大日本史料第五編


9月2日甲佐社領の相論

 阿蘇文書は重要文化財であり、熊本大学図書館に所蔵されています。 そこで9月12日の覚縁の状を確認したところ、確かに覚縁の裏花押が ありました。とすれば、これは「沙汰未練書」に載る「挙状」のスタイ ルにピッタリです。  大日本史料では北条時頼が六波羅に挙した、といたしました。でも執 権の意を受けた人が六波羅にいうのに「便宜の時にご披露してくれ」と いうでしょうか?ぼく個人としては今ひとつ納得がいきません。  得宗領の所領を六波羅に訴えている実例は、「鎌倉遺文」23884 に見えます。ここで六波羅は、太良荘について三問三答を番えた後、こ れを鎌倉の長崎高綱に送っています。  この事例を勘案すると、覚縁は甲佐社ゆかりの人物ではないか。それで 甲佐社地頭代の訴えを六波羅に挙し申したのではないか。つまり、時頼が 覚縁を通じて、ではなく、地頭代官(山田五郎四郎)が覚縁を通じて、と 理解するのです。  あくまでも一つの考え方として、記しておきたいと思います。

 なお、宝治合戦の際に、北条時頼のぼでぃーがーどとして「五郎四郎」 という北条氏家人が見えます。(『吾妻鏡』宝治元年五月二七日)あるい はこの人が山田五郎四郎なのかな、とも思うのですが、確証はありません。  

 


9月4日実賢寂す

 実賢はあまり位の高くない貴族の出身で、三宝院流、金剛王院流の二つ の流れを受け継いだ人です。両流を伝授された人はそんなにいないような ので、彼の本質は地味な学僧であったと思われます。にもかかわらず彼が 様々な栄誉に輝いた一因は、安達景盛との出会いにあったようです。菩提 院行遍に入門を断られた景盛を弟子として迎え入れたのが実賢であり、感 激した景盛は師匠のために奔走、実賢は一躍宗門のボスになった、という のです。  行遍と実賢の歩みをみていくと、確かに彼らはライバルであったといえ ます。宣陽門院や九条道家を後援者とする行遍、安達景盛を後援者とする 実賢。そこに道家の権勢のかげりとか、安達氏の台頭とかを考え併せると、 実に面白い。三浦氏を滅ぼした宝治合戦の際の景盛の行動や三浦光村と前 将軍藤原頼経の関係、などとも繋がってきそうですね。  問題は行遍がどうして景盛を弟子にしなかったか、なのですが、もしか すると、高野山と伝法院の相論が関係するのかな、とも思います。行遍は 伝法院座主で、高野山僧徒と仲が悪い。たとえば大日本史料5−23,宝 治元年12月是月条等をご覧下さい。また景盛は高野の人ですよね。彼が 戦闘的な行動を示す高野山僧徒として一定の地位を占めていたと想定する と、行遍が景盛を敬遠せざるを得ない理由も分かるような気がします。  11月是月条も、実賢の寂と関係あるのでしょう。


9月6日良恵、東寺一長者・法務に

 何とはない記事なのですが・・。うーん。  法務、というのがありますよね。これは少なくとも室町時代になると、 東寺一長者が兼帯する僧職です。常識です。ところがですね、建長年間だ と、まだこの兼帯関係ができあがってないのかもしれないんだよなあ。  この話をする前に、「東寺長者補任」の話をしなくてはならない。どの 「補任」が一番良い本なのか。大日本史料5編はいままで「浅草文庫本」 を使っていたんです。ところが東寺観智院金剛蔵に所蔵されている「東寺 長者補任」が良さそうだぞ、ということになって、この巻からは観智院本 を使用することに致しました。同本については翻刻があります。 ○湯浅吉美氏「東寺観智院金剛蔵本『東寺長者補任』の翻刻」  (成田山仏教研究所 紀要 20、21、22号 ごく最近)  それで、ですね。この本によりますと、三長者定親に「法務」と記され ているんです。で、良恵がこのとき法務になると、これ以後の定親は「権 法務」と。ふーん。三長者でも法務なのかあ。  「補任」の誤記かなあ、とも思ったのですが、本巻11月28日の記事 を見て下さい。ね、法務定親(この場合、厳密には権法務なのかな?)が でてくるでしょう?このへんのこと、ご存じの方、ご教示願えるでしょう か。それとも知らないのは私だけなのでしょうか?


9月17日少弐為頼、宗像庄三村安堵さる

 為頼は少弐氏庶流。宗像氏忠の妻、氏重の母である張氏(宋の人だそう です)の養子となり、譲与を受けた。で、氏重と相論。のち氏重後家や氏 重の子の氏遠・氏村と相論になります。  宗像社が刊行された『宗像大社文書』を見ると解説があります。また、 「訂正宗像大宮司系譜」が史料編纂所にありますので(請求番号2075 ー900)、ご覧下さい。


9月29日五智院仁教、土地を仁専に譲与

 醍醐寺文書に入ってますが、この五智院は仁和寺のそれです。院主は、 行守ー覚助ー仁教、となっており、覚助の名はこの譲り状にも見ることが 出来ます。譲与対象地の略図は醍醐寺文書に収録されています。ご覧下さ い。たしか大日本古文書でも採っているはずです。  なお、仁教の次代の院主は、同地の譲りを受けた仁専ではなく、五壇法 記の記主である信寛(のち深寛)です。このことを念頭に読み直してみる と、仁専は可愛い子なのでこの土地を譲る。「本院管領の仁」(これが信 寛なんですね)よ、取りあげないでやってね。そう書き記す仁教の思いが よく分かります。

 

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