」の名を贈った意味については 本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』終章(2)をご覧下さい。 私としては、もはや忠成王を担ぎ出そうとした九条道家の勢力は 逼塞し、後嵯峨上皇は余裕を持って順徳の称号を贈ったのではない か、と考えたいのですが。 それから、これは活字論文ではありませんが、私の師匠の野村朋弘 氏が、天皇の称号について詳細にまとめています。ご覧下さい。「ここ」
7月20日周防与田保地頭朝貞と同保公文源尊との相論朝貞は下毛野氏。京大下毛野系図に見える「朝利」は平宗盛、九条 兼実に仕えた人で、この人が周防をしきっていた重源から与田保地頭 に任命されるんですね。幕府が任命したのではない地頭職ということ で著名だそうです。で、朝利、文書の上では朝俊、の養子が藤原朝兼、 その子が朝貞。このころは与田氏と呼んでも良いと思うのですが、確 証はありません。 この相論は関連文書が豊富で、『大日本古文書』家わけ18 東大寺文書16のP188あたりから、まとめて史料を見ることが出 来ます。東大寺文書ではないものとしては、「鎌倉遺文」6317が あります。 (参)畠山聡氏「保に関する一考察」(『日本歴史』531 ’92) がたいへん参考になります。 今回収録を見送った史料として、東大寺文書第1部第24所収の2通 (6171.65−36−61 88p)があります。特に興味深いのは 朝俊が朝兼に譲状を書き、重源が袖に判を据えている文書の写しです。 機会があったらご覧下さい。
7月23日傀儡の相論久遠寿量院は鎌倉に建てられた、4代将軍藤原頼経の持仏堂だそうです。 なるほど、このころの同院別当だと思われる教雅(また定雅)(今のとこ ろ未公開の『久遠寿量院別当次第』より)は、落ち目の九条道家に最後ま で奉仕した法性寺家(名家系。羽林系法性寺家もあり)の人です。 櫛田良洪氏『真言密教成立過程の研究』によると、同院の文書は住侶の 人間関係から東寺宝菩提院に入っていくらしい。宝菩提院は観智院と共に 現存する東寺の院家であるわけで、現在文書の調査が行われている真っ最 中ですよね。先の櫛田氏はご覧になっているらしい先の『別当次第』ほか の久遠寿量院関係の史料も、もうすぐ閲覧できるようになるのではないで しょうか。 ちなみに、『親玄僧正日記』で有名な親玄も、久遠寿量院別当に名を連 ねています(教雅の次の次)。
7月28日仁和寺道深法親王薨ず道深法親王は後高倉院の皇子です。本来は南都の東南院で一生を送る筈 だったのでしょうが、承久の乱によって父の後高倉院が治天の君となり、 彼の生涯も大きく変化しました。親王宣下をうけて法親王となり、仁和寺 に入ったのです。 若狭国太良庄を東寺に寄進する、という場面くらいでしか一般にはなじ みのない方ではありますが、卒伝で生涯を辿ってみて下さい。 なお、8月是月条も参考になるかもしれません。
7月28日室町尼、高殿庄内梅黒名を譲渡高殿庄については ○安田次郎氏「大和国高殿庄の領家」(『年報中世史研究』11) ○宮崎康充氏「大和国高殿庄「領主藤中納言」について」(『日本歴史』 502) が最新の研究成果なのですが、この梅黒名については言及がありません。 問題は本文中に出てくる「大炊御門三位」が一体誰なのか、なのですが、 『平戸記』寛元3年9月23日条(大日本史料5−19、111ページ)か ら、藤原宗明という耳慣れない人物であることが判明します。 この宗明は山科実教の子で、実は時明院基宗の子。基宗の孫が高殿庄の本家 である室町院のお母さん。うーん、世代があわないような気もするのですが。 梅黒名は室町尼から大炊御門三位後家へ、天王寺尼から少納言成行へ、と 伝領されます。室町尼はおそらくは室町女院の乳母であった民部卿局と同一 人なのでしょうが、出自はよく分かりません。持明院家の誰か、と考えるの が自然だと思われます。大炊御門三位後家と天王寺尼は同一人で、成行は宗 明の子である少納言成行に該当するのでしょう。(鎌倉遺文7361は少輔 公、と読んでますが、少納言と読む方が良いようです。)成行からどう伝領 されたのか、私は調べておりません。分かったらどうぞご教示下さい。