大日本史料第五編



8月12日藤原顕嗣出家

 顕嗣は姉小路顕朝などと近い出自の人です。五位蔵人にはなっていますが 弁官にはすすめなくて、あまり出世できなかった人です。彼の子供たちも顕 職に就くことなく、まもなく絶えてしまうようです。二条良実に仕えている ようなのですが、そのことと彼の停滞とは、どう関係するのでしょうか。 なお[花押彙纂]として収録した彼の花押のうち、年欠の厳島神社文書のも のがありますが、これは嘉禎3年から仁治元年までのもので、摂政は九条道 家か近衛兼経です。


8月14日比叡山衆徒蜂起

 「最明寺文書」で幕府が尊覚入道親王に自重を求めているのが目を引きます。 この事件の責任をとって9月6日に座主道覚入道親王は辞任しており、尊覚が 座主になっているのです。ちなみに道覚は後鳥羽院の子で、尊覚は順徳院の子、 仁助法親王は土御門院の子です。  「尾張文書通覧」も面白いですね。幕府は京都の治安維持のために兵力を集 めています。


8月14日道覚入道親王と覚仁法親王、喧嘩

 道覚と覚仁はともに後鳥羽院の子です。何か政治的な背景があるのでしょう か。それともただの兄弟喧嘩でしょうか。もっとも二人は母親が違うので、兄 弟という感覚は希薄だったでしょうね。


8月15日石清水放生会延引

 「宮寺縁事抄」の「足枚」ですが、ぐにょっとした字を「枚」と読んで、「 ひら」のことだろうと解釈しました。すぷらったですね。


8月15日道元、月見

 道元の面影を最も良く伝えるものとして知られるのがこの頂相です。ただ、目 の辺にそれとはっきり分かる後世の加筆があり、それが惜しまれます。


8月15日大中臣隆通卒

 隆通は母親の縁で堂上平氏と関係があり、『平戸記』に出てくるようです。 また、妹の夫に藤原成長という人が見えますが、彼の屋敷を譲り受けたらしく、 二条烏丸のこの屋敷にも住んでいたようです。  なお彼の子供の一人が有名な通海権僧正で、通海については ○小島鉦作氏「大神宮法楽寺及び大神宮法楽舎の研究−権僧正通海の事蹟を通じ  ての考察−」(『小島鉦作著作集第二巻.伊勢神宮史の研究』吉川弘文館.) に詳しく載っています。 


8月16日藤原光俊出家

 藤原光俊は光能の子。有名な葉室定嗣の兄の光俊ではありません。葉室光俊の 方は法名真観(12月27日参照)。歌人としてたいへん有名です。  こちらの光俊はおそらくは後高倉院に仕えていた人。それも、院が不遇であっ た承久の乱以前からの家司であろう、と思われます。このことについては拙著『 中世朝廷訴訟の研究』p64あたりをご覧下さい。後高倉院政が布かれていたと きにちょろっと顔を出しますが、その後はあまり政治的な行動をとっていなさそ うです。  もう一つ付け加えておくと、彼の母親は御家人である足立遠元です。まあ詳し くは卒伝で。


8月19日三条公房薨ず

 太政大臣公房が院司として発給した宣陽門院の令旨をコロタイプで 収録することに致しました。太政大臣が奉者なんて、他に例があるの かなあ?超豪華な文書であることは確かです。  この令旨ですが、史料編纂所の影写本だと「岩崎小弥太氏所蔵文書」 に収録されています。現在は静嘉堂文庫美術館の所蔵で、「古文書大 手鑑」と呼ばれています。戦後旧国宝に指定され、いまは重要文化財。 静嘉堂の主任学芸員の玉虫敏子氏によれば、江戸時代後期には既に現 在の装丁が為されているのでは、とのことでした。ともかく立派なも のです。歴代天皇以下有名な人の文書が多いのですが、どのようにし て作られたのかを考えねばなりません。 なお、尊勝・護法寺については大日本史料建保2年2月17日の条を 参照して下さい。入道平親範は平等・尊勝2寺を護法寺に併せて1寺と し、ここに天台宗の毘沙門堂門跡が誕生するのです。ですから、この令 旨の宛先「入道民部卿」も、平親範にあてられます。そして親範が承久 2年に没していること、公房の太政大臣在任期間から、文書は承久1年 もしくは2年のものと考えられるのです。  この親範、後に左大臣を贈られているんですね。普通、娘が国母にな った、とかの場合に見られる措置ですが、親範の子孫は絶えているので す。一体何故だろう?親範は宗教的に活動したらしいから、その関係か な?ご存じの方、どうか、ご教示下さい。


8月24日五壇法

 延暦寺衆徒蜂起を鎮めるために、五壇法が行われます。朝廷首脳はど こまで本気だったのでしょうか。どう考えたって、祈ったからといって 天災ならともかく、人災がどうにかなる訳ないでしょうに。  そりゃあ時代が違うんだから、というのは簡単ですが、一つ気になる ことがあるのです。だいぶ時代は下りますが、101代天皇の称光天皇 が没するとき、病気平癒の祈りをみんなやりたがらないんですね。将軍 護持僧の錚々たる面々が逃げ回るわけです。天皇が死ぬのは間違いない、 ここで祈祷を引き受けたら、面目がつぶれることは免れない。そういう 我々からすると「ごく普通の感覚」が働いている。結局、如意寺満意( のち聖護院主)が貧乏くじをひき、案の定天皇が亡くなると、壇を破っ てしょぼくれて壇所から出てくるんです(典拠は満済准后日記か建内記 かです)。こういう例に接すると、やっぱり彼らも醒めた目を持つこと は持っていたんじゃないか、と思わず疑ってしまうんです、私は。  ともあれ、この記事には五壇法をどうやるかが詳細に出ています。きち んと整理して活字化すれば、卒論くらいはすぐにでっち上げられます。え いやっと気合いいれれば、投稿論文にだってなります(笑)。

 記主が信寛であることは、本文を丁寧に読めば分かると思います。彼は のち深寛と名を変え、仁和寺五智院主(9月29日参照)となり、東寺二 長者にまで累進します。生家は室町家、かつがつ公卿になる、羽林の家の ようです。  興味深いことは彼が菩提院行遍栄然僧都から法を受けていることです。 そしてこの両者から法を受けている有名人が、九条道家なのです(5−2 7,宝治2年12月18日条)。行遍と道家については9月4日、実賢卒 伝でもふれますが、特筆すべきは出雲僧都栄然の方で、彼と道家の法的関 係は非常に強固なようです。  そこで深寛の系図を見てみると、おっ、彼の兄の雅平は法性寺を名乗っ ているではないか、彼の姉妹は東山関白家の女房ではないか。何となく深 寛のいる政治的な環境が見えてくるような気がします。  五壇法で注目されることは表出に上げときましたので、ご覧下さい。分 からなかったのは「折灯銚」です。折り畳み式の提灯のようなものでしょ うか。ご存じの方、どうかご教示下さい。  個人的に面白かったのは、五壇それぞれにスポンサーが付くことですね。 全く知りませんでした。信寛の金剛夜叉壇の後援者は中院通成、後嵯峨上 皇の乳母である大納言二位、源親子さんが色々気を遣ってくれています。  大納言二位は色々な人にあてられていますが、親子さんがいいようです。 典拠は「弁内侍日記」80段に「大納言二位、こがの大臣のむすめ」とあ って、「こがの大臣」を源通親ととり、「尊卑分脈」と比較対照すると、 親子さんに行き当たります。  ほかに立預とか一連差なんていう名辞も気になります。  ほら、「五壇法の興行と貴族の経済的後援について」なんていう論文が 書きたくなってきませんか。  


8月是日室町院、山前庄を道融僧正に

 ○伴瀬明美氏「鎌倉時代の女院領に関する新史料」(『史学雑誌』10   9−1)を参照のこと。  道融は安井門跡、西園寺公経の息。蓮花光院大僧正と言われた人です。 ある法流の流れは、  「道尊ー道円ー仁和寺道深ー道融ー仁和寺法助」ということになるそ うで、道融は道深と法助に挟まれるんですね。(仁和寺文書、御経蔵1 39函、「安井宮事」)    山前庄をもっていた道円は「不慮の次第」で門跡を召し放たれ、山前庄 への権益を失った。で、この建長元年8月段階で、安井門跡を継承した道 融に山前庄が与えられる。ここにですね、先の法系を考え併せると、道円 のあとに同庄を引き継いだのは、他ならぬ道深だったのではないか。だか ら、道深が7月28日に没した時点で、道融が申し入れをし、室町院もこ れを認めたんじゃないでしょうか。  室町院庁下文の人名比定の根拠なのですが、建長3年の室町院令旨を奉 じているのが藤原(勘解由小路)経光なので(伴瀬氏紹介史料)、第2位 の別当と年未詳院宣の奉者は経光だろう、と。問題は別当首座が誰か、と いうことですが  ○権中納言であること  ○経光(時に従二位)より上位の人間であること  ○藤原氏であること が条件になります。そこで一人一人見ていくと、滋野井公光がいいのでは ないか。  ○公光の母方(持明院家)の従姉妹が室町院の母である。  ○公光の嫡子の実冬は建長2年と7年に室町院給を受けている。 という理由です。  なお、公光の母は従3位宗子、四条院の乳母だそうです。

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