大日本史料第五編


12月5日源雅親没す

 源雅親なんてしらないから、卒伝もたいしたことないだろ、とたかをくく っていたら、あらえっさっさ。たいへんでした。儀式では大活躍だったんで すねえ。これだから公家は。  雅親の兄弟の雅清は、ごく短期間でしたが、後高倉院政で政治の表面に浮 かんできた人物です。(○本郷和人『中世朝廷訴訟の研究』第3章(1)) でも雅親はしらなかったなあ。


12月18日祝部成茂70才の賀

 鳩の杖がでてきます。これについては「ここ」をご参照下さい。


12月20日菅原在嗣の課試

 文章道の話です。これについては言うまでもなく桃裕行先生の『上代学制 の研究』があるんですが、あくまでも「上代」でして。いかに制度が崩れて いったか、の『中世学制の研究』はないんですねえ。色々見てきたんだけど、 結局、課試の具体的な中身が分からない。「方略策に応じる」という言い方 をするんですが、落第することはないんでしょうか?あくまでも形式なのか な?そのわりには日野氏などを「儒家」と認識している例は室町中期にまで 残ってますしね。うーん、どなたかご教示下さい。


12月23日慈実、受戒

 慈実は慈源の弟子ですから、本来は道覚に受戒の師を頼むはずなのです。 ところが道覚は慈源を義絶し、最尋に青蓮院門跡を譲ってしまう。慈源も また、あてつけのように、道覚のあとを襲って天台座主になった尊覚に受 戒の師を頼むのです。なんか、えぐいですねえ。


12月27日道覚、青蓮院門跡を最尋に譲る

 道覚親王が道家の子の慈源を義絶し、二条良実の子の最尋に門跡を譲りま す。いうまでもなく当時道家は落ち目であり、道家に背いて幕府に通じた良 実は政治的地位を辛くも保ちました。道覚親王はこの辺のことを考慮し、最 尋をかなり無理して(10月12日条参照)譲り受け、そのうえで彼に門跡 を譲ったのではないでしょうか。あるいは二条良実の意向を重く見るべきな のでしょうか。ともかく、なかなかに興味深い一件です。

目次へ戻る