大日本史料第五編


10月12日最尋(道玄)、道覚より伝法灌物頂を受ける

 何とはないような記事ですが、それなりに意味がある。 というのは、最尋の師匠、言葉を換えると得度の戒師(この言い換えの根 拠はこの条に掲げた「諸寺院文書」です)は最守という人でした。普通、 伝法灌頂は得度の戒師から受けるのが常例だったわけです(そういう根拠 も同前)。ところが道覚は、最尋を最守のもとから、まあ言うなれば、奪 ったんですね。人の弟子をとって自分の弟子にし、自分には慈源と言う弟 子がいたにも関わらず、この最尋に跡を継がせた。この経緯は12月27 日条を見て下さい。  もうお分かりと思いますが、最尋が名前を変えているのは、そのへんの 経緯と関係があるんでしょうね。最守の弟子だったときは最尋と名乗り、 道覚の弟子になったので、道玄を名乗ったのでしょう。


10月25日大成就院灌頂

 大阿闍梨の聖増は法然の弟子として有名な隆寛の実子。 長吏といってももちろん三井寺のそれではなく、横川の長吏です。


10月29日慈実、出家

 道覚に見放された慈源が、自分の弟の出家の師を務めてます。 戒師はまた別なんですね、12月23日を見ると。 ここに出てくる慈胤は同月25日条の聖増の弟。隆寛の実子。


10月是日三島社うんぬん

 貞応以降新立荘園、ようするに承久乱後に勝手に立てた荘園は整理しな さい、という命令は、他でも僅かながら見ることが出来ます。早い例だと 仁治2年の官宣旨案に引用されています(「鎌」5808)。誰がこの命 令を下したんだろうなあ。綸旨がでてる、とあるから、後堀河かなあ。そ うなると、実質的な立案者は近衛家実か九条道家、おそらくは後者かなあ。 ただ、後代になると、この法令と後嵯峨上皇が結びつけられていくらしい です。これについては、 ○本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』附論「朝廷経済小考」注(52)、2  47ページを見て下さい。

 

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